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羅刹の女 完結  作者: 神邑凌
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まるで運命の人が現れた様に錯覚する出会いを人は繰り返す。


沢村準一は当年六十二歳。公務員生活を全うし、一線を退いてから一年が過ぎていた。

平成二十七年初夏、かねてより目論んでいたある旅を実行する気持ちが満を持していた。

それは奈良県の橿原市を出発点にして、吉野から大台ケ原を踏破し三重県熊野市へ野宿を繰り返しながら縦貫すると言う、今時馬鹿げた面倒な計画であった。

それは沢村準一にとって世界遺産に成った十津川から本宮周りの有名なコースとは違い、言わば裏街道に思えるコースであった。


それでも道が綺麗に舗装され一頃に比べれば一段と良く成っている事から、決して険しいと言う様なものではなかった事は確かで、車で幾らでも通っていたから、言わば衰え始めた筋肉を鍛える手段であった。

沢村準一は長年橿原市で公務についていたので、言わば椅子に座りっぱなしの半生であった事から、心の中で常に過酷過ぎる様な希望を持っていて、足腰や精神を鍛えたいと常日ごろから思っていた事は確かであった。

だから休みの日には野山を散策して来た事は幾らでも数えたが、決して本格的なものではなかった。

 沢村準一の生まれは奈良県橿原市に住居を構えていて通称八木で住んでいた。八木は近鉄線で奈良、京都方面行きが走っていて、更に三重名古屋方面に、一方大阪上本町や難波方面も難なく行け、更に桜で有名な吉野方面と縦横無尽に線路が走っている便利な所であった。

 ここで産まれてここで育ちここで仕事に就き、定年を迎え半生を全うし、そして退職後ブラブラとしながら一年が過ぎ、心の中で煮えてきた何かを感じながら日々を重ねていたが、それが今日形に成って迎える事と成ったと言う訳である。


沢村準一には家族がある。 妻と二人の子供が、妻はカラオケに凝っている女性で、子供たちは女二人で既に結婚していて、二人とも家を出てしまったから、寂しいと思わされる事はあるが、それでもみんな上手くやっていて、全く間違いが無いから、安心して毎日を重ねていたのであった。

妻は毎週の様に大会があるからとか言い訳をして家を留守にしていたが、それでもそんな笑顔の耐えない妻に沢村は決して不満ではなく、家族が旨く行っている事の一番の要因は、全ての者がお互い尊重しあっている事であると言う事なのだろうと思っていたからである。

娘たちに婿養子を貰ってほしいと嘆願した事もなければ、妻に何か不満を口にした事もまるでない。みんな笑顔でみんな幸せであるから、旨く行く事を尊重し共有しているのであった。


 そして今日沢村純一は妻に見送られながら十日ほどの日程で、吉野行きの電車に乗る事にしたのである。

大和八木駅から橿原神宮駅に、それから阿部野橋発吉野駅行きの電車に、浮き浮きした気持ちで飛び乗った。


電車に飛び乗った沢村の背中には、大きな荷物が圧し掛かるように背負われていて、座席にそれを下した時、肩の重圧が瞬時に抜ける様に無くなった事でも、これから始まる過酷な試練に向かって行く事に気が引き締まる思いであった。


 隣にも同じ様な人が座っていて、その人はこれまで見かけなかったから、大阪阿部野橋方面から来られた方である事を察しられた。軽く頭を下げて荷物を上に持ち上げ棚に仕舞い隣に座る事にした。

まるで同じ様な格好であったから親しみを感じて、沢村は自然とその人の側に座ったのかも知れない。沢村は一息つきながら走り出した電車の中でお隣さんと共通する何かがある様に思えて来て、それがほのかな嬉しさであった事で快かった事は確かであった。                           


「今日は同じ様な装束の方が多いから皆さん同じですね。これだけ温かく成って来ると・・・」

つい沢村はその様な言葉をお隣さんに掛けていた。 

「そうですね。」


お隣さんは一言沢村の言葉に言葉を優しく返した。

電車は岡寺、明日香、壺阪山、市尾、葛、吉野口と過ぎ、沢村は其のお隣さんに再び声を掛ける事にしたのである。岡寺でも明日香でも壺阪でもお隣さんは降りなかったから、そして吉野口でも降りる素振りを見せなかったから《この人は下市口で降りて大峰山や山上ヶ岳に、それとも吉野まで行って桜の吉野へ、しかし既に初夏桜の季節ではない。それに修行に勤しむ行者の様な格好でもない・・・吉野口の駅で対向の時間待ちをして居る電車で、悠然と構えるその人が、妙に気に成って来て話し掛けていたのであった。     


「どちらまで?」

「ええ、大台ケ原までと思っています。」

「私も、ただ私は最終地は熊野へと思ってい ます。」

「成程ね。でも旨く交通の便があるのですかな?」

「いえ、私は歩いて行きます。長年足腰を鍛える事が無かったから大和上市駅から歩いて」

「そうですか?大変ですね。」

「貴方は?」

「はい実はしっかり決めていません。何故ここへ来たのかも、どのように言わせて貰って良いのか、とにかく気まぐれで」

「すみませんね。余計な事を言って気にしないで下さい。人様の事を」

「いえ。でも貴方は楽しそうでいいですね。」

「いえいえ、おそらく大変だと思いますよ。熊野まで歩いて行くのですから。でも一度やってみたかった事は確かで、試練と言うより挑戦だと前向きに捉えております。

だから貴方も同じ様な装束をされているから、勝手にも同じ思いかも知れないと解釈を致しまして、申し訳御座いません、とんだ失礼な事を言いまして」

「いいえ構いません。それが当たり前でしょうね。私は大学の頃に山岳部へ所属していて数々の山を踏破致しました。今貴方のお顔を拝見していてあの頃の事を思い出しています。純真で真一文字に山へ向かって行った時の事を。」

「そうでしたか。大学時代にね。ではこれから私が仕様としている事は貴方から見れば子供騙しですね。」「そんな事ないです。激しい雨が降るとか急激に寒く成り体温が奪われるとか、決して簡単ではないと思いますよ。」

「ええ、おっしゃる通りで一応万全の構えをしている積りですが、大和上市で電車を降りてそれから徒歩で吉野川沿いを川上の方に登って行く予定です。」

「そうですか、私はあまり詳しくありませんのではっきり解かりませんが?」

「其れで貴方は一応大台ケ原でしょうか?」

「ええ、私も実は同じ方向へと思っていますが何しろ思いつきで来ましたから」

「どちらから?」

「ええ、大阪の阿部野橋から住所は少し離れていますが」

「そうですか。吉野方面には今まで来られた事はないのですか?」

「はい初めてです。以前から吉野とか大台ケ原とか行ってみたい事がありまして、其れで今来たと言う事かも知れません。」

「無計画で?山岳部に所蔵されていた方とは思えませんねもそれは若い時の話で、月日が経ちそんな事全部忘れていますよ。」

「そうでしたか、でもお姿は登山が専門である事を髣髴とさせる格好である事は間違いないです。」

「そうですか?慌てて見繕って来ましたからなんとも言えません」

 電車は話し込んでいる間に薬水、福上、大阿太、下市口、越部、六田を過ぎ大和上市駅に着いた。

沢村とそのお隣さんは意を合わせたように改札へ向かっていた。

それから外へ出てバス乗り場に足を運んだそのお隣りさんは、暫くして呆然と其の時刻表を見上げながら佇んでいた。沢村がトイレを済ませて其のお隣さんに近づきながら 

「旨くバスがありますか?」と聞いたところ

「私勘違いしていました。バスなんかありませんね。勘違いして・・・」

 そう言って黙ってしまった。 

 確かに時間表を見るとバスなど全くない事を確認して沢村は

「これは大変ですね。既に出ましたね。それも一時間以上も前に。それと今日の大台が原行きはもう無いようですね。」

「ええ、」

「時間を見間違えたのですか?」

「昔のパンフレットを見て思いついた話だからかも知れません。何しろ行き当たりばったりで・・・」  「それは大変だ。どうされます?私はこれから歩いて大台ケ原を目指します。いえ大台ケ原ではなく正確には熊野ですが」

「・・・」

「ではこれで、私は行きますから・・・」

沢村は罰が悪そうにしながらその場を離れる事を決意した。 

「お名前は?私は山根弘道と申します。」

「はい。私は沢村準一です。」

「そうですか沢村さん。もし構いませんなら私も同行させて頂く訳にはいかないでしょうか?」

「はい私は一向に構いませんが、しかしこの旅は嫁には十日間ほどと言って居ますから、その予定で構いませんのでしたら、勿論途中でお別れする事も出来ますから深く考えなくてもいいですね。いいですよ、私は一向に」


「ありがとう御座います。行き当たりばったりでこんな不手際をしてしまって面目無いです。」

「いえ、一人も二人も同じ事、旅は道連れって言葉もありますから」

「そうですか、ではご一緒に御供させて頂きます。」


そんな事で二人旅に成ったが、沢村は急遽の出来事に心が落ち着かなかったのか         

「ところで山根さん貴方はお幾つで?」

「はい今五十一歳で」

「そうですかこれからですね。朽ち果てて行く姿を見る歳になった事に気が付くのは。未だかな?まだ少し先かな?

衰えて行く姿が気に成った時、それは体力であるとか、目が見え辛くなったとか、当然夜の方はからっけしになったとか、色々起こって来ますから」

「そうでしょうね。でも私はそんな事を今は考えた事ありません」

「そりゃあ当然です。まだお若いのにこれからですよ。これから望まなくても必ずやって来ますからご心配なく」

「そうですか?信じたくないですがみんなそうなのでしょうね。」

「ええ間違いなく。だから私のようになると妙に反発してしまうのですこの計画の様に。

それでご家族は?」

「はい。」

「ご家族は?・・・私は嫁と娘が二人居て、どちらも片付いていて今はカラオケ好きの嫁と二人暮らしです。貴方は?」

「はい嫁とそれに小学生の子供と」

「随分お若いお子さんですね。」

「ええ、所帯を持つのが遅かったもので、それに嫁はまだ三十代半ばで、それに子供は嫁の連れ子で」  

「そうでしたか、奥さんは貴方と再婚されたと言う事ですね」

「はい。」

「其れで奥さんは今幸せに成られたと言う事でしょうね。」

「まぁ」

「そうでしたか、それは良かった。でも羨ましいですなぁそんな若い奥さんとご一緒とは」

「はぁ」

「いやぁすみませんね。余計な事をお聞きして、貴方がご一緒に行かれるとお聞きしましたので、何か親しく思ってしまって、長い旅です。こんな会話も必要かと」

「ええ、では歩きましょうか、先は長いですから」

「ええ、兎に角伯母峰トンネルまで行きましょう。三十数キロあまりだと思われます。」     

「解かりました。」


二人は大和上市駅を下り吉野川沿いの百六十九号線を川上方面に足を勧めた。以前なら吉野の川は鮎釣りでごった返す様に釣竿が並び、観光吉野に相応しい風景を醸し出していたが、今は釣り人も居ないばかりか、閑散としていて人も少なく何処か物悲しい風景である。


