第四話 空に浮かぶ海 その1
世界は、何も変わらなかった。
そこに立っている少女は、今も目の前にいる。そのはずなのに。
奏汰の双眸が捉える世界だけ、何かが欠けてしまったようで。
「あか、ね……?」
屋上で立つ『藤沢渚』の体が、突然力なく倒れ始めた。
意識を失ったかのような動きを見て、慌てて奏汰は彼女の体を支える。
抱きしめるように倒れそうな体を奏汰が抑えた瞬間、彼女の髪をポニーテールに結んでいた髪ゴムが独りでに解けた。
直後、彼女のまぶたが開いた。
「ん……」
寝起きのような声と仕草で目を覚ました彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「あれ……? 奏汰、さん……?」
「――ッ!」
自分の顔が引きつるのが分かった。
呼吸が乱れているのが分かる。たった数秒で汗が滲み始める。
しかし、渚はまだ奏汰の狼狽の理由に気づかぬまま、顔を真っ赤にして奏汰から離れる。
「なっ、ななななななんで私、奏汰さんと抱き合ってるんですか!? 急にこんなことされても困ります。で、でも嫌ってわけではないんですけど、でもこういったことに関しては私も心の準備をしたいと言いますかそれよりも段階を踏んでといいますか。高校生ならもっと清いお付き合いを……って、無意識にこうなってるってことは茜ちゃんの仕業ですね! 私が疲れてるときにこんないたずらをするなんてまったく茜ちゃんは…………」
不意に、言葉が止まった。
リンゴの熟れていく様子を逆再生するように、真っ赤だった渚の顔がみるみる青ざめていく。
「あの、奏汰さん……?」
きっとこの世界の誰も答えられないだろう質問を、渚は奏汰へ無造作に投げかける。
「茜ちゃんは、どこですか?」
「……、」
奏汰は、答えることができない。
取り繕う言い訳も、その場限りの出まかせも、紡げない。
「いないんです。いつも、ここにいてくれてるんです」
渚は自分の胸に手を当てた。探るように、渚はその手を握りしめる。
「あの、奏汰さん。知ってますか? さっきまで、茜ちゃんが外に出てたはずなんです」
思考が追い付いていないのか、言葉に重みがない。
まるで、落としたペンを探しているような軽さ。
そんな渚が、奏汰には痛々しく見えて仕方なかった。思わず目を背ける。
奏汰のその仕草が、渚にどう映ったのだろうか。
徐々に表情に悲哀が浮かぶ。今にも泣きそうな顔だった。
だが、その悲しみを拒絶しようとしているのか、瞳に涙を浮かべたまま渚は笑う。
「どうして、答えてくれないんですか?」
「……、」
ゆっくりと、渚は奏汰へと距離を詰める。
「見えるんですよね? 奏汰さんには、私の心と茜ちゃんの心が見えてるんですよね? 教えてください。茜ちゃんはどこにいますか? ちゃんとここにいますよね? 私が気づかないように、かくれんぼしてるんですよね?」
「……、」
返事は出来なかった。
必死に渚から目を逸らす奏汰の瞳から、涙が溢れ始める。
苦しみに、奏汰の顔が歪む。
「どうして、答えてくれないんですか」
全てを物語る奏汰の態度を見ても、渚は言葉を求め続けた。
その一言を聞くまでは、決して認めてないという意思を持って。
渚は奏汰の襟元を掴んで、叫ぶ。
「答えてくださいッ! ただ一言、ここにいるって言ってくれればいいんですッ! 奏汰さん! 答えてくださいッ!」
「…………い」
ボロボロと涙を流しながら、奏汰は強引に口を開く。
精一杯の力で、言葉を紡ぐ。
「……見えない」
「……ぇ?」
「……見えないんだ」
これが、奏汰の回答だった。
いる、いないではなく、消えた、消えないでもなく。
見えない。これが、奏汰の伝える事実だった。
「さっき、茜に別れを告げられた。茜の心が、小さくなっていった」
