第四話 空に浮かぶ海 その2
本を読むのに、意外と時間がかかったらしい。
日はもう沈んでおり、真っ黒な空の真ん中に月が孤独に輝いていた。
しかしまだ手元の時計は二〇時を過ぎたほどで、終電には程遠い。これから学校へ向かったとしても、帰り道には困らないはずだ。
いつもの場所で待つ。渚にそう言われて思いつく場所は、一つしかなかった。
夜の学校へと辿り着いた奏汰は、警備員がいないかを確認してフェンスをよじ登る。
文化祭の手伝いをしていたときに、鍵が壊れた裏口があったことを思い出した。あれからまだ日は経っていないから、まだあそこから出入りできるはずだ。
案の定、裏口の鍵は壊れており、すんなりと学校へと入ることができた。
学校へ侵入した奏汰は、迷わず階段を駆けあがる。普段運動をしない分、すぐに息が上がる。足が重くなる。
それでも、速度を落とさずに必死に走り続ける。
そして、奏汰は屋上へと続く扉を開いた。
予想通り、屋上には人影があった。こんな時間に、こんな場所にいるのは、間違いなく彼女だけのはずだ。
しかし、その人影に近づいた奏汰は目を見開いた。信じられないという顔でその人を見つめる奏汰へ、人影は少しずつ近づいていく。
そしてゆっくりと口を開き、
「久しぶりね、奏汰」
屋上に悠然と立つポニーテールの少女は、そう言って笑っていた。
何が起こっているのだろうか。あのときの出来事が全て幻だったのではないのかという錯覚に襲われる。
「茜、なのか……?」
その少女は余裕のある笑みを浮かべて、
「あら、別の誰かに見えるのかしら」
「だって、お前は」
「消えたくないって前に言ったでしょ?」
茜が奏汰の家に始めて泊まった日の夜に、そんな話をした記憶はある。だが、それで納得できるような状況でないのだ。
仮に悪戯だったとして、笑って許せる余裕は奏汰にはない。
「なんで、こんなことをしたんだ」
「驚かせたかったから、かしら。あなたの顔を見る限り、成功したみたいね」
その少女は奏汰に背を向けて屋上の手すりに体重を預けた。
奏汰は黙ってその横に立ち、夜空を見上げたまま、
「いいのか? こんな時間に学校に忍び込んで」
「たまにはいいじゃない。一度やってみたかったのよ」
「やっぱり可愛いところあるよな、お前って」
「ふふ、そうでしょ?」
奏汰は夜景へ向けていた体を少女の方へ向ける。
まっすぐに立った奏汰は、柔らかな声で言う。
「大事な話があるんだ。聞いてくれないか、渚」
その少女の顔色は変わらない。ただ、ほんの数瞬だけ不意に空いた間を必死に埋めるように、口早で彼女は否定する。
「何を言っているの。私は渚じゃないわ」
「一ヶ月以上、ずっと隣にいたんだ。心の色が見えなくても分かるよ」
「そんなわけ――」
「そうやってすぐに取り乱すのが、渚の悪いところだよな」
「…………、」
少女は黙り込んだ。
奏汰はさらに追い打ちをかける。
「それに、可愛いって言われて素直に喜ぶような子じゃないよ、茜は。あいつはずっと、自分のことは二の次だったんだ。自分が褒められたら、戸惑うに決まってる」
たった数回の会話。ただそれだけの間の言葉遣いで。
ほんの些細な、立ち振る舞いの違いで。
その少女が自分の望む『藤沢渚』ではないことに気づいてしまうほどには、彼女のことを好きになっているのだと、改めて奏汰は痛感した。
貫かんとするほどにまっすぐな視線。少女はその目を見て、もう騙すことはできないと思ったのか髪を結んでいた髪ゴムをおもむろに外した。
悔しそうに唇を噛みしめて、渚は呟く。
「今度は、上手く出来ると思ったんです……」
「ああ、やよいや日葵だったら騙されたかもな」
正直、最初に見たときには騙されてしまった。こうやって話をしなかったら、気づかなかったかもしれない。
