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第三話 眩しいほどに夕陽が見える始まりの場所で その7

 そしてついに、その日はやってきた。

 一学期末テストをすぐそこに控えているという緊張感から、生徒たちを一気に解放してくれる最高のイベント。そして、去年の奏汰は多くの人がワイワイとしているという空間にいるのが嫌で仮病を使うほどのイベント、文化祭がやってきた。

 今までは生徒会役員の手数が足りないがための補助要員として奏汰は準備に参加してきたため、当日に生徒会の腕章をつけることはなく、買い出しや荷物運びなどの雑用を担当していた。

 肝心の生徒会役員としての仕事に関しては、日葵が補助をしてくれているから問題はないだろう。渚自身も、もう二ヵ月近く表に出て努力をしてきたため、文化祭という大一番でも大きなミスをすることなく進んでいる。

 そして今は午後二時過ぎ。ある程度文化祭での動きが落ち着いてきたこのタイミングが、渚と日葵の休憩時間になっていた。

 場所は生徒会室。生徒会本部も委員会本部と隣接して別の教室に設置されているため、この場所は文化祭では生徒会役員の休憩部屋となっていた。

「おっす。買ってきたぞ、飯……って、なにその格好!?」

 生徒会室の扉を開けた瞬間、奏汰は声を張り上げた。

 中にいたのは、ぐったりとした顔の渚と日葵だった。だが、奏汰が驚いた理由は二人が疲労困憊であるからではない。

「なんで、メイド服なんか着てるんだ……?」

 二人ともが、黒と白のフリフリメイド服に身を包んでいたのだ。さすがに生徒会の仕事にメイド服を着るものがあったという記憶はない。

 げっそりとした顔でその疑問に答えたのは日葵だった。

「人手が足りないから手伝ってくれって言われて、行ってみたら客引きにこき使われました。渚先輩がメイド服を着たせいで急に客足が増えて仕事は増えるし、私も知らない男の人に写真を撮ってくれと迫られるし、本当に最悪です……」

 およそメイドとは言えない態度で日葵はパイプ椅子の背もたれに寄りかかっていた。

「疲れました……。人がいっぱいきて怖かったです……」

「本当にお疲れ。ほら、焼きそばとタコ焼き買ってきたぞ」

 奏汰は食事の入ったビニールを横長の机の上に置いた。

 いつもは弁当なのだが、文化祭の準備もあって朝が早かったために今日は弁当を作っていなかったのだ。そのため、雑用係の奏汰が二人の昼食を文化祭の出し物から買ってきたのだった。

「ありがとうございます、奏汰さん」

「私はお礼、言いませんから」

「はいはい、どういたしまして」

 日葵が渚の補助を始めてから、必然的に日葵と過ごす時間も増えたためにこのようなやり取りにも奏汰はようやく慣れた。

 心の色が見えない相手からの辛辣な言葉は本心が見えないために精神的なダメージが大きいのだが、日葵の人柄や性格を知って奏汰はこういった態度が日葵の普通なのだと理解することができた。ただ、未だに鋭い罵声で泣きそうになることはあるが。

「どうだ、調子は」

「今のところはなんとかなってます。正直、渚先輩ならもっと失敗すると思ってました」

「ええ! そんなこと思ってたんですか!」

「そりゃ思いますよ! どれだけあなたの殺人級ボケに付き合ってきたと思ってるんですか! 昨日なんて一歩間違えたら校庭のステージが崩れ落ちるところだったんですからね!」