箇条書きのように、奏汰は先ほどの光景を思い出す。
渚はそっと、奏汰を掴んでいた手を離した。
「あと少しで消えるって思った。でも、その瞬間見えなくなったんだ」
「見え、なく……?」
奏汰は改めて、渚の顔を見つめた。
日が沈んだ夜の中でも、この距離ならば渚の顔ははっきり見える。
それでも、渚の胸に浮かび上がっていたものはもう見えないのだ。
「茜の心だけじゃない。渚の心も、見えない」
原因など、見当もつかない。そもそも、渚の心を見ることができた理由も分からないのだ。訳も分からず、奏汰の共感覚は再び消えた。
もし理由を探すとするのなら、思い当たるのは一つだけ。
「また、心が消えるのを見るのが、怖かったのかもしれない」
生まれつき持っていた共感覚を奏汰がなくした理由。それは母の死だった。自分の母が事故で死ぬ瞬間、命とともに消えていった心の色を目の当たりにしてから、奏汰は共感覚を失った。
茜の心が小さくなっていく姿が、母の今の際と重なったのかもしれない。
取り返しがつかないトラウマを、本能が拒否したのかもしれない。
茜の心が消える瞬間までは見えていない。しかし、それを確かめる術はもうない。それでも、消えたという表現を間違いだというとはできない。
もう、奏汰の眼は誰の心の色も映さないのだから。
「……冗談、ですよね?」
それでも、渚は受け止めきれない。
「奏汰さんまでこんないたずら、酷いですよ」
「……、」
その事実を認めたくない気持ちは、痛いほど分かる。奏汰は、黙ることしかできない。
ただ涙を流し続ける奏汰を見て、渚の心が追い付き始める。
渚はその場に崩れ落ちた。
「そんな結末、望んでない……」
渚の涙が無機質な屋上の床に落ちる。
「こんな未来、私にはいらない……」
大粒の涙を零しながら、渚は自分の胸を強く握る。
ぽっかりと空いた穴を、懸命に塞ごうとでもするかのように。
「あんなに、茜ちゃんは頑張ったのに。私が頑張ったのなんて、ほんの少しだけなのに」
奏汰も知らない、茜の努力。その全てを見てきた渚は、事実を拒絶する。
「幸せになるのは、茜ちゃんなんです。私なんていう呪縛から茜ちゃんを卒業させてあげたくて、今まで頑張ってきたのに」
その言葉を聞いた途端、奏汰は息を呑んだ。
渚はゆっくりと語り始める。今までの、全ての気持ちを。
「強くなりたかったのは、茜ちゃんへの恩返しだったんです。ずっと、私のために頑張ってくれた茜ちゃんが、もう私のために生きなくて済むように。私の未練は茜ちゃんの未練。だからそれをなくして、茜ちゃんには自分のために生きてほしかったんです」
『藤沢渚』のために生きる茜ではなく、『藤沢茜』として生きてほしい。
それが、渚の願いだった。
茜が生まれてから、ずっと彼女は渚のためだけに存在していた。
虐待していた両親から離れ、いつか来る渚のために『氷の生徒会長』と呼ばれるまでに余計な人付き合いを避け、茜は渚という人格のためだけに生きていた。
「このままじゃダメだって、ずっと思っていました。二重人格であることよりも、茜ちゃんに私が支えられ続けることが。だから私は、あの時に勇気を振り絞ったんです」
一色奏汰は、誰とも関わらず外に出ることを拒み続けた渚の待ち望んだ存在だった。
皆が見る藤沢渚ではなく、茜と渚の双方を尊重してくれる存在。二重人格という異常に対して、拒絶をせずに歩み寄ってきた存在。
「この文化祭が終われば、きっと茜ちゃんは私のことなんて気にせずに、好きなことを好きなだけすることができたはずなんです。私は大丈夫だから楽しんでって、そう茜ちゃんに言えたはずなんです」
友達と昼食を食べて、放課後は流行りのスイーツを頬ばり、家では夜中まで友達と電話をする。今まで渚のために捨ててきた当たり前を、過ごしてほしかった。
