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序章 見えないはずの心の色

 この世界には、色がある。

 そしてその色というものは、この世界に無限に存在する。

 空も海も紫陽花も、青ではあるが、どれ一つとして同じ青はない。

 色で縁取られ、色で満たされ、色で彩られたのがこの世界だ。

 人には、そんな色を鋭敏に感じ取る力がある。赤で高揚し、青で冷静になれるのが人間という生き物だ。


 もちろん、色の感じ方は人それぞれだし、中には色を見ることすらできない人もいる。

 だがしかし、それとは反対に色に鋭敏すぎる人間も、この世界は存在する。

 文字や音に色を感じることのできる力。そんな感覚を、共感覚と呼ぶらしい。

 そんな感覚を持つ人間が、少ないながらもこの世界には存在する。

 一色奏汰いっしきかなたも、数年前まではそんな共感覚を持っていた。

 ただ、彼の場合は色を感じる対象が文字や音楽ではない。心に、色を感じるのだ。

 昔は人の心の色を見るが大好きだった。綺麗だったのだ。どれ一つとして同じものはなく、文字通り十人十色に輝く心たちが。

 しかしその共感覚を失ったことで、奏汰の人生は一瞬にして閉鎖的なものとなってしまった。


「いつも放課後は外を見てるよな、一色って」


 三階に位置する高校の教室の隅でぼーっと窓から校庭と校門を見下ろす奏汰に、気の抜けた声がかけられた。声の主は彼の友人、田代道隆たしろみちたか。奏汰が学校で会話をする唯一の人物で、共感覚を失った二年前、つまり中学二年生の頃よりも前からの友人だ。

 爽やかな顔立ちと一目で野球部と分かる丸刈りの頭。運動はもちろん、普段は馬鹿な言動を見せる割に座学の成績は良いという誰からも好かれる優等生。当然ながら女子からの人気もあり、体育祭では黄色い声援が彼の走りを後押しするほどだ。


「誰とも関わらないためには、まず誰もいない時間に下校することが鉄則なんだよ。この教室は校庭から校門まで一望できるから、帰るタイミングが計りやすくて助かる」

「そんなに怖いのか、人と接するのが」

「逆に、何を考えてるか分からない人と楽しそうに話せるお前たちの方が怖いよ、俺は」

「何を考えてるのか分からないってのは、普通のことだと思うんだけどなぁ」


 奏汰の人の心に色を感じる共感覚は、その色の濃淡などの変化によってその人が今、どんな感情でいるのかが視覚的にある程度把握できる。つまるところ、目の前にいる人がどんなことを考えているのかは大体わかったのだ。話しかけられたときに、その真意を知っているか否かの重要性は言うまでもないだろう。


「俺は人と話すときに目に頼りすぎた。お前のいう普通の会話なんてしてこなかったんだ」


 他人とは違うコミュニケーションに依存した結果、それを失った奏汰は人との会話が出来なくなった。人の心が見えないという怖さは、この感覚を持った人間にしか分からないはずだから、別に田代に共感してほしいとは思っていなかった。


「その割には俺とはよく話してくれるよな」

「お前は思考が単純だから心が見えてたときでもお前の言う普通の会話が出来てたんじゃないか? お前だけだよ、話していて怖くないのは」

「褒めてるんだか馬鹿にしてるんだか」

「ありがたいとは思ってる」

「じゃあ褒められてるって思っておくよ」


 さっぱりとした笑顔で野球部を象徴するエナメルバッグを肩に担ぐと、田代は奏汰の頭にぽんと手を置いた。


「そろそろ俺以外の友達も作れよ。社会に出れなくなる」

「ああ。善処するよ」

「じゃあ、俺は部活行くから」

「おう」


 軽く手を振った田代は、軽快な足取りで廊下を走っていった。

 きっと、部活に遅れるギリギリまで奏汰と会話をしようとしてくれたのだろう。そんな優しさに甘え続けるのも気が引けたが、それでも他の誰かと話す恐怖には勝てないと奏汰は確信していた。