 鼻息を荒らげながら、日葵はタコ焼きを袋から取り出した。次いで渚が焼きそばを取り、二人は同時に割り箸を割った。

「それで、文化祭が順調ってことは、残るは最後の問題だけだな」

「は、はい……」

 奏汰の言葉を聞いた途端、焼きそばを掴んでいた箸がわずかに震え出した。

 最後の問題。それは藤沢茜卒業計画の最終段階だ。

 文化祭の最後、閉会式での生徒会長の挨拶。それを全て渚一人でやりきること。それが、茜が最初に設定したゴールだった。

「何を言うかは決めたのか?」

「一応、ここに書いてきました」

 渚はメイド服の懐から四つ折りの紙を取り出した。おそらく、挨拶の原稿だろう。

「雨宮は何を書いてあるのか読んだのか?」

「いいえ。これだけは絶対に一人でやらせるようにと藤沢先輩から言われているので。私も何が書いてあるのかはまったく知りません」

 ということは、これは本当に渚だけで書いた文章ということになる。

 だが、それに対しての不安は一切なかった。

「まあ、あれだけ頑張ってきたんだ。これだって大丈夫だろ」

「そ、そうでしょうか」

「藤沢先輩ならそれくらいで動じたりなんかしませんよ。胸を張ってください。今はあなたが生徒会長なんですから」

 日葵らしい励まし方だった。渚は深呼吸をして、ぐっと体に力を入れる。

「頑張ります……っ!」

 そんな渚を見ながら、日葵はタコ焼きを頬張った。出来立てで熱いのか、口をはふはふと開閉しながら食べていく。

「あ、そうだ。一色先輩、私たちに何が言うことはないですか?」

「え? 何かって?」

「はぁ? 目の前に可愛い後輩と超美人の生徒会長が揃ってメイド服でいるんですよ? それに対しては何もないんですか?」

 要は褒めろということだろうか。しかし、思春期真っ最中な上に人付き合いがほとんどなかった奏汰にとって、素直に女の子に可愛いというのはかなりレベルが高い。

 照れ臭そうに視線を逸らしながら、奏汰は呟く。

「ま、まあ、似合ってるんじゃねえか?」

「うわっ。本気で言ってるんですか。本当に彼女とかいたことないんですね、先輩って」

「う、うるさいな!」

 そんなことを言われても、慣れてないのだから仕方がない。妹に対してならいくらでも褒められるのだが、この二人だと話が変わる。

「まあ、渚先輩は満足してるみたいだからいいんじゃないですか?」

 奏汰は渚へと視線を移す。思わず緩んだ口角と、遅れて明るい青が見えた。

「えへへ。ありがとうございます」

 そんな渚を見て、日葵はため息を吐いた。

「私的には藤沢先輩と変わってもらいたいんですけどね。ああ、藤沢先輩のメイド服姿……」

 気持ち悪い笑顔を浮かべた後輩メイドは、途端に真顔になって、

「あの、藤沢先輩と変わってもらっていいですか? ちょっと踏んでもらいたんですけど」

「だ、ダメですっ! 今日は一日、茜ちゃんとは変わらないって決まってるんです!」

「知ってますよ。言ってみただけです」

 最初から諦めていたのだろう。日葵は脱力した顔で言った。

 会話が終わり、渚と日葵は止まっていた箸を進め始めた。

 静かな教室の中に、文化祭の喧騒が染み込んでくる。そんな喧騒がさらに大きくなった。

 どうやら、誰かが扉を開いたようだった。

「休憩中にすいません。少し訊きたいことがありまして」

 入ってきたのは、右腕に生徒会の腕章をつけた女の子だった。奏汰も補助をしていたときに見たことのある子だった。

「はい、なんでしょう」

 急いで口の中の焼きそばを飲み込んだ渚は、立ち上がって女生徒の近くへ寄る。

「あの、これなんですけど」

「あ、これなら生徒会顧問の桃原先生が管理しているはずです」

「ありがとうございます」

「大丈夫ですよ。頑張ってくださいね」

「は、はいっ」

 頬を赤らめながら、女生徒は深くお辞儀をして足早に生徒会室から去っていった。

 奏汰はそれを見て目頭が熱くなる。

「渚、少し前は図書館で本を借りるだけでも一苦労だったのに……」

「保護者ヅラするの気持ち悪いんでやめてください」

 一刀両断されて悲しそうなする奏汰へ「気持ちは分かりますけど」と日葵はフォローを入れた。そこまで顔に出ていたのだろうか。

「校内では『氷の生徒会長』の雪解けだ、なんて言われてるみたいですよ」

「元々凍ってなんていないのにな」

「それには同感です」

 薄っすらと笑みを浮かべながら、日葵は最後のタコ焼きを口の中に放り込んだ。

 数秒で飲み込んだ日葵は、よし、と気合を入れて立ち上がる。

「渚先輩。そろそろ休憩時間も終わりです。さっさと仕事を始めますよ」

「えっ、もう終わりなんですか」

「メイドに半分以上休憩時間を持っていかれましたから。ほら、つべこべ言わずに準備してください」

「は、はいっ」

 急いで残っていた焼きそばをかき込むと、渚は閉会の挨拶の原稿を大事そうに握りしめた。

「片付けはやっておくよ。頑張れよ」

「はい! ありがとうございます!」

 奏汰が知っている一般的なメイドよりも深く頭を下げた渚は、日葵と一緒に生徒会室から去っていった。

 

 校庭に設置されたイベントステージを一望できる位置で立つ奏汰は、長々と伸びる自分の陰に視線落としていた。

 日は沈み始め、一般客の入場時間が終了し、すでに学校の敷地には生徒と教員のみとなっていた。だがそれでも、ほぼ全ての生徒が校庭に集まっているため、奏汰の嫌いな雑踏と喧騒が目の前に広がっていた。