「もう、私のために生きてほしくなかった。『藤沢茜』に拘らずに、自分として生きてほしかっただけなんです。ただ、それだけだったんです……」
異常なのは分かっている。
でも、その異常を受け止めてくれる人が現れたから。
「奏汰さんがいれば、茜ちゃんも幸せになれたんです。なのに、どうして」
渚の求めていた理想から、現実はあまりにも遠くて。
未来を否定するためには、過去を否定しなくてはならなくて。
「こんなことになるなら、頑張らなければよかった」
真夏のはずなのに、寒気すら感じるほど冷たい声で。
存在などしていない何かを、力いっぱい抱きしめながら。
嗚咽の混じった悲鳴じみた声で、渚は否定する。
「文化祭なんて来なければよかった。一人で成し遂げようなんて、思わなければよかった」
「……、」
奏汰は、それをただ見つめることしかできない。
出来ることなら手を差し出してあげたい。
泣き叫ぶ渚の背中をさすりながら、励ましの言葉をかけてあげたい。
なのに、体が動いてくれない。渚の側に、一歩も近づけない。
「奏汰さん。私、どうすればいいでしょうか」
渚はおもむろに立ち上がり、奏汰へと歩み寄る。どんな時でも味方でいてくれた奏汰ならば、きっとこんな事態でも助けてくれると、期待を込めて。
だが、しかし。
「奏汰、さん……?」
奏汰は無意識に、後ろへ下がっていた。渚が近づいた分だけ、渚から遠ざかるように足を動かしていた。
言われて初めて、奏汰は自分の体の動きに気づく。
「ち、違う。これは……」
奏汰が何かを言う前に、渚の顔に絶望が浮かぶ。
求めるように渚が伸ばしていた右手が、行き先をなくして落ちていく。
後悔が奏汰の心を蝕み始めていた。今まで逃げ続けていたのは自分も同じなのだと、思い知らされた。
渚と出会うまで、どうして奏汰は片手で数えても指が余る程度の人間としか関わってこなかったのか。
心の色が見えない相手を、怖いと感じてしまうからだ。
何を考えているのか見えない相手を、本能的に避け続けてきた。逃げて、閉じこもって、空っぽの日々を過ごしてきた。
その代償が、こんな時に。こんな形で。こんなにも大切な相手を前にして。
触れれば崩れてしまうほどに脆く立ちつくす渚は、言う。
「私が、消えてしまえばよかった」
ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃が、奏汰の体を貫いた。
息ができない。体と世界が分離したかのような浮遊感。
震える奏汰を置き去りにして、渚は踵を返して歩き始める。
遅すぎると分かっていながら、奏汰は渚の肩を掴んだ。
「渚、待ってくれ……!」
渚は、振り返らない。
奏汰に背を向けたまま、さっぱりとした無機質な声で渚は言う。
「今まで、ありがとうございました」
形だけの感謝の言葉だけを述べて、渚は屋上から去っていった。
そして、振替休日を挟んだ最初の登校日も、その次の日も。
渚は、学校に来なかった。
文化祭から三日が経ち、その興奮がようやく落ち着き、お祭りムードの消えた放課後。もうすぐ一学期末テストを控えているため、部活動も大会を目の前にした部のみが細々と練習をするだけ。
三階に位置する教室の隅で校庭を見下ろす奏汰の視界には、下校する生徒しか映っていなかった。
「今日は一人なのか?」
奏汰の横で背もたれを抱くように椅子に座る田代が、そんな問いを投げかけた。
「別に。なんだよ急に」
「だって、最近は藤沢渚と帰ったりしてたろ? 文化祭も仲良くやってたそうだし、今日も一緒に帰るのかなってさ」
「今日は来てないだろ、あいつは」
吐き捨てるように言った奏汰は、力のない目で校庭を眺め続けていた。
そんな奏汰の横顔を見つめて、田代はため息を吐く。
