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第一話 二色の少女

「そりゃ、間違いなく二年D組の藤沢渚ふじさわなぎさだろ」

「藤沢渚……?」


 野球部らしい白米たっぷりの弁当を頬張りながら、田代はそう言った。

 昨日、図書館で黒髪ポニーテールの美少女を見たと言っただけで、田代はその人物が藤沢渚だと断言したのだ。そんな少ない情報で断言できることに違和感を覚えた奏汰は妹が作ってくれたバランスの整った弁当へ向かう箸を思わず止めてしまった。


「ってか、お前こそどうして知らないんだよ。この学校であの人を知らないとかあるのか? 一応生徒会長だぞ?」

「いや、俺はそういう集会的なのは適当な理由つけて毎回サボってたから」

「そういえばそうだったな……」


 もぐもぐと豚の生姜焼きを咀嚼しながらうなだれる田代は、ごくんと口の中にため込んでいたものを一気に呑み込んだ。


「藤沢渚。通称『氷の生徒会長』。成績もよくて運動も出来てダメ押しのように超美人。めちゃくちゃ人気なはずなのに、彼氏どころか同性の友達すら作らないでずっと一人で過ごしているからまるで氷のような女って言われてるよ」

「詳しいんだな」

「お前が知らなすぎるだけだっての」


 今度は弁当箱の隅にあるブロッコリーを田代は口へ運びながら、


「それで、どうして誰にも興味を持たなかった一色が藤沢を? 意外と面食いだったのか?」

「違うよ。図書館で見かけたんだ。どうにも、俺が借りてた小説をその藤沢渚って子が探してたみたいでさ。昨日にはもう読み終わったから、渡してあげようかなって」

「なんてこった。今日の天気予報は晴れだったはずだぞ。グローブは雨用にしたほうがよさそうかな」

「降らねぇよ。どうしてそうなるんだ」

「だって、この二年でお前の口からそんなことをきいたのは初めてだぜ? 驚きもするよ」


 田代に言われて初めて、奏汰は自分がここ二年間他人とまったく会話をしたことがないことを思い出した。ただ、その理由は心の色が見えなかったからというのなら、藤沢渚にはその条件は該当しないのだ。


(藤沢渚の心の色が見えたってことは、言わない方がよさそうだな)


 奏汰は田代の胸元へ視線を移す。

 案の定、田代の心の色は見えない。同様に、この教室にいるクラスメイトたちも、今朝登校の際にすれ違った生徒たちも全員、心の色は見えなかった。

 異常なのは、あの二色の心を持つ藤沢渚なのだろう。だからこそ、奏汰は藤沢渚の心が一体どうなっているのか。その真相を知りたかった。さらに言えば、会話の術を忘れた奏汰に残された渚との接点があの小説のみなのだ。

 きっかけとしては、ちょうどいいと思ったのだが。


「でも、ちょっと変だな」

「なにがだ?」


 訝しげに眉をひそめる田代に奏汰が問いかけると、彼は斜め上を見ながら、


「藤沢渚が本が好きって話は聞いたことがないんだ。校内だと有名人だから色々と情報が回ってるんだけどさ、その中には一つも本が好きなんてなかったんだよ」

「でも、あの子が探してるのは『空に浮かぶ海』の続編だぞ。ってことは、少なくも一巻は面白いと思ったはずだ。それにあの本は本好きじゃなきゃまず手に取らないコアな小説。本好きじゃないなんてありえないだろ」

「だから変だって言ったんだ。まあ、俺の知ったことじゃあないけどな」


 呑気に弁当を食べながら田代がそう言うと、昼休みの終わる予鈴が鳴り響いた。田代は話をしていて箸の進むスピードが遅れていたらしく、「やべやべ」と急ぎながら残りをかきこみ始めた。


「二年D組、かぁ」


 別のクラスへ行くというだけでこんなにも勇気がいるかと、奏汰は長々とため息を吐いた。

 



