踏鞴家給地の鶏白湯③
ばかでかい鍋にたっぷりのお湯をわかし、豆乳味噌ラーメンのときにもつかった笹ざるで麺をゆがく。
あたためた鶏白湯と鮎だしをあわせ、どんぶりにたっぷり注ぐ。
味付けはシンプルに塩だけ。
ざるを鍋から引き上げ、四つまとめてざばっと湯切り。
スープに沈めた麺をすくいあげてほぐし、折り重ねるように形をととのえる。
ここに秘密兵器を投入しよう。
干し鮎を低温でじっくり揚げて香りをうつした、鮎油。
これをたっぷり回しかける。
かりっかりに干したオイカワをまるごと突き砕いた、魚粉。
麺の上にぱらぱらっと散らす。
具材は、あえてなし。
シンプルにスープと麺を楽しんでいただきたい。
どんぶりを四つ、お盆にのせて客間に持っていく。
「お待たせいたしました。鮎だし鶏白湯ラーメンです」
ほこほこと立ちのぼる湯気は鶏と煮干しの香りをまとい、重量感すら感じる。
鮎と鶏白湯のダブルスープは、怪しくも美しい赤銅色。
「わああ……なんかきらきらですね!」
榛美さんが座ったままぴょんぴょんした。
たっぷり張った鮎油の膜で、スープも麺もきらきら光っている。
「で、ラーメンて言ったらこれだよね」
割り箸をみんなに配る。
榛美さんはきょとんとし、悠太君はさっきのことを思い出して渋い顔をした。
「作法ッてもンがあるンだよ、こういうのには」
鉄じいさんは割り箸を前歯で噛んで、ぱきっと割った。
「あ、そうやんのか。なるほどな」
「半分になりましたね!」
悠太君と榛美さんが感心した。
それ、慌ただしいランチタイムのおっさんしぐさだと思う。
慌ただしいランチタイムを経験したおっさんの白神がもたらしたんだろう。
「さあ、手をあわせてください」
親指とひとさし指の間に、割り箸をはさむ。
僕も、慌ただしいランチタイムのおっさんしぐさに倣いたくなったのだ。
「いただきます!」
ぱきっ。
割り箸の割れる音がひびく。
麺を持ち上げて、すする。
「うっわ、うわうわうわこれ……あはははは!」
僕はのけぞって笑った。
すごい、すごいぞこれ。
「な、なんかこれ! これ……! ちゅるちゅるで、とろとろで、なんか……! わああ!」
おっかなびっくり麺をすすった榛美さんが、一発で興奮した。
「アルカリ……これ、アルカリの力なのか? 噛んだらぱつって切れたぞ」
悠太君は茫然としながら、なんとか理論らしきものを組み立てようとしている。
「あァ、良い小麦じゃねェか。噛むたびに、ふすまと灰が香りやがる」
鉄じいさんは目を閉じ、しみじみとした。
「いやこれはちょっと……やっぱり危険なやつだったよ」
低加水の全粒粉麺は、前歯に当たった瞬間ぱつんと弾けて、小麦の甘い香りと灰汁のひなびた香りをまき散らす。
麺に絡んだとろっとろのスープは、こくと塩気が強烈な重量級。
濃厚な鶏白湯とさわやかな鮎だし、二つの香りが、鼻の奥でめまぐるしく入れ替わる。
強烈な鶏白湯の匂いを、散らした魚粉がおとなしくさせている。
さわやかな鮎だしの香りを、たっぷりの鮎油が盛り立てている。
「だからオレ言ったろ、これやべえって言ったろ」
悠太君が僕の肩をつかんで揺さぶった。
鼻息が荒い。
あきらかにスープがキマっている。
「すぞぞぞぞ……けほっけほっ! なんか奧に! 奧まできた!」
勢いこんで麺をすすった榛美さんが、おもいっきりむせる。
「ううー……おいしいやつなのに、一度にたくさん食べられないやつです」
涙目でこっちを見てくる榛美さんのくちびるが、なんか、てかてかのつやつやになっている。
鶏白湯あるあるだ。
「あ、くちびるおいしい! 康太さん、分かりました! くちびるがおいしいです!」
くちびるをぺろりとなめた榛美さんが、真実に辿りついた。
これもまた鶏白湯あるあるだね。
「薬味も用意してみたよ」
のびるの茎と鱗茎を、それぞれ刻んだもの。
こいつをどっさり盛って、ふたたび麺にいく。
「んんん! しゃきしゃきのやつですね!」
「うん、ちょうどいいねこれ」
のびるの香りが加わると、スープが一気にこざっぱりする。
鱗茎の、ちょっとぴりっとする刺激で、ばかげた濃厚さにいくらでも立ち向かえる。
「……酢だな。こいつには、踏鞴印のもろみ酢だ」
鉄じいさんが、神託を下すみたいに重々しく言って立ち上がった。
土間からお酢の入った壺を持ってきて、ひと垂らし。
ぞぞっと啜りこむ。
「ン……間違いねェ」
「ま、間違いないのか」
「まちがいないんですね!」
「間違いなさそうですね」
僕たちはただちに合意形成し、スープにもろみ酢を少し垂らした。
「うわこれ! 間違いない!」
一口食べて、僕はおもわず叫んでしまった。
なんて間違いのなさだ。