「なんだ、つまんねぇの」
「何がだよ」
「ようやく昔の明るい一色が戻ってきたと思ったのに、また暗い一色になっちまった」
心の底から残念だと思っていることは、共感覚のない奏汰でもよく分かった。
しかし、理解はできない。
「別に、変わったつもりはねぇよ」
「藤沢渚と関わるようになってから、毎日楽しそうだったじゃんか。俺、そんなお前を見るの嬉しかったんだぜ? 中学のあの時から、ずっと暗かったから」
田代は奏汰の母が死んだことも、それが原因で共感覚を失ったことも知っている。
母の葬式で泣く奏汰とやよいとともに、一緒に泣いてくれたことは一生忘れない。
だが、それとこれとは関係ないはずだ。
「俺は俺だよ。人と関わるのが怖い、これまでの俺のままだ」
奏汰は文化祭の日の屋上での出来事を思い出して唇を噛み締めた。
「そんなことないさ。たくさんの人と一緒に文化祭の手伝いしてたって知ってるぜ」
「怖いことに変わりはない」
「それでも前に進んでたお前の目は、今のお前よりもずっと生き生きしてた」
「知ったような口聞くなよ」
「知ってるから言ってるんだ」
不機嫌そうな顔をしたまま、奏汰は返事をしなかった。
田代は穏やかな表情と声のまま、
「明るくなったといえば、あの生徒会長様もだよな」
奏汰の視線は床へ向かっていた。
「少し前までは誰も近づけない雰囲気があったのに、いつの間にか優しくてふわふわした雰囲気になって、みんな衝撃を受けてたよ」
田代は愉快そうに笑った。
「奏汰が『氷の生徒会長』の雪解けの理由なんだろ? 何があったんだ?」
「知らない」
ぶっきらぼうに、奏汰は答えた。これ以上、彼女を思い出したくない。
しかし、田代は「でも」と続ける。
「前の冷たい感じの方も結構好きだったんだよな。仕事できる感じが大人っぽくてさ」
「…………」
「それに、最近は髪を下ろしてる時の方が多いだろ? ポニーテールも似合ってたから、ちょっと残念だったりもするんだよな」
「……やめてくれ」
奏汰の小さな呟きは、ハキハキと喋る田代には届かない。
田代が彼女のことを口にするたびに、めまいに似た不快感が頭を揺らす。
「なあ、今度機会があったらポニーテールにしてくれって頼んでくれよ。お前だったらできるだろ? あれだけ仲良くして――」
「やめてくれッ!」
思わず、奏汰は叫んでしまった。
勢いよく立ち上がったせいで、腰掛けていた椅子が倒れる。静かな教室に、ガシャンという音がやけにうるさく響いた。
目を丸くする田代を睨みつけながら、奏汰は荷物を持ち上げた。
「ごめん。俺、帰るわ」
「あ、ああ。俺もなんか悪いな」
返事もせずに、奏汰は帰路を急ぐ。
笑えるくらい、情けない。田代は何も悪くないのに、勝手に逆上して声を荒らげて。
だが、そうでもしないと気が狂いそうだった。あの笑顔を思い出すたびに、後悔の波に意識が飲み込まれる。
また、失ってしまった。
目の前で消えて、見えなくなってしまった。
息苦しくなった奏汰は、ふと空を見上げた。
あのとき、彼女は奏汰に任せると言った。
正しい世界で渚を幸せにしてあげてほしいと、そう頼まれた。それは間違いなく、彼女が正しいのだ。
元々、彼女はこの世界には存在していなかった。今まで奏汰が見ていたのは、『二重人格という病を患った藤沢渚』だ。それ以上もそれ以下もない。
彼女の心の成長を通じて自力でそんな病から抜け出した。それが、正しい世界。
ほんの少しだけ、自分の心が落ち着いた気がした。
忘れるべきなのだ。存在していない彼女のことなど。
そう自分に言い聞かせているうちに、いつの間にか自宅に着いていた。
「……ただいま」
玄関の扉を開けた瞬間、香ばしい匂いが溢れ出した。
やよいが夕飯を作ってくれているのだろう。玄関に迎えに来ないということは、まだ料理の途中のはずだ。
