りん子の腕時計
何年も使っていた腕時計が、突然動かなくなってしまった。文字盤はバラの模様で、秒針の代わりに緑の葉っぱが回る、なかなか他にはないデザインの腕時計だった。
「電池がなくなったのね」
りん子は時計屋へ行き、電池を交換してもらうことにした。時計屋は駅前のスーパーの二階にあるので、一階で買い物を済ませてから向かった。
時計屋は携帯ショップの隣にあり、ガラスケースにいろいろな腕時計や置き時計、掛け時計やキーホルダー時計が並んでいる。カウンターには太った男がいて、青いエプロンをはちきれそうにさせながら、卵型の目覚まし時計にねじを突っ込んでいた。
「これ直してほしいんだけど」
りん子が腕時計を見せると、太った男は顔を上げた。
「ちょっと待っててくれますか。今、俺の時計直してるんですよ」
「こっちを先にしてよ。仕事でしょ」
「そうっスけど……この目覚ましじゃないと起きられないんですよ。めっちゃいい音するんで」
そういうこだわりは誰にでもある。りん子も、目覚ましの音はできる限り大きくしなければ起きられない。
「それとは違いますね。全然」
「うるさいわね。どんな音なの?」
男は針を回し、時計のてっぺんにあるボタンを押した。その途端、耳をつんざくような悲鳴が流れ、店中の時計がぶるぶる震えた。犬の遠吠えのように悲鳴が伝染し、ケースの中の腕時計が全てエビ反りになって恐ろしい声を上げた。
ついにはケースにひびが入り、高そうな金の腕時計が一つ壊れてしまった。
「やっぱりだめっスね」
男がもう一度ボタンを押すと、悲鳴が止まった。他の時計たちも騒ぐのをやめ、元の位置にたたずんだ。
「元はいい音だったんですよ。ぷぅー! みたいな感じで」
「どこがいい音なのよ。ヤカンの沸騰音と同じじゃない」
りん子は自分の腕時計をカウンターに置いた。
「私のは電池だけで済むと思うわ」
太った男は腕時計を手に取り、顔を近づけたり裏返したりして、白目がちな目を細めた。
「細かい作業苦手なんですけど」
「仕事でしょ、仕事」
「まあやってみますよ」
男は何を思ったか、腕時計にとんかつソースをかけた。りん子は驚き、何するのよ、と言った。
「こうやると十円玉がつやつやになりますよね」
「あれは銅だからでしょ。真面目にやってよ」
男はカウンターの下から鍋を出してきて、その中にどぼんと腕時計を入れた。りん子が止めるのも聞かず、奥にあるレンジへ持っていき、火にかけてしまった。ぐつぐつ、こちこちと変な音が聞こえてくる。
「いい感じっス」
「どこがよ!」
りん子がカウンター越しにつかみかかろうとすると、男は素早く身をかわし、鍋に向き直った。
「必殺! 肉汁ビーム!」
男は太い腕を交差させ、ポーズをとった。何が出てくるのかと思ったが、何も出てこなかった。
「ビーム! ビーム!」
男は叫びながら鍋に向かって突進し、どぼんと頭を突っ込んだ。鍋の中身はぐつぐつと煮えたぎり、湯気が上がっている。
「大変! 煮豚になっちゃうわ」
りん子はカウンターを乗り越え、救出しに行こうとした。しかしそれより先に男は顔を上げ、出来上がりっス、と言った。口には一回り大きくなった腕時計をくわえている。
「ちょっと、汚いじゃない」
「熱湯殺菌済みだから問題ないっス」
「そういう問題じゃないでしょ」
男は腕時計をティッシュで適当に拭き、りん子に渡した。腕時計は変わり果てた姿になっていた。
「何……これ」
「何って、りんさん愛用の腕時計じゃないスか」
「本当に何よ、これ!」
文字盤にはバラではなく、豚バラ肉がついている。秒針は餃子の形をしていて、バンドは豚の鼻の模様だ。
どう見ても、直せなくて別の時計を出してきただけだ。
「嫌になっちゃうわ。よくこんなのがあったわね」
「めっちゃいい音しますよ」
「音?」
時計を見ると、ちょうど十一時になったところだった。その途端、全ての数字が回り出し、甲高い音が鳴った。
『ぷぅー!』
男は笑い転げた。これっスよこれ、と床を叩いて喜んでいる。りん子は耳を塞いだ。小さな腕時計なのに、ヤカンよりも余程うるさかった。定時になるたびにこの音を鳴らされてはたまらない。
「もういいわ。これはあなたにあげるから、他のを見せてちょうだい」
「まいどありっス。俺の店はこの上のラーメン屋なんで、そっちに来てくれますか」
「え。じゃあここは」
「時計屋が帰ってくる前に早く移動するっス。あ、お代はいらないので長ネギをください」
ちょうど長ネギを三本、特売で買ったところだった。男のにやにや笑いを見て、りん子は買い物袋をしっかり抱きかかえた。
「自分で買ってきなさい」
「レジ混みすぎてて無理っス」
「まったくもう!」
りん子は男の後に続いた。ついいつもの癖で、カウンターの上から腕時計を取り、さっと巻いてしまった。餃子の秒針の刻むリズムが、妙にしっくり手首に馴染んだ。
男は頬肉をぎゅっと上げ、お似合いですよ、と笑った。少しも嬉しくなかったが、りん子は秒針と同じリズムで階段を駆け上っていった。どういうわけか、ラーメンと餃子が食べたい気分になっていた。