其の内もう少し暑く成れば川遊びをする家族連れや若者が、川原を埋め賑やかに成るだろうが、今はまだ其の時期にはあらず物悲しさが漂っている。

二人はそれから宮滝に差し掛かり橋を下って川を渡る事にした。


宮滝には歴史がある。言い伝えがある。飛鳥時代が始まる迄にこの地が歴史の舞台であった事は有名で、藤原京時代の持統天皇が、この地を何度も訪れた事も記されている。

鮎と言う字が魚片に占うと言う字であるが、正しく其の時代に吉野山に向かって鮎を食しながら後世を占ったと記されているのも頷ける。


また近くには飛び込み岩があり、そこに掘られた南無阿弥陀仏と言う文字は有名で、命を落とす事も覚悟で飛び込む事を促しているとも言われる。

それが何時の時代であったのかはさなかではないが、今なお警察の忠告を無視して飛び込むやからが居り、そして命を落とす者も後を絶たない様である。


沢村は山根に橋の上から川下を見ながら、そして川上を見ながらその事を案内して得意げに口にしていた。

そしてこの地が由緒ある宮滝遺跡である事を付け加えた。              

「そんな歴史があるのですか?始めて来させて貰いましたが、飛鳥時代の前に栄えた所だと思うと歴史を感じますね。日本が始まったルーツでもあるかも知れませんね。」  

「ええ、私はあまり詳しくありませんが、興味がある方ならもっと良く解かられて話をされるでしょうね。申し訳ないです。」

「いえ、構いませんよ。私が学生の頃、どれだけ寒さに我慢して、どれだけ雪焼けしてドロドロに成って登った山でも、上に行けばハイヒールを履いて登っている女性も居ますからね。電車とケーブルとバスで、それに出くわすと堪らなく情けなく成りましたからね。」

「それって信州で?」

「ええ、まさに其の通りで」

「あの雪の大谷とかではないのですか?」

「ええ、そうです。」

「解かりますよ。今日こうしてこの道を歩き始めたのも同じでしょうね。こんな車時代に成っているのですから。」

「まさに」

「だから私は歴史には疎いですが、この道を歩き続けて人生で何かを摑めれば幸いです。

熊野までこの足で一歩一歩と歩き、あの美しい七里が美浜を見ながらおにぎりを咥えている姿を想像して、そう成る事を夢に見ています。

車でこの道を何度越したかは計り知れません。それでも車ならこの橋ではなく、今では向こうに架かっているあの太鼓橋を渡ります。あの道ほど走りやすいから、でもこのようにして歩くと言う事はこの橋を渡ってくれる事を自然は望んでいるのでしょう。古人がこの地で今に世を伝えた事を知って貰いたいと言わんが為に。其れでガラッと話が飛びますが、お子さんは男ですか?女の子で?」

「男です。小学五年生です。」

「何かスポーツを?」

「ええ、野球をしています。」

「では試合とか在って行ってあげるのですね。休みの日とかに良く有りますからね。」

「ええ:」



「何処を守っておられます。実は私は大の野球好きで、子供が男ならと何度も口にして家内に嫌な思いをさせた事もあったようです。小学生の頃はおねえちゃんの方は男子に混じって野球をしていましたから」

「お父さんに無理矢理させられたのですか?」

「かも知れません。いけない父親で」

「でもお子さんは優しい子に成ったでしょう。お父さんの事を解かっておられる心の方だと思われます。」


「かも知れませんね。だから今でもお父さん、お父さんと言って良く実家に顔を見せますから、きっと貴方が言われる様にそんな気性の子なのでしょうね。」

「内は駄目です。私にどれだけ懐いてくれているか判りません、何処か打ち解けられないようで、おそらく彼は実の父親が好きだったのかも知れません。

子供ってそんなものだと私は思っているから、あえて無理に彼の心の中に入って行かない様に心掛けている積りでした。」

「積りでしたって?」

「いやそれは其れでいいです。子供の話は其れでいいですから、他の話を致しませんか」

 「あっ、ご免なさい。失礼な事を言ったかも知れませんね」

「いえとんでもありません。」

「山根さん、私に失礼な所があれば言って下さいね。何しろ良くしゃべるから」         

「いえ、そんな事おっしゃらないで下さい。私が貴方にお願いして御供させて頂いているのですから。わけ在って上手く話せませんが、其の内何もかもをお話出来ると思います。そうで在りたいと思っております。」

「そうですか。このまま二人で熊野まで行き、浜を見ながらおにぎりをほうばって潮風を受けてのんびりしたいですね。」

「そうですね。私もそんな二人を目頭に浮かべながらお供致します。」


「ええ、まだお知り合いに成れて一時間が過ぎただけ、これからどれだけ長いお付き合いに成るかは計り知れません。さぁ頑張ってとりあえず大台ケ原まで」

「はい」


二人はトンネルを潜り宮滝から大滝の道に入り、これからは道は勾配がきつくなり足が疲れる事になる。

民家もまばらに成って来て新しく出来た大滝ダムの辺りを歩き続ける事に成った。

自動車は勢い良く走り去って行き、まるで昔の頃を想像すら出来ない様な感じにさせられる。

材木を積んだトラックなどが走ると、ガタガタの舗装されていない地道で埃が立ち続けて、後ろをバイクで付いて走るものなら気を許せない危険な道であった。


でこぼこ道で更に砂利が敷かれていて、車のタイヤで押し寄せられて道の真ん中が盛り上がっていて、そこへバイクなどタイヤが乗り上げ、更に砂利にタイヤを滑らせれば簡単に転ぶ道であった。

沢村はそんな時代に単車で何度かこの地に来た事を思い出しながら歩いていた。

宮滝で過ぎた言葉を発し少し山根道弘氏との距離を感じながらであったので、少しだが重い空気が漂っていた。


山根道弘がどの様な事を気にしていたのかなど解からなかったが、子供の事を口にしたから何か引っ掛かるものが在ったようで、これからの長い旅の間も触れられてほしくない部分である事だけは解かった。

其の内彼から、気に入らなければ去って行くであろうと思いながら歩く事にしたが、そんな気の持ち様だと自然と寡黙に成る事は確かで、それではいけないとやはり沢村から山根に口を開いていた。      


「でも山根さんお仕事は大丈夫なのですか?私は毎日体を持て余していますから一向に構わないのですが、貴方はまだまだ現役」

「いえ、大丈夫です。長らくの間に溜まっていた有給を今使っていますから問題ありません。会社も今は閑散期で寧ろ人が余っている様な状態ですから、こんな時は思い切って休もうと考えています。」

「それなら安心ですね。気を使わなくっていいですから」

「ええ、お構いなく。大きなダムが続きますね。綺麗な水が張っていて」

「ええこの水はずっと下の方で取り水をして、吉野川分水と成って奈良の多くの町の水道水に成るのですよ。当然百姓さんが田畑で稲や野菜などの耕作に使われている水にも」

     


「そうなのですか?では大阪の人が琵琶湖から水を取り寄せているのと同じなのですね。」

「そうですね。これから更にあと一時間も登ればもう一つダムがあります。大迫ダムと言います。でもダムが側にあると言う事はなだらかな平面の道が続くって事ですから楽勝ですね。」

「ええ」

「でも大台ケ原は標高千七百メートル近くあり、決して低くはありませんからこれからですね。ここを過ぎて大迫ダムに掛かる頃にはきつく成って来ますから。」

「それは慣れています。ただ今はあれから何年も過ぎていて、学生時代の体力などまるで無いのですから、少しは気に成っています。でも頑張ります。」

             


「ところで山根さんは若い時に登山をされていて、それがおそらくきっかけに成って今日来られたと思いますが、どの様な準備をされ出て来られましたか?」

「野宿を出来る格好で来ています。」

「それが大台ケ原でも大丈夫なのですか?」

「ええ大丈夫だと思います。テントは大学を出てから随分経ってから買い求めた事を覚えています。勿論あまり使った事は無く、思い出こそありませんが買った事は確かです。山へ登る夢を見ながら歳月が絶っまったのでしょう。何時かは登りたいと思いながら」

「それが今回の計画だったのですね?」

「いえ、今回は衝動的だったのでわかりません。」

 

「そうですか。でも私なんかより立派なテントをお持ちの様だから安心です。」

「ええ、テントは気温がマエナスでも対応出来る物ですから問題ありません。」

 

「そうですか。私は思いつきだから先日ホームセンターで安いのを買い求めましたから、大丈夫なのかと逆に心配ですなぁ。早まったかな」

「失礼ですけどお幾ら位のテントでしょうか?」

「はい二人で寝る事が出来る物で価格は一万円まで行かないものですが」

「そうですか。若しかするとそれでは時期的には無理かも知れませんね。極寒の冬とかとなると無理でしょうね。私の物は数万円ですから、はっきり言いまして六万円しましたからそれも随分昔に」 


「六万円。それは違い過ぎる。随分良い品物なのでしょうね。」

「ええ、おそらく相当高い山でも適用している物だと思いますよ。中途半端に知っていますから山の事を」そうですか。そんなテントを今夜見せて頂きたいですなぁ」

「ええ、何処で泊まるのか解かりませんが、もし良かったら私のテントで一緒に休まれても構いませんから、二人までなら寝る事が出来ますから」



「ええ、都合でその様にさせて下さい。これも何かとお近づきの賜物ですからね。」

「実は私も十日ほどゆっくりして家に帰る予定なのです。色々あったから・・・」

「そうですか。みんなそうですよ。色々ありますよ。

私は順風な毎日を繰り返していますから、何処にも問題などありませんが、正直やりにくい世の中に成って来た事は確かで、私は一昨年まで公務員をしていましたが、二十二歳から勤め始めて六十までの間に、そりゃぁ色んな事が在りましたよ。消える様に去って行った人も、大きな事件を起こした者も、恥ずかしい事件を起こした者も、不幸な運命であった人も、不正を働いて何もかもを棒に振ってしまった同僚も、誰しも望まないのに、自分ではどうにもならない生き方を選んでしまう不幸な者も多く居ました。

幾ら頑張ってもどれだけ耐えても旨く行かない人が沢山居ます。

でも私は思うに、この道のように坂に成れば一生懸命歩き、下りになれば少しは気を抜いて歩き、其れで何時までも歩き続ける根性である事が、何よりであると思われます。

道は、特に人生の道は、途切れる事も無ければ行き止る事も絶対無いのですから、闇雲であっても歩き続ける事だと思います。


だから私はこうしてみんなが車で走っている所を、目的を果すには遅く成って期間が掛かるかも知れませんが、一歩一歩確実に歩く積りです。            

橿原市から熊野まで車で走り二時間余りで満足を得る事も大事ですが、其の同じ距離を三日掛けて味わうのもまた有りかと思います。


それに私はこの歳まで歩く事を拒んでいました。出来るだけ楽をしたいと、しかしながら私は近くに神社がありますが、其の神社の頂上まで行くだけでも辛い事が多くて、情けない思いを何度もした事があり、これではいけないと思うように成りこの様な決断をしたのです。」                    