奏汰が真っ直ぐにリビングへと向かうと、キッチンと向かい合うやよいがいた。
扉が開いたことで奏汰の帰宅に気づいたやよいは、大きなフライパンの取手を持ちながら顔だけこちらへ向ける。
「あ! おかえりー! 早速だけど、お醤油をちょっぴりもらってもいいかなお兄ちゃん!」
「ああ、分かった」
その場に荷物を置いた奏汰は、調味料の並ぶ棚から醤油を取ってやよいへと渡す。
「コンソメを入れる前にちょっとだけ入れるのがいいらしいんだよね」
そんなことを言いながら、グツグツの鍋のように何かを煮込んでいるフライパンにわずかに醤油を垂らした。
次いで、元々用意していたコンソメをフライパンへ投入。笑顔でよし、と頷いたやよいはフライパンに蓋をした。
「これで煮込めば完成だぜい! 今度こそ完璧にできたはず!」
「よく見えなかったんだけど、何作ってたんだ?」
「ロールキャベツですよ、お兄ちゃん!」
やよいは得意げにこちらを向いて仁王立ちをしていた。ドヤ顔のまま、やよいは言う。
「して、お兄ちゃん。何か気づくことはないかい?」
「気づくこと?」
「そう! 年頃の女の子の変化に気づけない男はモテないぜお兄ちゃん!」
ニヤニヤと笑うやよいを、奏汰はじっくりと眺める。
特にいつもと変わりはない。
小学生にも間違われる童顔。茶色混じりのショートヘア。赤いエプロン。太ったようにも見えないし、化粧などはもちろんしていない。
変化と言われても、奏汰に気付けるようなことは何も――
「……あれ?」
ほんの少しだけ、違和感を覚えた。
奏汰はもう一度、やよいを見つめる。
「ふっふっふ。気づいちゃったかい? 気づいちゃったのかいお兄ちゃん!」
その場でくるりと回ったやよいは、身につけている赤いエプロンを強調するように端を掴んでピンと張った。
「この前に渚さんの手伝いをしたお礼で、茜さんのエプロンをもらったのだよ!」
ビシィ! と奏汰へ指差したやよいは楽しそうに煮込んでいるロールキャベツを見下ろす。
「そして今日は茜さんのエプロンをつけて、茜さんに教わったロールキャベツを作っているのです! これで私もプロ料理人ですな!」
ゲームに登場する魔王のように体を反らして「はっはっはー」とやよいは笑う。
だが、そんなやよいの高揚感は奏汰には届かない。
「……そっか」
予想外の反応だったのか、やよいは首を傾げる。
「およ? どうしたのお兄ちゃん。元気ないね」
「……少し体調が悪くてさ」
「本当だ。なんだか顔色悪いね。まだ煮込み終わるまで時間あるから、少し休んできなよ」
「ああ、そうするよ。ちゃんと夕飯は食べるから、俺の分を分けておいてくれ」
「ほいさー! 任せて!」
可愛らしく敬礼をするやよいのリビングに残して、奏汰は自室へと向かった。
部屋に入った途端、奏汰はベッドに横たわる。
彼女を忘れようと思った途端にこれだ。忘れると決めたのだ。図書館から雨の中を走って帰ったことも。夕飯を作ってやよいがロールキャベツの作り方を教わったことも。赤いエプロンをつけて料理をしていたことも。全て、忘れるべきなのだ。
今が正しくて、今までが間違っていたのだ。
やよいが特殊なだけだ。ああやって受け入れてしまえるのが、普通ではないのだ。
そう言い聞かせて、奏汰は目をつぶる。
直後、奏汰のスマートフォンから通知音が響いた。田代だろうか。もしそうなら、怒声を上げたことを謝らなくてはならない。
しかし、液晶画面に映っていた名前は田代ではなかった。
「……雨宮、日葵?」
連絡先を渡したつもりはないのだが、奏汰の見間違いでもないらしい。
ロックを開き、トーク画面を見る。
『こんにちは。雨宮です』
『なんで連絡先知ってるんだ?』
奏汰がそう送ると、すぐに返事が来た。
