第三話 眩しいほどに夕陽が見える始まりの場所で その2
「今日から私の仕事の補助をしてもらうことになった、一色奏汰くんです。文化祭まで約二ヵ月。長いようで、実際はあっという間に当日になります。一色くんが補助に入ってくれるため、今までみんなに任せてしまっていた細かなチェックのスピードも上がります。よりよい文化祭にするため、協力をよろしくお願いします」
そんな茜の挨拶とともに、生徒会役員の仕事は始まった。
さすが生徒会の人たちなだけあって、奏汰と茜の関係についてひそひそと噂をする人はいなかった。まあ、教室の中に奏汰と茜を含めて六人程度しかいないので、私語ができるような雰囲気ではないのだが。
「それでは、今日は前回に引き続き文化祭の実行委員から上がってきた書類などの確認と検討についてです。各自、集めたプリントのチェックを始めてください」
生徒会役員の仕事は、基本的には末端の運営にはあまり関わらない。
やるのは、文化祭の実行委員たちの作った予算の使い方や、有志の出し物の内容についてのチェックと教員たちとのパイプ的な役割だ。
実際に実行委員の集会にも顔を出すこともあるが、今回は役員のみの仕事らしい。そのため、普通の教室の半分程度の広さの生徒会室で、中心の机を囲むようにして役員が座っていた。だが、茜の隣に座る奏汰は自分がやることが分からないのでただ静かにそこに座っていた。
「なあ、俺って何をすればいいの?」
「今日のうちは見て覚えなさい。基本的に私たちは最終チェック係よ。大まかな運営自体は実行委員に任せてあるけど、金銭の発生する出し物の許可やステージの設置、垂れ幕や資材の管理とか、教員たちへの報告が必要なものは全て生徒会を中継して許可を出さなくてはならないの。広告用のポスターやチラシも、生徒会の公認以外はどこにも貼れないし配れないから」
「え、そんな大変な仕事、俺に出来るの?」
「時間はかかるけど、難しくはないわ。覚えれば誰にだってできる。よっぽど無能じゃない限りはね」
そんな話をしながらもすでに山のように重なったプリントが三枚も滑らかな手つきで処理されていた。どうやら、渚の心配よりも先に自分の心配をするべきらしい。
「ある程度理解出来たら、あなたには書類に不備があるかをチェックしてもらうわ」
「この、有志の出し物についての書類か?」
「ええ。クラスなどの有志だと、記入漏れが意外とあるの。記入漏れがあるまま教員のもとへ持っていって、また返されてなんて二度手間を避けるためのものよ」
話を聞く限り、書類の不備では記入漏れが一番多いらしい。あとは、親の署名が必要な欄に印鑑がなかったりなど、些細だが見逃すことのできないものが確認するとかなり出てくるらしい。しかし、これらの書類に教員の許可が出ないと準備に取り掛かることすらできないため、決して省けない作業のようだ。
一〇分程度茜の仕事を見学して、奏汰も仕事を始めることになった。
「私の分は大丈夫だから、副会長のプリントから私と同じようなプリントをもらってきて」
「え、その山、手伝わなくていいのか?」
「この程度なら問題ないわ。本当に厳しかったらもう手伝わせてるから」
「あ、ああ。分かった」
この程度、と称された優に百枚は超えるプリントの束を見て冷や汗を流す奏汰は、茜の有能さに恐怖すら覚えながら副会長を探した。
生徒会役員は、部屋の正面に会長である茜が座り、そこから時計回りに役職ごとに座っている。ということは、茜の左側に座る女の子が副会長というわけだ。
だが、目的の副会長を見つけた瞬間、奏汰の体が硬直した。
今まで茜と行動する時間が長くて、心の色が見えない相手と会話をできる例外が田代とやよいしかいないということを忘れていたのだ。