 田代が部活へ向かってから数分ほど校庭を見下ろしていた奏汰は、下校に歩く生徒が少なくなったことを確認して、教科書の詰まったバッグを肩に掛けて立ち上がる。


 向かう先は、学校の図書館だった。人と関わらない生活が続いている以上、本は田代以外の友人と言っても過言ではなかった。もっとも、小説ばかり読んでいるため学業の成績が上がるわけではないが。

 二年生の教室がずらりと並ぶこの三階も、ある程度待てば帰宅部は帰り、部活に励む生徒たちはそれぞれの場所へ行ってしまっているため、三〇分ほど前とは比べ物にならないほど廊下は静かだった。この静寂の中を歩くたびに待ってよかったと奏汰は安堵の息を吐く。


 二階へ下りるとすぐ近くに図書館への連絡通路がある。奏汰が通う山伏高校は、公立高校にしてはやたらと図書館が大きいことで有名だった。本校舎の横に立つ二階建ての建物が全て図書館となっており、毎年その膨大な本の量を知らずに図書委員になった生徒は年に数度ある本の整理などで地獄を見るらしい。

 連絡通路の窓からも校庭がのぞけるため、奏汰は再び生徒の様子を確認する。目当ての小説を借りたら、すぐに帰宅するためだった。


 連絡通路を抜けて重い両開きの扉を開くと、カーテンのように壁を覆う本たちが奏汰を迎え、図書館独特の紙と多少の埃が混じった年季を感じる匂いが鼻腔を通り抜ける。

 言葉にならない居心地の良さを感じながら受付のある一階に下り、貸出のために必要な紙を一枚抜き取ると、さっそく先日借りた小説の続きがある場所まで向かう。

 奥から四番目にある、ファンタジー小説の並ぶ棚が目的地だった。迷わず、奏汰はそこまで一直線に歩く。そして、角を曲がってお目当ての本棚へと辿りつく瞬間だった。


「え、これじゃないの? 左とか言われても分からないわよ。題名をもう一回言って」


 女生徒の声だった。慌てて奏汰はその足を止めてその場で立ち止まる。

 最悪だった。わざわざ教室で時間をかけて待ったのはこういった場で誰かと出会わないためだったのに。

 様子を伺うために、奏汰は耳を澄ます。


「これじゃないなら、もうどこにもないわよ。誰かがもう続きを借りちゃってるんじゃない? 前の数冊もないみたいだし」


 話を聞く限り、どうやら二人いるようだ。高いところにある本が、そこにあるかどうか見てもらっているのだろうか。

 奏汰は余計に頭を悩ませた。本当に二人いた場合、その場で立ち話でも始められてしまえば、奏汰の待つ時間はさらに増える。だからといって、続きが読みたい欲を捨てきれないためにすぐに帰る決心もできない。


 奏汰はゆっくりと本棚の陰から様子を覗いた。二人組がいたとしても、目当ての小説とは別の位置にいれば問題は特にないはずのだ。一言も声を発さないならばどうにかなる。

 恐る恐る、奏汰は本棚から顔を出した。


「…………ぇ?」


 奏汰の瞠目の理由を普通の人が推測するのなら。

 例えば、その女生徒のいる場所が奏汰の探している小説の目の前だったとか。例えば、あれだけ誰かと会話しているような声だったのにそこには一人の少女しかいなかったとか。例えば、その女生徒が彼の想像をはるかに超える絶世の美少女だったとか、そんな理由を述べるのだろう。

 答えは、否だ。

 自分の手が震えているのが分かった。興奮しているのか恐怖しているのかすらも分からない曖昧な震え。まるで、長い間どこかに閉じ込められていた人が、ある日突然娑婆へと放り出されてしまったような。