「其の神社の山の高さは?」

「はい、海抜二百六十メートルほどで」

「ほうー。」

「そうですよ。恥かしながら」

「でも大丈夫なのですか?ここはそんな場所ではないですよ。高いですよ。」

「だから貴方が一緒に来て下さって心強い事は確かです。正直な所、それにもし私の身に何かがあれば道で倒れていれば誰かが拾ってくれるでしょう。」

「そうかも知れませんが、長年公務員をされていたにしてはぶっきらぼうですね、お考えが」

「そうかも知れませんね。何もこの歳に成ってと家内の言う事にも一理ありますからね」

「そうですよ。」

「さぁ大滝ダムも終りに成って来ました。楽な道もこれで終わりです。これからどんどんと上りながら大迫ダムを経て伯母峰トンネルに差し掛かるわけです。」 

「沢村さん、疲れませんか?僅か海抜二百六十メートルの山で根を上げそうになった方と思うと、心配に成って来ますね。」

「いえ、大丈夫です。まだ平坦な所を歩いているのですから。これからだと思います。これから可成きつく成ってくると思いますが、さっき言いました様に、いざと成ればどうにでも成るでしょう。お気楽に考えて下さい。」

「解かりました。」


それから二人は黙々と伯母峰を目指した。そして何度も出来たての真新しいトンネルを潜り伯母峰トンネルの入口に付いた。 

ここは道が分かれていて、登って行けば大台ケ原に成りトンネルを潜れば一路三重県の熊野方面に向かう事に成る。

                     

「どうされます?」

山根弘道の方から其の言葉が出た。

「貴方は思い付きだったのかは分かりませんが、実は大台ケ原へ行く事が目的ではなかったのですか?」

「一口で言えばそうかも知れません。」

「一度も来た事が無かった。山岳部に入っていながらこの山には来る事は無かったわけでしょう?」「そうですね。」

「でも今回思いつきで来たとしても、それなりの何か深い意味があるのでは?」

「あるかも知れません。いや在ります。確かに」

「でも其の事は聞かないでおきます。貴方を困らせてはいけませんから」

「そうして下さい。それでどうされます。私は出来ればこのまま登りたいのですが」

「そうですね・・・」


「ここでお別れって事に致しましょうか?お互い都合がありますから」

「そうですね。」

「とりあえず腰を下ろして考えて下さい。お疲れでしょう?」

「山根さん電車を降りた大和上市駅の事を今思い出しています。バスも無く仕方なく貴方が私とお供しますって言われた事を。

だから私も今貴方にお供致しますって言葉を返させて頂きます。それで宜しいかな?問題が御座いませんか?」

「ええ喜んで、ここまで来るのに貴方があまりにもお辛いのではないかと思いまして、

さっきまでハァハァと言って息切れしておられた事を考えると、大台ケ原へ行く事をお勧めしないほど良いのかと思いましたから」

「いいえ、お気遣いなく、まだまだ大丈夫ですから」

「それなら登りましょう。折角来たのですから」

「ええ、そうしましょう。」


心が定まった二人は重い腰を持ち上げて又歩き出した。坂を曲がりながら登って行くと、景色は一変して太陽の光が近く感じる風景に変わっている事に気が付いた。

既に三十数キロを歩いている。

沢村準一は正直袋脛がパンパンに張っていて、今にも破れて縦目に裂けそうにさえ思えて来ている事は確かであった。


其の前兆は見事に当たり、沢村は道が緩やかに成った所で朽ち果てる様に蹲った。

「ご免な山根さん、一人で大台ケ原を探索して来て下さい。私はここで休み明日にでも下りますから。貴方に迷惑を掛けられないから・・・」

「痛むのですか?」

「はい。おそらく初めての事で足が驚いているのでしょう。足が痛くて爪が割れている様な気も致します。」

「それならここで休憩してとりあえず様子を見ましょう。登山には良くある事ですから」

「でも私に気を使わないでお一人で行って下さいね。」

「いえ、私も今日は随分歩きましたから正直疲れています。沢村さんと変わらない位に、だからこうしましょう。こんなに景色も良いのですから、ここで少し入った所でテントを張って眠る事にしましょう。

この辺は陽の落ちるのも早いと思います。幾ら初夏と言ってもやはり山間部、思いの他気温も下がるでしょうし、ラーメンでも作って温まって眠る事にしましょう。

其れでどうですか?それで又明日に成ればそれなりに考えれば良いのではないのですか?」

 「そうですね。貴方に迷惑に成らなければ」

「何をおっしゃいます。迷惑になんか成らないです。では食事の準備をしますからゆっくり休んでいて下さい。それに今夜は私のテントで二人で寝ましょう。二人用だから問題なく眠れる筈です。

鼾は・・・それはどんなテントでも防ぎようがありませんが・・・」


山根は手際よくラーメンを二つ作り沢村の前において

「さぁ召し上がって下さい。私カラムーチョを添えて食べるのが大好きで、いつもこの様にしています。」

そう言ってカラムーチョをドカッと入れて、ぽりぽりと音をさせながらラーメンを食べだした。

沢村も進められたので同じ事をしたら、山根は又笑顔で沢村を見て、首を縦に振りながら其の顔は笑い続けていた。


決して辛い物が好きではなかった沢村であったが、疲れている体に結構合っていて、其の刺激に満足な思いが漂っていた事は笑顔で返していたので言うまでもなかった。

「いけますね」其の一言が何もかもを表していて、足の痛みさえ忘れる思いであった。

沢村の靴下を脱いだ指は腫れ上がり水ぶくれに成っていて、山根に足と靴の形状が合っていない事を指摘され意気消沈であったのは、何故なら結構高い買い物をして其の靴を手に入れたのは、つい最近の事であったから些かショックであった。


キャンプが禁止かも知れないと身を隠す様に食事を済ませ少し入った所にテントを張り、山根は沢村の事を考えて寝袋を二つ並べて、いつでも寝られるように段取りをした。

二人で倒れた木の上に座り、一杯のラーメンが二人の距離を随分近づけた様な思いにさせたのは言うまでも無い。「ご馳走様。美味しかった。それにカラムーチョって言うの結構いけますね。疲れているから尚更って感じだね。」

「そうでしょう。あれ専門です。私はピリ辛だから」

「なるほどね。」

「其の内いい光景に成りますよ。後一時間もすれば薄暗く成って来て星も出てきて」

「綺麗だろうね。夜になれば」

「ええ、信州って訳には行きませんが、ここも可成高いですからね。」

「電話入るのかな、ここって?」

「解かりません。入るでしょう。」

「貴方は電話しなくって良いの?」

「ええ、又後で。」

「私はしないで置こうと思うな。だって足が痛いとか余計な事を言っても、変に心配掛けるのもいけないから」

「そうですね。でも電話してあげても良いのではないのですか、この景色ですから」

「そうだね。ではしてあげよう。」


沢村は電話を取り出しおもむろに登録番号を押した。

「あぁ私、今ね、大台ヶ原まで登って一休みをしているのだけど、ここで寝ようと思ってそれで・・・。

長かったよ、大和上市駅から歩いて・・・」

「大変だったでしょう?」

「そうだね。随分歩いたよそりゃぁ。其れでお友達が出来て二人で楽しくやっています。それから今ラーメンをご馳走に成って、これから少し話して眠る事にするから星を眺めて。明日はここを散策して熊野に向かって降りて行くから。」

「気をつけて下さいね。それに高いから寒いと思うわだから暖かくして」

「あぁ気を付けるよ。じゃぁ切るね。」


山根は沢村の言葉を耳にしながら固まる様に成っていた。

「山根さん、ここ電話旨く通じるから。たいしたものですね。」

「そうでしょうね。何しろ有名な場所だから」

「これで安心。しかし明日はこの足の腫れが治るか心配ですなぁ」

「もし腫れたままなら逆に水脹れになった所を潰すほど良いかも知れませんね。

其れでクリームでも塗っておけば、チクチクする痛みは治まるかも知れませんね。今度出来る皮は硬く成るって言うか、丈夫に成るから其のうち痛みは治まるでしょう。」

「なるほどね。では明日治まっていなかったら思い切って潰す事にします。熊野までまだまだ長いですから、貴方にご心配をお掛けしても申し訳ないですから」

「熊野も大事ですが、折角登って来たのですから、貴方も大台ケ原を存分に探索されても如何でしょうか?」

「はい、其の積りです。貴方が一番来たかった所ですからお付き合い致します。しかし疲れましたね。私は可成来ています。」

「沢村さん、少し休まれては如何です。いつでも寝て頂けますから」

「ええ、ではまだ陽は高いですが少し横に成らせて頂きます。」

 

沢村は山根の言葉に甘えて横になった途端に目を瞑っていた。深い眠りに包まれて夢心地で初夏のまだ肌寒い風に吹かれながら瞬時にして眠ってしまった。

一方静寂の中で山根は何も言葉を発する事無く、遠くの景色をぼんやりと見つめ続けるだけであった。

 実はこうして山根が大台ケ原に来たのには大きな意味があった。それは誰にも言えない辛い思い出であった。


もし誰もが人生で最期に一番したい事は何かと問い尋ねられれば、誰でも何かを口にする。

おいしい物を一杯食べたいとか、お金を腐るほど摑みたいとか、大恋愛をしたいとか思い付くものは幾らでもあるだろう。


山根もまたその様に考えたのであった。それが大台ケ原を散策する事であったと言う事である。

それは遠い昔の事を思い出さなければならない訳で、実にセンチメンタルな話であり、山根がまだ若かりし頃に心を躍らせて眠れない日を重ねた頃の事である。

それは大学生の時山岳部に所蔵していた時の事で、山岳部に入って来た後輩の一人の女性との忘れる事の出来ない悲しく切ない思い出である。

 

山根が好きに成ったその女性の名前は、白川玉枝と言う名の人で、山根より一年後輩であった。

山根が卒業する頃に成って始めて二人で山に登る事を彼女に提案すると、快く引き受けてくれて、どれだけ山根は嬉しかったか計り知れない。

 実は其の言葉を発する迄に二年以上山根は悩んでいたのである。四年生になると山岳部の部長を勤めていたので、個人的に一人の女性を誘う事は許されなかった。心でどれだけ暖め続けていたのか、気が遠くなる程の思いを重ねていたのであった。


それは相当苦しかった事は言うまでもなく、いよいよ卒業に成って始めて明かした心の内であり、それを察してか白川玉枝は快く受け入れてくれたのである。

 部長の山根には規則は破れない。山根が卒業して社会人に成った年の五月の連休を利用して、調度大台ケ原が山開きに成る事を誰もが知っていたから、入山規制があったが山根は一目散に申し込む事にしたのであった。そして許可が居り、大学を卒業して社会人に成り初めての給料を貰う日が来て、其の初めての給料で大好きな白川玉枝をさそって大台ケ原へ。

 

絵に描いた様な計画を立て、心を躍らせて其の日を待つ事にして眠れない毎日を重ねていた。

 そして五月の連休がとうとう翌日に成り、リュックサックに一杯白川玉枝と過ごす二日間の何もかもを仕込んでいた時であった。

電話が鳴った。

 

