踏鞴家給地の誕生日③
南の斜面、禁足地、松林と、その場所はかつて、いろいろな呼ばれ方をしていた。どんな名前だろうと伝わったからだ。
いまは、淡雪の字を与えられている。
雑草だの灌木だのは燃料としておおかた刈り取られた。淡雪は、踏み固められた土に無数の松が根を張る、とりわけ奇妙な景観の区画となった。
晴天が続いて埃っぽく、口を開けば舌にちりが貼りついて、いつまでも土の味がした。
革の前掛けを下げて木綿の手袋をした樫葉が、ぼさぼさに伸びた新芽を、ひとつ間引いては離れて松を眺め、近づいてはまたひとつ摘んだ。
「それ、楽しいか?」
オレは樫葉に声をかけた。作業が終わるのを石に座って待っていたんだけど、放っておいたら夜までかかりそうだった。
「楽しいことです。こうすると、松はとてもきれいなかたちになります」
「ふーん」
「悠太もきっと、楽しいと思います」
「オレはいいよ。べたべたするし」
断ると、樫葉は気を悪くした様子もなく、淡々と新芽をひねりつづけた。
「あー、あのさ。聞きたいことがあるんだけど」
「鷹根のことですね?」
即断されて、オレは樫葉の背中に恨みがましい視線を送った。もちろん、気づかれるわけがない。べつに汲み取ってほしいわけでもないしな。
「なんていうかな……どうすれば、自然にびっくりできるかな」
樫葉は手を止め、こっちを振り返った。目をまんまるに見開いている。びっくりしているのだ。あるいは、呆れているのか。まあとにかく、めずらしい顔だった。
「鷹根はオレに、びっくりしてほしいんだろ? だからオレも、びっくりしたいんだよ、ちゃんと。それで鷹根がよろこんでくれるなら」
なんだこりゃ、歯切れが悪すぎる。途方もないばかになった気分だ。
「そうして、仲直りしようとしています。そうですね?」
「笑ってもいいぞ」
「樫葉は笑いません」
前掛けと手袋を外し、てのひらのにおいを嗅いでから、樫葉はオレの横に座った。
「悠太は、いつも鷹根に甘えます」
あまりにも鋭い一突きで、ちょっと心臓が止まりそうになった。
「……まあ、そうだよな。分かってるんだけどな」
自覚はあるんだよ、これでも。
「自分でもわけ分かんねえよ。いちばん好きで、いちばん長くいっしょにいる相手なのに、きつく当たっちまう」
樫葉は抱え膝に頭を乗せ、黒い瞳をこっちに向けた。
「こうしてほしいって、強く思っているからです」
「期待しすぎてるって?」
樫葉はうなずいた。
「それは悠太が、鷹根を好きだからです。それがいいことなのか悪いことなのか、樫葉には分かりません」
でも、と樫葉は続けた。
「甘えてもいいのだと、樫葉は思います。鷹根の他の人にも」
オレは樫葉の言葉を、ゆっくり噛みくだいた。
ようするに、なんでもかんでも自分でやろうとしているんだろう。親父の言う通り、くだらない貝がくだらない交尾をしてくだらない勢いで増えまくったとして、そんなもん、人をやって調べさせればいい。
勝手に抱えて勝手に疲れて、だれかの失敗につけこんでここぞとばかりに八つ当たりしてるだけだ。鷹根なら許してくれるだろうって、オレの思い通りのことを言ってくれるだろうって、甘えてんだよな。くだらねえ。だったらもう勝手にくたばれよ。
「ばかみてえだ」
覚書なんてどうでもよかった。鷹根の方が辛いに決まってる。オレを傷つけたと思ってる。分かってるんだよ。
「オマエ、すごいな」
まぶたを手で覆って、オレは言った。
「誰のことも責めないし、八つ当たりしないもんな。どうやったら樫葉みたいにできるのか、さっぱり分からねえ」
「樫葉も、お父さまに甘えます」
「へえ?」
樫葉は顔をかたむけて、いたずらっぽく、目じりを下げた。
「お父さまに、樫葉は言います。松のお世話が大変だと。お父さまは、すごく困った顔をします」
「オマエ……すごいな。ひとつも笑えねえよ」
