第三話 眩しいほどに夕陽が見える始まりの場所で その6
「さあ、今日も料理の特訓だ。頑張ろうぜ」
気合いの入った声を出した奏汰がいるのは。渚の住むマンションだった。最近は料理の練習は基本的に渚の家でやっているのだが、今日はそれ以上に渚の家でやるべき理由があったのだ。
奏汰の言葉に最初に返事をしたのは、ふわふわとした栗色のくせ毛を指先でいじりながら、不満そうな視線を奏汰へ送り続ける少女だった。
「それより、いろいろ説明をしてもらいたいんですけど」
「え? だから料理の特訓だって」
「私、別に料理は苦手じゃないんですけど」
「お前にやってもらうのは渚の手伝いだよ」
日葵は呆れたようにため息を吐いた。
「あの。先輩ってもしかして馬鹿ですか?」
「なんで」
「見てましたよね。私の藤沢先輩とのやりとり」
「ああ、見てた。だから、仲良くなってもらおうと思ってな」
つい数日前に渚と日葵が繰り広げた口論を忘れたわけではない。きっと、普通はそうやって生まれた両者の溝は行動ではなく時間で埋まっていくものなのだろう。それまでは距離をとって、いつかその熱が冷めたころに謝ることで解決をしたりするのだろう。
しかし、文化祭を成功させるためには、そんな悠長に仲直りを待っているわけにはいかないのだ。
奏汰は基本的に心の色が見えるときにしか人の気持ちを理解することが出来ない。正直なところ、日葵の気持ちは奏汰には微塵も分からないのだ。
屋上では日葵が心の底から声を上げたために理解できたが、今は本当に分からない。
それゆえ、奏汰は空気を読むことを諦めた。どうせ分からないなら、開き直ってやるだけやってやろうではないかと思ったのだ。
そんな思惑が分かっているからか、日葵は気怠そうに壁に寄りかかって奏汰を睨む。
「ふざけないでください。私、『あの』藤沢先輩のために何かをするつもりはありません」
「でも、渚の家に来るかって聞いたら『え、行きますけど』って即答したじゃんか」
「そりゃあ、誰だって豪華なマンションには入りたいじゃないですか」
「え? お前、渚の家がこのマンションだって知ってたのか?」
「それは別にいいじゃないですか」
屋上のときも思ったが、やはり日葵の茜に対する憧れは少々危ない方向へ向いているようだ。実際、渚のことも日葵がストーカーじみたことをしていたからあんな事態になったわけだし、控えめにも健全とは言えないだろう。
「あの……雨宮さん」
部屋の隅から、布が擦れるほどの小さな声が聞こえた。
奏汰と日葵は、同時にその音源へと目を向ける。
自分の家にいるとは思えないほど居心地悪そうに立つ渚がそこにはいた。
しかし、日葵からの返事はない。さらに、不快そうに腕を組んだまま視線すら合わせようとすらしない。
それでも、渚は意を決して口を開く。
「あのときは、すいませんでした。私、とても酷いことを言いました」
「……、」
「思ってもないことも言いました。分かってもらうつもりはないって言いましたけど、私、ちゃんと雨宮さんに分かってほしいです。だから今日は奏汰さんに誘ってもらったんです」
日葵が渚に言いすぎてしまったように、渚も日葵に言いすぎてしまったという自覚があったのだ。渚がああやって声を荒らげて喧嘩をしたのは人生で初めてだったらしい。
これもきっと、渚の成長には不可欠な出来事だったのだろう。だからこそ、日葵とは仲直りをしてほしかったのだ。
だが、当の本人にはそんな気は毛頭ないらしい。
「もう一度言いますが、私はあなたについて納得も理解もするつもりはありません」
きっぱりと日葵は言い切った。
「それじゃあ、今日はこの豪華なマンションに入りたかっただけなので私はこれで失礼します」
それだけ言って、日葵は玄関へと歩き出した。
しかし、彼女が扉へとたどり着く前に、それは開いた。
「おじゃましま~すっ! あ、でももう何回も来てるし、ただいまって言っても問題ないのでは? ってことで、たっだいま~っ!」
