終章 君は君の心の色を知らない
「起きなさい。朝よ」
ベッドの中で丸くなる奏汰に向かって、ポニーテールの少女は声をかけた。しかし、朝が弱い奏汰はその程度の声で起きることはない。
「さっさと起きなさい。今日も学校なんだから、早めに家を出ないと私は間に合わないんだけど」
茜が再び奏汰の前に現れたあの夜、奏汰の家で夕飯を食べた渚は終電がなくなったために一色家に泊まることになったのだった。そして、以前と同じく現在時刻は午前六時。一度家に戻って準備をしてから学校へ向かう必要があるためにこの時間なのだが、茜がどれだけ声をかけても奏汰が起きる気配はない。
茜は諦めたように息を吐いて、
「はあ。面倒だから任せるわ、渚」
髪を結ぶゴムを解いて黒い髪が垂れると同時、彼女の体が縦に揺れた。すぐに頭を上げると、彼女は頬を膨らませて奏汰を大きく揺する。
「起きてください、奏汰さん! 遅刻しちゃいます!」
「……ん」
それでも目を覚まさないを不満そうに見下ろす渚は、何かを思いついたのか静かに奏汰の耳元へ口を近づける。
「……起きないと悪戯しちゃいますよ、奏汰さん」
「うわあぁぁぁあああああ!!??!???」
今までの人生で感じたことのない異様な刺激に、奏汰は慌てて起き上がった。
渚の息遣いが残る右耳を押さえながら、奏汰は混乱したまま、したり顔の渚を見つめる。
「……何したの、今」
「何もしてません」
「え? え?」
寝起きで何が起こったのか分かっていない奏汰を見て、渚は楽しそうに笑っていた。
「もうやよいちゃんが下で待ってますよ。早く来てください」
「あ、ああ……」
完全に目が覚めた奏汰は、すぐにベッドから抜け出して下の階へ降りていく。
赤いエプロンをつけたやよいが、笑顔でキッチンに立っていた。
「おっはよー! ご飯できてるよー!」
「おう。おはよう」
食卓には、昨日の夕飯にもあったロールキャベツが再び並んでいた。こんなに材料を買った覚えはないのだが、やよいが準備してくれたのだろう。
「聞いてちょうだいお兄ちゃん。先程茜さんに味見をしてもらって、合格をいただいたのです、ぶいぶい」
嬉しそうにやよいは両手でピースサインを作った。
「さすが俺の妹だ」
奏汰自身は昨日のうちに食べているので、どれだけ美味しいのかはもう知っていた。
ただ、茜に認めてもらうということを目標にしていたやよいにとって、それはとても大きなことなのだろう。
奏汰はいただきますと一言呟き、朝食を食べ始める。
家を出る準備を済ませ、いつもよりも一時間早く家を出る。
空は終わりなく青く透き通っていた。七月下旬の力強い日差しが針のように体を刺す。
きっとこれからの人生では決して味わうことのないだろう濃厚な時間を過ごしたにも拘らず、いつも通りに晴れている空に奏汰は別の世界にいるような感覚になった。
「奏汰さん? どうしたんですか、空なんか見て」
「あ、いや。なんでもない」
奏汰は無意識に止めていた足を動かし始める。
気分が良いのか、渚は跳ねるように歩きながら、
「そんなにぼーっとしてたら、テスト勉強、間に合わないですよ?」
「……忘れてた。テストまであと一週間ないじゃん」
奏汰の通う山伏高校は文化祭の一週間後に一学期末テストがある。去年は行事などに参加しなかったため問題なかったが、今回は勉強など一秒もしていない。
「大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」
両手を握りしめて、小さなファイティングポーズを渚は取った。
そうして奏汰へ対して正面を向いた瞬間、彼の視界に美しい色彩が現れた。
海のような青に、太陽のような赤。どちらがかけても成立しない、歪で、不安定で、この世界の何よりも美しい二色の心。
何度見ても、奏汰はこの心に目を奪われてしまう。
「やっぱり、綺麗だな」
「え? なんですか?」
「渚の心だよ。本当に綺麗だ」
「き、急にどうしたんですか……?」
「言いたくなっただけだよ。俺にしか見えない色だから、言わないと伝わらないだろ?」
言って、奏汰は歩く速度を上げた。置いていかれないように、戸惑っていた渚も奏汰の横へ駆け足で並ぶ。
「本当に変な人ですね、奏汰さんって」
「そんなもんだよ」
笑って、奏汰はそう言った。
何度でも伝えていきたいと、そう思ったのだ。
この目がなかったら出会えなかった。あの心を見なければ出会えなかった。
心の色を見るという共感覚を持つ奏汰にしかその美しさを知ることはできないのだから。
だから、何回でも。何度でも。
彼女がその美しさを忘れないように。
奏汰が恋をしたこの少女は、自分の心の色を知らないのだから。