それは白川玉枝が買い物に行って帰り道で、乗っていたバイクが事故に巻き込まれ、トラックの下敷きに成って即死したと言う白川の親御さんからの電話であった。

山根の社会人としてのスタートはあまりにも惨い仕打ちから始まった。

 

大人として始まった人生のスタートは、今日大台ケ原まで歩いて来た道の様な穏便な道ではなく、崖に突き落とされた様な道であった。

白川玉枝に掛けられた白い布をそっと捲ると、顔形まで壊れた人形の様な惨い表情の姿であった。

それはあまりにも無惨に壊れていたので、まるで笑っている様にも山根には感じてしまった。


仮におもちゃであっても、其の顔を元に戻す事など到底出来ない様な姿に只々震えるばかりであった。

抱きついて好きだと言って滂沱の如く泣き叫んでと成りそうであったが、余りの酷さにその様には決して成らなかった。

 そして山根は人生が終わった様に思えて来た。

自分の人生がこれからの人生が、全て何一つ無いだろうと思えて来たのであった。

 山根の初デートは散々な思い出だけが残って、それからの人生であの時思った様に、二度と恋などしたくもなかったし又出来なかった。

 

心を貝の様に閉ざして年月が過ぎ、心配をしていた両親は他界し、たった一人の姉も遠くへ嫁入りに行って、天涯孤独な毎日が続いていたのであった。

山根はそれでよかった。

何時までも引きずっていた事で、白川玉枝に対して忠誠を誓い恋心を守り続けていたのであった。


 そして実に身に詰まった事は、あの時に白川の親御さんから言って貰った言葉を絶対忘れる事など出来なかった。

「お父さん、お母さん。僕は玉枝さんの事を好きに成って、其れで心の内を打ち明けさせて貰ったのがまだ二ヶ月ほど前の事です。

でもとっても喜んで下さいました。嬉しいと言って下さいました。」

「ええ、私はお聞きしています。山岳部のキャプテンで誠実で真面目な人だと言っていました。

 貴方と登山される事もお聞きしていました。変な事をする様な人では無いから安心していてとも言っていました。


 私たちは気持ち良くこの子の言う事を信じてあげて、言わば賛成させて貰いました。だから前の日も楽しそうにして登山に持って行く物を買いに行って居たのです。

其の帰り道でこんな事に成り・・・」

「お父さん、お母さん、僕が玉枝さんに声を掛けなかったならこんな事には成らなかったと思うと、僕本当に辛いです。

 玉枝さんに心の内を打ち明け頷いて頂き、この二ヶ月あまりの間は夢の様な気持ちで過ごせましたが、それだけに今どれだけ辛いか・・・責任を感じます。」

「あの子も貴方と知り合えて人並みの恋をして、刹那の時であったと思いますが幸せだったと思います。ぐしゃぐしゃに成ったあの顔は、決して元に戻る事はありません。 頭蓋骨も陥没している様な状態で、痛いとも判らずに死んでしまったと思います。

 

それがせめてもの救いかも知れません。貴方とは始まったばかりで、これから楽しい事を一杯出来た筈と思います。もっと好きに成って、もっと深く結ばれて、それが生涯続いていたかも知れないのです。残念ですね。悔しいですね。」

 

白川玉枝の母親が山根の肩を軽く抱き寄せて涙を頬に伝わせた。

見渡せば夕陽に染まりながら山々が一日の終りを告げようとしている。

山根は遠くの景色を見ながらぼんやりと遠い昔の事を思い出していた。


 あの時白川玉枝さんとこの地に来ていたなら、どれだけ心が躍っていたか計り知れない事は、三十年の歳月が流れた今でも昨日の事の様に思われた。

 テントの中で眠っている沢村さんが、万が一白川玉枝さんならと考えただけでも体が熱く成る様な気がした。


山根弘道は残された人生で一つだけ何をしたいのか、たった一つだけ叶えさせてあげると言われたら、大台ケ原へ行って白川玉枝の事を思い出して、其れで心を満たして、例え泣きじゃくる事に成っても二人の時間を過ごせたら其れで満足であると思えた。

例えそれが人生で最期の行事だとしても。


山根はいつの間にか泪を流していた。止め処もなく涙が迸るように出ていた。

「畜生、畜生、」大きな声でそう叫んでしまった。

其の声を聞いた沢村はびっくりする様に起こされテントから顔を覗かせて

「どうかされたのですか?何かありましたか?」と目を擦りながら起き上がってテントから出て来た。

「すっかり休ませて頂きました。疲れていたのでしょうね。やはり私は六十を越した男、まして長らく机に座って仕事をしていたから、足腰が弱って使い物にならない様です。」

「其れで足の方は大丈夫なのですか?」

「そうそう忘れていました。痛みは治まっています。其の内日ごとに慣れて行くでしょう。」

「そうですか、幾分お楽になりましたか。それは良かった。では明日は大台ケ原を存分に探索出来そうですね。折角来たのだから楽しみましょうよ。」

「ええ、先ほど何か御座いましたか?大きな声を出されてびっくりしたものですから」

「そうでしたか、申し訳ない・・・」

「違ったのでしょうか、私の思い違いでしょうか?」

「いえ大きな声を張り上げた事は確かです。私は此方に来るに当たってこんな事を思いまして・・・つまり若い頃山岳部に入っていたのに大台ケ原は全く来なかった事を、電車を降りてからここまで来る間にお話させて戴いた筈です。


 それって間違いない話でありますが、其の話の裏にはとても悲しい話が御座いまして、ついその事を思い出して先ほどから涙ぐんで仕舞いそれで悔しく成って遠い昔の事とは言え、つい昨日の事の様に思い出しまして、恥かしながら泣き続けていたのです。

 其れで貴方に見つかれば見苦しく思われるから、悔しさやそんな気持ちが入り混じって、苛立って大きな声を張り上げて仕舞った様です。大人気ない事で」

「いえ、何方でも同じ様な話があります。辛かった事、悲しかった事、悔しかった事、憎んでも憎みきれなかった事、心が傷つく事は望まなくても幾らでも起こります。

どれだけ時に解決をお願いしたでしょう。私だって同じ思いです。其れでお聞きしても構いませんのなら私の様な者にでも話されたら、心が落ち着くならおっしゃって下さい。


 お役に立てるかは解かりませんが、貴方より十年近くご飯を余計に食べている事は確かですから、もし何かのヒントにでも成れば良いかと思います。何より貴方の心の中に詰まった物が、嫌な物が少しでも少なく成れば良いではありませんか。気休めだと思って」

「はい、ありがとう御座います。でもお話させて戴いても、又余計な事を思い出し悲しく成りますから」

「そうですか。気が向けば、で構いません。それにお聞きしても私にはどうにも成らない事かも知れませんね。」

「ええ」

「でも折角こうしてお知り合いに成れて、こんな所までご一緒させて戴きましたから、楽しい話でもしましょう。足の痛みも全くありませんから楽しくしましょう。」

「そうですね。でも余り話したくないのに、何処かで話を聴いて戴きたい様な思いもあります。これって貴方に聞いて戴いて思い出に慕っていたいのかも知れませんね。未練がましく、この景色を今まで何十年も心で育てていましたから」

「いい思い出があるのですね。それは辛い思い出であったかも知れませんが」

「おっしゃる通りです。辛い思い出だから泪を流して、でもそれは私にとって二つと無い思い出で。」

「だからこれからの人生で何はさて置きここへ来たかった訳ですね。この大台ケ原で何かを見つけたかった訳ですね。確かめたかったのかも知れない。

 

それは過ぎ去りし愛しい恋人でしょうか?二つと無い恋をした女性の事を思い出す為でしょうか?いえ貴方は子供さんの事を言いたくないようだから、子供さんとの何かでしょうか?

 でも今貴方が私に聞いてほしいとも思う様な言い方を先ほどされましたね。ではやはり子供さんではなく心が時めいた時の事でしょうね。」

「さすが沢村さんは何もかもをご存知なのですね。私がまだ何一つ口にしていない筈が、やはり年の功には勝てないようですね。」

「言ってください。折角お知り合いに成れたのです。朝まで時間も十分あります。」

「そうですね。」

「あぁごめんなさい。独り言を言っている積りが又余計な事を口にして・・・」

「実はね、私は今日ここへ来ようと思ったのは、遠い昔の事を思い出し未練がましく来たのです。

身拵えは学生の時に再三して来た事ですから、何不自由なく出来ます。でも心は決して纏まっている訳ではなく、この様に取り乱してしまい・・・

 

実は遠い昔付き合い始めた白川玉枝と言う女性がいて、私が大学を出る時でした。

一つ下の後輩で当時大学の山岳部は部員同士の恋愛が禁止だった事もあり、私が卒業する間近に成って心の内を打ち明けたのです。三年越しの思いでした

 彼女も私の思いに喜んで下さり、そして私が大学を卒業して社会人に成り、やがて四月の終りに始めての給料を手にしました。

 

其れでウキウキとしてゴールデンウイークに彼女を誘って此方へ来る予定でした。ところがいよいよ明くる日に、二人で初めて登山すると言う前の日に、彼女は翌日の為に買い物に行くと行って出かけ、其の帰り道でバイクがトラックに巻き込まれ即死したのです。悔しかった。辛かった。正直私は始めて恋愛をした様な感じでしたから、当時の私は貴方に言われた様に心が時めいて燃え上がり、有頂天に成った毎日を過ごしていました。


それと言うのも恋愛が禁止されていた山岳部でありましたが、彼女が大学に入って来て山岳部に籍を置いて、間もなく一目ぼれを私はしたのです。それから三年間私は心でその思いを温めていました。心の内を打ち明けてそれから夢の様な日は僅か二ヶ月足らずで終わる事に成りました。

悔しかったです。本当に・・・そんな事が在りまして、今こうしてこの地に来て心を痛めた日々を思い出していたのです。あーぁうまく言えませんし今更ですが気が動転してきて・・・」

「そうでしたか。お辛い思いをされたのですね。お気の毒に」

「彼女を安置所で見た時は、顔が壊れていてまるで人形が使い古されて棄てられた様に成っていました。頭


蓋骨が壊れて陥没し、それは一人の女性いや人間の顔とは思いませんでした。滑稽な姿でした。

 彼女の両親は私に言って下さった事は『あの子は貴方と知り合いに成って今まで感じなかった幸せを感じたと思います』とその様な事を言って下さったと思います。そしてお母さんが私の肩に手を掛け強く抱き寄せて泪を流されていた事を覚えています。


 それは私が彼女に余計な事を言ったから、こんな事に成ってしまったのではないかと詫びるように言った事に対してです。私が彼女に好きですとか言わなかったら、こんな事は起こっていなかったのではと責任を感じたからです。

「成程ね。辛いですね。でもそれは考え過ぎでその方も既に二十歳に成っておられたはず、運命だったのでしょうね。」

「運命ですか?」

「ええ、私はその様に思い、心を整理するべきだと思います。決して忘れろと言うのではなく、大事に心で育て上げると言う事です。

仏様と同じです。仏様も初めは私たちと同じ場所に居られ、修行を積まれ、最期は仏さまになられた訳で、其の方も人並みならぬ苦しみの中で息絶えられ、今は仏様に成られたのではないでしょうか。