鮎だしのほのかな酸味がクエン酸に助けられてきりっと際立ち、スープがまったくの別物に化けた。
酸味と塩気が前に出て、うしろにかすかなほろ苦さを感じさせる。
鶏白湯が鮎煮干しに道をゆずったかのようだ。
「これは……康太さん、これはよくないやつですよ。よくないから、もっと食べますから」
麺をすすった榛美さんが神妙な表情で論理矛盾した。
れんげがわりの木さじにスープをすくい、麺とのびるをちまちま乗せている。
木さじの中に小宇宙をつくっているのだ。
「なんだそれ、ずるいぞオマエ」
スープのキマった悠太君が榛美さんをいたずらになじり、さっそく真似をしはじめた。
榛美さんと悠太君がちまちましはじめたあたりで、僕と鉄じいさんは食べ終えてしまった。
「はーおいしかった……はあああおいしかった……なんて危険なものを作り出してしまったんだ僕は」
「まッたくだぜ。ふざけやがッて。手前ェは本当にろくなことをしやがらねェ」
スープを飲み干した鉄じいさんが、早口で悪態をつく。
さてはスープがキマっているな。
「よし、お酒呑みましょう鉄じいさん! あてつくりましたから!」
むろん僕もしっかりキマっているので、なんか声が大きかった。
用意したのは、鶏がらに残った肉をほじり、水気を飛ばすぐらいに炒ったもの。
こいつを自家製マヨネーズとからめれば、無敵のあてができあがる。
氷をたっぷり詰めた、蒸留酒の水割りでいっちゃおう。
「……んふー」
ため息が漏れる。
ここに、マヨネーズで和えた鶏がらだ。
ぱっさぱさのお肉には、きゅっと噛みしめる楽しさがある。
「康太さんがお酒を! ずるいですよ!」
榛美さんもまたキマりきっているので、酔っていないのに声が大きい。
カロリーってすごいね、人にやみくもな力を与えてくれる。
「んん……んんんんん!」
僕のお酒をかっぱらった榛美さんが、かなり大きめのうなり声をあげた。
「康太さん、たいへんですよ! なんか味がいなくなりました!」
油とコラーゲンでてりてりになった口を、蒸留酒の香りと甘さがいちどきに洗ってくれるのだ。
こうなるともう無限だよね。
「あ、わかりました! これでまたスープがおいしいやつですね!」
今日の榛美さんは次々に真実をあばくなあ。
麺もスープもあっという間になくなり、鶏がらをほじったのも種切れになった。
「また食わせやがれ。足高を締め上げちまえば、鶏はいくらでも出てくるぜ」
ほろ酔い加減の鉄じいさんが上機嫌で帰っていき、
「すげー疲れたわ」
悠太君が悪態をつきながら榛美さん家を出ていく。
「はふー……たくさんたべました……だめになりました」
榛美さんがあおむけになり、自分のおなかをぽんぽん叩いた。
なんか、ものすごく小気味のいい音がしている。
僕も横たわって、榛美さんのまねをしてみる。
想像以上に小気味のいい音が出た。
いっぱいになったおなかが、太鼓みたいにぱつっと張っている。
榛美さんが、くすくすわらった。
僕もつられて、わらった。
「ごちそうさまです、康太さん」
「いえいえ。ありがとう、榛美さん。おかげでおいしいラーメンをつくれたよ」
「なにしろ小麦ですからねえ。なにしろ康太さんですし」
どうやら小麦と同列に評価されたらしい。
身にあまる光栄だ。
「ねえねえ康太さん、康太さんは楽しくなれましたか?」
肘をついて上体を起こした榛美さんが、そんな風に問う。
僕がうなずくと、榛美さんはふにゃふにゃっとわらって、こっちに転がってきた。
「ん」
いそいそと僕の腕をひっぱりだして、枕にする。
頭を細かくうごかして、長い耳をたたんだり曲げたりして、ちょうど良い位置を探す。
「んふー」
納得がいったみたいで、僕の肘のあたりにおさまって、目を閉じる。
たちまち、寝息を立てはじめる。
榛美さんのからだが、ゆったりと一定のリズムで上下する。
眺めているうち、なんだか僕も眠くなってきた。
あまりにも色々なことがあったけど、最後にはいつものように、おいしくできたみたいだ。
榛美さんのつむじを見ながら、わけもなく僕は、確信している。
きっとこれから先のありとあらゆることに、僕はちゃんと向き合えるだろうって。
榛美さんの髪にそっと鼻先を当てて、僕は目を閉じる。
あっという間に、幸福な夢の中へとすべり落ちていく。
「おおい榛美ちゃん――あー」
「おうおめえ、讃歌の旦那おめえ、どうしたんだおめえ」
「……今日は酒は無しだ。おまえら、帰って勝手にめしにしやがれ」
「いやいやいやおめえ! おめえ、そりゃあ昨日はおめえ、色々あったけどおめえ……あー」
「だろ?」
「まあおめえ、たまにはおめえ、一人のめしも気楽ってもんだぞおめえ」
――おやすみなさい。
踏鞴家給地の鶏白湯 おしまい!