少し前は茜の真似をすることがあれだけ下手だったのに。本当にどこまでも成長する才能の塊だ。やはり、茜に出来て渚に出来ないことなどないと確信できる。
「辛かったよな」
「……はい」
渚は苦しそうに胸の内を打ち明ける。
「受け入れようって思ったんです。茜ちゃんも、きっとそれを望んでいるでしょうから。こんなことしても無駄だって分かってます。でも、諦めきれなかったんです」
「ああ。俺だって駄目だったよ。さっきは散々泣いてやよいに慰められた」
やよいに叩かれた背中に残る心地よい痛みを奏汰は思い出して少し笑った。
「でも、こんなところで泣いたところで、茜は帰ってこない」
藤沢茜がどんな人物かを知っているからこそ、奏汰はそう断言した。
「茜はそういうやつだ。やると決めたら最後までやる。こうやって出てこなくなったのなら、きっともう二度と渚のために出てくることはない」
「今、『出てこない』って、言いましたか?」
小さな言葉遣いの違いに、渚は敏感に反応した。
奏汰はその言葉の意味を理解し、頷く。
「あのとき言っただろ。消えていくように見えただけだ。今は見えないだけだ。茜がこの世界から完全に消えたなんて、誰にも分からない。そうだろ?」
「それはそうですけど……」
渚は胸元に手を当てた。今はもう、渚の認知できる場所に茜はいないと奏汰でも分かる。
奏汰が見えず、渚が感じることが出来ないだけ。
だが、それだけ。存在している証拠はないが、消えた証拠だってない。
今の奏汰とって、それは諦める理由にはならない。
「お前たちが頑張るところを見てきた。でも俺は、それを横で見ているだけだった。ただ手伝って、笑って、そんな自分に満足してるだけだった」
渚は何度も戦ってきた。苦手だった人付き合いを克服し、日葵から逃げずに立ち向かい、文化祭をやりきった。茜も、そうやって渚が頑張れるような環境を作るためにひたすらに努力を重ねてきた。
「今度は俺の番だ」
自分に言い聞かせるように呟いた奏汰は、渚の瞳を一心に見つめる。
「俺はお前に、いや、お前たちに伝えなきゃいけないことがある」
そして、彼はこう切り出す。
「この世界には、色がある」
きっと、この世界の大半がそんなことは当たり前だと言うだろう。しかし、そんな当たり前を当たり前以上に感じてきたのが、一色奏汰なのだ。
「この世界に無限に存在する色の中に、俺にしか見えない色があるんだ」
生まれたときから人の心に色を感じた。
誰一人として同じ色はなかった。そして、今まで見てきた心は全て鮮やかで美しかった。
しかし、その中で一番美しいものは何だと聞かれたら、奏汰は迷わずこう答える。
「一目惚れだったんだって、今ならよく分かるよ」
脳裏に焼き付いた赤と青の二色の心。
初めて図書館で見たときから、もう奏汰の心は奪われていたのだ。
奏汰は、はっきりとこう言った。
「好きだ。俺はずっと、『藤沢渚』に恋をしてたんだ」
「……ぇ」
これ以上ないほど直球な告白を受けて、渚の顔が一気に火照った。
狼狽えないように努力しながらも、目はすさまじく泳いでいる。
「あ、あの……」
「一目惚れだったんだ」
それが最も大事なことなのだと強調するように、奏汰は繰り返した。
渚は頬を赤らめるだけで、その意味を理解できていないようだった。
「あのとき俺が見た『藤沢渚』は、俺の目の前にいる藤沢渚じゃない」
少しずつ気づいてきているのだろう。奏汰の言葉を聞いて悲しんでいる様子は渚にはなかった。単純に渚が好きだとか、茜が好きだとかいう話でないことは分かっているようだ。
奏汰が強調した一目惚れという言葉の意味は、その答えだった。