 放課後になったとき、奏汰はいつもよりもずいぶんと早く荷物をまとめていた。


「早いな。用事でもあるのか?」

「藤沢渚って子のところへ行こうかなって思ってさ」

「やっぱり今日は雨用のグローブを……」

「必要ねぇよ。いつも通りのやつ使っておけ」


 投げやりに奏汰が言うと、田代は「まあ、上手くやれよ」と爽やかに笑って廊下を走っていった。

 さて、勝負はこれからだ。人と関わらない生活を続けていた奏汰にとって、他のクラスへ足を運び、誰かを呼ぶという単純な動作にはさまざまな難関がある。

 何度も深呼吸をして、奏汰は帰りたくなる気持ちを抑え込み、足早に二年D組へと歩いていく。

 まだ放課後に浮かれる帰宅部と部活へ向かう真面目な生徒が混在する時間だ。奏汰一人の声に耳を傾ける人などいないはず。そう自分に言い聞かせて、奏汰はゆっくりと教室の中を覗き込んだ。


「えっと、藤沢渚さんは……」


 それ以上の言葉を、紡げなかった。渚が教室にいなかったのではない。美しい黒髪のポニーテールをなびかせ、ノートを整理してバッグへと入れる彼女がそこにはいた。

 言葉を失った理由は、単純だった。不思議で仕方なかったのだ。こんなにも美しい心に気づけなかったことが。

 昨日は色が見えたことへの驚きが優ってしまったが、今日は違う。


 心の色が見えるのが彼女だけだから、いや、きっと他の人の心が見えたとしても目を奪われてしまうに違いないだろう。そう思えるほどにまで、心の色を見ることに意識を向けることができた。

 赤と青の二色の心。赤が青を守るかのように覆っていた。

 それは人の心と呼ぶにはあまりにも歪だった。本来一色しかない心に二色の色彩を感じる時点で異常なのに、さらに形すらも不安定。

 当の本人は誰よりも凛々しいのに、心は今まで見てきた誰よりも脆く、触れれば崩れてしまそうだった。

 だがそんな歪な心を、奏汰は美しいと感じてしまった。もっと深くまで見てみたいと、思ってしまった。


「あ、あの……」

「え!? あ、えっと」


 奏汰に声をかけたのは、渚ではない他の生徒だった。当然と言えば当然だろう。別のクラスの生徒が女生徒を恋する少女漫画の主人公のようにドアの陰から見つめているのだ。不審に思わない方が不思議だろう。

 奏汰が返事に困ってあたふたとしていると、視界の端に奏汰を捉えた渚がおもむろに立ち上がり、こちらへと向かってきた。


「どうしたの?」

「なんだか、藤沢さんに用があるみたいなんですけど……」


 不審者を見る目でその女生徒に見られた奏汰は、ぎこちなく笑いながら、


「ど、どうも……」


 あはは〜、なんて軽く言ってみたはいいものの、当の渚は敵意すら感じる顔で、


「あなたは昨日の……!」


 赤い心が、太陽のように揺らめいたかと思った瞬間、それが無数のトゲに変わり奏汰へとその矛先を向けた。

 敵対心。懐かしさすら奏汰は感じた。心の機微まで感じ取る奏汰の共感覚は、渚の向ける敵意をこれでもかと視覚から受け止めていた。

 ここまで敵意を向けられてしまうと、変に言い訳をしない方が心を刺激しないだろう。必要な言葉を、必要なだけ。


「昨日さ、本を探してたでしょ? 多分、俺が借りてたんだよ」


 言いながら、奏汰は『空に浮かぶ海』の二巻を取り出した。それを見て、渚の心がさらに揺らめく。


「そんな本知らないわ。勘違いじゃないの?」

「え? そんなはずは……」


 奏汰は渚の心を視る。敵対心だった心のトゲがわずかに揺らめいていた。嘘をついている動きだった。

 ならば、奏汰が間違えているのではないはず。しかし、どうして探していた本を知らないと嘘をつく必要があるのだろうか。その理由までは、心をただ見ただけでは分からない。

 しかし、


「わざわざ来てもらって悪いけど、違うものは違うわ。さようなら」


 心を観察すれば、その理由を推測することはできるはずだ。渚は逃げようとしている。心も拒絶するようにその姿を変え、赤い壁が出来上がっていた。それも、青を隠すかのように。