丁寧に脱いだ靴を揃えて、ノリノリのやよいが部屋へと上がってきた。
今朝はやよいと家を出たのだが、途中で忘れ物をしたから先に行っていてくれと言われたため、奏汰は先に日葵と合流して渚の家に来ていたのだ。
遅刻したやよいは玄関のすぐ近くにいた日葵の顔を見て、不思議そうに首を傾げる。
「んん……? もしかして、あなたが雨宮日葵さんですか?」
「は、はい。そうですけど」
根はしっかりしている日葵は、戸惑いながらも丁寧な口調は崩さなかった。
しかし、初対面の相手に名前を知られているということは少し怖いのだろう。日葵はわずかに狼狽した表情で、
「あ、あの。一色先輩。この子は……?」
「俺の妹」
「……は?」
控えめな般若面のような顔で、日葵は奏汰を睨んだ。
「なんだその顔」
「納得していない顔です」
「細かい説明を省いて連れてきたのは悪いと思ってるよ。でも俺は渚とお前が仲直りをしてだな――」
「そこじゃないですよ! どんな思考回路ならそんな鈍感野郎に成長できるんですか!」
ここで空気の読めない言葉を言ってしまうのが、人の気持ちを推測できない奏汰の一番の欠点だろう。自覚もあるので、反省した顔で奏汰は言う。
「わ、悪いな。でも、それなら何に納得してないってんだよ」
「一色先輩にこんな可愛い妹さんがいるってことにですよ!」
「……は?」
もしかしたら、日葵は男よりも女の子に興味がある子なのかもしれない。
渚に対する執着にも、やはり憧れ以上の感情が混ざっているのではないかと奏汰は疑い始めた。
しかし、そんなことなど一切気づいていないやよいはこれ以上ないほど純粋な表情で、
「はじめまして、一色やよいです! いつも兄がお世話になってます!」
「ウボァア!?」
目には見えない謎の力に攻撃されたのか、日葵は胸を押さえてのけ反った。そして、体を元に戻す反動をそのまま右手に乗せて奏汰の顔を引っぱたいた。
「一色先輩ィ!」
「痛ぇえ! なんで叩いた!」
「なんですかこの可愛い生き物は! こんな天使の生まれ変わりみたいな子がどうして一色先輩の妹なんですか!」
「いや、俺に文句言われたって」
途端に豹変した日葵の言動に当惑した奏汰は、反射的に数歩後ろへと下がった。
やよいが可愛いということは認めるが、それをこちらの責任にしてもらっても困る。
日葵のイラつきと、玄関のすぐ近くにいることから何かを察したやよいは、不安そうな上目遣いで言う。
「あの、日葵さん」
「え!? な、なんですか?」
「もう帰っちゃうんですか? 折角一緒に料理できると思って楽しみにしてたのに……」
やよいはシュンとうなだれた。
前々から日葵のことはやよいに話していたし、ここに連れてくると伝えたときは本当に楽しみにしていたのだ。
だからこそ、そんな素直さが日葵の胸に突き刺さる。
「ぐは……ッ!」
心臓を射抜かれてよろめいた日葵は、期待を込めた瞳で見つめてくるやよいの視線に表情を曇らせた。数秒ほど悩んだ日葵は、おもむろに踵を返した。
「し、仕方ないですね。分かりました。手伝いますよ」
「やったぁ! ありがとうございます!」
ぴょんぴょんと動物のようにやよいは飛び跳ねた。
日葵は喜ぶやよいを見ながら頬を緩ませて、
「一色先輩、一つお願いをしてもいいですか」
「ああ、やよいを渡す以外の願いだったら可能な限りきいてやろう」
「……チッ!」
物凄い嫌われようだった。
鬼のような顔で奏汰を睨む日葵へ、やよいは心配そうに、
「喧嘩、しないでくださいね?」
「も、もちろんですよ!」
少し自信なさげに言うところが少々不安だが、日葵のことだから一度やると言った以上はちゃんとやってくれるだろう。
「そういえば、忘れ物ってなんだったんだ? 急に走っていったから聞けなかったけど」
わざわざ時間をかけて家にまで取りに帰ったのだから、忘れ物とやらはかなり大事なものなのだろうが、やよいが手に持っているのは小さな袋だけだった。