「俺が好きなった『藤沢渚』は、二色の心を持つ一人の女の子だった」
二重人格だという事情を知らなかった奏汰が一目惚れしたのは渚でも茜でもない。
二つの心を持った、『藤沢渚』という一人の人間のことを、奏汰は好きになったのだ。
「どっちが欠けても、俺の好きな『藤沢渚』は成立しない」
きっとこの告白は、普通に生きてきた人では理解できないだろう。
二重人格という病気から解放された少女へ、再びその病の中へ身を投げろと言っているのだから。
だがそんな異常な世界を、奏汰は望んでいたのかもしれない。
「異常で構わない。普通なんていらない。俺が好きだった世界は、そんな場所にないんだ」
周りから異常だと言われるような共感覚を、奏汰はずっと居心地よく感じていたのだ。
そんな異常から抜け出した普通の世界で、奏汰は上手に生きることは出来なかったのだ。
大好きな『藤沢渚』と再開するためには、もう一度見つけ出す必要があるのだ。
奥底に隠れた赤い心を、この目で。
精神的なトラウマで共感覚を失ったのなら、心から望めばきっと、もう一度取り戻せるはずだ。
無意識のうちに異常な世界を求めていたから、渚と出会えた。ならば今度は自分の意思で、茜と出会うとしよう。
「茜! 聞いてるんだろ!」
奏汰は叫ぶ。
「確かに渚はもう一人でやっていけるほど強いさ! でもよ、ここにお前抜きじゃ耐えられない奴がいるだよ!」
どれだけ叫んでも、茜は本当にいないのかもしれない。
今やっていることは、全て無駄な足掻きなのかもしれない。
でも、それでも。
「お前たちといて凄く楽しかったんだ! 毎日が色鮮やかで、そんな世界の真ん中にお前たちがいたんだ!」
諦めずに立ち向かう姿を、ずっと横で見てきたではないか。
今度は、自分の番だ。
普通なんかに逃げていた自分から卒業しろ。
大好きだった世界を取り戻せ。
共感覚が心の病気だとしても構わない。
異常だと後ろ指を差されても構わない。
そんな世界でしか出会えなかった人がいる。
「渚や茜は自分の心の色を知らないだろうけどさ、俺には世界で一番綺麗に見えたんだ!」
この目でもう一度その色を見るために、瞬きをせずに奏汰は渚を見つめ続ける。
そんな奏汰の心の叫びは、目の前の少女へと呼応する。
「私も、もう一度会いたいよ……ッ!」
その願いはきっと、茜が生まれたときとは全くの別物だ。
自分の弱さがゆえに強さを求めているのではない。ただ純粋に、大切な友達に会いたいと言う、ちっぽけな願い。
「私が作った料理を美味しいって食べてほしい! 奏汰さんややよいちゃんや日葵ちゃんと、笑って遊びたい! あの輪の中に茜ちゃんがいないなんて寂しいよ……ッ!」
どこへ向けたらいいのか分からない叫び。それでも渚は声を振り絞って、強く屋上の手すりを掴んで空へと叫び続ける。
「特別なことなんていらない! ただ、私も楽しいって思ったときに、そのそばにいてほしいだけなの!」
普通ではない世界で見つけた当たり前が、愛しくてたまらないのだ。
「もっともっと笑っていいんだよ。幸せになりたいって、言っていいんだよ! 茜ちゃんだって、私なんだから!」
この世界に藤沢渚は一人しかいない。たとえその体の中に心が二つあったところで、どちらが本物かなんて問いなど、彼らの前では何の意味も持たない。
その答えを、彼らはもう知っているのだから。
「私はあなた抜きじゃ成り立たない! だって……!」
息を吸いなおす。静かな夜空へ、叫ぶ。
「私たちは、二人で『藤沢渚』なんだからッ!!」
そして、そんな『藤沢渚』を好きなった男が、続くように手すりに体重を押し付ける。
遠くへ声が届いてくれるように、押されたら落ちてしまうほどに背伸びをして。
体が酸素を求める声など、全て無視して。
