踏鞴家給地の鶏白湯①
本短編は、WEB版五十四話『フロアモルテッド』において、榛美さんの持ってきた小麦が発芽していなかった平行世界のお話です。
鉄じいさんが帰って、客間には僕と榛美さんと籐編みの長持が残された。
これはまったくもって驚くべきことだけど、長持には小麦が山盛りに入っている。
鉄じいさんと一緒にでかけた榛美さんが、買ってきてくれたのだ。
「小麦……小麦かあ」
あまりにも、夢がふくらみすぎる。
「あれができる、これもできる……ああまずい、なんか頭おかしくなってきた」
「こ、康太さん? だいじょうぶですか?」
「動悸がする上にすごく手が震えているけど、それ以外は大丈夫だよ」
「それならいいですけど」
エルフの娘さんが、ふところの深いところを見せてくれた。
うわまずい、なんか背中から変な汗出てきた。
軽くパニックになってるぞこれ。
この世界は――すくなくとも踏鞴家給地は――もち米を主食とした粒食文化だ。
粒のまま食べてもあんまり美味しくない小麦は、栽培すらされていない。
現代日本で居酒屋をやっていたそこらへんのおっさんにとって、これは致命的なことと言えた。
なにしろ唐揚げひとつ尋常なやりかたではつくれないのだ。
今でも、カマンベールチーズにパン粉はたいて揚げたやつでハイボールを呑るような夢ばかり見ている。
料理とは、すなわち文化と文明なのだ。
「ううう……ううううう……」
「わああ! 康太さんがなんか、釣れたばっかりみたいに!」
僕は小きざみに震えはじめた。
いきなり選択肢が広がりすぎて、どこから手を付けたものかさっぱり分からない。
ただちにこの原材料という無秩序に手を加え、なんらかの秩序を得たいという料理人の本能だけが先走っていた。
「パンは――だめだ、酵母がない。酒種も酸味が出ちゃうぞ。となると……あれだ!」
僕はがばーっと立ち上がり、土間に飛び込んだ。
かまどのふたを開けて頭を突っ込み、ありったけの灰をかき出して水桶にぶちこむ。
「わああ! 康太さんがなんか、灰色のひとに!」
榛美さんは力いっぱいとまどった。
「だいじょうぶ、榛美さん。だいじょうぶだから」
僕はにっこり微笑んで榛美さんに歩み寄った。
「けほっ! 灰色のひとが近くてけむい!」
榛美さんは不器用にでんぐりがえってパーティションの裏に飛び込んだ。
民間伝承にしか現れない危険な妖怪みたいになっている自覚はあるけど、これはぜひとも必要なことなんだ。
「だいじょうぶだよ、今はちょっとけむいけど、最終的にはだいじょうぶだから」
「わああ! わああああ!」
なおも榛美さんをなんとか説得しようとしていると、
「……は?」
戸口の方から、あまりにも耳なじみのある呆れ声が聞こえた。
「……いや、なんだこれ」
もちろん声の主は、悠太君だった。
「あ! 悠太君! 実はさあ小麦が」
「げっほげほ! けっむっ! 近寄んな!」
悠太君は体を折って激しくむせた。
「小麦が手に入ったからさ、ラーメンをつくろうと思うんだ」
僕は踏みたおした。
悠太君は、根ぶかい疑惑と底ぬけの困惑に満ちた瞳で、僕の頭のてっぺんから爪先までをじっくりと眺めた。
「……はあ」
最終的に出力されたのは、いつもの通り、ため息だった。
僕なんかはこのため息を聞くとちょっと安心するほどだ。
「いつも通りの顔しやがって。損した気分だわ」
「そんなことないよ。だってほら、なにしろ小麦が」
「うるせえよ。で? 今度は何をさせるつもりなんだよ」
「白湯にしようと思ってるんだけど、がらスープ引くの手伝ってくれる?」
「だから、早いんだよオマエいっつも。白湯もがらスープもわかんねえよ」
悠太君は、皮肉っぽい表情をつくろうと努力していた。
だけど、その目に宿る知的好奇心の輝きは隠しようもない。
「じゃあまずは、のびるをむしるところからはじめようか」
◇
用意する材料はふたつだ。
松切り番さんに唐揚げをお出ししてからこっち、ずっと冬の宮で凍りついていた鶏がら。
榛美さん家の裏でむしってきたノビル。
鶏がらは、肉のすきまに残る血のかたまりをむしってから、五分ほど下ゆでしてあくを抜く。