 結果から言うと、文化祭の日程はほぼ全て無事に終わった。残っているのは、この校庭ステージで行われる閉会式だけだ。

 危なげがないといえば嘘になるが渚が茜の力を借りずに最後まで生徒会長としての職務を全うしたのは揺るぎない事実だった。

 残るは、茜が課した最後の課題のみ。

 ステージではもう文化祭実行委員の司会で閉会式が進んでおり、あと数分もせずに渚の出番がくる。

 関係のないはずの奏汰すら、緊張で手のひらに汗をかいていた。

 気持ちを落ち着けるために、深呼吸をする。

「なに一人ぼっちで深呼吸してるんですか。ラジオ体操なら家でやってください」

 最後まで着替える時間がなかったのか、メイド服姿の日葵が奏汰の隣に立っていた。

「あれ、こんなところにいていいのか? 生徒会だろ?」

 奏汰のいる場所はステージ周辺の人混みから離れているため、もし仕事があるならこんなところにいてはいけないはずなのだが。

「閉会式に副会長の出番なんてありませんよ。そもそも生徒会自体、文化祭の中心ではないんですから。私がここにいたって問題はありません」

 そうは言っても、ここまで離れた位置で奏汰と一緒にいる意味はないはずだ。

 奏汰と違って、日葵にはちゃんと友達はいるはずなのだが。

 そんな奏汰の疑問を言外に感じ取ったのか、日葵はステージを見たまま口を開く。

「それに、近くにいたら口出ししちゃいそうなので」

「ああ、なるほどな」

 他の生徒から見れば、なんでもない数分間の話だ。聞き流す人も多いだろう。しかし奏汰たちにとって、その重要性は当然ながらとても大きい。

 これだけは渚が茜だけでなく奏汰たちの力も借りずに、一人で成し遂げてほしいのだ。

「友達がいないってわけじゃなかったんだな」

「先輩と一緒にしないでください。私、ちゃんと友達いますから」

 日葵は「はあ」と息を吐いて、

「渚先輩の挨拶だけは、一色先輩と聞くべきだと思っただけです」

 後から事情を知ったとしても、日葵の貢献は計り知れない。たった二週間だったが、日葵がいなかったらきっと渚はここまで来れなかっただろう。

「本当に凄いな、お前って」

「先輩がポンコツなだけです」

「その悪口、どうにかならない?」

「やよいちゃんとデートさせてくれるなら考えてあげます」

「なら頑張って我慢するよ」

 ステージ周辺の盛り上がりとは対照的に、落ち着いたトーンで奏汰たちは続ける。

「一人で大丈夫かな、渚」

「信じてあげるのが、先輩の役目なんじゃないですか?」

「……そうだな」

 渚を信じるというよりは、今までの渚の努力を信じるという気分だった。

「今までありがとな、雨宮」

「なんで先輩が礼を言うんですか」

「俺が言ったっていいだろ」

「まあなんでもいいですけど。私は藤沢先輩のためにやってるだけなので」

「茜のこと、本当に好きなんだな」

「当たり前です。私の憧れですから」

 淡々と話す日葵はステージに目を向けたまま、

「ていうか、先輩こそ大好きじゃないですか。渚先輩のこと」 

「……自覚はないけどな」

「なんですかそれ。負けヒロインの気持ちを味わい続けるこっちの身にもなってくださいよ」

「意味が分からないんだけど」

「気にしなくていいです。こっちの話なので」

 無表情のまま、日葵は言った。

 前にも茜に渚のことが好きかと訊かれたことを思い出した。奏汰としては、渚が好きだという自覚はない。