今では仲良く話している田代でも、共感覚を失ってから安心して話せるようになるまで数ヶ月かかっているのだ。それなのに、心の色が見えない、つまりは何を考えているのか分からない赤の他人に話しかけるということは、奏汰にとって恐怖でしかない。
逃げ出したくなる。誰とも会話をせずに、図書館で一人本を読めたらどれだけ楽なことか。しかし、ここまで来て今更逃げ出すことはできない。
なにより、だ。
(茜に約束しちまったからな。精一杯手伝うって)
深呼吸をして息と心を整えて、奏汰は渾身の勇気を振り絞って副会長へと話しかけた。
「あ、あの。書類のチェックをするので――」
「話しかけないでください」
「………………、」
滑らかに。音を立てずに。きっとひと昔前なら忍びの者と呼ばれてもおかしくない挙動で奏汰は茜の横に戻り、小さな声で囁く。
「茜さん。俺、どうやらここまでみたいです。今までありがとうございました」
見た目からして副会長は一年生、つまりは後輩だ。そんな後輩にたった一言で心を折られ、もう半ば涙目になった男は体を震わせていた。
これだから嫌だったのだ。何を考えているのか分からない人に話しかけるのは。
自分に向けられた敵意に気づくことができない。ブラックボックスの中に勢いよく手を突っ込んでみたら中身が刃がむき出しのナイフだった気分だ。
情けない会長補助を見て呆れたようなため息を吐いた茜は、作業をする手を止めずに視線だけ動かして言う。
「……雨宮さん。彼にプリントの一部を任せてあげてもらえるかしら」
「いやいや。あれだけ俺のことを嫌いな感じなのにそんな一言で――」
「はいっ! わかりました、藤沢先輩!」
絶句した。「ええ!」とか「嘘だろ!」なんてリアクションすら取れなかった。
奏汰の言葉は食い気味に拒絶したのに、茜の何気ない一言でおしまいである。
つい先ほどとは全く毛色の違う恐怖を奏汰は感じていた。
ガタンと、勢いよく立ち上がった副会長は、プリントを手にとって奏汰に差し出す。
「どうぞ。さっさと仕事を終わらせていち早くお帰りください、一色先輩」
「…………、」
無言でプリントを受け取った奏汰は、音も立てずに茜の横に戻った。
呆然とした表情で、奏汰は副会長を見つめる。
肩に毛先がわずかに触れる程度のふわふわとした栗色のショートボブ。つい最近まで中学生でしたと一目で分かる未熟な体。胸はぺったんことは言わないがお世辞にも大きいとは言えず、身長も一五〇センチあるかないかといったところだ。
あれだけ厳しい言葉をいう割に目元は丸く、顔立ちも他の生徒より数段可愛い。もし誰かに「この子は犬です」と言われたらなるほど、この子は犬なのかと納得すらしそうな雰囲気だった。
それにしては、この犬は奏汰には微塵もなついてくれないようだが。
「俺、どうしてこんなに嫌われてるの?」
「ある程度予想はつくわね。まあ、あなたには解決できそうもないからこれだけは助けてあげるわ。雰囲気が悪くなるのも良くないしね」
作業の手を止めた茜は、穏やかな声で副会長に声をかける。
「雨宮さん。役員の仕事は他の人との連携がとても大事になるわ。確かに急に補助を増やしたことに文句があるかもしれないけれど、彼ももう仲間なのだから仲良くやってくれないかしら」
「はいっ! わかりました!」
突如満面の笑みで立ち上がった副会長は、奏汰へ視線を移した瞬間に侮蔑と嫌悪をまるごと表情に出して言う。
「生徒会副会長、一年、雨宮日葵です。よろしくお願いします」
「う、うん。よろしく」
「それでは」
それだけ言って、日葵は席に座って作業を再開した。
本当に何を考えているのか分からない。なにせ、奏汰に対する声と茜に対する声のトーンが合唱でいうところのバスとソプラノぐらいの差が開いているのだ。例えるなら、気の置けない友人と会話をしていたら、その友人が急に上司からの電話を取ったぐらいの声色の変化。