樫葉が灰かぶりだったころの話は、オレも聞かされている。それがどれだけ悲惨だったのかも。こんなの、聞かされたのが康太でもふんわりとは受け止めきれないだろ。
「いつかお父さまは、お父さまを許すかもしれません」
「すごいよ。他に言葉がねえ。ぎりぎり死なない毒を呑ませるようなもんだろ、それ」
それでオレたちは笑った。
樫葉は足を投げ出し、ぺたんと地面にお尻をつけた。腕を突っ張って背中を反らし、
「悠太が悠太を許してほしいって、鷹根はそう思います」
できるだけなんでもないふうに、そう言った。
「うん。分かってる……つもりだ。たぶん」
オレたちは黙って松を眺めた。
「だからびっくりしたいって、悠太はそう思います」
「やめてくれ。あまりにもばかすぎる」
アンベルの言ったとおり、オレに必要なのは休暇だ。間違いなく。忙しすぎると頭が悪くなるのだ。たしか康太が、十連勤ぐらいからばかになってなにも感じなくなる、みたいなことを言っていた。十連勤の意味は分からないが、きっとおぞましい量の労働だったのだろう。
「樫葉はここで、松のお世話をします。それはできることで、たのしいことで、よろこばれることだからです。そのことを、樫葉は知っています。悠太がそうすると、鷹根はよろこびます」
「むずかしいよな」
「むずかしいです。でも、悠太にはできます。樫葉はそれを、もう知っています」
「そっか」
「はい」
斜面に広がる松林は、きれいだった。昔のエルフたちが見た淡雪林にも、きっと負けていないだろうなってオレは思った。
「ありがとな」
うなずいた樫葉は立ち上がって、前掛けと手袋を身につけ、松の剪定に戻った。
「鷹根と悠太がいっしょにいると、樫葉はうれしくなります」
樹形を美しく整えながら、樫葉は言った。
「それは樫葉が、悠太と鷹根のことを好きだからです」
◇
「樫葉と悠太は今から鷹根に会います」
自室で山積みの嘆願書に目を通していたオレは、樫葉のすさまじく断定的な言葉によって、そのときが来たのを悟った。
さしょうさんのところですれちがってから十日、宙ぶらりんのまま過ごす日々も終わりだ。
「分かった」
オレは紙束を机に置いて、なんだか連行されるような気持ちで、樫葉の後についていった。
領主館から、棚田下へ。
春の川は水をたっぷりたたえ、ほとんど動きのないようなおだやかさで流れていた。
草も木の葉も緑色にどこかふてぶてしい強さをはらみはじめていた。
米蒔きの済んだ田んぼでは、領民が草むしりに追われていた。
あぜみちにはびこる雑草は鋭くて、くるぶしのあたりに触れるたび、かすかな痛みが走った。
土はぬるくて泥っぽくてあざやかな香りがして、踏鞴家給地の春のにおいだった。
土と水に、花の香がまざった。満開になったさしょうさんの、重たい芳香だった。
さしょうさんの根元にむしろがしかれ、ちょこんと座っている鷹根が見えた。
正座して、背筋を棒みたいに伸ばして、こちこちに緊張していて、なんだかもうすでにちょっと泣きそうな顔をしていて、オレは今すぐ駆け寄って抱きしめてなにも怖いことなんてないし今日も明日もなにもかもいっさい問題ないってでたらめでもなんでも吹き込んで安心させたい。でもオレは一歩ずつゆっくりと、鷹根に向かう。オレはオレを許さなくちゃならない。その方法が、さっぱり分からないとしても。
「あー……よう」
オレは第一声でさっそくばかをさらした。
「あ、うん。よう」
鷹根も似たようなものだった。
「なんか、その、いきなり呼ばれて、樫葉に」
信じられないほどぎこちない言葉しか出てこなかった。なんだか体の動かし方まであいまいだった。とにかくオレは、無事に座ることができた。
「えと、ごはん、食べようと思ったの。つくってきて、それで、ユータといっしょに食べよっかなあって」
「そっか。うん。そっか」
樫葉が半笑いになった。まあ面白いならなによりだよ。