 ただ、ここまで渚のために何かをしている理由に一番分かりやすい理由をつけるとするのなら、恋と呼ぶのかもしれない。

 しかし今は恋とやらよりも大事なことがある。見届けなければならないことがある。

「では、次は生徒会から閉式の挨拶です」

 実行委員のアナウンスを聞いた瞬間、奏汰と日葵が反射的に反応した。

 曖昧だった視線をステージへ向ける。白と黒のメイド服に身を包んだ美人が、歓声とともにステージへ上がっていた。

 さすが大人気の生徒会長。今までステージに見向きもしていなかった生徒まで一斉に渚を見つめていた。

 きっと奏汰では耐えきれなくなるほどに、視線が一点に集まる。

 ステージからだいぶ離れている奏汰でも、渚の有り余る緊張が伝わってきた。

 大袈裟に深呼吸をしてから、渚はマイクへと声を放つ。

「こんにちは。生徒会長の藤沢渚です」

 わずかに震えた声だった。

「皆さんのご協力のおかげで、こうして文化祭を終えられたことを嬉しく思います」

 丁寧な挨拶から入った渚の手には、カンペはなかった。カンペにも頼らず話すつもりなのだろう。

「数分間、話をする時間をいただきました。退屈かもしれませんが、聞いてください」

 一呼吸置いた渚は、その視界に奏汰たちを捉えた。奏汰と日葵を見つめる渚は、不安そうな素振りなど一切見せずに笑ってみせた。

 そしていつものような明るい笑顔で、こう切り出す。

「私は、『藤沢渚』は、とても弱い人間です」

 渚のその言葉は、一気に生徒たちの意識を惹き込んだ。

「小さい頃の私は、不器用で未熟で泣き虫で、何をやっても上手くできませんでした」

 奏汰と日葵以外は、謙遜か何かだと思うだろう。彼らの知っている『藤沢渚』は、出来ないことなど何もない、非の打ち所がない完璧超人なのだから。

「私が大きく変わったのは中学生ぐらいですが、それも私の努力で今のようになったわけではありません。ずっと、支えてもらっていました」

 渚の言葉の意味が分からず、生徒たちは困惑したような顔をしていた。

「私は一人では何もできません。今も、昔も。きっと、これからも私は誰かに支えられて生きていくのだと思います」

 ヒソヒソと生徒たちが話し出す中、奏汰と日葵だけは表情を変えず、静かに渚の言葉に耳を傾けていた。

「文化祭の運営も、実行委員や生徒会、教員の方やここにいる皆さんに支えられたから、私はここで話せているのだと思います」

 渚ははっきりとした声で続ける。

「人は支えてもらわなければ何かを成し遂げることはできません。でも、支えられていても自分の足でゴールへと向かうことが大切なのだと思います」

 茜に全てを任せ、自分の足で歩くことを諦めていた渚。だがこうして、今は奏汰や日葵ややよいに助けられながらも、渚は諦めずに歩き続けた。

 その努力を奏汰たちは知っていた。

 その大切さを、渚は心の底から知っていた。

「こんな私でも、皆さんとともに歩き、自分の足でここに立てたことを心から誇りに思います。本当に、ありがとうございました」

 いつのまにか、私語をする生徒は誰もいなくなっていた。

 深々と渚が頭を下げる。少し離れた位置にある道路を走る車の音すら、奏汰たちの耳に届いていた。

 パチ、パチ、と。

 最初に拍手をしたのは、日葵だった。

 次いで奏汰が、そして他の生徒たちも次々と拍手を始め、数秒の間に沈黙が喝采へと変わる。

 姿勢を戻した渚は、自分に向けられた拍手を全身で浴びる。薄ら涙を浮かべて、渚は視線を奏汰と日葵へ向ける。

