第二話 暖かな海と冷たい太陽 その1
現在時刻、十二時三〇分。曜日は言わずもがな、日曜日である。
特に部活に入っていないはずなのに、日曜日の正午から奏汰は全力で走っていた。
「ヤバいぞ……!」
単刀直入に言おう。
今年で一七歳の男子高校生、一色奏汰。人生初のデートで寝坊し、三〇分の遅刻である。
特に前日に女の子とデートだからと浮かれて眠れなかったわけではない。日付が変わるころには確実に夢の中だったし、目覚ましもかけた。
一つ失敗したとしたら、しっかり者の妹が日曜日はいつも昼下がりまで眠っているため、朝に起こしてもらえないということを忘れていたということか。
唯一の救いは、渚の指定した図書館が家から走れば五分程度の場所にあるということだろう。普段は隣町の高校まで電車で通うことに不満ばかり言っていたが、今日ばかりはそれに感謝している奏汰であった。もう十二時を回っているのに灰色の雲が空を覆っており、時間のわりにはずいぶんと暗かったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
現在時刻、十二時三四分。ダラダラと汗を体中から流し、先日買った新品のTシャツに染みを作る奏汰はようやく目的の書館へ到着した。走れば五分の自己ベストを更新して三四分の遅刻である。
奏汰は整い切らない荒れた息を吐きながら、図書館の入口へと歩く。入口の横に、見覚えのある誰かがいた。
そこに立っていたのは、黒髪の毛先を背中の半ばまで下ろした優しい目をした少女。
明け方の海のように、優しく深い青色をした心を表に出す物静かな少女。
「こんにちは、奏汰さん」
待っていたのは、渚だった。透明感のある青を下地に白い線を縫い目に合わせてあしらったワンピース。腰元でリボンのように結ばれた紐が引き締まったウエストと豊かな胸を同時に強調していた。さすが超美少女である。
対する一色奏汰は。
「はぁ、はぁ……ご、ごめんっ……! 寝坊、しちゃって……!」
横に田代がいたらそれだけで白米を食べだしそうなくらい滑稽だっただろう。言い訳を考える余裕すらなく正直に寝坊を白状した奏汰だったが、汗だくの彼を見て渚は優美に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。私もついさっき来たところですから」
「……女神か…………?」
青に優しさを感じたのは生まれて初めてだった。こんなにも穏やかな心があるとは。この世界も捨てたものじゃない。
「何を言ってるんですか。さあ、行きましょう」
奏汰の言葉を上手に受け流しながら、渚は先を歩いて図書館へと入っていく。
こうしてみると、人と関わるのが苦手という渚の言葉を疑いたくもなってくるが、奏汰はとりあえず渚の後ろに続いていく。
扉を開くと、冷気が二人の体へと吹き付けた。直後、奏汰たちの視界に無数の本たちが映る。この近辺で一番大きな図書館なだけあって、一階と二階が吹き抜けになっており、滝のように上から下まで本がずらりと並んでいた。
全力疾走を続けてオーバーヒートした体が、図書館のクーラーで一気に冷やされていく。風邪をひかないように汗を拭きとりながら、奏汰は本の滝の中を歩く。
「この図書館、初めてきましたけどとっても大きいですね」
森の奥地のような深閑とした空気の中で、楽しそうに渚は言った。
「ここらだと一番大きいからな。テスト期間になると学生で溢れかえるくらいだし」
「そうなんですか。詳しいですね」
「俺の家、走るとここから五分で着くんだよ」
「……それで三〇分以上も遅れたんですか?」
「うっ……」
痛いところをつかれた奏汰は言葉を詰まらせるが、
「冗談ですよ。気にしてないです」
「……本当に?」
「本当です。ほら、私の心を見てみてください」
立ち止まった笑顔の渚の胸元の心の色に視線を移すが、嘘をついている動きはなかった。
それどころか、機嫌がよいのか昨日よりも青の色彩が鮮やかになっていた。
「なんか、楽しそうだな」
「さすが奏汰さん。正解です」
図書館の中でなければスキップでも始めているのではないかと思うほどに胸をときめかせる渚は、くるくると回りながら目を輝かせて四方に埋め尽くされる本を眺める。