「お前たちが大好きだ! 俺は、お前たちの心が、『藤沢渚』の心が好きになったんだ!」
夜の学校に、奏汰の声が響き渡った。警備員などが巡回していたら、きっとすぐに屋上まで来てしまうだろう。
普段から声を出さないからか、一気に喉が痛くなる。
それでも、後悔は何もない。これ以上の言葉は奏汰にはもう見つからない。
奏汰は隣で手すりにもたれかかる渚へと目を移す。
月が放つわずかな光が渚の横顔を照らしていた。その頬に涙が流れていた。
しかし、その口元がわずかに笑っているのを見て、奏汰は思わず横顔を凝視する。
その、直後だった。
「ぁ……」
溢れるように。
奏汰の視界にこの世界には存在しない色彩が現れる。
「ああ…………!」
それはまるで、優しく人を包み込むような海のようで。
それはまるで、温かく人を照らしてくれる太陽のようで。
奥行きのある二つの色。強く輝く赤と、その背景に佇む穏やかな青。
「……まったく」
そんな呆れたような口調で、彼女は言う。
「こんな理解に苦しむ告白をされたのは、生まれて二回目ね」
間違いない。何度も何度も見た、あの色だ。
大好きで、愛おしくて、かけがえのないあの心だ。
それを一言で表すのなら、奏汰はこう表現する。
彼らを繋げてくれたあの世界の名を借りて。
「……空に浮かぶ海だ」
考えるよりも先に、体が動いた。
大きく手を広げて、奏汰は茜を抱きしめた。
だが、当の茜は恥ずかしそうに、
「ち、ちょっと。苦しいから離しなさい」
「茜……ッ! 茜ぇ……っ!」
「離せって言ったら素直に離しなさいこの馬鹿ッ!」
泣きながら力を緩めない奏汰の懐に手をねじ込んで、茜は器用に腕を振りほどいた。
茜はやれやれと首を振り、髪ゴムで髪を結びながら、
「渚が私を卒業できたと思ったら、まさかあなたが私を卒業できなくなるなんてね」
「悪いな。好きになっちまった」
「何を開き直ってるんだか。はあ。二度と出てくるつもりなんてなかったのに」
当然と言えば当然の反応だった。茜は相当な覚悟をしてこういった決断をしたはずだ。奏汰のやったことはその決断を無下にするようなわがまま。
だが、うんざりとした言葉は言いつつも、茜は清々しいような表情だった。
「やっぱり、消えてなかったんだな」
「ええ。意識が沈むって前に説明したでしょ。出来る限り深くまで、渚が認知できない場所まで深く潜ったのよ。いつか私のことを忘れれば、自然と消滅できると思っていたのだけど」
「できれば、これからは俺とずっと一緒にいてほしいんだ」
「少し見ない間に随分とふざけた性格になったのね」
「元々こういうやつだったらしいぞ、俺って」
「こんなやつのために出てきたって思うとなんだか腹が立ってきた」
それでも茜は笑顔のまま、
「でも、退屈はしなさそうね」
言って、茜は屋上の扉へ向かって歩き出した。
「どこに行くんだ?」
「どこって、帰るのよ。なんだかすごいお腹が減っているから。たぶん、渚がショックで料理をほとんど食べてなかったんでしょうね」
「夕飯の準備はしてあるのか?」
「おそらくしてないでしょうね」
「じゃあ、俺の家で食べないか? やよいが美味しいロールキャベツを作ってくれたんだ」
奏汰は歩く茜の横に並んだ。
「なら、お言葉に甘えようかしら。やよいがどれだけ腕を上げたのか見ものね」
「自信はあるみたいだぞ」
二人は警備に気づかれないように静かな足取りで校内を歩き、裏口から外へ出ていく。
「校門、先に登りなさい」
「え、なんで」
「私、スカート履いてるんだけれど」
「あ、ごめん」
奏汰はすぐに校門を登り、学校の敷地から出た。後ろから茜も続き、すぐに横並びになる。
「なあ、茜」
ゆったりとした速度で歩きながら、奏汰は問いかける。