「いやぁ。やっぱりこのエプロンを付けないと気が引き締まらないんだよねぇ」
取り出したのは、やよいが毎日使っているエプロンだった。
ふわりとピンクの布を揺らしながら紐を結び、戦闘準備完了とやよいは親指を立てた。
「それじゃあ、始めるか」
初めて渚とやよいが料理をしたときのトラウマがあるので、渚がキッチンに立ったときは奏汰も隣に立つようにしている。
それでも、いつのまにか最悪の味になっているので、まだまだ努力が必要なのだが。
「だー、もう!」
開始五分で叫び声をあげたのは日葵だった。
「なんでほんの五分で一〇回も砂糖と塩を取り間違えるんですか!? ってかどうしてこんな短時間でそんなに調味料に手を伸ばすんですか!」
「す、すいません……っ!」
「とりあえず謝りながらピーマンに塩を振るのをやめてもらっていいですか!?」
「えっ! 美味しくなると思ったんですけど……」
「ボケ倒すつもりですかこのアホ! ピーマンに塩って生で食べるつもり満々じゃないですか! これから火に通すんだから今じゃなくていいんです!」
どうやら、渚の監視に一番向いているのは日葵だったらしい。ついでに、なんとなく奏汰とやよいでは渚が手に負えなかった理由も分かってきた。
きっと、何かを失敗して奏汰ややよいがフォローしている間にさらなるミスを重ねていたのだろう。日葵ぐらいの強烈さがなければ間に合わないのかもしれない。
「うぎゃああああ!? どうして生肉に砂糖をかけてるんですか!?」
「ああっ!? 小麦粉と間違えてしまいました!」
「せめて塩と間違えてくださいよォ!」
「は、はいっ! お塩ですね!」
「それは砂糖だって何回言ったら分かるんですかぁぁああああ!」
少し離れたところで作業をしている奏汰とやよいは、無表情で目の前のどんちゃん騒ぎを見守る。
「やよい。やっぱり俺たちはこうやってのんびり料理をするのが向いてるみたいだな」
「うん。私たちにはあの闇に立ち向かうにはまだまだレベル不足だったんだよ」
そんなこんなで日葵の怒涛のツッコミが炸裂し続けて一時間半が経った。
「人生でもっとも体力を使った一時間半だと確信を持っています。なんなんですか、これ」
「……さぁ?」
「先輩をぶん殴る元気すらないのが悔やまれます……」
大きなソファに体重の全てを預けて、日葵はぐったりと体を横にしていた。
頭だけを動かして、日葵は出来上がった料理を眺める。
「あのピーマンの肉詰め、出来ればストレス発散のために壁に全力で投げつけたいんですけど。きっと花火みたいに綺麗に弾け飛んでくれますよ」
「疲れているようだからあと三〇分は寝てていいぞー」
頑張って作った料理が壁に打ちつけられて破裂したら、渚はきっと一週間は立ち直れないだろう。
それに、日葵の努力の甲斐あってか見た目が既に美味しそうなのだ。外見は成功している料理を投球練習に使われるのは困る。
「どう、でしょうか?」
「見た目はいいよ。今までとは比べ物にならないくらいだ」
奏汰の言葉に、やよいも相槌を打つ。
「うんうん。ピーマンが緑のままだなんて、なんだか感動するね」
「先輩たちは一体今までどんなものを作ってきたんですか……」
「うーん……兵器?」
「なにかしらの罪に問われても私は何も知らないですからね」
声を張る体力がないのか、細い声で日葵は言った。
日葵のおかげで見た目は完璧だ。いつもは味見に命を懸ける覚悟が必要なのだが、今回は不要のようなので、奏汰は迷いなく料理を口に運んだ。
軽く咀嚼して、奏汰は瞠目した。
「……美味しい」
「本当ですか!?」
嬉しそうに渚が飛び上がった。ニヤニヤと口角を上げながら、やよいの反応も待つ。
「本当だ。美味しい……!」
「やりました! 成功です! 大成功です! 世紀の大錬金ですっ!」
ぴょんぴょんと跳ねて渚は喜びを表現していた。
それを横目に奏汰は感心をあらわにして、
「それにしても凄いな。渚の料理がここまでまともになるなんて」