「私、小説も大好きなんですけど、こうやって本に囲まれるのも大好きなんです」
「なんとなく分かるよ。圧倒されるよな」
何か特定の本を探すのではなく、近くにあった本を一冊だけ取り出すと、渚はそれをパラパラとめくる。
「こうやって適当に選んだ本の中にも、この本にしかない世界が広がっているんです。そして、そんな世界たちがここにはこんなにたくさんあるんです」
手に取った本を元の位置に戻すと、渚はもう一度本を眺める。
天体が好きな人が星空を眺めるように。花が好きな人が花畑を眺めるように。
心が躍るという言葉がぴったり当てはまるほど、鮮麗な青。図書館の中にいるはずなのに、濁りの一切ない海に沈んでいるような感覚に襲われた。
息をするのを忘れていた奏汰は、見惚れて渚に固定されていた視線を強引にそらして呼吸をする。奏汰は渚に今の気持ちを知られないように、なるべく冷静な声で、
「そう言われると、不思議な感覚だな」
「浮いてるみたいなんです。まるで、宇宙の真ん中にいるみたいに」
ふわりと、渚のスカートが揺れた。おそらくクーラーの風で動いただけなのだろうが、奏汰には渚が本当に無重力の中で世界を見渡しているように見えた。
「…………綺麗、だな」
無意識に、そんなことを言っていた。
だが、奏汰の心の中など見えていない渚は、素直に笑って、
「はい。とっても綺麗で、とっても素敵です」
自分の心が渚に見えていないことに、奏汰は心から安心した。
「奏汰さん」
渚は優しい声で呼びかける。
「心の色が見える奏汰さんには、この世界はどう映っていますか?」
「――っ」
奏汰は思わず、一歩後ろへ下がってしまった。思い出してしまったのだ。奏汰の共感覚は、未だに渚の心の色しか感じ取れないことを。その事実を、まだ彼女に言ってなかったことを。
期待を裏切ってしまうだろうか。不安が、奏汰の胸をよぎる。
「俺は……」
だが、隠していても何も始まらないと思った。渚になら、話しても大丈夫だと、そう思った。
「俺は心の色が見える共感覚を、二年前に失ったんだ」
「え……? でも、奏汰さんは私の心の色が見えるって」
「それは本当なんだ、信じてくれ。でも、共感覚を失ったのも本当なんだ。だから渚の心の色しか、今の俺には見えない」
「そう、だったんですか……」
怖くて、渚の心の色を見れなかった。幻滅されてしまうかもしれないという不安に、奏汰は思わず目をつぶっていた。
しかし、
「大変、でしたね」
「ぇ……?」
包み込むような青い優しさが、目を開いた奏汰の視界の全てを覆った。弱弱しい奏汰の手を渚は両手で包み込んで、
「私には奏汰さんの心は見えないですけど、想像することはできます。茜ちゃんが生まれる前の私も、きっとそんな気持ちだったでしょうから」
共感覚は明確な基準こそないものの、神経の病気だとも考えられている。つまり、異常。それを失うことで普通になった一色奏汰。
対して、二重人格は解離性同一性障害という精神障害の一つだ。つまり、異常。しかし、渚は逆に普通からそれを得ることで異常となったのだ。
まったく逆の立場のはずなのに、奏汰はその中に言葉にできない共通項を感じ取ったのだ。
だから、かもしれない。
「目の前で母さんが死んだんだ」
先日出会ったばかりの少女に、こんなことを言えてしまうのは。
「綺麗なオレンジ色だった」
奏汰は思い出していた。亡き母の、大好きだった心の色を。
「人が死ぬときは、心が消えるんだ。天に昇っていくわけでも、地獄に落ちていくわけでもない。ロウソクが消えるみたいに、あっけなくそこから消えていくんだ」
それは新聞に掲載される程度には、悲惨な事故だった。
居眠りによる信号無視で左から突っ込んできた一般車が、母の乗っていた助手席を押しつぶした。
父親も奏汰も奏汰の妹も、全員が骨折や打撲などの怪我をする中、車が直撃した母は下半身が潰されてしまった。腰から下は鉄の塊に飲み込まれ、割れたガラスによる出血も止まらなかった。
即死ではなかったことが、逆に彼らを苦しめた。
奏汰の家族は痛みに苦しみながらも母を助けようともがいた。しかし、曲がった鉄を素手で伸ばせるような火事場の馬鹿力が湧いてくることもなかった。彼らにできたのは、母の意識がなくならないように、頑張れと、助かるからと、声をかける程度だった。