そりゃあ、ポッと出の奏汰が良いように見られないぐらいは分かる。実際、生徒会の誰も歓迎ですみたいな顔を見せてくれてはいない。いや、実際は歓迎してくれているのかもしれないが、奏汰には分からないのだ。
だが、日葵の態度は奏汰の理解の範疇にない。
誰にも聞こえないような声で、奏汰は茜に問いかける。
「なあ、俺、なんか悪いことした?」
「特別悪いことはしていないでしょうね。でも、あの子にとっては不快かもしれないわね」
「どういう意味だ?」
「たぶん、今日の仕事が終わったぐらいに分かるんじゃないかしら」
「……?」
奏汰は茜の心の色に目を移す。嘘はない。
だが、本当にそのうち彼女の嫌悪の理由が分かるのだろうか。
そんな疑念を抱えながら、奏汰は日葵から受け取ったプリントのチェックを始めた。
やることは茜の仕事を見ていたので問題なくできた。正直、会議のような他の人とのコミュニケーションが必須になるような仕事だったらどうしようかと思っていたが、こういったデスクワークならば問題ない。
あの雨宮日葵とかいう、妙に攻撃的な後輩が何を考えているのかは分からないが、悩んでも仕方がないと割り切った奏汰は意識を作業へと集中させた。
その日の生徒会の仕事は、単純なデスクワークのみで終わった。
時間は午後六時三〇分。作業が始まってから大体二時間程度だ。外ではまだ運動部が部活をしているが、今日はプリントの山を片付けたら終わりらしいのでもう帰ってもいいそうだ。
今日の分は消化できたが、そのうちにまた実行委員から書類が上がってくるそうなので、そのときは渚に作業をさせるかも知れないと茜は言っていた。
幸い、単純な作業だったので渚に教えるくらいならば奏汰にもできそうだった。
明日はまた別の作業もあるのでそれも覚えなければならないらしい。茜曰く、難しくはないとのことだが、茜がどれだけ優秀なのかを身に染みて感じた今ではその言葉を気軽には信用できなかった。
「それでは、明日は文化祭の予算について、教員から許可の下りた有志の設備などへの割り振りの確認を中心に行います。今日処理した書類は私がこれから提出しに行くので、みなさんは解散してもらって構いません」
そんな形式的な報告を含んだ挨拶ともに、役員たちは鞄を持ち上げて帰っていく。
だが、書類をまとめる茜に日葵が近づいていく。
「あの、藤沢先輩! よろしければ手伝ってもいいですか?」
「いえ、大丈夫よ。一人でできるから心配はいらないわ」
「でも、そんなにたくさん……」
「気にしないで。これくらいなら問題ないから。戸締りと鍵の返却だけお願いしてもいいかしら」
「は、はい」
不安そうな視線を送る日葵を尻目に、茜は書類の束を軽々と持ち上げた。
「奏汰、校門で待ってなさい」
「俺も手伝わなくていいのか?」
「必要ないわ」
それだけ言って、茜は生徒会室から出ていった。
かなりの重量があるはずだが、茜の表情にも心の色にも問題はない。本当に彼女にとっては余裕のことなのだろう。
さすがだな、と奏汰が感心していると、いつの間にか部屋に自分と日葵しかいないことに気が付いた。他の役員はもう帰ってしまったらしい。
気まずい沈黙が流れる。このままだと自分の心が持たないと息苦しくなった奏汰はバッグに手を伸ばすが、
「一色先輩。少し、訊きたいことがあります」
「お、おう。なんだ?」
びくびくと怯えながら奏汰は日葵の顔を伺う。
心の色を見なくても相手の気持ちが分かったのは、初めてかもしれない。
どうやら、とても嫌われているらしい。
「藤沢先輩と、どういう関係なんですか?」
「……補助?」
「嘘をつかないでください!」
ドンッ! と机を叩きつけて日葵は奏汰との距離を詰めた。
「藤沢先輩は今まで、どれだけ多忙でも一人で作業をこなしてきました。それなのに、特別人手に困っているわけではない今、急に補助だなんてあり得ません!」