あらためて、ぼこぼこに沸騰させたお湯に放り込む。
のびるは、茎も鱗茎も鍋に入れちゃおう。
香味野菜が手に入らない土地で、せめてものくさみ消しだ。
「食うために入れるんじゃねえんだな」
悠太君は、鍋の中でのびるが踊るのを、興味深そうに見ている。
「ほんとは、にんじんだのしょうがだの入れるんだけどね。ないものはない、あるものはある」
白湯をつくるなら、鶏がらは強気の炎でがんがん焚いていくのがこつだ。
水はあっという間に減っていくので、鶏がらの十五倍ぐらいがめやす。
だんだんスープがにごってくる。
たっぷりの湯気が、おいしそうな香りを乗せてたちこめる。
「んすっんすっ……なんかいいにおいがなんか」
すると、香りにさそわれたエルフの娘さんが、パーティションの裏から這い出してくるという寸法だ。
「ちょっと待っててね。いま白湯を炊いてるから」
「ぱいたん……」
榛美さんは口を半びらきにしてから、
「なんかおいしいやつですね!」
にっこりした。
「オマエ、そういうとこすげえと思うわ」
悠太君はときどき、榛美さんのふところの深さに懐疑的なのだ。
「でも康太さんがけむたくなると、めぐりめぐって最後にはおいしいんですよ。ユウだって知ってますよね」
「白神がけむたくなったところ、そんな見たことあるのかよオマエ」
「ありがとう、榛美さん。そんな風に評価されたのは生まれてはじめてだけど、とてもうれしいってことが分かったよ」
「なにしろ康太さんですからね!」
なにしろの使い方があまりにものびのびしている。
とはいえ、そこまで全幅の信頼を置かれたからには、ぜひとも応えなくっちゃね。
「悠太君、榛美さん、ちょっと焦げつかないように見ていてくれるかな。他にも用意したいものがあってさ」
「はい!」
「え? それオレやるの?」
「まあまあユウ、康太さんがなにか用意しはじめると、めぐりめぐって最後にはおいしいんですから」
「は? それ気に入ったの?」
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
僕は榛美さん家を飛び出した。
◇
向かったのは、沼のほとりにある鉄じいさんの家だ。
「あの、鉄じいさん。実はどんぶりとお箸がほしいんですけど」
鉄じいさんはあごひげをしごき、ため息をついた。
「ええと、だめですかね」
「違ェよ。昨日の今日だぞ。なンだッて手前ェはもうへらへらしてやがるンだ」
「いやその、小麦が手に入ったので……」
鉄じいさんはだまって頭を横に振った。
もしかしてこの言い訳、だれに対してもなんの正当性も得られないのかな。
「こう、なんていうんですかね。木の端材に筋が入っていて、ぱきっと割れてお箸になるような……割り箸っていうんですけど」
僕は踏みたおした。
「割り箸なら知ッてる。ヘカトンケイルにいた頃ァ、よく見たもンだ」
「あ、じゃあ!」
「手前ェなら、この土地にそれがねェ理由も分かるだろ、白神」
「んー……ああ、そっか」
そもそも割り箸の原材料といえば、加工の際にあまった木材の切れっぱしだ。
ところがこの土地では、林業があんまりメジャーではない。
まず、大鋸、つまり木材加工用のばかでかいのこぎりが存在しない。
踏鞴家給地では、木目に沿ってくさびを打ち込んで叩き割る、打ち割り法で木材を得ている。
次に、周囲に生えまくっているのがケヤキで、これは材にするのに適した木とはいえない。
節が多い上に木目も素直でないため、打ち割り法ではまともな材を取り出せないのだ。
「しまったなあ……夢中になりすぎて忘れてた」
「まァ、やッてやれねェことはねェけどな」
鉄じいさんは、よっこらしょと立ち上がった。
「できあがッたら、榛美の家に持ッて行く。白神、俺の分もあるンだろォな、えェ?」
あれ?
なんか、話がはやいぞ。
「ええと……いいんですか」
「手前ェが頼ンだンだろォが」
鉄じいさんはめいっぱい鼻白んだ。
それから、
「好きにやッてるみてェでなによりだぜ」
悠太君そっくりの皮肉を口にし、土間から外に出て行った。