事故から二分も経たなかった。奏汰の母親は、車の中で息を引き取った。
そして、奏汰は見てしまった。目の前で死んでいく母の胸に揺らめくオレンジ色の心が、消えてなくなる瞬間を。
「あのときから、俺は心の色が見えなくなった」
吐き出すような奏汰の言葉たちを、渚はただ静かに聞いていた。
「だから、知りたかったんだ。力を失った俺に、どうして渚の心の色だけが見えたのかって」
「…………」
姿勢正しくまっすぐと立つ渚は、いつのまにか震えていた奏汰の手を優しく握って、
「ありがとうございます。話してくれて」
渚は奏汰の手を握る力を強くした。
「きっと、私を見つけてくれたんですよ」
奏汰の返事を待たずに、渚は続ける。
「茜ちゃんの奥に隠れることしかできなかった私を、奏汰さんの目が見つけてくれたんです」
「……そう、か」
奏汰の共感覚が渚の心の色だけを感じ取った本当の理由は分からない。だが、そうだったらいいなと、奏汰は素直に思っていた。
「ありがとな、渚」
「私は何もしていませんよ。さあ、せっかく図書館へ来たんです。本を探しましょう」
奏汰の手を握ったまま歩き出した渚だったが、少し歩いてその足がピタリと止まった。
少し先に小説が並ぶ棚があるはずだか、なぜかその手前で渚は進めずにいた。
「人がいます……っ!」
「え? ああ、いるな。そりゃあ日曜日なんだし、人がいるのは当然だろ」
軽い口調で奏汰が言うと、渚は奏汰の手をぎゅっと握って、
「怖いです……っ」
「ええ!? 俺とこんなに話してるのにか!?」
「奏汰さんはなんだか大丈夫だったから出てこれたんです!」
「なんなんだその理由! 俺は変なやつだったから大丈夫だったってのか⁉︎」
「そうですっ!」
「そうなのかよ! 凹むぞちくしょう!」
先ほどと手が震えている人物が逆になっていることになど気にしている余裕もなかった。
ただ小説を選んでいる罪のない一般人を陰から覗く渚は、震える声で、
「ほ、本当は奏汰さんを待っているときに近くを通る人も怖かったんです! それなのに三〇分以上も遅れるなんて、たくさん怖かったんですからっ!」
気持ちはなんとなく分かった。渚もなんらかの理由があって茜を生み出し、その奥に隠れるような生活を続けてきたのだ。奏汰も同じように人と関わることを避けて生きてきた。怖いという感覚は、充分に理解できた。
だが、それよりも。
「……本当に三〇分待っててくれたのか」
「あっ! い、いえ。私はついさっき来たので待ってないです!」
「じゃあ怖くないな」
「嘘つきました怖いです! 待ちましただから手を離さないでくださいッ‼︎」
なんだか屋上で初めて会ったときを思い出す奏汰は、ふうと息を吐いて、
「まあ、遅れた俺が全面的に悪いからな。罪滅ぼしだ。ちゃんと横にいて手を繋いでてやるから」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ、だから頑張れ」
「は、はい……っ!」
ラジオ体操のように大きな深呼吸をした渚は、奏汰の手を握ったまま歩いていく。
もちろん、奏汰だって人が苦手であることに変わりはないし、避けて通れるなら避けたい。しかし、渚の手を離して逃げようなんてことを、奏汰は絶対にしてはならないと思った。
別に話しかけるわけでもない。ただそこに立っている人の横に立ち、目的の本を取ってくるだけだ。
渚の不安そうな瞳に奏汰が映る。何も言わず、奏汰は頷いた。
ぐっと表情に力を入れた渚は早歩きで本棚へと進み、不安そうな挙動で棚に並ぶ本たちを物色していく。どんどんと滲んでいく手の汗だけで、渚の気持ちを知るために心の色など見る必要はなかった。
どれだけ二人の繋ぐ手の間が汗で蒸れたところで、どちらも一瞬としてその手を離すことはなかった。少しだけ呼吸が荒くなっている渚を見てドキドキしてしまう奏汰はブンブンと頭を振って邪念を振り払う。
一分も経たずに、目的の本を見つけた渚はぎこちない手つきで本を抜き取り、一冊の本を抱えて早歩きで誰もいない空間へと歩く。
周囲に誰も見えなくなってから渚はようやく奏汰の手を離し、達成感と高揚に満ちた顔で奏汰を見つめる。思わず奏汰も頬が緩んでしまった。
この世界で二人だけしか分からない、特別な当たり前を成し遂げたのだ。
