なんだかんだで姉弟
晩ご飯を食べにファミレスに行く途中、進行方向から歩いてくる同い年ぐらいの女の子たちの会話が少しだけ聞こえた。
「また告られたんだって?」
「もういいじゃん、その話」
「いや、だってサッカー部の伊達先輩でしょ? 返事はどうするの?」
「……断る、けど」
「えーっ!? もったいない!」
聞こえたのはここまでだ。すでにすれ違っていて、彼女たちの背中は小さくなっている。
気になる話題だったから目ざとく目で追ってしまった。俗っぽい行動をした自分に対して溜息をついて、彼女たちの会話に興味を持ってなさそうな姉ちゃんの背中をついていくように歩くと、目的地のファミレスについた。
「ごゆっくりどうぞ」
愛想のいい店員さんが慌ただしく去っていく午後六時三十分。おれと姉ちゃんは同時に手を合わせて声を出した。
「いただきます」
三百グラムのハンバーグを箸で一口サイズにして口に運ぶ。母さんが作るよりも美味いな、とファミレスで十分に満足できる舌にある種の感謝を込めていると、姉ちゃんが話しかけてきた。
「あんたさあ、まだ彼女できないの?」
三口目のハンバーグをつかんだ箸の動きを止め、おれは姉ちゃんに目を移す。呆れているような表情で、ため息をつかれた。
「もうあと数か月で高二になるっていうのに、情けない」
「まだなんも言ってねえじゃん」
「顔見りゃわかるわよ」
なにも答えれず、ごまかすようにハンバーグを口に運んで白米を多めに掻きこむ。飲んでなかった水を一気に喉に通して息をつく。
待ち構えてたかのように、姉ちゃんが見下すように笑った。
「わたしがあんたぐらいのときには、もう三人目の彼氏がいたもんだけどね」
「……随分と移ろいやすい愛をお持ちで」
「報われない愛より幾分かマシよ」
「尻軽」
「童貞」
「薄っぺらい女」
「愛される価値のない男」
このような口を叩きあうのは珍しいことじゃないけど、今日は言われっぷりが酷い。家を出るときから思っていたが、どうやら機嫌があまりよろしくないらしい。
それはそうとて、『愛される価値のない男』という言葉にムカッとして口元が歪んだとき、注文したものが届いた時にちょうど空いた隣の席を店員さんが掃除しに来た。
さすがにだれかに聞かれるのはまずいと思うのか、姉ちゃんの口撃が止んだ。
気にしていることを突かれたからといっておれも言い過ぎたことを反省する。いくらなんでもさっきのおれの言葉は失礼だ。
向こうもそんなことを考えていたのか、店員さんがいなくなると、バツが悪そうに切り出してきた。
「……で、実際どうなの? 好きな子もいないの?」
「別に――」
最後まで言わせてもらえなかった。
「どんな子? さっきの告られた子みたいなかわいい子?」
好きな女の子がいる、というのを確信した返しに、すぐには返事が出てこなかった。
「…………なんでわかった」
「すぐ顔に出るから」
「そんな出てる?」
「それはもう、可哀そうなぐらい」
水を飲もうとコップを手にして中身が空なことに気づく。手を離して一息ついた。
「あんた、わかりやすいって言われるでしょ」
「まあ……」
姉ちゃんが小さな窓から寒い外を見た。窓を暖めるかのように息を吐いた。「最近はあまり言われなくなったけど、わたしたちってよく『似てる』って言われたよね」
当然のことながら、おれが生まれたときから姉ちゃんは姉ちゃんで、年上で、それなりに仲が良く、記憶もないほど小さなころは、母さん曰く『いつも修吾は澄子を追いかけてた』らしい。おれが生まれて十六年。いま現在の高一の冬まで喧嘩は何度もしたけれど、概ね仲の良い姉弟であり続けている。
そんなおれたち二人は、親や近所の人や友達なんかに『似てる似てる』と言われつづけてきた。
そんなことはない。そう思っているのは姉弟だけで、周囲からはそう思われてないみたいだったけど、言われてみれば最近言われることが極端に減った気がする。
「……まあ、やっと周りの人たちも似てないことに気づいたんじゃない?」
二人で行動する機会が減ったから、とは、なんとなく口にしなかった。
「そうだといいけど」姉ちゃんはふんわりとした笑顔を浮かべた。「でも長かったねー。わたしたち全然似てないのにさ」
「まったく」
同調して付け合わせのサラダを口に運んだとき、店の入り口側から店員さんに案内されて、吉武さんが友達と思われる子と二人でこっちに来ているのに気がついた。
「あっ」
吉武さんがおれに気づいて手を上げてくれる。おれも手を上げて応えた。それだけのやり取りで胸が透き通るような感覚になる。多幸感が体の隅々まで広がる感覚。
多幸感、という言葉が、薬物などを使用した際にもたらさせる幸福感という意味を持つことをつい先日知ったけど、これほどの気持ちに簡単になれてしまうのなら、薬物に手を出してしまって抜け出せなくなるのも、いまなら理解できる気がした。
吉武さんが空いた隣の席を通り過ぎて、よかったような残念なような、それでいてほっとした気分になった。
サラダを飲み込み終わると、姉ちゃんが口元を抑えながら笑っているのに気がついた。
「あ、あんた」声が震えている。「わかりやすすぎ……」
まだ喋りたい様子だけど、笑いすぎてうまく話せないらしい。
代わりに喋った。たぶんバレてる。「なにが?」
「なにがって……」姉ちゃんはごふっごふっと咳をして、それから水を飲んだ。深呼吸をして気持ちを落ち着かせたようだが、顔のにやつきは直ってない。「あんた、あの子のこと好きなんでしょ」
顔に締まりなさすぎ、とつづけてさっきのおれの顔でも思い出したのか、また笑いだした。
やっぱりバレてた。笑いたければ笑えばいい。それに笑っている間はそのことについて話をしなくてもよくなる。
姉ちゃんが大げさに笑っている間に、おれはあらかた食事を終えることができた。
……笑いすぎだろ。
これでもか! というぐらい呆れた顔を作って姉ちゃんを見る。思いが通じたのか、姉ちゃんが笑いをおさめた。
「かわいい子じゃん。あんたって面食い?」
「違う」
と言ったものの、一目惚れだったのでそれ以上はなにも言えなかった。不自然さがないようにハンバーグを口に入れた。のどが渇いた。
「あれだけかわいいとライバル多いんじゃない?」
「知らん」
「絶対多いって。諦めたら?」
うるさいなあ……。
「同じクラスの子?」
ああもう! なんで女ってのはこの手の話になるとぐいぐい来るんだよ。詮索はほどほどにして、あとは黙って見守ってりゃいいじゃん!