 つまり、だ。

 歩き去ろうとする渚の耳元で、奏汰は彼女だけが聞こえるようにこう言った、


「君は、二人いるの?」

「――ッ!?」


 赤い壁が、グラグラと揺れた。

 同時、渚は奏汰の手首を力強く掴んだ。


「……少し話をしましょうか」

「えっ? ちょっ」


 何かを言う時間すら与えず、強引に奏汰を引っ張ると、周りの視線すら気にせず渚は歩き続ける。

 迷いなく歩き、たどり着いたのは学校の屋上。確か、立ち入り禁止な上に鍵は教員が管理していたはずだが、渚はスカートのポケットから鍵を取り出してためらいなく扉を開いた。

 優しい風を裂くように奏汰の手を離すと、滑らかな手つきで扉を施錠し、鋭い目つきで渚は言う。


「さっきの、どういう意味?」

「さっきって――」

「二人いるってことよ!」


 たった一言を引き金とするには、あまりにも不自然な激昂。だが、心を観察してきた奏汰にはその理由が分かった。

 図星。それがトリガーに足る核心なのだ。


「俺はただ、思ったことを言っただけだ」

「あり得ない。それなら『二人いる』なんて言葉は出てこないはずよ。何を根拠にそんなことを言ったか教えなさい」


 やはり、ここで回りくどい言い方は愚行か。赤い心は答えを欲していた。言い訳も建前もいらない。必要なのは、あの揺れる赤い壁を壊せるような言葉だ。


「俺には、人の心の色を見る力がある」

「……意味が分からないわ」

「共感覚っていうんだ。頭良いんだろ? 聞いたことぐらいあるはずだ」

「ええ。名前だけなら。文字に色を感じる、とかだっけ? それを人の心に感じるというの?」


 奏汰は「ああ」と首を縦に振った。


「それで、俺は昨日と今日、君の心を見て思ったんだ。君には、心が二つあるんじゃないかって」

「にわかには信じがたいわね」


 口ではそう言いながらも、渚はほんの少しだけ落ち着きを取り戻していた。怒りよりも、奏汰の共感覚が本物なのかを確かめたいのだろう。


「質問。あなたには私の心はどう見えた?」


 奏汰は即答した。


「二色だったんだ」

「二色……?」

「俺が今まで見てきた心は全て一色だった。二つの色を一人の人間の心が持っていることなんて、見たことなかった」


 渚の訝しげな表情は変わらない。奏汰は間髪入れずに続ける。


「君の心は赤と青の二色だった。そして、赤い色の心がもう一つの青い心を守っているように見えた。俺が本の話をしていたときも、君の心は俺の敵意よりも青い心を守ろうとすることを優先していた。僕にはそれが、一人がもう一人を守っているようにしか見えなかったんだ」