「やったな、渚」
「……はい!」
満面の笑みで渚が抱える本の表紙に書かれたタイトルへと奏汰は目を移す。
「学校には置いてなかったからな、それの六巻」
そのタイトルは『空に浮かぶ海』。そしてその六巻だ。学校の図書館には五巻までで続編が置いてなかったので、図書館に誘われたあとにそれらがここに置いてあることを思い出した奏汰はまずこの本を第一目標として設定したのだった。
「本当にこの本、面白いですよね。たった数日でこんなに続きを読んだのは初めてです」
「女の子もファンタジー小説にそんなにハマるものなんだな」
「普段はあんまり読まないんですけど、これだけは他の小説と違ったんです」
渚は本の表紙を優しく撫でながら、思い出すように言う。
「海は求めていたのだ。自分を包み込んでくれるような、暖かな赤を」
奏汰はそこの言葉に聞き覚えがあった。
「それ、一巻の序盤の言葉だっけ」
空と海に二つの世界が広がっていた架空の世界で海の世界の一部が突如として空へと浮かび上がり、交わることのなかった二つの世界の住人たちが出会うことから始まる物語が『空に浮かぶ海』という小説だ。
渚が口にしたのは、その冒頭。海が空へと浮かび上がったときの文章だったと奏汰は記憶していた。
「はい。これの文章を見た瞬間、私は思ったんです。まるで、私と茜ちゃんみたいだって」
「渚と茜……?」
「普通だったら交わることのなかった空と海。私も、普通の生活をしていたら茜ちゃんとは絶対に出会わなかったんです。でも、海は求めたんです。決して出会うことのなかったはずの大きな空を」
きっと渚も、なんらかの事情がゆえに本来生まれるはずのなかった茜を心の底から求めたのだろう。そんな一般的な事象からはかけ離れた二つの出会いに、渚は彼女にしか分からない共感を得たのだ。
「不思議な感性だな」
「人の心に色を感じる方が不思議な感性じゃないですか?」
「ははっ。言えてるな」
それから二人は図書館を一通り回り、好きな本についての雑談をしながらのんびりとした時間を過ごした。もうすぐ午後四時になるころ、奏汰たちはそろそろ図書館を出る準備を始め、それまでに見つけた面白そうな本を数冊抱えて、ついに出口へと向かっていた。
だがここで、もう一つの問題が出てくる。
「さあ、この図書館では本を借りるときに受付の人に学生証とかを見せなきゃいけないんだが……」
実際、奏汰は渚ほど他人に対する恐怖感はない。渚とは違い、奏汰は避けてはいるとはいえ他の人とも会話をしている。怖いと思うだけで渚ほど震えることはないので、本を借りる程度なら奏汰にとって難易度は高くないのだが、今、本を借りようとそれらを抱きかかえているのは渚なのだ。
「俺が行こうか? 別にこれくらいなら俺は大丈夫だけど」
「……私、行きます。今日、奏汰さんについてきてもらったのはこういうときのためなんですから……!」
奏汰は心の色からそのときの大体の感情をみることはできるが、心の中の声までは見ることはできない。だから渚がどれだけの決意を持って今の発言をしたのかまでは分からない。しかし、応援してあげたいなと奏汰は素直に思った。
「分かった。頑張れよ……っと!」
「えっ? ちょっと奏汰さん!?」
奏汰は止まる渚の背中をポンと押し、押された渚はつまづいて転びそうになるのをなんとか堪えて受付の前までついてしまった。
受付の人と目が合ってしまってもう逃げられなくなった渚は、うるうるとした涙目で奏汰の方を振り返る。特別何かを言うことはない。ただ、落ち着いた顔で渚を見守る。
渚はぎゅっと両手に抱える本を抱きしめた。
弱弱しく暗い夜の海のような青が、紫陽花のように鮮やかになっていくのが見えた。
「あのっ! ……これ、借りたいんでふっ!」
緊張のあまり盛大に噛んでしまった渚だが、さすが仕事で受付をやっているだけあるといったところか。受付のお姉さんは営業用の笑顔のまま、渚が震える手で持つ本を受けとった。
「当館での貸し出しは初めてですか?」
「ひゃい!」
「……では、こちらのカードに必要事項をご記入の上、学生様でしたら学生証の提示をお願い致します」
口を開くたびに噛み噛みな渚に受付の人も若干動揺していたが、特別問題は起こることなく本の貸し出し手続きを終え、本を抱えた渚が戻ってきた。