「鷹根と樫葉は、いっしょにつくります。それはおいしいものです。鷹根、そうですね?」
すっと入ってきた樫葉がうまいこと場をつないでくれて、鷹根は背後に隠していたものをむしろの上ですべらせた。
漆塗りの重箱だった。
「これ、この箱もね、鉄じいさんにもらったんだよ。かわいいよね」
「ああ、そうだな。とんぼか、この絵」
「うん。なにとんぼかな」
「さあ……」
樫葉がやや声を出して笑った。いや分かってるよ、とんぼの話がどうでもいいことにはお互い気づいてるって。
「悠太と鷹根は、おたがいのことを、よく分かります。だから、こうなります」
またも一突きされ、なんなら心臓がまだ動いてるのを不思議に思うぐらいだった。分かってるんだって、察しすぎるのも問題なのは。
オレたちがじりじりといつまでも牽制しあっているのをたっぷり確認してから、樫葉は重箱のふたをぱかっとあけた。
重箱の中には、パンにしか見えないものがちまちまっといくつも並んでいた。
ぱりっとしてところどころひびわれた薄茶色の外側があって、こまかな気泡がたっぷり入った白い内側があった。
二つ割りにしたところに、炒り卵だとか、油漬けにした小鮎だとか、蜜煮の果物だとか、その他なんだか分からないものだとか、いろいろなものが挟んであった。
「あのっ、あのね、パン! ……焼いてみたの。小麦、売りに来た人がいて。その、さしょうさんの酵母で」
「ああ、そっか。桜の酵母か! ちゃんとアルコール発酵性だったんだな」
ということは、さしょうさんの花にはサッカロマイセス・セレビシエなんかの、酒造に適した酵母が棲んでいたのだろう。
オレはパンを手にとって、指でふかふかしてみた。
「グルテンだ! やべえな!」
めちゃくちゃ興奮してきた。すげえな、もっちもちじゃねえか。炭酸ガスが完全に閉じ込められてやがる。
「樫葉たちは、たくさん失敗します」
「ね! お米みたいにはできなかったもんね! 搗いたらちゃんと、ふるいにかけなくちゃだめだったんだよ」
「ああ、ふすまだな。グルテンを切り裂いちまうから膨らみが悪くなるって聞いた」
パンの断面を見ると、赤茶けたつぶつぶが散らばっていた。これが小麦のふすまだろう。
「すげえな、やべえ……」
「悠太は食べようとしません」
くすくす笑いの樫葉にたしなめられて、オレは我に返った。なんでいつもオレはこうなっちまうんだ。おもしろいもんがあるとそれしか見えなくなっちまう。
「ああ、そうだったな。うん。よし。じゃあ、いただきます」
ほおばってみた。
外側がぱりっと割れて、内側がむちっと抵抗して、ふにゃふにゃの炒り卵と、ほろほろの鮎。
甘酸っぱいパンの香り、鮎の川の香り。
舌にざらつく外皮と、甘い内側と、しょっぱい炒り卵と、きしきししてとろける鮎の肉。
「あー……うっま……」
「ほんとに!?」
言葉は思わず口をついて、鷹根がむちゃくちゃ前のめりになった。
「ねえねえ、これ! こっちも食べて! あのね、お父さんがハラタケを採ってきてくれたの! だから炒めて、ノビルとあわせたんだ! 白神さまが教えてくれたやつ!」
「うん……あ、いいなあこれ! なんだろ、苦味だな。きのこの苦味と油。荷鉄のおっさん、やるじゃねえか」
「でしょ! お父さんはきのこもはちみつも詳しいんだから!」
「これは? なんかすっげえ赤いけど」
薄切りにしたパンで、赤いどろどろしたものを挟んである。
「それはねえ、ヤマモモいっぱいなってたから煮てみたの」
ぎゅむっと噛みしめたパンの中から、ヤマモモがとろっと流れ出てきた。かすかに松やにの香りがして、むちゃくちゃ甘酸っぱいところに、パンのかすかな塩気がうれしい。
「そのパンは、塩をすこし強くします。そうすると、よく合います」
「すげえ手間だな、具材ごとに生地から焼き方から変えてんのか?」
樫葉は自慢げにうなずいた。
「康太のパンじゃないパンよりもおいしいパンです」