「だから、二人いるって言ったの?」

「そうだ」


 奏汰が頷くと、渚は一〇秒近く何かを考えるように黙った。

 心を視る。赤い色と青い色が同じくらいの大きさへと変わり、まるで相談しているように絡み合っていた。


「もう一つだけ、質問するわ」


 一つ呼吸を置いてから、渚は口を開く。


「私に近づいたのはどうして? 私には、あなたの行動が興味本位だけには見えない」

「どうして、か」


 わずかな逡巡の後に、奏汰はまっすぐに渚を見つめて、


「昨日初めて君の心を見たとき、綺麗だって思ったんだ。だからもっと君のことを知りたいって思った。本は、申し訳ないけどそのきっかけ作りかな」


 本心だった。赤だけでも青だけでもなし得ない、二つの色があるからこその歪さから生まれる美しさ。それはきっと、この世界で藤沢渚だけがもつ美しさなのだ。

 だから、奏汰は惹かれてしまったのだ。人と関わることを恐れた二年間を、忘れてしまうくらいに。

 渚の心の動きに特別な変化はない。どうやら、奏汰の発言自体は信じてもらえたようだ。問題は、それをどう受け止めたのかということなのだが。


「……こんな理解に苦しむ告白をされたのは生まれて初めてよ」

「こ、告白っ!?」

「だってそうでしょ? あなたのことをもっと知りたい〜だなんて言われて、告白じゃないって言い張る方が無理があると思うけど」

「い、いや。そう言われればそうなんだけど……!」


 黒目をこれでもかと右往左往させて汗を流す奏汰を、渚は無言で見つめる。

 そして、再び赤と青が数秒ほど絡み合ったのちに、渚は大きくため息を吐いた。


「……はぁ。分かったわよ」

「え?」

「別にあなたに言ったんじゃないわ」


 ならば独り言なのだろうか。いや、もしかすると。


「これだけは約束して」


 渚は奏汰の目を貫こうとするほどに見つめた。


「これからあなたが見ることは、決して誰にも言わないで」

「ああ、分かった」


 奏汰の返事を聞いた渚は、ふうと息を吐いた。

 次の、瞬間だった。



「もういいわよ。あとは任せるわ、渚」



 渚は高めに縛られたポニーテールを留めるゴムを解いた。直後、滝が流れるように黒い髪が重力に吸い寄せられ、肩甲骨の半ばまで毛先が下りる。

 ただ、眺めているだけではその変化に気づくことは出来ないだろう。よく見れば凛々しくキリっとした目元が穏やかになっているような、そんな変化。

 しかし、外見ではない何か別のものに、奏汰は変化を感じた。

 彼女のまとう空気が、雰囲気が、先ほどとはまったくもって異質だった。


「……、」


 わずかな沈黙。奏汰は渚の心へと視線を移す。

 青だった。表で奏汰と相対していた赤い心と、奥にいたはずの青い心の位置が変わっていたのだ。

 それは、つまり。


「……初めまして」


 そんな言葉から、『彼女』は切り出した。

 深々と丁寧に頭を下げた『彼女』は、お辞儀から姿勢を戻し、奏汰の目をみてこう言った。

 さながら、初対面の人に挨拶をするように。



「初めまして。私が、『藤沢渚』です」



 二つの心。二つの色。

 自分で『二人いる』と口にした奏汰も、その変化に言葉を失った。

 二重人格。異なる二つの人格を一つの肉体に宿した人物。

 誰しも、その言葉だけは聞いたことぐらいならあるはずだ。

 だが、それにしても。


「別人のように、見えますか?」


 穏やかで丁寧な口調だった。はきはきとして力強いと感じたつい先ほどまでの渚とは、対極にいるとたった一言で分かった。


「君は……」

「藤沢渚です。正真正銘、間違いなく」

「…………、」


 それは分かっているのだ。奏汰の目の前にいるのは藤沢渚だ。それ自体に疑問はなかった。しかし、これほどまでの変化を素直に受け止められるほど、奏汰は人生経験を積んでいない。


「あ、あの……?」


 奏汰が返事をしないのを不思議に思ったのか、渚は不安そうに問いかけた。

 どことなく、表情が暗くなってきているように見えた。

 そして、


「……ぅ」


 くしゃっと、表情が悲しみに染まって。


「やっぱり私なんかに話しかけられても返す言葉なんてないですよね。そうですよね普段ずっと茜ちゃんに全てを任せておいていざ出てきたら私が藤沢渚ですなんて過ぎた真似ですよね! 知ってます、知ってますから私が残念な人間だってことは! ほら、言っていいんですよ私なんて根暗で卑屈で辛気臭くてリトマス試験紙で測ったらアルカリ性でもないのに赤が青に変わるような人間だってぇ〜!」