 二人は黙って、しかし笑顔で拍手を送り続ける。

「ありがとう、ございました……っ!」

 渚はもう一度、頭を下げた。

「完璧だったな」

 奏汰が小さく呟くと、日葵も奏汰にしか聞こえない声で、

「ええ。渚先輩にしては、上出来でした」

 二人は渚がステージから降りるまでの間、ずっと拍手を続けていた。

 

 夕日はもう、半分ほど沈んでいた。太陽に背を向ければ、夜に世界が飲み込まれていくのが見える。

 やはり屋上というものは、空を見るにはうってつけだ。

「服、着替えたんだな」

「ええ。あのままだと日葵に写真を撮られて永久保存とかされそうだったから」

「下手すると家宝だからな。いい判断だよ」

 軽く笑いながら、奏汰は屋上の手すりに体重を預ける茜の隣に立った。

 文化祭の閉会式が終わり、今日の仕事のほぼ全てを終えた渚は、茜と交代していた。

 これから片付けも残っているのだが、それくらいは大目に見ようという奏汰の言葉に茜も日葵も反対はなかった。

 茜は屋上から校庭を見下ろす。

 あれだけ書類やら機材やらの準備で四苦八苦したはずの野外ステージが、もうすでに半分ほど解体されていた。

 だが、そんなステージを茜は嬉しそうに見つめて、

「これ、渚がやったのよ」

「ああ、そうだな」

「あのステージで、ちゃんとやりきったのよ」

「そうだな」

「渚一人で、全部をやったのよ」

「知ってるよ。隣で見てた」

「こんなに上手くいくなんて思ってなかった」

「それなら、ちゃんと褒めてもらえそうだな」

 今まで、ありがとうもよくやったもほとんど言われずに頑張ってきたのだ。茜からの一言ぐらいもらえてもいいと思った。

 奏汰が冗談気味に言った言葉を聞いて、茜はこちらを向いた。

「本当にありがとう、奏汰。あなたのおかげで、ここまで来れた」

「お、おう……」

「なに、その顔。ちゃんと言ったわよ、お礼」

「だって、そんな素直に言われると思わなかったから」

「いつも私は素直だったでしょ?」

「そんなこと――」

 突然、奏汰の言葉が止まった。

 誰かが来たわけでも、何かが起こったわけでもない。

 奏汰の視線はただ、振り返った茜の胸元辺りに固定されていた。見ているのは、この世界で一色奏汰にしか見えない色。

 そして、その色が表す言葉にならない感情を読み取ってしまった奏汰は、言葉を失ってしまったのだ。

「うそ、だよな?」

 奏汰は必死に言葉を紡ぐ。

「そんなわけ、ないよな?」

 抽象的な質問に、茜は答えない。

「そうだ。一つ、頼めるかしら」

 そう言って、茜は一冊の本を取り出した。

 奏汰の前に差し出された本のタイトルは彼のよく知るものだった。

「これ、『空に浮かぶ海』か……?」

 タイトルの横に書かれたナンバリングは八。つまり最終巻だった。

「そう。私も読んでみたのよ。普段小説は読まないから少し疲れたけれど、面白かったわ」

 奏汰が『藤沢渚』と出会うきっかけとなった本。いつのまにか、茜は最終巻まで読んでいたようだった。

 本を受け取った奏汰はその本の背表紙を見て眉をひそめた。

「これ、この学校の図書館の本なのか……?」

 奏汰は前に続巻が学校に置いていないからと渚と学校ではない図書館へと行ったことを思い出した。渚と出会う前は散々図書館には通っていたのだ。続巻がなかったことは間違いないはずだったのだが。