「なんだそれ? まあいいや、とにかくうまいよこれ」
「あ! のみもの! ちょっと待っててね!」
鷹根が、石に囲まれた火床をつついて熾火をおこし、水の入った鍋をかけた。樫葉が三つの杯を用意して、底に、なんかくっしゃくしゃの花を置いた。
「なんだこれ?」
「桜の花の塩漬けです」
「それはね、エルフの食べものなんだって! お父さんが教えてくれたんだよ」
「なんでも知ってんな、荷鉄のおっさん」
沸いたお湯を、杯に注ぐ。くしゃくしゃだった花がふんわり開き、お湯がかすかに茶色く染まった。
「こうするとおいしいの。あたしが見つけたんだよ」
「味の想像がまったくつかねえ」
杯を手にして顔に近づけ、はっとするような湯気の香りだった。満開のさしょうさんよりもなお強く、桜の匂いだった。渋いようにも甘いようにも、種のようにも樹皮のようにも感じた。
口をつけると、塩けとわずかな渋み。香りのおかげか、なんとなく甘味を錯覚した。
「うん。いいな」
「いいでしょ」
鷹根はにっこりした。
重箱の一段目が空っぽになって、二段目に収まっていたのは、ピザみたいに円盤状で、しかし黄金色でざくっとした見た目のものだった。
「これね、なたね油で揚げてみたんだよ。讃歌さんに油絞ってもらった」
「親父も付き合い良いんだよな、なんだかんだ言って」
「ね。すぐ怒るのに」
一切れ、手に取る。動物の肉っぽいものが乗っていて、白くとろみのあるソースがかかっていた。
「なんかね、豚肉だって。ベーコンっていうんだよ。はじめて見た」
「アンベルが食いたがってたな、そういえば。あいつ輸入したのか」
「ソースも、アンベルがつくります」
「え、あいつが?」
あいつ料理すんのか? 想像できねえな。
「味見してくれたんだ。サワークリームっていうのがあってね、それにしたいなーって思ってやってみたの。豆乳に白麹のお酢を入れて、ぎゅううう! って絞ったらできた」
「見たことも聞いたこともねえな」
まあとにかく、食ってみる。
「あっわ、あっははは!」
爆笑してしまった。
「なんだこれ! すげえな!」
ざくざく砕ける揚げたパン生地、かりかりでしょっぱいベーコン、酸っぱくて甘くてすがすがしい香りのサワークリーム。なにもかも知らない味で、なのに三つでぴったり完璧だった。
「あーでもこれ、油っけがな。酒欲しくなるよな」
「そうでしょ!」
いきなり鷹根が信じられないぐらいばかでかい声をだしたので、オレたちはかなり後ずさった。田んぼにいた領民までもが、手を止めてこっちに目をやった。
「なんでもねえ、私事だ! 気にすんな!」
オレは田んぼの連中に声をかけた。民は呆れ笑いを浮かべて首を振り、仕事に戻っていった。
「そう! そうなの、あのねつくったんだよ! さしょうさんの花にね、はちみつ! そしたらずっとぽこぽこ言ってて、すごかったんだもん! ね、樫葉ちゃん!」
樫葉はオレたちにほほえみかけた。
「鷹根は、悠太のためのお酒をつくれます。それは、覚書のお酒です」
オレはちょっとだけ、言葉を探す。
「ああ……そうだな」
オレの中のどんな引き出しを開けてもふさわしい言葉は見つからず、だからオレは、ぼんやり、うなずく。
鷹根は小さなかめを背後から引っ張り出して、三つの杯に酒を注いだ。受け取って、濁った液面に桜の花びらが落ちる。
示し合わせたわけでもなく、三人がぴったり揃って、杯に口をつける。
とろっと甘くてぴりっと辛くて、アルコールの野蛮な味。
さしょうさんの香り。
はちみつの香り。
いつかどこかでほおばった巣蜜の甘さ。
オレはなんだか、いろんなことをたちまち思い出す。
いつでも忘れたくないのに、どうしてだかついつい置き去りにしてしまうたくさんの記憶。
「はちみつな」
ふさわしい言葉は知らないけど、オレは言う。
「うん」