 ラッパーもびっくりな超早口でそんな言葉をまくし立てながら、逃げるように屋上の隅に走り去ってしまった。

 小走りで近づきながら、奏汰は優しく声をかける。


「お、お〜い」

「いいんです! 私なんてボロボロの雑巾で角に溜まった埃を拭いているのが世界で一番似合う人間なんですからぁ!」


 小動物のように隅っこで膝を抱えて小さくなる渚。どうにも普通に話しかけても返事はしてくれないだろう。

 奏汰は青い心の奥で赤い心がいつでも刺してやるぞとギラギラ揺らめいているのを見て寒気を感じた。涙目の渚の目から一滴でも涙が流れてしまったら、すぐにでも刺し殺されてしまうだろう。

 だが、普通の会話が駄目であるのなら。『今の渚』だけに通じる方法で切り出せばいいだけだ。

 奏汰はバッグをごそごそとあさり、中からあるものを取り出して渚の前にぶら下げた。


「……なんですか、これ」

「知ってるだろ? 君の探してた『空に浮かぶ海』の続編だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ガバッと渚が立ち上がった。


「ええぇ!? どうしてあなたが持ってるんですか!? 昨日茜ちゃんがあれだけ探しても一巻しか見つからなかったのに!」


 妙にグイグイと距離を詰めながら渚は言った。

 こんな言動だが、姿形はこの高校で最も人気のある超美人の生徒会長様だ。目元や髪型が違うとしても、超美人であることに変わりない。

 何が言いたいかというと、普段から田代とかいう爽やか坊主の顔ばかり見て生活していた奏汰にとってこの距離は暴力的と言っても過言ではない。


「あ、えっと……、渚、さん?」

「はい? なんでしょう?」

「ちょっとだけ近いかなぁ〜、なんて」

「……はぇ?」


 間抜けな声を出した直後、渚の顔がカァァと熟れたリンゴのように赤くなった。


「ごごごごごめんなさいぃ! そうですよね! 私みたいな人間がこんなに至近距離にいたら不快になること間違いなしですよね!」


 涙目で再び逃げ出そうとする渚の手を奏汰は慌てて掴んで、


「だ、大丈夫だから! 急にだったからびっくりしただけだから!」

「ほんと、ですか……?」


 うるうると涙の溜まった瞳で渚は奏汰を見つめた。

 戸惑いながらも、奏汰は頷く。


「あ、ああ。本当だ。だから落ち着いてくれ」

「はい……」


 すーはーと大きく深呼吸をして、ようやく渚は平静を取り戻した。

 つられるように奏汰も息を吐くと、改めて声をかける。


「それで、いろいろと聞きたいことはあるんだけど」


 そんな切り出し方をした奏汰は、表に出てきた青い心を眺めながら、


「どうして、君は出てきてくれたんだ?」

「少しお話をしたかったんです。それに、あなたにはもう隠し切れないように思いましたから」

「君が二重人格だってことを、か?」

「…………はい」


 わずかな躊躇いを見せながら、渚は頷いた。


「あ、あの……!」


 何かを言いだそうとして、渚が次の言葉を紡げないでいるのを見た奏汰は、自分が今の今まで自己紹介をしていないことを思い出した。


「そういえば俺の名前、言ってなかったな。一色奏汰。一つの色に奏でると自然淘汰の汰」

「……奏汰、さん。この秘密は誰にも言わないでもらえますか?」

「言われなくても、誰にも言わないよ。君に二つの心に興味があって話しかけたのは確かだけど、それ以上も以下もないから」

「そう、ですか。ありがとうございます」


 先ほどの狼狽など嘘のように落ち着いた様子で渚はペコリと頭を下げた。


「一つ、訊いてもいいかな」

「はい、なんでしょうか」


 体の前で手を組み、姿勢よく立つ渚。昨日、そして『今の渚』よりも前の渚。目の前にいる一つの体に、二つの人格が存在していることはよく分かった。

 奏汰が気になっているのは、その人格は先天的なのか後天的なのか。生まれつき二つの人格を有して生まれてきたのなら、それはどちらも『藤沢渚』だ。

 ではもし、後天的ならば。

 奏汰が話した二つの人格の、どちらが『藤沢渚』のオリジナルなのか。

 いや、そもそもだ。

 もう一つの人格は、『藤沢渚』なのだろうか。


「さっき、何回か『茜ちゃん』って言ってたよね。それって、もしかして」

「……おそらく。ご想像の通り、です」

「じゃあ、君が本物の『藤沢渚』ってことでいいのか?」

「本物、という表現が正しいかはわかりませんが、茜ちゃんが私の中に生まれたのは小学六年生のときです。私も茜ちゃんも『藤沢渚』なんですけどね。もう一人の私、とか回りくどいじゃないですか」