疲れ果てたような重い足取りで奏汰の前に立った渚は、低い声で言う。
「……どうして押したりしたんですか、奏汰さん」
「え? いやぁ。どうしてって言われても」
なんとなく心の色の雲行きがおかしい。なんだか、これから雨でも降ろうかというような空模様に近い青が渚の心に、いや、その奥に殺意むき出しのギラギラな茜さんもいらっしゃることも見逃してはならない。
「……怖かったんですから」
「まあ、そうだけどさ。やっぱり背中を押してやったほうがいいかなって――」
「なんですか背中を押すってそういうときは精神的な意味での心を押すってやつをするんじゃないんですかせっかく心が見えるのにどうして一番肝心なときにその目を使ってくれなかったんですか怖いだけならまだしも心の準備も出来ていなかったから緊張してめちゃくちゃ噛んじゃったじゃないですかなんですか『ひゃい!』って横隔膜の痙攣いわゆるひゃっくりってやつなんですか今度やったら本当に茜ちゃんと変わって刺してもらいますからねッッ‼」
「…………おう、すまん」
「もう終わったことなのでいいです……」
スーパーマシンガントークで体力を使い果たしたのか、渚はとぼとぼと出口へ向かって歩き出した。反省しながら、奏汰は渚の横を歩く。
図書館の自動ドアを抜けると、入ったときとは違う湿った風が奏汰たちを外から迎えた。朝よりもわずかに風が強く、どことなく冷たく感じた。
「この後はどうしようか。そのまま帰るか? それともどこかで飯でも食っていくか?」
「ここまでは電車で来たので、今日はこれから帰るつもりです」
「そっか。なら駅まで送るよ」
「ありがとうございます」
先ほど溜まっていた感情を全て吐き出したからか、だいぶ落ち着いた声色で渚は言った。
奏汰は横から渚の顔を見る。なんとなく疲れているように見えた。心の色も心なしか濁っているように見えた。
「大丈夫か? なんだか、疲れてるように見えるけど」
「い、いえ……。ただ、こんなに長い時間、茜ちゃんと変わって外に出たのは久しぶりだったので。少しだけ気疲れしてしまったようで……」
「茜とは変わらなくていいのか?」
「今日、奏汰さんを誘ったのは私です。なので、奏汰さんと別れるまではこのままでいたいんです」
「……そっか」
それ以降、二人は会話することなく歩き続けた。
無言の時間が続くが、重い空気はなかった。居心地のいい静寂だった。
しかし、だ。
そんな静寂の中に、ポツリという雑音が混じった。
「……雨?」
奏汰が目の前に手を出すと、数滴の雨がてのひらに落ちてきた。
次いで、アスファルトに落ちていく雨がみるみるうちに増えていく。
まだらだったアスファルトの雨の染みが全てにいきわたるまで三〇秒もかからなかった。
「た、大変です、奏汰さん! 私、傘持ってないんです。本が濡れちゃいます!」
「安心しろ! 元々雨が降りそうだから傘を持っていけって妹に言われてたんだ。だからバッグの中に折りたたみ傘が……」
バッグの中をあさる奏汰の手が、ふと止まった。
水滴がもうすでに髪から滴り落ちるほど濡れている絶体絶命の状態で、奏汰は力なく笑った。
「寝坊して急いでたから、傘、忘れちゃった……」
「ええ!? じゃあどうするんですか!」
必死に本を抱えながらそれらが濡れないように前かがみになる渚の髪が、雨に濡れて重量感を増していた。
とにかく、傘を持っていない現状でできることは雨宿りができる場所へ逃げることだ。
だが、駅まではまだ距離もあるし、近くに雨宿りができる建物もない。この近くで雨宿りが出来て、なおかつ渚が帰るための傘を確保できる場所。
そんな都合のいい場所は、奏汰には一つしか思いつかなかった。
「こうなったら俺の家に行くぞ、渚!」
「分かりました!」
奏汰は渚とともに走り出した。
渚の前を、奏汰はかなり速いペースで走る。
たしか、田代は藤沢渚は勉強も運動もできると言っていた。奏汰の走るペースでもついてきてくれるだろう。
そんな予想をしていたのだが。
「ま、待ってください、奏汰さん……っ!」
不格好な走り方で奏汰の後方を走る渚は、息を切らしながら奏汰を呼び止めた。
「大丈夫か、渚!」
「は、はい……っ! 大丈――」