『やよいちゃんに聞きました』
『いつの間にやよいの連絡先手に入れたんだ』
『それは別にいいじゃないですか』
ものすごい速度で送られてきた返信から数秒おいて、今度は画像が送られてくる。
『この写真をまだ送ってなかったので、とりあえず送っておきます。一応、一色先輩も映っているので』
添付された画像は、以前に渚の料理の手伝いを日葵がした日に撮ったものだった。
やよいを中心に引っ張られるように映るのは、頬を赤らめた日葵と不格好に笑う奏汰と、そして。
困ったような顔をしつつも、わずかに笑うポニーテールの少女が映っていた。
「…………っ」
その少女は、渚だ。
そこにいるのは、藤沢渚だ。
その顔を見るだけで胸が抉られるように苦しくなる理由なんて、考える必要はないのだ。
震える指で、奏汰は返事を打つ。
『ありがとな』
『はい。それでは』
簡素な礼を送って、奏汰はスマホをベッドに投げ捨てた。手から離さないと、あの写真を見てしまいそうになる。
体を休めようと思っても、寝れる気はしなかった。目を閉じても逃げ道がない気がしてくる。
現実から逃げたいときは、本を読むのが一番いい。今までも、そうやって逃げてきた。
奏汰は机の上に置かれた一冊の小説を手に取った。
それは『空に浮かぶ海』の最終巻。背表紙には奏汰の通う高校の図書館の物であることを示すシールが貼ってあった。
これももう、返さなければならない。このシリーズはこれから一生読むことはないだろう。だが、最後に一度だけ。
物語の終わりをもう一度見届けようと、奏汰は本を開いた。
一度読んだことがあるからか、内容は面白いほどスラスラと頭に入ってきた。
空と海の二つの世界の一部が、突如として交わったことから始まる物語。
そこで出会った別々の世界の人々が互いに心を通わせていく中、空の世界と海の世界はその交わった世界を異常なものだと迫害を始める。
最終巻で彼らは一度別れるが、またもう一度巡り合うのだ。どれだけ周りから否定されても、彼らは彼らの世界を守ろうと戦い続けた。
そんな姿が勇敢で、力強くて、それでいて苦しくなるくらい脆く儚くて。
気がつけば、涙が溢れていた。
理由は分からなかった。しかし、涙が止めどなく流れてくる。どんな感情が心の中で蠢いているのか、自分で把握することができない。
気がついたときには、もう最後のページだった。物語は終わった。彼らの戦いは、完結した。
近くに置いてあるティッシュで涙と鼻水を拭く。図書館の本を汚すわけにはいかない。
大きく深呼吸をした奏汰は、最後のページに貼り付けてある貸し出しカードに気づいた。
なんとなく取り出した奏汰は、一番上に唯一記入された名前を見つめる。
女子高生にしては随分と丁寧で堅苦しく『藤沢渚』という名前が書かれていた。
その名前の右横にわずかについた鉛の跡を見て、奏汰は首を傾げた。
こういった跡が付くのは、小指についた鉛筆の鉛がそのまま紙に移った場合が多い。一人の名前しか書かれていない以上、その跡を付けたのは明らかだ。
だが、奏汰の目にはそれが違和感として映ったのだ。
数秒ほど眺めて、その正体に気付いた奏汰は小さな声で呟く。
「…………右利き」
右側に鉛の跡が付くのは、書き手が右利きの時だけだ。
そして、渚とともに一ヶ月ほど昼食を取った奏汰はよく知っている。
渚は、食べるのも書くのも左利きなのだと。
食べるときも書くときも右手を使うのは、彼女しかいない。
「……無理だよ、茜」
忘れられるわけがない。
存在していなかっただなんて、言えるわけがない。
奏汰にとって、彼女はもうただの別人格ではないのだ。
あれだけの痕跡を見せつけられれば、もう疑いようなどない。
藤沢茜は生きていたのだと。この世界に確かに存在していたのだと。