だけどこのまま黙っていても姉ちゃんは質問を取り下げたりはしない。付き合いが長いんだ。吉武さんがおれのことをどう思っているのかわからなくても、それぐらいはわかる。
「……同じ部活の子。クラスは違う」
「うわっ、演劇部」
「うわっ、てなんだよ」
「や、だって、あんだけかわいいんだし役者でしょ? キスシーンとかバンバンやるんじゃないの?」
「吉武さんも裏方だから」
「もったいない」
先輩たちと同じことを言うんだな。「……それにキスシーンがあったとしても本当にするわけじゃないから」
寸止めで終了です。
「えーっ……。見せろよ役者魂」
「プロでもないんだし、キスはデリケートな問題だから」
先輩に聞いた話によると、かつて文化祭で劇をやった際、寸止めのはずのキスを無理やりしようとした男子生徒が、その場で女子生徒にグーパンされて面倒事になったらしい。
それ以来、わが校の演劇部は恋愛ものの公演を自粛している。
「でも同じ部活ってことはまだチャンスあるかもね」
なにが『でも』なのか『まだ』なのかわからないが、突っ込まないでおく。「まあ、それは、そうなんだけど……」
「歯切れが悪いわねえ」少し間があって、姉ちゃんがポンッと手を叩いた。「ああ! 彼氏持ちか! 普通に考えたらいるよね、あの子は。周りの男が放っとかないでしょ」
「いや、彼氏はいないって言ってた」
「本当に? あんたで遊ぼうとしてんじゃないの?」
姉ちゃんがからからと笑う。
「おい」反射的に感情のこもった声が出た。「よく知りもしないのに人を悪く言うなよ」
「あっ、ごめん……」
姉ちゃんは気まずそうに目をそらして、そろそろ冷めかかっている頃合いのオムライスを一口食べた。
マネするわけじゃないけどおれも食べる。食べ終わった。その間、会話なし。
姉ちゃんは落ち込むと長い。このままおれが話しかけないでいるとすると、気まずいまま店を出て、そのままの雰囲気で家に帰ることになりかねない。
仮にそうなったとしても次の日にはいつも通り会話をするはずだけど、沈んだ空気はあんまり好きじゃない。
……おれから折れておくか。
「……吉武さんは中学のころにバスケ部のキャプテンから告白されて、それでそのキャプテンを好きな子から嫉妬されて嫌がらせをされてから、恋愛には億劫らしいよ」
姉ちゃんがすかさず食いつく。バツはどこかに飛んでったようだ。たぶん姉ちゃんにとって、この手の話はどんな牛肉より美味いのだろう。「ああー。まあ女子ってそういうとこあるもんねえ。わたしの周りでもあったあった」
「……女子、怖ええ」
「男子も似たようなもんだと思うけどね。恋愛が絡めば。それはそうと、『らしい』ってどういうこと? その話は本人から聞いたんじゃないの?」
「吉武さんの友達から聞いた」
姉ちゃんが前髪をかき上げた。「はあ……。あんた、たぶん先は長いよ」
「それは、おれもそう思う……」
「まあでも頑張んなさいよ」姉ちゃんが慈愛を感じさせる笑みを浮かべた。「好きな人と遊びに行くと、それだけでもう、ホントに幸せなんだから」
おれは頭のなかで思い描く。いまの寒い季節、「手が冷たいね」と上目遣いになる吉武さんを。黙って手を出すとうれしそうに手をつかむ彼女を。手が小さいな、指が細いな、と思いながら恐る恐る指を絡めると、強く握り返してくる感触を。
「修吾、顔っ! 顔っ!」
指摘されて初めてだらしない表情をしている可能性に気がついた。いや、間違いなくしていたと思う。じゃなきゃ、指摘なんてされない。
「そんなに好きならちゃんとアタックしなさいよ。……後悔したくなければね」
姉ちゃんの言葉にはなにやら決意のようなものが感じられた。
通りすがった店員さんに水のおかわりを頼み、姉ちゃんが食べ終わるのを待つ。
もう終わる、というタイミングで、「あれ? 澄子じゃん」と女の人がおれたちのテーブルの横で立ち止まった。
「えっ! 恵!?」
「弟さん? と晩ご飯?」
「うん。どうしてこっちに?」
そっから先の会話は耳に入らなかった。正確に言えば、入っていたかもしれないが、記憶として残らなかった。
それだけインパクトのあることが、おそらくこの店のなかでおれだけにあった。地面が揺れるような衝撃が。
……なんて、なんて締まりのない顔なんだ……。