「どうしてまた出てきてくれたんだ」
「言う必要あるかしら、それ」
「あるだろ。めちゃくちゃ大事だよ」
「ふぅん」
茜はアスファルトを眺めながら呟く。
「私はずっと、渚のために生まれてきたのだと思ってた。そして、役目が終わった今、私はもうこの世界にいてはならないのだと思ってた」
「……、」
「でも、違ったみたいね」
茜は笑って、
「これからはあなたや渚にわがままを言って、もっと楽に生きてみることにするわ」
「……わがままなら俺がいくらでも聞くから」
「よろしい。いい返事だわ」
急に茜の歩く速度が上がり、奏汰は慌てて歩幅を広げた。
それから駅に着き、電車に乗って数駅進み、奏汰の家へと向かう。
その間も、最近できた駅前のカフェに美味しいパンケーキがあるだの、渚に似合いそうな新しい化粧品が発売しただの、他愛のない会話を二人はしていた。
そしてあっという間に奏汰たちは一色家の家へと帰ってきた。
もう二十三時になる頃だ。やよいは寝ていてもおかしくないので静かにドアを開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
さすがやよいと言ったところか、玄関の前で待っていてくれた。
素直にありがとうと言おうとした奏汰だったが、やよいの顔を見た瞬間にその動きが突如として止まった。
「……ぇ」
「?? どしたの、お兄ちゃん」
狼狽している奏汰は、どうにか一言だけ言葉を紡いだ。
「……見える」
「見えるって……? 私の顔に何か――」
奏汰の言葉の意味を理解したやよいは、ハッと目を見開いた。
言いたいことが重なって言葉にならないのか、数秒ほど口をパクパクと開閉させたやよいは、震える唇で問いかける。
「お兄ちゃん、何色……?」
「……母さんみたいな、優しいオレンジ色だ」
たったそれだけの返事で、やよいの目から涙が溢れた。
それはきっと、母を失ったあの日から心の枯れてしまった兄を見続けてきたやよいにしか分からない感情だった。
奏汰へと静かに抱きついたやよいは、その胸に顔を埋めて改めて言う。
「おかえり。お兄ちゃん……!」
「ああ、ただいま。やよい」
奏汰がやよいの頭に手を置いて優しく撫でていると、後ろに立っている茜が開いているドアをコンコンとノックした。
「感動のシーンに水を差して悪いけど、ここでただ見てるだけなのも気まずいからとりあえず家に入れてもらっていいかしら」
そんな声を聞いて、やよいはガバッと顔を上げた。
「あ、茜さん!? いたんですか!?」
「ええ。全部見てたわよ」
「うぎゃー! さすがにこれは恥ずかしいかも! お兄ちゃん、ちょっと離れて!」
トンと奏汰の体を押して距離を取った。
茜は無表情のまま、
「それで、やよいの心の色も見えたの?」
「え、ああ、まあ」
戸惑いながら奏汰は頷いた。
「ここに来るまでの駅で取り乱してなかったってことは、全ての人が見えるようになったわけではないのよね?」
「そうみたいだな。でも、茜や渚以外も見えるようになったってことは、他の人の色も見えるようになるかもしれない」
奏汰の精神的な影響が共感覚に変化を及ぼしたと考えるのが妥当だろうが、心の色が見える条件も分からない。しかし、これからこうして増えていく可能性はあるはずだ。
と、奏汰と茜が話している様子を見て、やよいは思い出したように声を上げた。
「あああ! そういえば茜さんがいる! お兄ちゃん、もしかして成功したの!?」
その言葉を聞いて、奏汰と茜の表情が曇った。
「……やよいに何を言ったの、あなた」
「藤沢渚に告白してくるって言った……」
「本当にふざけた性格なのね……」
うんざりと首を振る茜へ、やよいは容赦なく言う。
