混ぜるな危険
金井湛君は哲学が職業である。
哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道哲学と Sokrates 前の希臘哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
「これが四問目の文章だ」
「なるほど。ソクラテスがアルファベットで、ギリシャが漢字で書かれてるのがまず真っ先に目につくわね。……っていうか外道哲学って何よ」
「仏教以外のインド哲学の総称だ」
「ふーん……」
みのりは右手を頬に当て、少し首をかしげる。そのまま長らく文章を吟味すると、
「文章の内容的には、あんたなら書けそうではあるのよね。主人公は〝へんなものを書いた〟わけだから、実際には外道哲学とソクラテス以前のギリシャ哲学に共通点があってもなくてもどっちでもいいわけだし。でも、二行目の最初の〝哲学者という概念〟っていう言い回しが、案外簡単には思いつきそうにないのよ。
……あと、〝なんにも〟って言葉が二回も出てくるでしょ? 文章のリズムだとか、語感からするとしっくりくる表現だけど、文豪の文章に見せかけようしてあんたが書くとしたら、こう書くのは怖いはずなのよね。普通に漢字で〝何も〟って書いたり、〝全く〟とかいうような表現を使うと思うの」
「ほう」
「それにここ、よく見るとSokratesの前後に半角スペースが入ってるでしょ?」
みのりはコピー用紙の当該部分を指差す。
「これなんか明らかに青空文庫のコピペっぽいし、たぶんこの文章は文豪の書いた文章でいいと思うんだけどね」
「なるほど、説得力はあるな。ちなみに、シンキングタイムに特に制限は設けてない。まだじっくり解答を検討することもできるぞ」
「うーん……」
みのりはしばらく考えた後、
「いいわ。これは文豪の書いた文章ってことで、私の解答は決定」
阿藤はにやりと笑い、少し間を置くと、
「正解だ」
パチパチと拍手をした。
「これは森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の冒頭部分だ。性欲に対する冷静な分析がなされた作品で、鴎外の作品の中では異色とされている。ちなみに、冒頭のソクラテスは英語表記だとSocratesだから、本文に書かれてるSokratesは多分ドイツ語表記だろう」
阿藤はコピー用紙に〝c〟を書き加えながら言う。
「そういえば、森鴎外はドイツに留学してたわね。それに軍医だったし」
みのりはうんうんとうなずく。
「――今のところ、全問正解だな。それじゃこの調子で、次の第五問目にいってみるか」
阿藤は次の文章を指し示した。
四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。
「青縞っていうのが何なのかわかんないんだけど、後に〝市〟って来てるし、何かの売り物で合ってる?」
「ああ。青縞は埼玉県北部の羽生市・加須市・行田市を中心に、江戸末期ごろから生産されている藍染物の伝統工芸品だ。剣道着や作務衣によく使われる」
「じゃあ、豪家っていうのは大きい家のこと?」
「ああ。金持ちの家のことだ」
「蹴出しっていうのは服?」
「裾が足にまとわりつくの防ぐために、和服の下に着ける下着だ」
「おりおり通ったっていうのは、時々通ったって意味?」
「そうだ」
「うーん……これだけ馴染みの薄い言葉が入ってるんだから、さすがに文豪の文章でしょ」
みのりは腕を組み、眉間に皺をよせる。
「だが、お前の質問に俺は全て答えてるぞ」
「それは既存の文章を読んで、あらかじめ単語の意味を調べてただけのことでしょ。〝赤い蹴出しを出した〟とか現代人がゼロから思いつくの無理よ」
みのりは右手をひらひらと振る。
「なるほどな。じゃあ、この文章は文豪が書いたってことで、解答は決定でいいか?」
こくりとうなずくみのり。
阿藤は少し間を置くと、
「正解だ」
パチパチと拍手をした。
「この文章は田山花袋の『田舎教師』の冒頭部分だ。文士の志を抱きつつも平凡な生活に埋没していく主人公の物語が、病没した実在の青年の日記にインスピレーションを受けて書かれている。
……いやー、あっさり正解されちまったな。これで五問連続正解だ」
阿藤はポリポリと頭をかく。
「まあ、まだまだ序盤みたいだしね」
コピー用紙に目をやり、みのりが言う。阿藤も紙に目を落とすと、
「だな。じゃあサクサクと六問目に行くか」
次の文章を指し示した。
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、──その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが──父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。
「これは……今までとずいぶん違う雰囲気の文章ね」
みのりは上体を倒し、まじまじと文章を見つめる。
「ダッシュの使い方とか、〝パパ〟って言葉が出てきたりとか、全体的にかなり新しい文章って感じがするけど…… 『一人前の人間に育ち上った時』とか『繰拡げて見る機会があるだろうと思う』っていう言葉は、よく見ると新しいのか古いのか微妙なところね」
みのりは顎に手を当て、考え込み始めた。
そのまましばらく時間が経過し、一分ほど経った後、
「今回はずいぶん悩んでるな」
阿藤が投げかけた。
「ダッシュの使い方とか〝パパ〟って言葉が新しく見えるからあんたの書いた文章、っていうんじゃ単純すぎるのよ。でも、その裏をかいてきてるかもしれないし……」
みのりは渋い表情で返すが、やがてパンと音をたてて両手を合わせると、
「決めた。こういうときは直感よ。言い回しが上手いし、引き込まれる出だしだし、これは文豪の書いた文章でしょ」
みのりは言い切った。
「ほお……」
阿藤はにやりと笑みを浮かべ、少し間を置くと、
「正解だ」
パチパチと拍手をした。
「これは有島武郎の『小さき者へ』の冒頭部分だ。妻を結核で亡くした作者自身が〝パパ〟のモデルとされ、母親を失った三人の幼い我が子を勇気づけるために書いた作品と言われている」
「なんだか、そんな作品でクイズしてるのが申し訳なくなる内容ね」
みのりが複雑そうな表情で言う。
「まあ、それは俺もちょっと思ったが、新しく見えて実は文豪の文章っていうパターンを出題しておきたかった」
苦笑する阿藤。
「――今の正解で、六問連続正解だ。さすがといったところだが、次の問題はどうかな?」
阿藤は七問目の文章を指し示した。
人里離れた山奥の炭焼き小屋で、私と兄は育った。兄は早世した父に代わり、家族を食わせるため、真っ黒になるまで毎日働いた。雨の日も雪の日も、荷車や籠に山積みした炭を運び、遠い町までそれを売りに行った。
「炭焼き小屋で育ったとか、炭を運んで遠い町まで売りに行ったとか、妙に生々しいわね」
とみのり。
「三問連続で文豪の文章だったから、そろそろダミーが来そうではあるんだけど……ん?」
彼女は何かに気づいたように目を大きく見開くと、コピー用紙に顔をぐっと近づけた。
「炭焼き小屋……兄……早世した父……。これってもしかして、小説じゃなくて、漫画の『鬼滅の刃』の冒頭部分じゃないの? この〝兄〟って竈門炭治郎のことでしょ」
「見破られたか」
阿藤は悪戯好きの子供のように言った。
「お察しの通り、これは鬼滅の刃の冒頭を俺が文章化したものだ」
「とんでもないものを仕込んでくるわねあんた」
半ば呆れたような表情を浮かべるみのり。
「鬼滅の刃は舞台が大正時代だから混ぜやすかったんだよ」
阿藤は「ははは」と朗らかに笑った後、
「――ここまではまあ、小手調べみたいなもんだ。これからが本番だぜ」
真面目な顔つきになり、次の八問目の文章を指し示した。