「うん。一応持ってきてた胃腸薬を使わなくて済むなんて思いもしなかったよ」
そんな二人の会話を聞いて、渚は照れ臭そうに、
「えへへ……」
「あっ、いやごめん。渚のことは褒めてないからな」
「ええ!? ちょっとくらい褒めてくれてもいいじゃないですか!」
目に見えて落ち込む渚から日葵へ、奏汰は視線を移す。気怠そうにソファに寝転ぶ日葵は、重いため息を吐いた。
「別に、何も特別なことはしてないですよ」
真っ白な天井を眺めながら、日葵は言う。
「失敗には必ず原因がある。その原因を一つずつ解決していけばいずれは成功へたどり着く。私はただ、間違いを一つずつ正していっただけです」
誰かの受け売りなのだろうか。自分に言い聞かせるような言い方だった。
なぜか隣にいるやよいもその言葉に聞き覚えがあるのか、ピクリと反応を見せた。
「どうした、やよい」
「今の言葉、茜さんに言われたことがあったから」
「なるほどな」
きっと、生徒会の仕事をしているときにでも茜に言われたのだろう。茜の言葉が、日葵の行動に影響を与えていた。
「あ、あの……」
ソファで横になる日葵へ、渚はそっとお茶を差し出した。
緊張混じりで、軽く見ただけではどちらが後輩か分からないほどだ。
「ありがとうございました。雨宮さんのおかげで、上手に出来ました」
冷めた目で渚を見つめる日葵は、ため息を吐きながら体を起こした。
「本当ですよ。私がいなかったら今頃、一色先輩の胃袋が爆発して肉の塊になってましたから」
「そ、そんなに酷かったですか……?」
「ええ、最悪です。そこらへんの子どもにやらせた方がまだマシな料理が出来上がりますよ」
辛辣な言葉を並べる日葵は、「でも」と続ける。
「普通はあれだけ言われたら挫けたりするはずです。でも、あなたは諦めずに最後までやりきった。結果はついてこなくても、あなたの頑張ろうって気持ちが口だけじゃないってことぐらいは分かりました」
渚が外に出始めてもうすぐ一ヶ月。最初は誰かと人と話すことすら怖がっていた渚が、たったこれだけの期間でここまで成長できた。
きっと、辛くても諦めなかったからこそ、渚はここまで成長できたのだ。そのほんの一部を、日葵はこの一時間半で渚から感じ取ったのだろう。
「まだあなたを認めることはできません。でも、あなたを理解をする努力をしてみようと思います」
お茶を一気に飲み干した日葵は、空のコップを渚へと手渡して、
「文化祭も、ビシバシ行きますからね。藤沢先輩みたいになりたいなら気合いを入れてください、渚先輩」
「……頑張ります! よろしくお願いします!」
深々と、渚は頭を下げた。
渚が姿勢を戻すのを待ってから、日葵は言う。
「それで、一つお願いがあるんですけど」
「はい? なんでしょう」
「藤沢先輩と変わってもらうことって出来ますか?」
数瞬だけ間を開けて、渚は「はい」と頷いた。日葵を呼ぶと決めた時点で、そう言われると思っていたのだろう。
渚が大きく深呼吸をした瞬間、奏汰にだけ分かる変化が起こった。
青と赤の逆転。
さながら、水平線から昇る朝日を見るかのようだった。あいも変わらず、鳥肌の立つほど美しい赤と青。
そして、暖かな太陽が海を背景に奏汰の前へ現れた。
直後、彼女はおもむろに髪をかきあげてポニーテールに結びあげる。
渚にはない凛とした雰囲気を感じた瞬間、日葵の表情が明るくなる。
「こんにちは、雨宮さん」
たった一言で、日葵は確信したようだった。
「はいっ! 藤沢先輩!」
「渚の中で会話は聞いていたわ。迷惑をかけたわね」
「いいえ! とんでもありません!」
久しぶりに主人に会った飼い犬のようだった。きっと、日葵に尻尾があればブンブンと振っていただろう。
茜は穏やかな口調で、
「何かお礼がしたいのだけど」
「礼だなんて……!」
モジモジとする日葵の横で、空気の読めない男は素っ頓狂な声を上げる。
「え? 俺には何かないの?」