「お兄ちゃんはちゃんと告白したんですよね、茜さん!」
「え、ええ。間違ってはいないわね」
正しくは渚と茜を含めた『藤沢渚』に対してなのだが、茜に対して告白をしていないというわけではない。
少し困りながらも首肯した茜を見て、やよいは目を輝かせて、
「ちゃんと告白されてここに来たってことは、おっけーってことなんですよね!?」
「まあ、断ってはないけど……」
「ってことはおっけーなんですよね!? 茜さんもお兄ちゃんのことが好きってことでいいんですよね!?」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
照れ臭そうに頬を赤らめて目を逸らした茜の顔を覗き込んで、奏汰はニヤニヤと笑う。
奏汰が見ているのは、いかにも動揺してますと言わんばかりにゆらゆらと揺れる赤い心。
「今はもう心の色が見えるから、嘘ついたら分かるんだぜ、茜」
「――ッ!!!」
「いやぁ。こうやって思ってもらえると嬉しいなぁ」
「え! っていうことは本当に茜さん、お兄ちゃんのことが……!?」
ざわざわと一色兄妹が騒ぎ出す中、茜は恥ずかしさに唇を噛み締め、目を細くした。身体中に力が入っているのか、ぎこちない動きで右手を髪へ伸ばす。
「……あとは任せたわ、渚」
そう呟いて、茜は結んだ髪を解いた。直後、ふらり揺れた体が突如としてピンと伸びる。
「ああ! 逃げられました!」
奏汰はその目で茜の心が渚の心に動くのを捉えていた。
「渚になった!? そんな回避の仕方があったのか!」
「私も続きを聞きたかったのに! 出てきてください、茜ちゃん!」
自分の胸へ向かってそう言っても、渚の胸元に佇む心の色に変化はない。
茜が逃げたことは残念だが、それよりも渚の表情が明るいことが気になった。
「渚は思ったよりか元気そうだな」
「いっぱい心の中では泣いてましたよ。でも、奏汰さんと茜ちゃんの会話を聞いてたら私も楽しくって」
くすくすと口元を押さえて渚が笑っていると、やよいがつまらなそうに唇を突き出した。
「ぶー。これじゃあロールキャベツ、食べてもらえないじゃん」
「まあまあ。食べるときになったらまた出てくるだろ」
「でも、この感じだとしばらくは出てきてくれない気がします」
「うーむ。それじゃあどうするかな。渚、腹減ってるだろ?」
「ペコペコです……」
悲しそうな顔で渚は腹を押さえた。
それを見て、やよいは「はあ」とため息をつき、気合を入れなおすように胸を張った。
「じゃあ、また私が茜さんの分まで作っておきますから! 今は渚さんが食べちゃってください!」
「いいんですか!?」
「もちろんです! 今日はお兄ちゃんに彼女ができた記念日ですから!」
「か、彼女……っっ!?」
今度は渚が頬を紅潮させた。
しかし、渚はキッと顔に力を入れて頭を下げる。
「こ、こんな私ですけど、よろしくお願いしまひゅ!」
「お、おう。よろしく」
奏汰が返事をしてから、時間が止まったように二人は固まっていた。
そんな沈黙に耐えかねたやよいは、思わず声を上げる。
「うぎゃー! こっちがむずむずしてくるからもうおしまい! はい、席に着いて!」
やよいに押されて、奏汰と渚は椅子に腰を下ろす。
数分して、出来上がったロールキャベツを温め直したやよいが食卓をご馳走で彩った。
「さあ、召し上がりなさいなお二人さん!」
そんなやよいの声とともに、奏汰たちは食事を始める。
やよいの料理に舌鼓を打ち、談笑しながら箸を進めていく。特別な会話などない、ごく普通な夕飯。されど、奏汰たちにはそんな食卓が懐かしく感じた。
まるで、凍っていた時が動き始めるかのように。
数年ぶりに、一色家の食卓に大きな笑い声が重なり響いていた。




