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桃色

作者: 伊豆泥男

 一晩寝ても、やるせなさは消えてくれなかった。それどころか、起きても隣に誰もいないという事実が、ぼくをさらに惨めにした。忌々しいことに、このベッドは一人には大きすぎる。ぼくは布団から出、カーテンを開けた。いやらしい雨が降っていた。


 おはようと口に出してみた。もちろん返事はない。昨日までなら、彼女がおはようには遅すぎるとか言いながら、ひょっこり顔を出してくれたのに。今となっては、このアパートの一室に、彼女の痕跡はほとんど残っていない。


 もちろん、悪いのはぼくだ。あんなに素敵な彼女を差し置いて、他の女にうつつを抜かしていたのだから、怒って当然だ。彼女に落ち度は一切ない。でも、それを指摘されたぼくは、逆に彼女を責めてしまった。この程度よくあることだ。君には理解がない。少しぐらいいいじゃないか。今思えば、最低な言葉の数々。ついに彼女は愛想をつかし、ぼくのもとを出ていってしまったのだ。


 忘れるべきなのに、彼女がぼくの頭から出ていってくれない。彼女と過ごした日々が、ぼくの心を離してくれない。おかしくなりそうだ。


 少しでも目を覚まそうと、洗面所へと駆け込んだ。冷水を浴びて正気を取り戻すのだ。しかし蛇口から出る水は妙になまぬるくて、とてもじゃないが顔なんて洗う気にはなれなかった。


 それなら歯でも磨こう。昨日は泣き疲れてそのまま寝てしまったから。口の中もどんよりしているはずだ。―そう思って手を伸ばしたところで、ぼくは見つけてしまった。


 洗面台の右端にあるコップ。そこには歯ブラシが、二本並んで立てかけてあった。薄緑がかっているのはぼくのもの。そしてもう一つの桃色がかっているのは、彼女の忘れ物だった。



 思わずぼくは、その桃色を手に取ってしまった。それは間違いなく、彼女が昨日まで使っていた歯ブラシだった。彼女の手に握られ、彼女の口内に入り、彼女の歯の垢を隅々まで取った歯ブラシだった。


 鼻に近づけると、ほのかなミントの香りがした。そうだ。彼女の口臭もこんな感じだった。考えてみれば歯磨き粉は共用だったので、ぼくと彼女は昨日まで、口の臭いまで一緒だったのだ。やはり彼女の力はすごい。歯ブラシを嗅いだだけで、傷ついたぼくの心が癒されていく。


 彼女を忘れるためにここに来たはずなのに、気づいたときにはもう、ぼくは彼女の面影に夢中になっていた。歯磨き一本でこのざまだ。他のものが残っていたらと思うと、空恐ろしいものがある。


 やがてぼくは、さらなる彼女の面影がほしくなった。彼女が使った歯ブラシ。きっとその味は、ぼくにさらなる安らぎを与えてくれるに違いない。ぼくは再び、彼女と繋がることができるんだ。ぼくは桃色を強く握り、自らの舌の上へと—―



「やっぱり、だめだ」


 桃色は、口寸前で止まった。


 確かにこいつを咥えれば、一時的には幸せになるだろう。けれどもじきに飽きて、さらなる彼女を求めるに違いない。それはまさしく麻薬のようで、ぼくは愚かな中毒患者だ。終わりのない快楽とむなしさのくりかえしを、永遠にさまよっていたかもしれない。


 ぼくは桃色の先端を、洗面台の蛇口へと押し当てた。これからのぼくには、こんなものもう必要ない。せいぜい、掃除道具にでもなるといいさ。ぼくは面影を拭い去るように、一心不乱に磨き続けた。



 五分くらい経っただろうか。不意に鳴った呼び鈴で、ぼくは我に返った。時計を見るともうすぐ正午だ。こんな時間に誰だろう。ぼくは汚れた桃色をすすぎ、それを持ったまま玄関へと向かった。


「おはよう、には遅すぎるかな」


 そこにいたのは、出ていったはずの彼女だった。


 整えられかけていた心が、ぐらつく。せっかく忘れられそうだったのに、今更なんだというのだ。まさか、よりを戻そうなんて言うんじゃないだろうな。―そんな文句も、彼女の前では顔を隠す。僕が言えたのは、せいぜいこのくらいだった。何の用だよ。


「それがさあ、昨日ここを出ていったときに忘れ物しちゃったんだ。あ、それだそれ」


 言うが早いか、彼女は半分強引に、ぼくの手から歯ブラシを奪い取った。それは洗面台を磨いた歯ブラシだぞ。なんて言う隙もなかった。元気なのか、それとも空元気なのかは、彼女の名誉のためにも、詮索しないでおこう。


「気づいて取ってきてくれたんだね。ありがと。用はそれだけ。んじゃ帰るね」


 さようなら―—。そう言って彼女は、嵐のように去っていった。助かった。これ以上いられたら、思い出に飲み込まれてどうにかなっていたかもしれない。ぼくだけでなく、彼女も。


 見上げると、雨はいつの間にか止んでいた。晴れ間が顔を見せ始めた空は、彼女の目にも映っているのだろうか。

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