 修業の中で一番辛い修行は、それは死を持ってつまり必死でする修業だと思われます。其の字は必ず死ぬと書くのですから。

だから其の彼女は間違いなく貴方の心の中で立派な仏様として生き続けているのではないでしょうか。」

「ありがとう御座います。あんなに壊れてどうしょうも無い顔に成っていた彼女が、今笑ってくれた様に思えます。私は今日こうして沢村さんとご一緒させて戴き、良いお話をお聞きしてとても嬉しいです。こうしてこの場所へ来た事も良かったです。でも二人で来たかった・・・」

「その人のお名前は?」

「白川玉枝と言います。」

「白川さんね。何か優しそうで笑顔の似合う人が眼に浮かんで来ます。きっと今は幸せなのでしょう。貴方の心で生き続けている事が」

「・・・・」

「そうではないのですか?」

「・・・・・」

「あーぁ又私は余計な事を、余計な事を言って思い出させてしまいましたね。悲しい思いをさせてしまいました。」

「いえ、良いのです。何度彼女とこの場所へ来たかったか、でもあれから三十年近くが過ぎましたが、奈良県に来たかった事は在りませんでした。意識して来ない様にしていました。この大台ケ原は絶対来たくなかった場所で、一度は行かなければならないと思える場所でした。私にとって聖地と言いますか、最期の場所だと思っていたからです。」

「最期の場所とは?」

「だから私の人生を締めくくる時はこの場所と」

「では今日来られたのはその様な思いをされて?」

「いえ、その様に思っていただけですが、《これからの人生で一つだけしか出来なかったら貴方は何をされますか?》と質問された時のように」

「そうですか。よくその様な事を言う事が在りますね。冗談で」

「ええ」

「でもよくよく考えてみると、思い切って来られましたね。お一人なら心が重く成られて、辛い旅に成っていたのではないのですか?貴方は心も純粋で真面目そうな方に見えますから、男って女性と違って結構引きずりますからね。まして貴方の様な惨い思いをされたのなら尚更、決して忘れる事など出来ませんからね。死ぬまで其の方のお顔は忘れられないと思いますよ。それでこそ当たり前でそれこそ人間だと私は思います。


 だからありのままで其の方が貴方の側で居られては困りますから、誰にも見えないようにして、貴方の心に中で仏様に成って、静かに座られて貴方を見ているのでしょう。貴方が幸せに成る事を願って、其れで貴方は、それからの人生で他の女性に気が向いた事は在りませんか?当然在ったわけですね。輪廻転生です当たり前です。男ですから。でも五十のお歳に成られて始めて知り合えたその人の事がふと思い出されて、何となくここへやって来たと言う訳でしょう。今の奥さんには内緒で」

「はい、そうかも。ここへ来たのは気休めではありませんが、確かに他の女性に気が移った事は事実です。当然其の時はこの彼女の事は忘れていました。手も握った事さえなかった白川さんの事は、決して本当の恋とかではなかったのかも知れないです。要するに大人の恋とかでは」

「それで後に知り合った方とは?」

「ええ、実は私が既に四十五歳を越していて、白川玉枝さんを思う心の自縛から抜け出す事が出来たのは、二十年以上の歳月が要りました。

其の時知り合った女性は実は私より年は十四歳ほど若くて一人子供を連れているシングルママだったのです。


私の働いている職場にパートで来られて、いつの間にかお世話をしている内に親しくなり、女の色気と言いますか、母性本能と言いますか、情と言いますか、調度其の頃おふくろが他界した時期でもあり、気が付けば深い関係に成っていた訳です。しかし子供さんは私には懐いてくれませんでしたが、それに自分の実の子が出来れば良かったのですか、彼女にその気が無くギクシャクとしながら日が過ぎたようです。」

「でも少々摩擦は在ったと思いますが、でも幸せに成れたのではないのですか?白川さんの事も次第に忘れて行き」

「かも知れません。」


「そうですか。色々在って、そして今ではお幸せに成られているわけですね。良かった。貴方の様な経験をされた人は誰よりも幸せに成って戴きたいですね。 私は公務員を長年していて色んな境遇の方とお会いして来ましたが、神様は決して平等ではなく、辛い事の繰り返しの人生もあれば、難なく幸せに暮らしている人生もある様です。誰が悪いとか誰の性だとかそんな事は無い様です。天罰と言う言葉もありますが、果たしてその言葉が合っているかそれすらもわかりません。初詣に行って帰り道で事故に遭う方も居られるようですから、一概には言えないでしょう。

貴方が今幸せなら、それは白川さんが貴方を見守って下さっているからだと思う事が、大事ではないでしょうか。」

「沢村さんは?」

「私ですか・・・幸せと言えばそうかも知れませんね。第一勤めを無事全う出来ただけでも十分感謝しなければいけないと思っています。無事これ名馬って訳ではないのですが、兎に角無事にここまで来られた事に感謝ですな」

「無事っていい言葉ですね。私の人生もそうでありたかった。無事で・・・」

「いえ、山根さんも良いではありませんか、悔やんでも悔やみ切れないと思いますが、新しい家族の事を考えて幸せにして挙げなければ、それでこそ全うな良き人生ですよ。」

「はい。」


「寒く成って来ましたね。」

「温かい物を作りましょうか、コーヒーいけますか?」

「はい大好きです。宜しいですね。ここでコーヒーを頂けるとは・・・」

「では作ります。」

「今日は随分お世話に成りまして。先ほどはラーメンを頂き、そして今こうして又コーヒーをご馳走になるとは、真に申し訳ないです。感謝いたします。それに足が痛かった私にお付き合いさせた事も」

「いえお互い様です。それより沢村さんの言われた事で心が安らぐ思いです。素敵な人生を送られているのでしょうね。言葉の隅々に重みがあります。」

「恐縮です。こんな私にその様な言葉を掛けて戴き、もし何処かで気に入られた言葉が在るとしたなら、それは私が発して事ではなく、おそらく六十二歳と言う年齢が発した言葉なのでしょう。

六十二年間生きて来た証なのでしょう。それと言い換えれば、悲しいですが人生をリタイヤーした者だから出る言葉なのかも知れないし、仏さまに成る時期が近づいて来ているからかも知れません。そんなものです。だから貴方もこの歳に成れば同じセリフを語られるでしょうね。

貴方はこれから十年もすれば私の様にお払い箱に成り、幾らやせ我慢をしても朽ち果てる事は間違いないのです。

こうして過酷な旅をしているのも、言わば最後の足掻きなのかも知れません。其の証拠に足を痛めて泣き言を言って・・・笑われるかも知れませんね。これが私の正真正銘の姿なのです。」


「コーヒー入れましたどうぞ」

「こんなステンのカップを持って来られたのですか?重いのに?それに二つも?」

「ええ、」

「これって亡くなられた彼女と飲む積りだったのでは?」

「ええ、いいじゃありませんか、三十年前に戻れないのでしょう」

「解かりました。また余計な事を」

「でもそうなのですよ。彼女と二人であの時飲む積りで買った揃いのカップです。おっしゃられた通り、だから貴方とこの様にしているように、このあたりで同じようにコーヒーを二つ入れて飲んでいたでしょうね。」

「そうでしたか。其の時に買われたカップを今でも後生大事に」

「はい」

「温かいです。やはりこの高さになると、六月と言えども冷えて来ますね。まだ真夏ではないから」

「そうですね。大阪に比べれば雲泥の差ですね。」

「あれを見て下さい。あの綺麗な花を。」

「綺麗ですね。もっと早く来ていたなら、なお綺麗だったでしょうね。あの花は五月ごろが一晩綺麗な筈、少し時期が過ぎたから・・・でも冬の時期はこの辺でも雪が積もり可成冷たい筈、奈良の橿原市では考えられない様な雪が降りますからね。そんな日でも耐え忍んで、そして暖かく成ってくればあんなに綺麗な花を付け、ぱっと咲き又同じ事を繰り返すわけですね」

「まるで人生のように」

「そう、全く・・・美味しいね。温まります。山根さん私たちは一期一会で終わるのですか?」

「そうですね。この旅が終われば私は大阪へ帰りますが貴方は奈良へ帰る訳ですね。今の私にはそれ以上の事は言えません。」


「山根さん貴方がここへ来られたのは思い付きだとおっしゃいましたが、このカップの事を考えると決してそうではなく用意周到であったのではないのですか?それともカップだけなのですか?他の事は思いつきで?こうしてコーヒーを戴いていると、このコップは白川さんが飲んでいたかも知れないと思うと、何故か辛いものを感じます。」

「・・・・・」

「ご免なさい。止めます、こんな事を言うの」

「いえ、おっしゃる通りで、あまりにも刹那な時で終わった事を今取り戻そうとしているのかも知れません。貴方が言われた様に何れ人間は朽ち果てて行く生き物だから、まだ若い筈の私でさえ其の粋に入ろうとしているのかも知れません。貴方のおっしゃる事を少しは理解しているのでしょう。」


「私はこの旅が終わる頃に、貴方にもう一度お会い致しませんかとお尋ねしようと思っています。

先ほどからその様に思い付きました。貴方が《一期一会ですか?》と言わせて頂きました事に対し躊躇されていた事に対して、私はその様に思いついたのです。明日お別れのとき必ずお聞き致します。

ご馳走様でした。美味しかったです。私も母さんが持たしてくれた果物が在りますからそれにおやつとか・・・好かったら召し上がってください。まるで子供ですねこの年歳に成って」

「でも奥さん心配されているのではないのですか?」

「でも眠る前に家内と話をしたから、今頃は旦那の居ない家で友達か誰かを呼んで、カラオケをしていると思います。何しろカラオケが好きだから」

「そうですか。なら寂しがっては居ないと言う事ですね。それはいい。」

「私は女の子が二人だったから二人とも嫁いで、考えてみれば寂しいようですが、今時其の方が気楽で、又孫たちも時たま帰って来ますから、それが一晩旨く行くかも知れませんね。万が一寂しく成ったら此方から逢いに行って構ってやれば、それで良いから気楽なものですな」

「よい人生ですね。絵に書いた様な」

「判りませんが人並みでしょう。」

「人並みね」


沢村準一と山根弘道は陽が落ちると意を合わせた様に目を瞑って眠る事にした。

疲れがドッと山根を包んでいたのか大きな鼾がテントに響いた。沢村は堪らなく成り、更に宵の口に既に僅かの間でも熟睡をしていた事もあって、とてもでは無いが寝付く事は出来なかった。慣れないテントであった事も手伝っていた。


すっかり暗くなって静寂の穏やかな空気が闇を包んでいた。

 今は大きな鼾をかきながら眠る山根ではあるが、重い空気を醸し出しながら彼は家を出て、この地に来た事は沢村にはすいほど分かった。

 この地へ来たのは逃避なのか、それとも懺悔なのか、センチメンタルに成って悲壮な思いを感じているのか、沢村には判らなかったが、重い荷物を背負っている事は確かに思えた。だから未だにまだ幼い子供さんの事も話していない。男の子だと言っていたから、本当は話したいのが男親、例えなさぬ仲であっても所詮まだ幼い子供、大人が手を打てばそんな事直ぐに解決する筈。沢村には合点の行かない思いで気を揉んでいた。