「……欲しい?」
「あ、やっぱりいいです」
心臓に包丁のプレゼント、だなんて粋なサプライズが脳裏によぎった奏汰はすぐに後ろへの下がった。すると、今度はやよいが手を挙げた。
「はいは〜い! 私には何かありますでしょうか姉御!」
「やよいへのお礼はちゃんと考えてあるわ。安心しなさい」
「やったー! さっすが茜さんだぜぃ!」
嬉しそうに親指を立てて、日葵は江戸っ子のようなポーズをとった。
どうしてここまで兄妹で差があるのかと抗議をしたら「貢献度と好感度を加味した結果よ」と即答された。
もう少し評価してくれてもいいのではないかと奏汰が拗ねていると、ふわふわとした動きをしていた日葵がおもむろに口を開いた。
「……一つ、お願いしてもいいですか?」
「ええ。言ってみなさい」
「一緒に写真を撮ってもらってもいいですか……?」
本当に、日葵は心の底から茜に憧れているのだろう。野球少年が野球を始めるきっかけとなったプロ選手にサインを求めるような、そんな憧憬と期待に満ちた瞳。
茜は迷わずに頷いた。
「構わないわ。あなたのスマホでいい?」
「あ、カメラは持ってきているので」
ガサゴソと日葵は自分のバッグから数万円はくだらないカメラを取り出した。
「もしかして、元々写真は撮るつもりだったのか?」
「別にいいじゃないですか! 一色先輩は黙っててください!」
「あっ、うん。ごめん」
人付き合いが苦手な奏汰は、日葵の圧倒されながらカメラを手渡された。
「ピンボケした写真とか撮ったら処刑しますからね」
「もしかして君たちって極刑以外の罰を知らないの?」
とにかく、奏汰はズッシリとした重量感のカメラを構える。どうやらかなり高価なものなのだろう。素人の奏汰が被写体の二人を映しても勝手にピントが合うし、明るさの調節もしてくれている。これなら、失敗をする方が難しいはずだ。
カメラについた液晶画面を覗き込む。いつものように落ち着いた茜と、顔を真っ赤にしてガチガチに緊張している日葵。これではいい写真にはならないだろう。
「雨宮、固すぎ」
「う、うるさいです! 仕方ないじゃないですか!」
憧れの先輩と写真を撮るだけでここまで緊張するものだろうか。せっかく撮るのだから、いい表情で写真に収めたい。
奏汰は目でやよいへと合図する。意図を汲み取ったやよいは、満面の笑みで二人へと突撃した。
「私も映るー!」
日葵と茜の間に飛び込んだやよいは、二人の腕を掴んで抱き寄せ、三人を密着させる。
突拍子も無いやよいの行動に、日葵は思わず笑いだした。その瞬間を逃さずに、奏汰はシャッターを切った。
画面を確認する。さすが高性能カメラだ。あれだけの動きをしたのにまったくブレていない。
そして、そこに映る三人をみて、奏汰は満足そうに、
「うん。いい笑顔じゃんか」
「よ、余計なお世話です。撮り終わったならさっさと返してください!」
「待て待て。まだ終わってないだろ」
やよいを手招きしてこちらへ戻した奏汰は、もう一度カメラを向けて、
「次はちゃんと二人で、だろ」
やよいのおかげで、もう緊張はほぐれたはずだ。これなら、二人でもちゃんとした写真が撮れるだろう。
「でも、藤沢先輩に申し訳ないですから……!」
「茜は大丈夫だろ?」
「構わないけれど」
「だってよ、雨宮」
「死んでもお礼は言いませんから」
吐き捨てるように言った日葵は、態度の割にはかなり素直に茜の横に立った。
今後は距離感も表情も問題ない。若干頬がまだ赤いが、これくらいは許容範囲だろう。数秒で撮影を終えると、日葵は大きく息を吐いた。
奏汰からカメラを受け取った日葵が写真の確認をしていると、やよいが元気よく手を挙げた。
「日葵さん! 四人でも撮りたいです!」
「え、一色先輩と……?」
「だめですか……?」
「たしかこのボタンでタイマー機能が使えたはずです」
どうやら、日葵の弱点にやよいが追加されたようだ。手慣れた手つきでタイマーをセットした日葵は、キッチンのカウンターの上にカメラを置いた。