 とにかく、だ。この異常事態は、おそらく世界でも一色奏汰しか感じ得ないはずだ。

 理由は、これ以上ないほど単純明快だった。

 色が、あったのだ。

 約二年間。中学二年生の頃から一切見えなかったはずの色を、感じたのだ。

 目の前で独り言をつぶやきながら本を選ぶその少女の心に色彩があったのだ。

 幻でも見えているのかと思った。もしかしたら、今朝からの出来事全てが夢だったのではないかとすら考えた。しかし、この見え方は間違いない。

 その人の心臓から煙のように溢れるそれは、奏汰が小さなころから当たり前に見てきた心の色そのものだった。


 異常な衝撃に眩暈に近いものすら覚えながらも、奏汰はその女生徒を見つめる。

 校則通りのはずなのに可憐に制服を着こなし、高めに結んでいる黒髪のポニーテールには高潔さすら感じた。まっすぐな力強さを感じる目元と、周りの空気すらも引き締めようかといわんばかりに真一文字に閉じられた口。高い鼻には気品が、ほどよく膨らんだ胸からは高校生らしからぬ色気すらあった。

 しかし、全校生徒が見惚れてもおかしくないその風貌すらもかすませるほどに奏汰の心を奪ったのは、彼女の胸から溢れる色だった。


 真夏に照り付ける太陽にように眩しく逞しい赤に、冷たい海の底に沈んでいるのかのような暗い青。

 そんな二色の心が、同じ一つの体にあったのだ。奏汰が今まで見てきた心たちは、どれだけ濃淡に差があれど全て一色だったはずなのに。

 さらに異様だったのはその心の形だった。中心に固まる青を優しく包むように、赤が心の外側を覆っていた。その赤は、優しさと凶暴さを兼ね備えていたのだ。まるで、触れたら壊れてしまう脆い雛を守る親鳥のように。


「――誰ッ!?」


 女生徒が周章した声を上げてから、奏汰は自分が無意識のうちに本棚から物音を立ててしまったことに気づいた。

 すぐに逃げるのが一番だったのかもしれない。だが、奏汰はそれでもその女生徒の心の色にくぎ付けになっているせいで動くことが出来なかった。さらに突然話しかけられたことで狼狽えてしまい、完全に体が硬直していた。


「え、いや……、えっと」


 もごもごと次の言葉を探している間に、女生徒はこちらへと足早に距離を詰めてきた。


「……何を、見た?」

「何って……?」

「あなた、そこでコソコソとしていたってことはここで本を選んでいる私を見たのよね?」

「ま、まあ」

「それ以外に、何を見た?」


 独り言を呟いていたことだろうか。いや、もしかしたら。


「君は……」

「いや、やっぱりやめましょう」


 奏汰の言葉を遮ると、女生徒は数歩下がって改めて奏汰の顔を見つめる。

 女子にここまで見つめられたことのない奏汰は思わず目を背けた。


「その様子だと、誰かにベラベラと話すような度胸はなさそうね」


 くるりと踵を返し、肩甲骨辺りまで毛先の下りたポニーテールをなびかせると、女生徒は片目だけでこちらを見て、


「いい? ここで見たこと、誰にも言うんじゃないわよ」


 それだけ言って、すたすたと図書館から去ってしまった。当然、田代以外と学校で会話をまったくしない奏汰は、女生徒を呼び止めることが出来なかった。

 ポツン、と。生徒のほとんどいないやけに静かな図書館にいつもよりも重たい静寂が満ちていた。数秒経ってようやく我に返った奏汰は、呆然と本来の目的である小説のある場所へと歩き出す。

 目的は『空に浮かぶ海』という小説の、第五巻だった。つい先日、一巻を読んでみたら想像以上に面白く、衝動的に二巻から四巻までを借りたのだった。昨日三巻まで読み終わり、今朝は四巻の途中まで読んだため、今日の夕方に五巻が手元なく続きが読めないということがどうしてもいやだったからこの図書館に来たことを思い出した。


 そして、五巻を手に取った奏汰はあることに気づく。

 たしかこれと同じものを、あの女生徒は手に取って独り言を言っていたのだ。

 そしてその独り言は確か、今奏汰が持っている五巻より前の巻を探していたような。


「もしかしてあの子が探してた小説って、俺が借りてたやつ?」


 目の前にぽっかりと空いた数冊分の隙間を見つめながら、奏汰はそんなことを呟いた。


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