 軽く笑いながら、渚はそう答えた。

 つまり今、奏汰の前にいるのが『藤沢渚』のオリジナルというわけだ。

 そして、渚についている『氷の生徒会長』という名前を聞く限り、普段から表に出ているのは茜ということになる。


「昨日、図書館で見たのは藤沢茜なんだよな?」

「そうですね。……なんだか、私以外の人が茜ちゃんの名前を呼ぶのって変な感じです」

「残念ながら俺にはその感覚は分からないな……あ、そうだ。図書館といえば」


 奏汰が思い出したようにもう一度『空に浮かぶ海』を取り出すと、渚は大人らしい茜とは違ったあどけない笑みを浮かべて本を受け取った。


「ありがとうございます。この前に読んだ一巻がすごく面白くて、どうしても続きが読みたくなっちゃったので、昨日は無理を言って茜ちゃんに探してもらったです」

「続きが読みたくなる気持ち、すごくわかるよ。俺も今週だけで五巻まで読んじゃったし」


 笑いながら、奏汰は夜更かしして小説を読んだせいでできた目の隈を撫でた。

 その素振りを見て上品に口元を隠しながらくすっと笑った渚は、大切そうに本を抱えて、


「面白いですね、奏汰さんって」

「そうか? あんまり他の人と話さないから分からないな」

「茜ちゃん以外と話すことなんて滅多にないから、とても新鮮で楽しいです」


 本当にそう思っているのだろう。

 無邪気な子どものような笑顔を見せる渚は、ふと視線を横へとずらした。色気ではない大人らしさを、渚の横顔に感じた。

 周りに障害物がない分、風がまっすぐに奏汰たちを包み込んでいた。そんな風に煽られて揺れる渚の髪がやけに扇情的で、茜の赤い心を背景にした渚の青い心が本当に空に浮かんでいる海のようで、奏汰は見惚れてしまう。

 渚は屋上から街を眺めていた。まるで、久しぶりに故郷に帰ってきたように。


「学校で茜ちゃんと変わってもらったの、すごく久しぶりなんです」

「いいのか。俺と話すだけのために」

「今も茜ちゃんは中で不満そうですよ」

「……刺されたりしないよね?」


 青の奥にいる赤がギラギラとしていることに気づいた奏汰は苦い顔で問いかけた。


「そんな怖い子じゃないです、茜ちゃんは」


 渚は楽しそうにそう言うと、「でも」と続ける。


「さっさと本題に入れって言ってるので、話を戻しますね」


 茜の心が見えている奏汰には本当に刺されないかが気が気でないのだが、奏汰の心は残念ながら渚からは見えていないために、渚は奏汰の首筋に流れる冷や汗に気づかぬまま続ける。


「あの、奏汰さん」


 仕切り直すように奏汰の名前を呼ぶと、頬を赤らめながら恥ずかしそうに渚は視線を斜め下へ向けた。告白でもされるのではないかと思うほど息苦しい雰囲気に思わず奏汰は息を止めてしまった。