非常に論理的に奏汰の存在が不要だということが証明されてしまったわけだが、奏汰が補助するのは茜ではなく渚なのだ。しかし、そんなことを言えるはずがない。
「しかも、何の役職にもついていないあなたが生徒会の仕事に簡単に参加しているのも納得行きません!」
「そう言われてもだな……」
「……付き合ってるんですか?」
「は……?」
あまりにも唐突な質問に、奏汰は思わずそんな声を出してしまった。
だが、日葵の表情は真剣そのものだった。
「今朝、藤沢先輩と登校したそうですね。そして、さっきも校門で待っていてと言われていましたね」
「それは、まあ」
茜に、これからは渚と変わる時間を増やしたいので下校は渚と一緒に帰ってほしいと頼まれていたからなのだが、もちろんそれも言えない。
「仲良く二人で登下校なんてもう恋人じゃないですか! 逆にそれで恋人じゃないとか言われて信じると思ってるんですか?」
「たしかに……!」
そう言われてみると、家に泊まったあとそのまま一緒に登校して恋人じゃありませんなんてもし自分が他人だったら信じにくい。というより、もしやよいが同じことを言っていたら今の日葵以上に怒り狂うかもしれない。
「でも、誤解なんだ。俺は渚の恋人じゃない」
「じゃあ、なんだって言うんですか」
「…………補助?」
ブッチン! と何かが切れるような音が聞こえた。
「ふざけないでください! そんな言い分が通用すると思ってるんですか! そんなことで藤沢先輩と一緒に登下校なんておかしいじゃないですか! 私だって一緒に帰りたいのに!」
「そう言われても……って、今、なんて?」
「あっ……!」
先ほどの罵倒の中に、奏汰は何か不純物のようなものを感じ取った。
日葵の表情に、余計なことを言ってしまったと奏汰でも分かるほどに焦りと動揺が浮かんでいた。
さすがにこれなら、奏汰にも予想できる。
「一緒に帰りたいのか……?」
「そ、そそそそんなわけないじゃないですか! どうして私がそんなことを思わなきゃいけないんですか! 別に、藤沢先輩は私の憧れの先輩というだけで、それ以上のことは何もないんですから!」
「…………、」
狼狽する日葵は、奏汰が訊いてもいないことをたくさん口にしてしまったようだ。
言ってから、日葵の顔が真っ赤に染まり始めていた。
「あ、憧れですからッ! 恋愛感情とかじゃなくて、憧れですからッ!」
「えっと、何も訊いてないんだけど……」
「私だって何も言ってません!」
「ええ!?」
もうめちゃくちゃだった。
頭の中の整理がつかなくなってしまったのか、日葵は髪をくしゃくしゃと悶えるようにかき回しながら、声を上げる。
「とにかく、です!」
ビシッと奏汰のことを指差した日葵は、肩で息をするほどに呼吸を荒立てながら、
「私の知っている藤沢先輩は、あなたみたいな男に簡単に篭絡されるような人では決してありません!」
そんな捨て台詞とともに、日葵は生徒会室から飛び出した。
ポカンと日葵の勢いに気圧された奏汰が虚空を見つめていると、すぐに日葵が戻ってきた。あれだけの言葉を放った直後で気まずいのか、目線を逸らしたまま日葵は言う。
「あの。鍵、閉めるんで出てもらっていいですか」
「あ、ごめん」
すぐにバッグを持って奏汰が部屋から出ると、日葵はすぐに鍵を閉めてそっぽを向く。
そして去り際、日葵は奏汰に背を向けたまま、
「私、あなたみたいな人のこと、認めませんから」
それだけ言うと、日葵はすたすたと歩いて去っていった。
その後ろ姿を見ながら、人って怖いな、なんてことを考えながら奏汰は茜を待つために校門へと歩き始めた。
校門へと着いたとき、そこには誰もいなかった。下校する生徒の姿もない。
時間は午後六時三〇分を過ぎたところだ。まだ部活も終わっていないし、逆に帰宅部が残るような時間でもない。
奏汰は茜を待つために校門に寄り掛かった。