そう思わずには、いられないのだ。
嫌になるほど、茜の生きた足跡を見せつけられた。
奏汰はもう一度、目の前にある本の表紙を眺める。
思い出す。初めて渚に出会った時のことを。
目を閉じれば、あのとき美しいと思った色は今でも思い出せる。あの心の色に、奏汰の心は魅了されて――
「……ああ、そっか」
ようやく、自分の気持ちを理解できた気がする。藤沢渚と出会わせてくれたこの本が、答えを教えてくれた。
ずっと、自覚がなかった。
渚が好きだろうと言われた。だが、そうではない。そうなれば茜が好きなのか。
答えは、否だ。
最初から、答えは決まっていたはずなのだ。それをこうして自覚するまで、こんなにも時間がかかってしまっただけだった。
いつの間にか、胸に溜まっていた濁りのようなものが消えていた。奏汰の中の迷いが、完全に消滅した。
深く深く、息を吸う。
長く長く、息を吐く。
奏汰は『空に浮かぶ海』を閉じて立ち上がった。どうやら、この本を返すのはもう少し先になりそうだ。
今すぐにでも彼女に会いたい。伝えなければならないことがある。
いても立ってもいられず、奏汰は部屋から出ようとドアノブを掴んだ。
「うわぁ! 起きてたの!?」
ちょうど奏汰の部屋へ入ろうとしていたのか、扉を開けた瞬間にやよいは驚き飛び上がった。
「ごめん。どうしたんだ?」
「あのね、さっき渚さんから連絡があって……」
「渚が?」
「うん。でも、『いつもの場所で待ってます。そう、奏汰さんに伝えてください』ってだけだったの。お兄ちゃん、分かる?」
やよいは困ったように眉をひそめた。たしかにそれだけではやよいは分からないだろう。
しかし、奏汰にはすぐに分かる。
出会いも別れも、全てはあの場所だったのだから。
「大丈夫。ありがとな、やよい」
「うん」
こくりと頷いたやよいは、小さな声で、
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「目、真っ赤。腫れてる」
あの本を読んで号泣したからだろう。自分では気付いてなかった奏汰は、慌てて目元に触れた。
「あ、いや。これは」
なんとか言い訳をしようと奏汰が思考を巡らせていると、やよいは優しく笑う。
「いいよ。何も言わなくて」
無邪気な笑顔で、やよいは奏汰の胸をコンと叩いた。
「今度泣くときは膝貸してあげるから、なんでも相談しなよ。お兄ちゃん」
本当に、出来過ぎた妹だ。こんな気遣いだけでも泣きそうになる。だが、それよりも今は大事なことがある。
奏汰はグッと親指を立てて笑った。
「ありがとな。じゃあ、この後フラれたら慰めてくれ」
「うんうん。任せておいて…………って、告白するの!? これから!? 相手は渚さん!?」
丸い目をさらにまん丸にしてやよいは連続で奏汰に問いをぶつけた。
「いいや、違う」
そう答えた奏汰は、不敵に笑って、
「大好きな『藤沢渚』に、告白しに行くんだよ」
奏汰の言葉が理解できなかったのか、やよいは驚いた表情のまま硬直した。
そして、数秒経ってからようやく固まっていたやよいの顔が口元から緩み始めた。
「ぷっ……あっははははは!」
腹を抱えて涙が出るほど大笑いするやよいは、ひーひーと過呼吸気味のまま、
「その訳が分からない感じ、全盛期のお兄ちゃん復活だね! ロールキャベツ、いつでも温められるようにしておくから!」
「ああ、ありがとな!」
「さあ、行ってこいアホ兄貴! 男を見せるときだぜい!」
やよいは勢いよく奏汰の背中を叩いた。その衝撃を力に変えて、奏汰は走り出す。
大きな音を立てて家から出ていく奏汰の後ろ姿を見て、やよいはこう呟く。
「おかえり、お兄ちゃん」
やよいは赤いエプロンをつけたまま、幸せそうな顔で椅子に腰を掛けた。