「探しに行ったんだ。康太とふたりで、やべえぐらい深い森に迷いこんだり。ピスフィとミリシアとジジイに助けてもらって、すげえ暑いころでさ。ミリシアも鎧脱ぎゃいいのに、勝手にへたばってた」
忘れたくない、いつも想っていたいんだ。でもそれには努力とか時間とかいろんなものが必要だった、ちょっと気を抜くとすごく簡単になにもかも当たり前になって、こいつになら八つ当たりしても許してもらえるなんて、そんなふうに思うのが仕方のないことだとしても、きちんと戦わなくちゃいけなかったんだ。かたちにしなくちゃいけなかったんだ。
「うん」
「オマエが……」
ふさわしい言葉は、知らない。
「オマエが、どこかに行っちまうと思って、怖かった」
鷹根がオレを見ていて、笑ってくれていて、だから言葉は、滑り落ちるように出てくる。
「ユータ」
いざってきた鷹根が、オレの手を取る。
「お誕生日おめでとう」
だから、伝えなくちゃいけなかったんだ。
生まれてきてくれてありがとうって、出会ってくれてありがとうって。
オレは滑り落ちていく言葉のために口を開く。
「愛してる、鷹根」
鷹根はオレの腕に体をぴったりくっつけて、オレの肩にほほをぴったりくっつける。
「ユータ。愛してる。あたしも、愛してる」
オレはようやく、オレを許す。
◇
「悠太さん?」
旅装のオレを見たアンベルが、まったく過不足のないことを言った。
「休暇だ」
なにかごちゃごちゃ言われる前に、オレはきっぱり宣言した。
「そうだよ! ユータは休むの! あたしといっしょに!」
同じく旅装の鷹根が、アンベルに指を突きつけて念押しした。
「はあ……」
アンベルは再び過不足のないことを言った。
「放牧問題は双方に代表者を立てて折衝させる。外来種問題は田んぼ仕事の合間にやらせる、報酬乗っけてな。他の仕事は父様とジジイに任せた。どうだ」
オレは胸を張った。
「いや、何も言ってませんけど」
「分かったな?」
「ボクの許可、いります?」
「分かったな?」
根負けして、アンベルは笑った。
「お忘れですか? 悠太さんに休暇を勧めたのはかしこいボクですよ」
「ああ、かしこいアンベルの言う通りだった。オレは休むぞ」
「それで、どちらまで?」
「いっぺん海まで下る。寒川家給地から船出して、王都だな。で、うまいもん食って劇を見て本を買って、あと、むちゃくちゃに寝る」
「ぜったい楽しいよ! ね、ユータ!」
オレの腕にがっちりしがみいついたまま、鷹根がぴょんぴょん飛び跳ねた。
「楽しい旅になることを祈っていますよ」
「祈らなくてもいい。当然そうなるからな」
オレはしたり顔をつくった。アンベルは狙い通り、オレのことを今すぐ力いっぱいぶっとばしたそうな表情になった。
「夏までには戻る。あとよろしくな」
「ねぇー、行こ行こ! はやくはやく!」
急かす鷹根のほほをさらりと撫でて、黙らせる。
それからオレたちは、前に進む。
◇
悠太と鷹根が出て行くと、入れちがいに樫葉が入室した。壁にかかった一輪挿しの花を換えると、彼女は黙って出て行こうとした。
「樫葉さん」
「はい」
呼び止めてから、アンベルは話題を探す。
ふと、一輪挿しが目に留まる。花ではなくて、青々した葉っぱをつける枝がささっている。
「花ではないんですね。いえ、不満というわけではないんですが」
「アセビの花はまだ咲きません」
「なるほど?」
問いに対してなんとなくずれた答えが返ってきたので、アンベルはちょっとひるんだ。
「その、それじゃあ、どうしてアセビを?」
樫葉は指で葉っぱをはじき、口元をかすかに持ち上げて笑う。
「昔、樫葉は聞かされます。花には花の声があるのだと、鷹根に教えてもらいます」
「ふむふむ。それで、アセビの声というのは?」
樫葉はどこか遠くに目をやる。鷹根と悠太が旅の途上にある道を見透すように。
「ふたりでいっしょに、旅をしましょう」
踏鞴家給地の誕生日 おしまい!