 実は沢村の孫達も同じ様な歳であり、其の孫の事を思うと限りなく可愛かった事から、山根が歯がゆい生き方をしているのではないかと思う気持ちであった。

《この人は私が思う範囲では必ずしも幸せではないのかも知れない。更に今何かを抱えている。拘らなければならない何かを・・・》


沢村は鼾を掻きながら眠り続ける山根をその様に捉えていた。しかしそれが何であるかなど判る筈が無い。明日彼が起きれば、そして行動を共にすれば何かを摑めるかも知れない。

彼は私たちの出会いを一期一会と思っているようであるから、無理に近寄る気は無いが、沢村にすれば人生を大半全うした者として歯がゆかった。何か役に立てる事は無いのかとおせっかいであったが気にしていた。


それから長らく一人で防寒具に身を包みながら限界まで眠く成る事を祈った。山根はいつの間にか穏やかに眠っている事に気が付いて、遠慮の無い大きな鼾は成りを潜めていた。

やがて沢村も眠りに付いたが、その沢村が山根に起こされたのはまだ漆黒の闇の中であった。


「さぁ起きて下さい。朝陽を拝まないと、良い事が起こる様に拝みましょう。」

山根は元気良くその様に口にした。沢村がテントから出て寝袋を丸めていると山根が大きな声で 「コーヒー入れましたから」と口にした。

昨日コンビニで買ったパンやおにぎりを取り出して二人は朝食を取った。


「今日もいい天気ですね」

「沢村さん昔の事で微かな記憶なのですが、ここから正確には何とかの覗きとか、牛石ケ原とか、兎に角富士山が見えるって何処かに書いてあった事を覚えています。間違っているかも知れませんが・・・」

「いや、私もその様な事を聞いた事があるから間違いないでしょう。只聞く所によるとどうも望遠鏡で見たとか、定かではありませんがその様な事を言って宣伝して、観光が目的であるかも知れません。あまり期待せずに行って見ましょう。」

「はい。」

「ところで良く眠れましたか?」

「ええ、疲れていた性か可成眠ってしまい、深夜の二時前でしたか目が覚め、それから起きていました。」

「では私と間逆ですね。私は宵の口に眠って、それから目が覚め、いい加減目が疲れて来たのが既に十一時ごろに成っていましたから、私が寝て貴方は其の少し後で起きたわけですね。」

「その様ですね。でもお互いしっかり寝る事が出来たと言う事でしょうね。今日は昼頃まで大台ケ原で過ごして、それから?」

「それから熊野を目指して下って行きましょう。」

「・・・・・」

「そうなのでしょう?」

「どうしましょう?」

「どうしましょうってその積りだと私は思っていますが、もっとここで居るのですか?それとも・・・」

「実は夕べ色々考えましてそれで今は思案しているのです。ここから熊野へ行く事が嫌ではないのですが、私の目的は何よりも大台ケ原でしたから」

「山根さん、私は決して無理にお誘いなど致しません。折角こうして来られたのですから思うようにされれば良いと思います。

 分かりました。これから先へ行けば食堂などが在ると聞いていますから、そこまで行って情報を聞き、それから行きたい所へ行って存分に楽しんで、それから考えられたらどうでしょうか?

私は最初から思っていた通り熊野を目指して午後には下り始める積りです。」

「そうですね。思い付きでこんな・・・ややこしい事を申しまして」

「さぁ行きましょう。綺麗な朝陽を拝める所まで、早くしないとご来光に間に合わなく成りますから」

「神武天皇様。天照大神様。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ここに無事朝を迎えられた事に感謝申し上げます。家族友人それに全ての生けるものが無事朝を迎えられた事に感謝申し上げます。

今、病気災難で困っている人は一日も早く立ち直れますように、敢無く命を落とされた方はご冥福をお祈り致します。神様、仏様ここに深く深く感謝申し上げます。」

沢村は朝陽に向かって大きな声でその様に口にすると、山根は驚いた様に沢村の顔を見つめた。


「すみません。私は何時もこの様にしています。心が落ち着くのを感じます。感謝の気持ちで一日が始まる事も覚えます。神様も仏様も私にとっては同じ存在で、宇宙に生ける物体である事実には変わりありません。そして双方とも私の心を支えて下さるお力です。兎に角気持ちがすきっとして穏やかに成り、限りなく同じ様な整然とした落ち着いた一日が始まるのです。」


「そうですか。私が貴方に日の出を拝みましょうと言わせて貰いましたが、貴方の様に深く考えずに言っていました。

 大学の頃に皆と日の出に手を合わせて、心を熱くした事は在りましたが、それ以上の事はありませんでした。だから今貴方のお言葉をお聞きして、今までの心ではいけないのだと感じました。

 貴方が言われたようにもう一度拝んでみます。新鮮な気持ちに成って」

「そんな大げさな。私もあくまで形式ですから。これで豊かな心で一日が始める様に思われるだけです。御経を読める訳でもなく、神様の事を良く勉強している訳でもなく、言うなれば足を向けて寝た事が無いとか、近くでおしっこをした事が無いとか、そんな事だけで、神仏を熱心に崇めているとか何もしていないのです。さぁ行きましょう。富士山が見える所へ」

「ええ、富士山ですね。」


 それから二人は歩き出した。

伯母峰のトンネルを登りきった近くでテントを張っていたから、目的地までは可成の道のりであったが何とか着く事が出来た。

そして情報を何とか摑んで二人で歩いた。

山根が沢村に粋な事を口にした。


「沢村さんこうして歩いていて確かに見る景色も凄いですが、私は感じる景色って言うのか肌に触れる感触が堪らないです。来て良かった。おそらく、おそらく・・・」

「おそらく亡くなられた白川さんが側に居たなら貴方は彼女に同じ事を言うだろうね。そして彼女の心をしっかり摑むでしょうね。山根さん?」

「はい。」

「でもそこへ戻ってはいけないですよ。折角の景色が滲んで台無しになるから」

「分かりました。」

「来ましたね。ここから富士山が見えるって?」

「今ならスカイツリーが見えるかも知れませんよ」

「まさか、でっかい望遠鏡でお月さんのクレーターを見る様な奴で?」

「ええそれなら、だって地図上では鈴鹿山脈以外に東京まで、大きな山などありませんからね。」

「そうですね。」

「間違っていないでしょう?」

「そうですね。でも山根さん。」

「はい」

「貴方朝から元気に成って来られたのではないのですか?明るく感じますよ。夜明け前にまるでポエムの様な事を言われたし、だから私朝から言ったでしょう。神様か仏様か知らないけど、お祈りすれば心が落ち着くって楽になるって」

「そうでしたね。だからですかな」

「ええ、なんでもない事ですが、でも山には山の神様が居て、海には海の神さまが居て、それ以上の事はわかりませんが、私はその様に思って生きて来ました。いつも生かせて頂いている事に感謝して」

「沢村さん私には貴方も神様に見えて来ます。」

「とんでもない、もったいない。神様に叱られます」

 沢村は、二人が昨日の朝電車の中で知り合って、それから一日が過ぎ、二人の間はこの時が一晩和んで来たように思えていた。

「休憩所に戻れば食堂がありましたね。お昼は私にご馳走させて下さい。朝からも昨日も色々お世話に成りましたから」

「いいえ、私こそ助けて頂きました事を感謝致します。」

「何をおっしゃいます。年寄りの減らず口でご迷惑を」

やがて昼近くに成り二人は食堂へ入った。

何処からかラジオの声が聞こえて来る。


【ニュースをお伝え致します。今日朝七時ごろ大阪市天王寺区で、母親と其の子供らしい少年が首を絞められて殺されている所を、尋ねて来た子供の祖母が発見致しました。

二人とも死後丸二、三日が過ぎていて、警察は連絡の取れなく成っている内縁の夫、岩下庄一さんが事情を知っているものと思われ捜しています。


争った様子も無く、怨恨の犯罪ではないかと警察は述べています。絞殺され亡くなっていた二人は大阪市天王寺区在住で内縁の夫の家で暮らしていた猪村加奈恵さん三十七歳と、其の子供で小学校五年生の竜也君十一歳です。お気の毒な出来事でご冥福をお祈り致します。】

 

そのニュースは誰かのラジオから小さな声で聴こえて来る聞き流す程のものであった。

沢村は其のニュースを耳にして『また嫌な事件が起こったものだ』と思いながらも、同じ様な出来事が毎日の様に茶飯事で起こっている事で、耳が麻痺していた事は確かで、だから沢村は山根に其のニュースの事を話す事も無く、それより昼食の事で心は満杯に成っていた。


山根に美味しいものをご馳走して満足して貰う事が喫緊の課題であった。

当然山根もこのニュースを聞いていた事は間違いなかったが、連絡の付かなく成っている内縁の夫の名前が岩下庄一と言う名前だったので、然程関心の無い素振りであった。


「山根さん何にされます?奢らせて頂きますから」

「食堂の椅子に腰を下ろし、沢村は思いっ切り笑顔を作り山根にその様に声を掛けた。

「山根さん」

「は、はい」

「何にされますか?」

「はい。それではカレーでも」

「カレーですか?では私も同じ物を」

アルバイト店員の様な飾り気のない学生風の若者に沢村は声を掛けた。

「カレーを二つ」

「ありがとう御座います。」

 ラジオの音は相変わらず何処かから聞こえていて、沢村は気にしていなかったが、カレーが来るまでの間二人は黙っていた。


 ニュースの先に天気予報が始まる事を分かっていたからであった。

【明日は昼頃から近畿地方南部で雨に成るようです。それも可成の量が降りそうで、お洗濯は今日の内に済ませられるほど良いでしょう。】

やはり思っていた通り明日は雨であるとラジオは言っている。

「山根さん、私はこれから食事を済ませたら山を下りる段取りですがあなたは??」

「・・・」

「山根さんどうされます?」

「沢村さん、実は私朝から考えたのですが、貴方とお別れしてここから来た道を明日にでもバスで帰ろうと思います。もっと居るつもりでしたが」

「そうですか・・・でもなぜ?」

「なぜってすみません。私元々大台ケ原へ来る事が目的でしたから、幾ら思いつきで来たとしても、やはりここへ来る事が長年の夢でしたから、今何もかもを叶える事が出来て心が落ち着いて来た事を感じています。もう少しここで居ようと思います。

大げさに言えば、人生で最期にこれだけはしたいと思う事を何とか叶えた時、まさにその事を今成し遂げた気が致します。

 今だからこんな事を口に出来る事も確かで、朝一番には言えなかった言葉だと思います。僅かの間でしたが多くを学ばせて頂きまして大変感謝申し上げます。

 此方へ来て色んな物を見てそして感じて、今はもう思い残す事はありません。お世話に成りました。優柔不断な所をお見せしてしまいましたが、何とか心が落ち着き、ここでお別れさせて頂きます。」