もう日が沈み始めており、夕焼け空を夜がグラデーションしていた。
日葵との会話で大量の気力を使った奏汰は、疲れをため息に乗せて大きく吐き出した。
全てが上手くいくとは思ってはいなかったが、ここまで幸先が悪いとさすがに悲しくなってくる。あの生意気な後輩とこれから二ヵ月の間、本当に一緒に仕事出来るのだろうか。
不安になった奏汰が地面を見つめていると、こちらへと向かってくる足音が聞こえた。
顔を上げる。こちらへ歩いてきているのは茜だろうか。
「おお、あか――」
と、奏汰の声が不意に止まった。
理由は言うまでもない。
夕日が照らすオレンジの世界の中で、鮮麗な青い海が浮かんでいたからだ。
言葉を止めた奏汰は、笑顔で言い直す。
「よお、渚」
それを聞いた渚は、一瞬驚いたような顔をしてから嬉しそうに笑った。
「はい。おはようございます。奏汰さん」
「もうすぐ夜なのにおはようなのか?」
「だって奏汰さん、起きてくれなかったんですもん。だから今言うんです」
「それは申し訳ない」
「大丈夫です。気にしてませんから」
嘘偽りのない笑顔だった。
心が見えるというよりも、渚という人間と話していることの安心感なのだろうか。まるで家にいるような感覚だった。
「帰ろうか」
「はい」
奏汰と渚は帰路を歩き始めた。
まだ夜は訪れていないはずなのに、長い闇がカーテンのように渚の横顔の半分を隠していた。茜とは違った美しさを奏汰は感じた。
「今日からは、帰りはずっと渚が出てくるつもりなのか?」
「はい。基本的に帰りは奏汰さんと二人なので、私が出ます」
茜の計画では、リハビリのような感覚で外に出られる時間を少しずつ長くしていくという段取りだ。最終的には、文化祭当日の全てにおいて渚が外に出なければならない。
そのためには外に出るという前提の上、茜がやっている仕事の全てを渚がやらなければならない。
「生徒会の仕事はどうだ? 上手くやれそうか?」
「えっと、仕事の内容自体は茜ちゃんの中から見てたりしたのである程度は知っているんですけど、実際にやるのは不安です……」
「まあ、そのために俺が手伝いに入っているわけだしな」
仕事に関しては、慣れてしまえば問題はない。
渚は特別頭が悪いわけではない。奏汰の役目は渚が緊張や不安でミスをしたときの補助などになるだろう。やはり渚が克服すべきなのは人間関係か。
「今は俺と二人のときだけだけど、そのうち他の人がいるときでも外に出なきゃいけないんだろ? そのときはどうするんだ?」
「それは……」
迷っているのか、渚はアスファルトへ視線を落とした。
「今まで、あの高校で生活をしてきたのは茜ちゃんです。徐々にとは言っても、私が出ていればいずれ、私がみんなの知っている『藤沢渚』ではないと気づかれてしまいます」
それを聞いて奏汰が最初に思ったのは、ついさきほど罵声を浴びせられた日葵のことを思い出した。
日葵は間違いなく、茜に憧れている。きっと、本当の渚については簡単に認めようとはしないだろう。自分を否定されて拒絶される恐怖。
それが今の渚の不安の根底にあるのだ。
「だったら、私も茜ちゃんみたいになるのが一番じゃないかって思うんです」
「それって、茜の真似をするってことか?」
「そういうことになる……のでしょうか」
まったく別の人格とはいえ、茜も渚の一部だ。自分で自分の真似をするということに違和感があるのだろう。
だが、そんな違和感の前に、そもそも渚が茜の真似ができるとは奏汰は思えなかった。
「ちょっとやってみたらどうだ。茜の真似」
言うと、渚は一呼吸を置いてからキリっとした顔を作って、
「奏汰さん。刺しますよ」
「なんか違うから凄いムズムズする」
「え、似てませんでしたか……?」
「むしろそれで茜を完全に真似してるつもりなら学校で絶対にやるなよ」