 わずかに息を吐くと、渚は視線を上げた。


「私と、友達になってくれませんか?」

「…………あ、うん。いいけど」


 思っていたよりもずいぶんとハードルの低い告白に拍子抜けした奏汰は、気の抜けた声でそう答えた。

 だが、


「……、」

「……、」


 沈黙。

 まさかの正式な友達になった次の瞬間から会話が尽きるという緊急事態。

 考えてみれば、事情は違えど人と話す機会がなかった二人だ。会話が苦手なのは当たり前なのだが、それにしてもあんなことを言った直後はさすがに息苦しい。


「そ、そうだ!」


 静寂に負けた渚が口を開いた。


「か、奏汰さん。本、好きなんですよね」

「え、ああ、そうだな。小説しか読まないけど」

「わ、私もです。お揃いですね、えへへ……」


 照れながら人差し指を合わせて渚が笑って会話は終了。

 まさかの正式な友達となって最初の会話でキャッチボールが二往復しないという緊急事態。しかも、当の渚本人は会話が出来て嬉しいみたいな満足顔で笑っているのが致命傷である。苦い顔がさらに渋くなった奏汰は、たまらず彼から声を出す。


「渚、さん?」

「渚で大丈夫です。お友達ですから」

「じゃあ……渚。友達ってのは、どうしてなんだ? 一応、藤沢渚は『氷の生徒会長』なんだろ?」


 彼氏どころか同性の友達すら作らない孤高の生徒会長、藤沢渚。まあ、実際は茜の方なのだが、それでもこの学校で仲の良い生徒がいないというのは本当のはずだ。気軽に異性の友達を作ったりしたら何かと騒がれそうな気がするが。

 そんな奏汰の不安そうな顔を、渚はビシッと指差した。


「奏汰さんっ! そうです、それなんですよ!」


 やたら勢いよく声を上げると、渚はそのテンションのまま、


「私は家で本を読んだりするのが好きなので一人でもいいんですけど、茜ちゃんは学校にいる間、私のためにずっと一人なんです!」

「渚のために……?」

「はい。実は、私が二重人格だって知っているのは奏汰さんだけなんです。他には、親にも言っていません。もし私が二重人格だってことが知られてしまえば、茜ちゃんが生まれる前に戻ってしまうかもしないから……」


 渚が悲しげに俯く様子を見ると、おそらく茜が生まれるに至るまでの過去に何かあったのだろう。しかし、いきなりそんなセンシティブな過去に触れてはいけないと思った奏汰は、あえて話題をずらす。


「二重人格だって気づかれないためってのは理解できるけど、どうして一人になることにそこまでこだわるんだ? 俺みたいなおかしな感覚を持っているやつじゃない限りは、普通に生活する分には分からないだろ?」


 茜と渚が学校の中で入れ替わることがないのなら、他人からはそれはただの『藤沢渚』だ。話している限り、どちらかが体を取り合うということもないのだろう。気づかれてしまう要素はないはずなのだが。

 そんな疑問に、渚は難しい顔で答える。


「それがですね。私たちって心の中で会話をしたりするんですけど、うっかりそれを声に出しちゃうことがあるんです。奏汰さんが図書館で見たときみたいに」


 思い返してみれば、あれは茜が渚に向かって探している本がないと文句を言っていたようにも思える。そして、ああやって不意に出てしまった言葉は、何も知らない他人からは奇妙な独り言に聞こえてしまうだろう。

 それがすぐに二重人格だという結論に結びつくことはないだろうが、そんな小さな不審が積み重なればいつか気づかれてしまうはずだ。なにせ、彼女は些細な情報でさえ校内で出回る『氷の生徒会長』様なのだから。


「二重人格だってことを隠すためには、誰とも関わらないのが一番だっていう茜ちゃんの理屈は理解できます。でも、それで茜ちゃんがずっと一人なのは嫌なんです」

「だから、二重人格ってことを知った俺を友達に?」

「そうです! 私のお友達ってことは、茜ちゃんのお友達です! だって渚は茜で、茜は渚なんですから!」


 ふふんっと、渚は得意げに鼻を鳴らした。

 正直、何を言っているのか一ミリも理解できていない奏汰だったが、とりあえず当たり障りのない笑顔を作っておいた。

 奏汰のぎこちない笑顔を見てさらに胸に張る渚を見る限り、どうやら本当に他人との顔から感情を推測するのが苦手らしい。逆に感情や心を色として無意識に見てしまう奏汰は感心すら覚えていた。