突然、渚の言葉が途切れ、眩暈に襲われたかのように体が大きく揺れた。
やはり得意とは言っても女の子だ。雨の中を走ることは困難だったか。そんな後悔を奏汰がしていると、よろめいた渚の体が再び芯を取り戻したようにまっすぐと伸びた。
直後、渚の不格好な走り方が陸上部顔負けの美しいフォームへと変わり、走りながら持っていた本を奏汰へと投げ渡した。
「奏汰、その本持って走りなさい!」
「え……あ、ああ! 分かった!」
奏汰が本をちゃんと受け取ったのを見ると、渚はどこからかヘアゴムを取り出し、髪をポニーテールに結びあげた。
雨の中で走っているため、あまり心の色を見る余裕がないが、それでもその姿を見て奏汰は今起こった現象を理解した。
「お前、茜か!?」
「あなたなら見れば分かるでしょ!」
「どうして急に出てきたんだ!」
雨の音に消されないように声を上げると、茜も男子顔負けのペースで走りながら返事をする。
「運動が得意なのは私なの! 渚は基本的に運動全般苦手なのよ!」
「運動神経まで人格ごとに違うのかお前たち!」
「うっさい! 渚の体に風邪をひかせるわけにはいかないから仕方なく出てきたのよ!」
「そうかい分かったよ! 次の道を右に曲がってくれ!」
奏汰が指示すると茜は勢いを殺さずに角を曲がりさらにスピードを上げた。渚の残念な走り方を見た後だと、茜の走り方がさらに綺麗に見える。特別運動が得意ではない奏汰は、女の子に遅れを取るわけにはいかないと蒸気機関を内蔵しているかのように鼻息を荒立てて走り続ける。
最初に少し歩いていただけあって、三分も経たずに奏汰たちは彼の家へとたどり着いた。
二階建ての一軒家。その門を勢いよく開け放った奏汰は、慣れた手つきで鍵を開けて茜とともに家の中へ駆け込んだ。
行きと帰りのどちらも全力疾走というなんともハードな移動でクタクタになった奏汰は、膝に手をついて大きな息を吐いた。
数分で室内へ逃げ込めたとはいえ、あの豪雨の中を傘もささずに走った二人は頭から足の指先までずぶ濡れだった。ブルブルと犬のように顔を振って水を払いながら、奏汰は弱弱しく声を出す。
「た、ただいま――」
「はいは~い! おっかえりなさ~い! 大雨の中を帰ってきて疲れたお兄ちゃんを癒す天使の生まれ変わりこと、一色やよいちゃんがタオルを持ってお出迎えで……」
お出迎えしてくれたのは奏汰の妹、一色やよいだった。
地毛だがわずかに茶色の混じったショートヘアと、小動物のように小さい顔に大きく丸い目。一般的な女子の平均身長よりも背丈は小さく、小学生と間違われることすらしばしばあるほどの幼さ。昔からこういった、兄が妹に何かしてるのではと思われるような言葉で奏汰を悩ませているやよいなのだが、そんなやよいはずぶ濡れで帰ってきた愛しの兄よりもその横に立つ水も滴るいい女に目を奪われていた。
そんな視線に気づいた茜は、丁寧に頭を下げて、
「初めまして、藤沢渚です」
「え、えっとぉ……お兄ちゃん?」
面を食らったような顔でやよいは奏汰へ視線を移した。
どこから説明したものか、と奏汰は渋い顔をした。渚と図書館に行くことをやよいに言っていないどころか、そもそも渚と知り合ったということすら言っていないのだ。ただの友達と紹介するべきか、心の色が見えたことを言うべきか。いや、最も気を使うべきは。
奏汰は雨に体を濡らす茜を見る。
さきほど茜は『藤沢渚』と自己紹介をした。やよいに二重人格であることを明かすつもりはないのだろう。
どこまでをやよいに話すのか、今すぐには結論は出ない。
ここはとにかく濡れた茜をどうにかしてやるべきだろう。
「とりあえず、渚を風呂に案内してやってくれないか。俺は自分で体を拭くから」
「う、うん」
コクリと頷いたやよいはずぶ濡れの茜へ持っていたタオルを渡し、風呂へと誘導する。
風呂場からタオルをもう一つ持って玄関まで戻ってきたやよいは、呆然とした顔のまま奏汰にタオルを手渡した。
「…………お」
ようやく我に返ったやよいは、わなわなと震え始め、
「おおおおお兄ちゃん!? この前『これからの人生、俺は田代としか会話しないかもしれない』とか自分が末代になる気満々のこと言ってたのにどうして急に雨に濡れた超美人と一緒に帰ってくるの!?」
「えっとな……」