「そうですか、私は貴方の考えに差し出がましく言う事など全く在りませんから思うようにされれば良いと思います。でも残念です。これからもご一緒出来るものだと思っていましたから・・・諄いですね解かりました。一期一会に成りましたね。」

「はい。でも沢村さんとお会いした事は忘れません。これから毎朝起きれば貴方のお顔を浮かべながら朝陽に手を合わさせて頂きます。」

「そうですか。私が余計なおせっかいをしたから、貴方は強くなられ決心されたのかも知れませんね。」

「はぁー」

「カレーが来ました。これを食べてお別れですなぁ」

「はい」


沢村は思いがけない山根の言葉に気が動転したのか、カレーが旨く喉を通らなかったようで再三水を挟んでいた。

 そして別れの時が来た

沢村はバス停に山根を残して別れる事を決意したがそれでも心残りであり、往生際が悪かったが再度山根に声を掛けていた。

「本当に残念ですなぁ。楽しい二人旅だと思い込んでいましたから、二人で熊野の海を眺めておにぎりを頬ばってと思っていましたから・・・」

「すみません。勝手な事で」

「いえ、元々一人で熊野まで踏破する積りでしたから問題はありませんが・・・」

「・・・」

「それではこれでおわかれですなぁ。」

「気をつけて行って下さい。脚は問題御座いませんか?」

「ええ、問題無いでしょう。」

「そうですか」

「では私はこれで行きますから」

「お世話に成りました。」

「いえ此方こそ」


 沢村は山根を背中に感じながら山を下り始めた。

長い道のりであるが、心は直ぐに吹っ切れて山根に対する未練など全く無い事に気が付いた。

下りは来た道ではなく、登山道があり、伯母峰トンネルを潜る事無く、三重県側に少しでも近づく事が出来るその道を降りる事にした。


背中の荷物がずしんと重かったが、心に誓った決意でそれを吹き飛ばしていた。

 沢村はそれでも歩きながら山根と言う男と出会い知り合い、そして共に行動したこの二日弱の間の出来事を思い出しながら歩き続けた。

実の所、誰にも得意とする人生の薀蓄うんちくを言えなくなった事が寂しかったのかも知れない。


道は結構険しい下りに成り、六十二歳の沢村には背中の荷物が、ずしんと圧し掛かって来る思いが、一歩一歩重ねるごとに大げさに感じて来る事は確かであった。

それでも青々と若葉で覆われた木々の中を歩く爽快さは、口に出来ない程の豊かさでもあった。


ここは秋になればもっともっと引き込まれるだろうな。この景色に・・・」

約一時間が過ぎ下り坂の連続であったが、それでも沢村の額には汗がにじんでいて、小川近くまで下ってそこで一休みをする事にした。小川の水を手の平に汲み上げそれを口に流し込んでふっと息を吐いた。

 

沢村準一は新しい人生を今歩き始めた気がして心が躍る思いであった。

長年机に座り、長年同じ事を考えて同じ行動をとり、同じ結果を求めて来た人生、それで良かった。しっかり自己管理の出来た人生であった。


しかし今沢村は別な生き方を考えそして実行している。今、あの頃に比べればどれだけ生きている事を感じるか・・・どれだけ厚みが増す人生であるか・・・そんな事を思いながら自画自賛しているのである。

大した事をしている訳ではないが、それでも勤めていた時の心に詰まっていたものに比べれば雲泥に差である。

 リュックサックに詰まった荷物は可成重い、おそらく勤めている時はこの様な荷物を担いで歩く事があっただろうか?それもほんの僅かでも、それが今何日にも渡って足を腫らしながら歩き続けるのである。

今までより今が一晩きつい年齢に成ったこの時期に

 

小川の側に座りながら沢村は汗が滲み出る肌を撫で、六月の爽やかな風に打たれていた。

 それから上北山温泉に着いたのは既に可成遅く成っていて、朝早くから行動をしていた事もあり、疲れがどっと出てきたので、まだ早かったが民宿に流れ込む様に訪ねていた。


「荷物を全部背中から外し、身軽に成った体で温泉に浸かった時は、まるで天国に行った思いであった。

「あーぁ山根さんも来れば良かったのに・・・こんなに気持ち良いお湯に浸かれるのに・・・全くもったいないなぁ」


 沢村はすぐに山根の事を思い出しながら、顔を思いっきり叩く様に両手を当てて掛け湯を繰り返した

 足は皮がむくれて新しい皮が下から覗き、痛みも無く逞しさを感じる程に成って来ている。

 終日殆ど下りの道であった事も確かで、足に掛かる負担が少なかった事も思いのほか辛くなかった。            

 逆上せる位お湯に浸かり、お風呂から上がった時口にした水は格別であった。火照る体でソファーに座り新聞に目をやったが、何を見たかった訳でもなくボヤーと見つめていた。

汗が滴るように出て来てそれを拭くのが忙しいほどの勢いであった。


温泉だった事と更にしぶとく浸かっていた事が奏功して、沢村の体は六月の暑い中で燃える様に成っていたのであった。

暫くすると何とか落ち着いて来て汗が迸っていたのが嘘の様に止まったので、カランカランと下駄の音をさせながら民宿へ戻る事にした。


部屋に入り巻き寿司をほう張りながら窓に座り川面を眺めていた。

「母さん今ね、民宿で一休み、さっきまで温泉に浸かって・・・気持ち良かったよ。今度は母さんとバスかなんかで来ようね。きっと気にいってくれると思うよ。」

「ええお願いします。」

「今日はね朝から大台ケ原へ行って朝陽を拝んで、それからガイドさんに聞いて色んな所を歩いて来たよ。牛石ケ原とか色々」

「好かったですね。それでお連れの方はご一緒に?」

「いや、それが彼は下へは降りないって急に言い出して其れで一人で」

「そうでしたか寂しいですね」

「いいよ、大丈夫だよ。元々一人の旅だから残念だけど、でも一人で歩いてみてこれもありだね。」

「そうですか。明日も頑張るのですか?」

「あぁ、明日は下北山から更にどれ位か判らないけどマイペースで安全に」

「気を付けて」

「あぁ、では又電話するよ。」


気が付けば足の爪が黒く成りかけていて、道が下りばかりだった性で、つま先に負担が掛かったのか痛み出していた。

巻き寿司はとても美味しかった。

有名なお寿司である事も聞いていたので、評判通りであった。これで本日の予定は終了。

 

沢村は寝転がりながら久し振りに新聞に目をやっていた。

大台ケ原で何となく耳に入っていたニュースの、母子絞殺の事件を直ぐに見つける事が出来た。

「可哀相に・・・お母さんがまだ三十七歳か・・・子供さんが十一歳、健一と同じ歳か可哀相に・・・」

沢村には二人の女の子が居り、姉は和美と言う名前で三十六歳子供が二人、そして妹の絵美は三十四歳で子供は一人その子の名前が健一である。沢村は新聞に目を通す迄にその子の事が浮かんで来て、あまりにも刹那な生涯に目頭が熱くなる思いであった。


良くある話である。男女間に起こる揉め事は未曾有の如くで底が無い。だから同じ様な話が延々と起こり繰返されるのである。

ハラスメントと名の付くものは殆どがそうである。沢村が勤めていた時でも同じ様な出来事が、どれだけ耳に入って来た事か、何故人は同じ過ちを繰り返す。


大台ケ原の食堂でラジオから流れていたので気には成ったが一番読みたくない記事であった。

それでも今沢村を縛るものなど何もない。お風呂に入って一汗かいた性で目も冴えている。

お腹も美味しいお寿司を食べた事で満腹である。至福の時である。


【殺されていた猪村加奈恵さんとその息子の達也さんは内縁の夫と同居していたようで、近所の方は三人で歩く姿を再三見かけていた様です。

 内縁の夫(岩下庄一さん)は未だ連絡が付かず、深い事情を知っているものと判断し、警察は重要参考人として手配し捜索している様です。】


ラジオと同じ内容であったが、内縁の夫に容疑が掛かられている事が更に強く読み取れる内容であった。

 沢村にしてみれば昼迄行動を共にしていた山根さんだって同じ様な境遇であると思い、男女間の関係は一番硬く奥行きがある割には、どれだけもろいものであるかと言う事もすいほど知っていたから、然程気にする事も無く読み続けていた。

それよりプロ野球の事が気に成っていた事は言うまでも無い。野球のページをペラペラめくり目を輝かせていた。


翌日早朝に目が覚めたが、足の爪が色を変えていて、更に少し腫れあがっていた事もあり、出発を遅らせる事にした。

まだまだ若いと思っていてもそれなりの歳である。

民宿の女将さんに

「この道は下りばかりで退屈でしたわ。」と口にすると、

「では今日は時間があるのでしたら、この道を下らず川向に渡って温泉に行って、それからサンギリ林道と言う道がありますから、そこへ行かれると面白いですよ。でもそこは大変だからお勧めはしませんが」

「・・・」

「この川は池原ダムと直ぐに成ります。ほんの僅かで、だからこの川を渡って向こうに登って行く訳です。つまりダムの裏側を登って行き反対側に降りて行くわけです。車でなら一時間も掛からないと思いますが、可成厳しい峠を越える事に成ります。」           

「いやぁ、止めて置きます。お聞きしているだけで体が硬く成って来ました。無理しないほど良いって事でしょうね。」                            

「そうですか。では平坦な道で迫力が無いかも知れませんがここの道をお下り下さい。

お気をつけて」


池原ダムに沿ってゆっくり歩き始めた。

誰一人として同じ様な井出達の者など出会わない。

車で飛ぶようにして目的地へ行く事が当たり前の時代。考えてみればお月様にだって人が行く事が可能な時代。どこの誰がこの長い道を耐え忍ぶように、蟻の如く歩くだろう。

常識からかけ離れた生き方を・・・馬鹿なことを・・・もう一人の自分が苦虫を噛んでいる。

それでも颯爽と歩き始める。車が風を切ってその風圧で体がよじられる思いになる。

居眠りをして運転していれば撥ねられる事もありうる話だから、誰もこんな事はしないしさせない。


しかし沢村は今第二の人生のあり方を模索していて、今までを否定している訳ではなく、今までは誰よりも一生懸命であり真面目であった事を認めながら、これからの人生はもっと情熱的でもっと激しく、もっと心の豊かさを感じて往生したいと思っているのである。

公務員としてかたくなに生き続けて来た反動と言うのかも知れない。

沢村には心の中であの吉川英治が描く宮本武蔵の様な生き方を何処かで望んでいたのである。


だから年甲斐もなくテントの様な物を買って来て、其れで地面で眠るのであるから、誰もが避ける事をしているのかも知れない。

池原ダムの側道の国道を歩き続けて三時間が過ぎダムの堰堤に着いた。昼を過ぎていたが慌てる旅ではない。下北山には立派な温泉がある。

沢村はダムの堰堤を越し、その「木なりの湯」と言う温泉に向かっていた。


そして又温泉に浸かる事とした。

この湯も心地よく落ち葉が舞い込んで来て湯に沈み、情緒のある風情に心休まる思いであった。

サウナにも入って痛みつける様に汗を流してから、火照る体で風呂から上がり、食事を済ませ、木なりの湯を後にした。


そして又下り始めた。

下北山の街を通り過ぎ今度は七色ダムの側道になる。誰一人として歩いてなど居ない。沢村はその事実を感じながら、そんな事をしている自分自身に疲れるほどに酔いしれ意義を感じていた。