「私が図書館の管理をしている先生にお願いして置いてもらったのよ。楽しみにしている人がいるから、できれば最終巻まで揃えてほしいって。これ、先週から図書館に追加されたのよ」

 奏汰は裏表紙をめくり、借りた人の氏名を記入する図書カードを取り出した。

 そこには『藤沢渚』という名前が一番上に丁寧に書かれているだけだった。先週追加されたということもあってか、まだ茜しか借りていないようだ。

 しかし、それを奏汰に渡してどうだというのだろうか。この最終巻は学校にはないというだけで読んだこと自体はあるのだ。それくらい、茜は知っているだろう。

「それを、どうして俺に?」

「返しておいてほしいのよ」

「自分で返せばいいだろ」

「あなたに返してほしいの」

「なんだそれ」

「なんでもよ」

「……分かったよ」

 奏汰はわけが分からないまま頷いた。

 別に本を返すくらいなら構わない。それ以上の苦労を今まで散々してきている奏汰からしたら、これくらいはどうってことない。

 しかし、問題はそれではなくて。

「これで、やり残したことはないわね」

 たった一言で、奏汰は体が宙に浮いているような感覚に陥った。

「なに言ってんだよ」

 本当は、どこかで気づいていたのかもしれない。

 文化祭が始まるずっと前から、この未来が来ると分かっていたのかもしれない。

 目を逸らしていた。見ないように、気づかないようにしていたのかもしれない。

 茜は、笑っていた。

「あなたと出会えてよかった」

「やめてくれよ」

 未来を近づけないように、奏汰は拒絶した。

「そんな必要ないだろ。これからも、今まで通りでいいじゃないか」

「それじゃダメなのよ」

 優しく、茜は否定した。

「私は、この世界に本来存在しないはずの存在なのよ。異常だった世界が正常に変わるだけ。ただ、それだけ」

 解離性同一性障害。それによって生まれた藤沢渚の中のもう一つの人格。

 病気が渚から消えるだけ。異常が正常へ戻るだけ。

 ただ、それだけ。

「異常なのよ。自分とは違う人格に名前をつけて、場合によっては使い分けるなんて」

「…………、」

「私をこんなにも簡単に受け入れるあなたが異常だった。私と楽しく料理をするやよいが異常だった。私なんかに陶酔する日葵が異常だった。こちらの世界に、あなたたちをこれ以上巻き込めない」

 反論が、出来ない。

 茜の心が見えてしまう奏汰には、その想いと決意の強さが分かってしまうから。

 この想いを跳ね除けるだけの言葉を、今の奏汰は持ち合わせていなかったから。

「渚を見つけてくれて、本当にありがとう。私の役目は、もう終わったわ」

 日が沈む。

 暗くなった世界が。夜の闇が、茜の表情を隠していく。

「私のことは忘れて。正しい世界で渚を幸せにしてあげて」

 奏汰の視界に映る茜が暗闇に飲まれていく。表情が見えなくなれば、心の色は見えなくなっていく。いや、違う。

「とっても、楽しかった。幸せだったわ、本当に」

 色が、消えていく。

 海に、空気に、溶けていく。

「ま、待って……ッ!」

 奏汰は手を伸ばした。

 目の前にいるはずの少女の、質量など存在しない何かを掴むために。

 でも、届かない。人の手では、誰かの心は掴めない。

 夜の中で、茜の目から流れ星のように光る何かが重力に引きずられて落ちていく。

「あとは任せるわ、奏汰」

 そんな言葉を残して。

 この世界に、奏汰と渚を置き去りにして。

 狂った歯車を正しく回すために。

 沈んでいく夕日が、夜に溶けていくかのように。









 藤沢茜は、消えた。 


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