奏汰が頭を拭きながら説明を始めようとすると、やよいは思い出したように風呂場へ走り出し、体を流す茜へ話しかける。
「シャンプーはこれで、リンスがこれで、ボディーソープはこれです。あ、体洗うやつはこれが私のやつなんで、もし大丈夫ならこれを使ってくださいね」
「ええ、ありがとう。使わせてもらうわ」
「それじゃあ、ごゆっくり!」
奏汰からは見えていないが、おそらく芸能人顔負けの爽やかスマイルで茜が返事をしたのだろう。同性であるはずのやよいが少し頬を赤らめながら全力疾走で奏汰の元へと戻ってくると、風呂場の方向を指差しながら、
「なにあの非の打ち所がない美人は!? 見ず知らずの他人に裸を見られてあそこまで堂々と『ありがとう』だなんて言える!? いいえ、私は言えないよ! しかもめちゃくちゃスタイルいいじゃん! きっと普段から金箔がついたスイーツとか食べてる人だよ!」
「え、えっとな……」
「てかてかてか! 今日、寝坊したって慌てて出て行ったのってあの人と会うためだったの!? 一色やよい十四歳、人生で最大の謎に出会ってしまった気がするよ!?」
やよいはうぎゃー、と頭を抱えて天を仰いだ。
「ちゃんと説明するから一旦落ち着こうな、やよい」
大きな深呼吸を何度か繰り返して落ち着いたやよいは、真剣な表情で問いかける。
「……それで、どうしてお兄ちゃんにあんな美人を呼ぶだけのお小遣いがあるの?」
「さては貴様、俺の話を聞く気ないな?」
「冗談だって。ほら、早く」
言葉を慎重に選びながら、奏汰は説明を始めた。
学校で偶然同じ本が好きなことが分かり、続編を一緒に探すために近くの図書館まで行ったと、そう説明した。
間違ったことは言っていない。ただ、その裏に真実を隠しただけだ。
だが、やよいの表情に納得したような色は一切見えなかった。
「……ふぅ〜〜ん」
「なんだよ」
「何か隠してるでしょ? 妹の勘をなめないで」
うんざりとした顔でやよいは腕を組んだ。知っているんだぞ、という意思が奏汰へ言外に伝わってくる。
やはり家族というものは恐ろしい。他人からは決して見えない何かを感じ取る力にはどうやら勝てないようだ。
諦めた奏汰は、おもむろに口を開いた。
「……見えたんだよ」
「えっ……?」
たった一言で、やよいの表情が変わった。
「見えたって、もしかして……」
「ああ。色が見えたんだ。あの子の、藤沢渚の心の色が」
当然ながら、やよいは奏汰の共感覚についてよく知っている。そして、母の事故によって共感覚を失ったことも。
「じゃあ、今も私の心の色も見えてるの……?」
「いや、見えるのは渚の心だけなんだ。他の人の心は今も一切見えない」
「……そっか」
やよいの心の色は誰よりも優しいオレンジ色だったことは今も覚えている。しかし、その色は未だに見えていなかった。共感覚を失う前はよく奏汰に心の色のことについて問いかけていたのをよく覚えている。
奏汰にも気づかない程度の寂しさをわずかな笑みに含ませながら、やよいは言う。
「ほら、風邪ひいちゃうから早くそこで服を脱ぎな、ボーイ」
「一体お前はどんなキャラになるつもりなんだ……」
ため息を吐きながら玄関から上がると、奏汰はずぶ濡れの服を脱ぎながら湿った体を拭いていく。自分の部屋で替えの服を取り出すと、奏汰は着替えながら廊下を歩く。
ちょうど風呂場の前を通りかかったとき、茜の声が聞こえた。
「奏汰。なんでもいいから服を借りてもいいかしら。私の服は濡れちゃっててしばらくは着れないだろうから」
「ああ、分かった。じゃあ妹の服を持ってくるよ」
頭の上にタオルを乗せたまま、奏汰はリビングへと入っていく。
やよいはこれから夕食の支度をはじめようとしていたのか、かわいらしいピンク色のエプロンの紐を結んでいることだった。
「なあ、渚にお前の服を貸してやってくれるか?」
「私はいいけど。でも渚さん、軽く見た感じ私よりも背が高かったよね? 大丈夫かな?」
「だからって俺の服を着させるわけにもいかないだろ。大きめのやつを持っていってやってくれ」
「はいはーい。分かりましたよ。でも、個人的に気になるから訊いてこよーっと」
若干不貞腐れたように唇を突き出しながら、やよいは風呂場の方へと歩いていく。
ノックをして風呂場の扉を開け、やよいは茜に声をかける。