当然のことだが、同一人物であるのだから茜と渚は見た目と声はほとんど同じだ。一番の特徴である口調を除いて違いがあるとしたら、まず雰囲気と、わずかだが茜の方が目つきが鋭いぐらいだろうか。
しかし、肝心の口調がこの有り様では、茜になりきるのはほぼ不可能だろう。
「うう。出来てると思ったんですけど……」
「そんなに茜を真似ることに拘らなくてもいいんじゃないか?」
「でも、茜ちゃんみたいになれれば万事解決ですよね!」
「そ、そうか……?」
渚まで茜のようになってしまえば、それこそいつでも奏汰が刃物や先端の尖ったものに常に注意を払う必要が出てきてしまうので困るのだが、そんな奏汰の心配に渚は一切気づいていないようだった。
「だってだって、茜ちゃんは最高なんですよ! 料理洗濯掃除などの家事は完璧で成績優秀で運動神経は抜群、男の子だけでなく女の子からもモテモテで家では私の体を気遣って常に栄養の取れた食事を心がけてくれてますし、この前なんて少し外に出て散歩をさせてもらったときにおっきなワンちゃんに吠えられて大変で、すぐに変わって助けてくれましたし、とっても私を大切にしてくれてるんですよだから茜ちゃんを卒業するっていうのだとしても茜ちゃんを目指すべきなんです分かりますか奏汰さんっ!」
「お、おう……」
とりあえず、茜を目標にしたいという渚の気持ちは充分に伝わった。
そんな完璧美少女は茜とは言えどお前であることに違いはないんだぞというツッコミを堪えて、奏汰はぐいぐいと顔を近づけてくる渚から距離を取った。
「はぁ。茜ちゃん、可愛いですよね……」
「うっとりしているところ悪いけど、茜と見た目は同じってこと分かってるよな?」
「分かってますけど、多分私にはない可愛さがあるんです……」
自分に対して自分にはない可愛さがあるという謎の説明を受けたところで、うっとり状態から帰ってきた渚は、はあとため息を吐いた。
「なんか、一気に自信がなくなってきました……」
「まだ何もしてないだろうが」
「茜ちゃんが出来るなら、きっと私にも出来るんでしょうけど……」
やはり、茜が既に完璧な生徒会長である以上、渚にもその素質があるというのは確実なのだ。しかし、簡単にその素質を磨き上げられるのなら、幼いころに茜は生まれていない。
そして、強くなりたいという渚の中での象徴が茜そのものだということならば、茜のようになりたいという思考は当たり前なのかもしれない。
茜はこの渚の気持ちを知っているから、この計画を考えたのだろう。
二重人格という異常から、渚を自立させなければならないと、そう思ったのだろう。
ならば、奏汰のいうべき言葉は、もう一つしかない。
「俺は、渚は渚のままでいるべきだと思うよ」
「私のまま……?」
「多分、茜がいう卒業って、渚が茜みたいに強くなるっている意味じゃないと思うんだ。きっと、弱くてもいいから、渚のままで茜の力を借りずに何かを成し遂げるっていうのが、茜なりの卒業って意味だと思うぞ」
「なんだか、私の知らないうちに茜ちゃんととっても仲良くなってますね」
「そ、そうか……?」
仲良くなっているという実感はない。遠慮なく話しているというのなら分かるが、定期的に死の気配を察知している奏汰は素直に頷けなかった。
「はい。だって、茜ちゃんの気持ちをこんなにも考えて、理解してくれるんですから」
「俺は思ったことを言っただけだよ」
「それでもいいです。茜ちゃんともっと仲良くしてくださいね、奏汰さん」
「ああ、分かった……って、それじゃあ渚が外に出られないじゃんか。本末転倒だろ」
「ふふっ。そうでしたね」
楽しそうに笑った渚は、何気なく空を見上げた。
茜色に染まる今にも沈んでしまいそうな夕日を見つめる渚は、誰にも聞こえない声で呟く。
「……綺麗な夕日」
奏汰にすら届かなかったその声は、初夏の温かい風に包まれて静かに消えていった。