 そんな奏汰の心のうちなどつゆ知らず、渚は嬉しそうに続ける。


「それに、もっと知りたいです。奏汰さんの、心の色を見る共感覚というものを」

「……そうか。まあ、知りたいなら話すよ」


 今はもう渚の心の色しか見えないと言ったらきっと残念に思われるだろうが、見えないのものは見えないから仕方がない。

 気にしないようにしようと奏汰が大きめの息を吐くと、渚はこほんと咳払いをして、


「して、奏汰さん。一つお願いがあるのですが」

「おう、なんだ?」

「今度の日曜日、私と一緒に隣町の図書館へ行ってくれませんか?」


 今年で一七歳の男子高校生、一色奏汰。人生で初めてのデートのお誘いである。なぜ友達になってほしいという言葉よりもデートの誘いの方がすらすらと出てくるか、という疑問を頭の片隅で考えながら、なんとか奏汰は返事をする。


「えっと、それは……渚と二人で図書館に行くってことだよな?」

「はい! 私、今も外に出るのがあまり得意じゃないんです。普段は茜ちゃんがいるからなんとかなってますけど、外にもちゃんとしたお友達がいてくれればもう少し楽になれる気がするんです」


 渚からすると、リハビリのようなものなのだろうか。苦手意識のある外の世界を一緒に歩いてくれる外の友達がほしいという願い。確かに、茜ではどうやっても手を繋いで横を歩くことは不可能だろう。そう思うと、断ることなどできない。


「俺でよければ、まあ、いいけど」

「本当ですか!? ありがとうございますっ!」


 勢いよく頭を下げると、渚は幸せそうな顔で、


「では、次の日曜日の正午に、隣町の駅の改札でいいですか?」

「ああ、分かった。寝坊しないようにするよ」


 奏汰が頷くと、渚は笑って、


「それでは、私はこれで。茜ちゃんもやることがあるでしょうから。また会いましょうね、奏汰さん」


 渚はおもむろに長い黒髪をかき上げ、一つにまとめると高い位置でそれをヘアゴムで留めた。そして、妖艶なポニーテールを完成させた瞬間、渚の目つきが緩やかに変わる。

 次いで、言葉も発していないはずなのに、佇まいと雰囲気すらも変化していく。

 一度経験した奏汰にとっては、何が起こったのかの理解は難しくなかった。



「……久しぶり、一色奏汰くん」



 目の前でずっと話していたはずの彼女は、そんな言葉から会話を始めた。

 その胸の表面で揺らめく心の色が青から赤に変わっていたことなど、見るまでもない。


「茜ちゃん、でいいのかな?」

「……茜でいいわ。ただし、他の人がいる場でその名を呼んだら刺し殺すからね」

「あははは。……冗談だよな、茜」

「心が見えるんでしょう? 嘘かどうか、訊かなくても分かるでしょ?」


 その心が今すぐにでも刺してやるというくらいギラギラしているから怖くなって訊いているんだ、とはさすがに言えなかった。

 戦慄する奏汰を見て凄艶に微笑する茜は、屋上の鍵を開けて扉を開いた。

 その場に呆然と立つ奏汰を、茜は睨みつけて、


「ほら、さっさと出る。さすがにあなたをおいてここの鍵を閉めたら怒られるんだから」


 やはり生徒会長の特権を使って無許可で屋上を使っていたらしい。駆け足で屋上から戻ると、茜はすぐに鍵を閉めて踵を返す。


「それじゃあ、またどこかで」

「え? 隣町の図書館じゃないのか?」

「その日に私が出てくるかは分からないじゃない」


 少し寂しげに言うと、茜は自分の教室に向かって歩き出す。

 そして去り際、茜は横目のわずかな視界に奏汰を入れて、


「渚を泣かせたら許さないから」

「か、かしこまりました……」


 心を視ただけでは刺されないという確信を持てない奏汰は、畏怖に膝を震わせていた。


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