「あの、渚さんの身長ってどれくらいですか?」
「一六〇よ」
「私と一二センチも違う……! 服、入らないかもしれない」
「別に気にしないわ。急にあがりこんでおいて文句を言ったりはしないから」
淡々としながらも優しさを感じる言葉を受けたやよいは、艶麗な茜の体を見ながら少しだけ間ののちに口を開く。
「ちなみに、胸のサイズは……」
慌てて、奏汰は意識を別の方向へ移してその言葉を聞かないようにした。どうやら茜のも小さな声で言ったようなので奏汰には聞こえなかったが、やよいの青ざめた顔を見ただけでとても大きいということだけは分かった。
「お兄ちゃん。一色やよいは敗北しました……」
「何にだよ。てか服を渡してやれって」
「私の服を渡したところでダメージを負うのが私ってことをお兄ちゃんは知らないんだよ! これは女心が分からないってレベルじゃあないんだからね!」
涙目になるやよいの感情が分からず首を傾げる、女心が分からないというレベルではない奏汰の横を早歩きで進み、自分の持つ服の中で一番大きな部屋着を抱えてやよいは茜のもとへ行く。
もうすでに風呂からは上がっていたのだろう。数分もせずに茜が出てきた。
乾きにくくなるはずなのにポニーテールで髪をまとめた茜は、やよいの部屋着を着ているのだが、その姿をみた一色兄妹はほぼ同時に頬を赤らめた。
「なにかあったの?」
「「い、いやあ。別に……」」
案の定、やよいの服は小さかったらしく、アマゾネスですかとツッコみたくなるほどパンパンに服が張り、丈も足りずにへそが見えてしまっていた。ズボンも普通のもののはずなのに、なぜか七分丈になってしまっていた。
二人とも苦い顔をして頭をかいているのだが、茜の胸元を眺めるやよいは急に真顔になった。
「お兄ちゃん。渚さん、えっちだね」
「正直お前が先に言ってくれてほっとしてるよ」
そんな二人の会話を聞いた茜は、侮蔑の視線を奏汰へ送る。
「少しでも欲情してごらんなさい。どうなるか分かっているでしょうね」
「えっと、どうなるんでしょうか?」
「……台所は向こうかしら」
「包丁は本当に死んでしまうのでやめてください」
「冗談よ」
まったく冗談に聞こえないし、心の色も濁りのない綺麗な赤なので刺される可能性も十分にあることに戦慄する奏汰が冷や汗をかいていると、隣に立つやよいが呟く。
「あれはダメだよ。お兄ちゃんの服、持ってきて」
「ああ、わかった。俺も死にたくないからな」
ぎこちない動きで自分の部屋へ向かい、服を持ってきた奏汰は視線を出来る限り茜の体から離して服を手渡した。
着替えたことで一色兄妹が平常心を保てる程度の刺激に落ち着き、やよいと奏汰は夕飯の準備を始めていた。
今の一色家には、奏汰とやよいしか住んでいない。母は死去。父親は単身赴任で地方へ出張中だ。そのため、家事は基本的にはやよいがやってくれている。さすがに全てを任せることは出来ないので奏汰も手伝うのだが、料理に関してはやよいが作るほうが確実に美味しいものができるため、普段は補助を行っているのだ。
いつものようにやよいの横で手伝いを始めようとすると、奏汰の少し大きめのシャツを着た茜が台所にまでやってきた。
「これから作るの?」
「あ、はい。そんなに豪華なものは作れないですけど」
「まだ手をつけていないのなら、私に作らせてもらってもいいかしら」
「え? いや、大丈夫ですよ。渚さんはお客さんなんですから。私とお兄ちゃんに任せてください」
「気にしないで大丈夫よ。私、料理は得意なの」
奏汰には見せたことのない優しい笑顔に思わずやよいは場所を譲ってしまった。
ずれるように茜がやよいの位置へ、やよいが奏汰の位置へ動いたため、はじかれて外野となってしまった奏汰は何かをしようと動くが、
「座ってなさい」
「何もしないってのは申し訳ないから俺も手伝うよ」
「手が滑ってあなたを刺してしまうかもしれないから」
「あっ、はい。じゃあ俺は風呂入ってきますね」
刺される可能性は出来る限り下げておくに越したことはない。そもそも今は基本的になんでもできる茜が表にいるし、やよいもいる。
変に奏汰が手伝わないほうがおいしい料理ができそうだ。
まだ帰ってきてから風呂に入っていないし、タイミングもちょうどいいだろう。