「時間ないので早く並んでください」
「だって! 早く、お兄ちゃん!」
「引っ張るなって。ちゃんとやるから」
「ほら、茜さんも!」
「いや、私はここで……って、ちょっと!」
「日葵さんもおりゃーーーっ!」
「あやややふふじさっせんぱっ! やよいちゃもも!」
やよいを中心にして、三人がくっつくような形になった。
やよいと茜に急接近した日葵が何やら叫んでいるが、残念ながら奏汰には聞き取れない。というより、人間の言葉を発しているかすら怪しい声だった。
そんなことをしている間に、シャッター音が響いた。
写真を撮るなんて久しぶりで、うまく笑えたかは分からなかった。
写真撮影を終えたころには、もう日が暮れていた。そろそろ帰らなければと、日葵が荷物をまとめていた。
そんな日葵へ、茜が優しく声をかける。
「今日はありがとね、雨宮さん」
「あ……はい」
寂しげな声と表情。奏汰にもわかるほど明らかな変化だった。勇気を振り絞った日葵は真っ直ぐに茜を見つめて、
「あ、あのっ! 藤沢先輩!」
「どうしたの?」
「私のことも、下の名前で呼んでください……!」
そういえば、茜は奏汰とやよいを下の名前で呼ぶのに、日葵のことは雨宮と苗字で呼んでいた。
おそらく、茜の中で一定の距離をあえて取っていたのだろう。だが、二重人格という秘密を知り、渚のためにここまでしてくれた日葵に対して、もう壁を作る必要はないはずだ。
太陽のような温かい笑みを浮かべて、茜は改めて言う。
「ありがとね、日葵」
「……はいっ!」
奏汰には一生見せないだろう幸せそうな笑顔だった。
微笑ましい光景に思わず奏汰の頬も緩む。やよいもニコニコと日葵を見ていた。
しかし、その視線に気づいた日葵の表情が一瞬で能面のように強張り、鋭く奏汰を睨む。
「じろじろ見ないでもらっていいですか。てか、一色先輩は何もしてくれないんですか?」
「え、何かって?」
「なんでもいいですよ。ほら、私の苦労を労ってください」
「ほう。俺に喧嘩を売っているんだな?」
煽るような日葵の口調で奏汰にスイッチが入った。
今までの日葵を見ていて、どのような攻撃が最も効果的なのかはおおよそ見当がついた。
「やよい、ちょっと来て」
「およ? どしたのお兄ちゃん」
奏汰はやよいにあることを耳打ちした。気が進まないのか、やよいは億劫だと表情で訴えてくる。
仕方がない。こうなれば奥の手だ。
(駅前の店のチーズケーキ、二つでどうだ?)
(よっしゃ任せときなアニキ!)
賄賂の契約を結んだやよいは、日葵の正面に立ってコホンと咳払いをした。
一つ呼吸を置いてやよいは日葵を見つめる。
二人とも小柄だが、日葵の方がほんの少し高いためにやよいは上目遣いになる。わずかに腰を折り、あえて顔を斜めに見上げるように傾けて、スイーツよりも甘い声でやよいは囁く。
「今日はありがとね、日葵おねーちゃん」
「はうあっっっっ?!??!!」
目眩を感じたのか、日葵はふらふらとよろめき、壁に寄りかかる。
ふぅ、と一息ついた日葵は、やけに冷静な声で、
「すいません。鼻血が出たのでトイレに行ってきます」
クリーンヒットだった。
まさかここまで効くとは思わなかったが、これで日葵からの煽りには答えられたはずだ。
優越感に浸っている奏汰は、ふと視界の内にテーブルの上に置かれたカメラを見つけた。
理由は特にないが、手にとってさきほど撮った写真を見てみる。
楽しそうに笑うやよいと、それにつられるように微笑む茜と日葵。
しかし、当の自分は随分とぎこちない笑顔だった。当然と言えば当然だ。共感覚を失ってから、そんな機会なんて一度もなかったのだから。
田代とやよい以外とは会話せず、一人で過ごしていた日々を思い出す。
「俺だけがこのままってのも、渚に申し訳ないな」
奏汰は近くの鏡を見て、試しに笑ってみる。
もう少し、笑顔を作る練習をしたほうがよさそうだ。