「来てよかった。この旅は、思い切って正解であった。」

それだけを感じていた。

四十年間机に挟まれた椅子に座り続け頑張った賜物であった。あの我慢が今に繋がっていると思った。 

 景色はゆっくりゆっくり僅かずつ変化するだけであるが、間違いなく変化して進行している。この僅かの物理現象が堪らない。


宮本武蔵が野宿を平気で出来たのは、生い茂った草が布団に見えたのだろう。池に溜まった水は大きな銭湯に見えたのだろう。汚れきって汗にまみれた着物は、分厚くて丈夫で風を通さない粋な衣裳に思えたのだろう。

沢村は時々冬になると水を被る事をしている。寒修業である。そして水を被った後どれだけ体が温まるかも良く知っている。全身が心地良く成る事も知っている。

 だから今、六十二歳に成った今、テントで眠る事を興奮気味に捉えている。過酷であれば尚面白いと思う様にしている。それでも長年硬く生きて来たから決して羽目を外す事は無い様で、朝民宿の女将に言われたサンギリ林道を登る事を勧められた時もいとも簡単に断っている。


 実は心の中で行きたいと思った事は事実であったがもう一人のお堅い今までの晩節をわきまえた沢村準一が許してくれなかったと言うわけである。


随分下って来て相当暑く成って来てやや疲れを感じ始めて来たのは、やはり六月の日中は真夏である。

ただ明日には雨に成る様で、時折可成強い風が舞っている事が何よりも爽やかで心休めであった。

歩き続けているとダム際に広場があり時間も可成経っていて、安全な所にテントの張るスペースを確保して座り込んでいた。


「今日はここが私の別荘」と青々と水を張ったそのダムのほとりでテントを張る事を決心した。     《六月の最高の季節にダムのほとりでテントを張って、至福を感じて、何処に不満があろう筈が無い。》

沢村はほくそ笑みながら、水面に吹く風に揺られている落ち葉を見つけて《私もあんたも磊落か》と呟いた。

やがて陽が落ち物悲しさが少し沢村を包んでいて、昼に別れた山根の事を又思い出していた。      『あの人は大阪へ帰ってしまったのかも知れないな。』

何故か心の中が乱れているのか、共に行動をしながら何か重いものを抱えている様に沢村には思えていたので、変な形で気に成る人であった。


思い出せばあの人は、大台ケ原の山上でも決して晴れ切った表情など一度も無かったかも知れないと思われる。

遠い学生時代にそれは大層悲しい出来事であった事は解かるが、それから三十年が過ぎている訳で、そんな遠い昔の事を昨日起こった事の様に人は思えるだろうか?

風化して形も変え深さも変え、痛さも変え色も褪せて幻に成っている筈である。

亡くなった白川と言う女性を今でもはっきり覚えていると言うのだろうか?沢村には山根の気持ちが理解出来なかった。


それでは今付き合っている人は、いや同じ屋根の下で暮らしている人はどうなる?その人に失礼ではないのか、心で密かに秘めているとは、男女の間に於いて果たして許される話であろうか?あくまで現在進行形が全てではないのか?


往生際が悪そうな山根の心の内が、今直気に成っていたのであった。

それは言い換えれば大台ケ原の食堂で沢村が、いとも簡単に裏切られた様な気持ちにされた事が尾を引いていた。


❽二人で熊野灘を見つめながらおにぎりを頬ばって・・・沢村も何時までも同じように未練がましくその様に思い続けていた事も確かであった。

谷深い山裾の空き地は太陽が隠れるとあっと言う間に夜に成る。


これで三日目である。

野宿は二日目だから実に自然である事がこんなに楽しいのかと改めて思う。

これが真冬ならどうする?極寒の大地で野晒しでも耐えるだけの根性があるだろうか? 

沢村は何時の日か冬に立派なテントを購入して、山根が持っていた様なマエナスでも耐えうるテントで挑戦する積りである。


周りが雪景色なら申し分ない。宮本武蔵が寒の最中に井戸水を汲み上げ、頭から何度もどっぷり被った姿を描かれている。そんな男でありたいと沢村は思っている。

これからの生き方として果敢に逞しく生き続ける男でありたいと男臭い希望を持っている。


夜明け前、正確には三時すぎ沢村はテントを畳んで身支度をした。

急いだ訳は午後から雨が降るようであったから気が急いた。

七色ダムのほとりを歩き続けて昼前に国道四十二号線に入り、一応地図上では熊野市に到着したのである。

当然まだまだ目的地ではないが、この坂を下れば大泊そして鬼が城、疑う余地の無い熊野である。 

 トンネルを潜ると直ぐに熊野灘が大きく顔を見せ、手招きをしてくれている様な思いに沢村は心を躍らせた。


「見えた!熊野灘」

痛めていた足も今は何も判らないほど軽やかに動く六十二歳、良く頑張ったと自分に言い聞かせている。

 午後四時前に成り、獅子岩近くの海辺に作られたベンチに腰を下ろし、遠い海原をじっと見つめる。この場所こそ山根弘道とおにぎりをほうばって労をねぎらいたかった場所である。

 そして「山根さん私たちは一期一会ですか?」と問い尋ねたかった場所である。当然彼の口から満面の笑顔で《そんな事ありません。これから始まる様に思っています貴方とのお付き合いが》と帰って来るのではないかと想像した場所である。


 しかし山根弘道は沢村の言葉に対して即答は無かった。

一期一会であると思っていたのか何も口にしなかった。

人と人がたまたま同じ様な目的で知り合いに成り、共に行動して心が和み色々な事を話し合って、そんな事を積み重ねていても所詮他人なのか、決して距離が縮まったとは限らない様である。

寧ろ離れて行く事もある様である。


沢村は刹那の間に山根と別れる事に成った事に対して、未だに合点が行かない思いであった。誘いに対して断られただけに。

一時間もの間沢村はじっと座って海を見つめていた。

そして振り返り山々を見渡しながら、誰がこの様な事をするだろうと、自分の歩んで来た道を思いながら感心していたのであった。


六月の雨を呼ぶやや強い目の潮風は、限りなく沢村の心を爽やかにさせていた。

七理美浜は七里あり確かに長い浜が続き美景である。

早速防風林にテントを張ったのは、既に雨がちらつき始めていて、風も時間を追って強さを増してきたからである。テントの支柱にロープを張り巡らし、恐いくらいにその風を気にしていた。

その慎重さが良かった。

いや、良かったと思っていた。


風は激しく成りテントは潰される様に成りながら耐えていた。雨も激しく成ってきた。それでも迂闊な事に安物のテントであるから雨が入って来てどうにもならない。水圧に耐えるだけの作りではない様である。

 

山根のテントがいかにも理屈に適った物であったかその時判る事と成った。

 雨は容赦なく降り続け、服もズドンも下着まで濡れ始めてどうにも成らない。

着替えだけがしっかりポリ袋に包まれて居るから問題なかったが、今それに着替える時ではない。

 いい加減面倒に成って来た沢村は、さじを投げる様に成って霧しぶきに打たれながら、歌でも歌ってやろうかと、テントから顔を出し天を見上げた。


 雨は彼の顔に叩き付ける様に降りしきり、言い様の無い自然界の洗礼が始まる事と成った。

熊野地方に大雨洪水警報が出てサイレンが鳴り響いて沢村の心を揺さぶった。


「これしき」とテントの中に入って来るしぶきを、戦うようにしてタオルで雨を掬い続けた。

それでも容赦なくテントの中にしぶきに成って雨は入って来る。しぶきがテントを通り過ぎ、水溜りが至る所で出来、「何が防水だ」とばかり腹を立てながら諦める。

取り返しが着かないほどテントの中は水浸しに成り、夜空に星が出て綺麗に成った頃は既に夜明け前であった。

 

一晩中沢村は眠る事が出来なかった。パンツまで水浸しで素っ裸に成って何とか着替えたが、それでもテントの中では眠る事など出来ない。底を拭くには着替えを使わなければならないし、そんな事は出来ない。幾ら六月と言えども一晩中しぶきに攻められていたから体は冷え切っている。唇もガタガタ震えている。

 国道へ出て重くて話にならない濡れた服やテントや、何もかもを積み上げてタクシーを待った。


「すみませんね。私奈良から夕べ歩いて来ましたが、やっとここまで来てこの有様で」

「そりゃ大変でしたね。夕べは雨きつかったでしょう?」

「そうです。テントの中まで雨が入って来て」

「テントで?」

「はいテントで寝ました。」

「まさか?夕べ?」

「はい。ところが旨く出来ていて、私のテントはホームセンターで買った安価な物だから、昨日の様な大雨では遠慮なく雨が入って来て、値の安い物を買ったばかりに」

「テントってそんな物なのですか?」

「ええ、判りませんでしたが、安物ですから仕方ないです。今度はもっと高いのを買います。

 ところでコインランドリーへ行きたいのですが?乾かさないと、時期が時期だけに又いつ雨に成るか判りませんから、確実に乾く方法を選ばないと」

「在りますよ。熊野警察署の側に」

「ではそこまでお願い致します。」

「解かりました。」

「おかしな話です。熊野まで歩いて来た私が、こんな便利な所まで来てタクシーをお願いしているのですから笑い話ですね。」

「いやぁあまり無理をされ何かが起これば大変ですよ。お客さんも私と同じ様なお歳とお見受けしますが・・・」

「はい今六十二歳で」

「私よりまだ上ですね。だったらあまり無理の無い様にしないと。同僚で倒れた奴も居りまして、この歳に成ると色々起こるようですなぁ」

「ごもっとも」

「調度警察の前くらいですから直ぐに着きます。もしお泊りなら鬼が城のトンネルを越した所にホテルがあり、そこでもコインランドリーを設置しているようです。念の為にお教え致します。」

「ありがとう御座います。」


タクシーで重くなった荷物を運んで、早速洗濯を始めた沢村は、安堵感が湧き上がる様に生まれて来て、冷え切った体であったので周りを見れば大衆食堂がありお好み焼きにありついていた。

調度その時間に洗濯が進み、お腹が膨れて体も温かく成って来て、その間に洗濯が終り乾燥機に品物を移し、夕べはドタバタと繰返した一晩中の戦いであったが嘘の様に元の姿を取り戻して行った。


 沢村は乾燥しているシャンシャンと言うドラムが廻る音を聞きながら、温かく成った部屋でうつらうつらと居眠りが出始めて、ちっちゃなソファーに腰を降ろしいつの間にか深い眠りに付いてしまった。

 どれだけ眠ってしまったのか判らなかったが、乾燥機はとっくに熱を冷まし、外の温度と変わらない様に洗濯物が成っていたから、相当眠ってしまった事に気が付いた。

テーブルの上に乾燥された何もかもを置いてきちんと畳み始めた時、隅に置かれた新聞に目が移って、何気なく見ていると昨日からの同じ母子殺害の二ュースが載っていて、そこに三センチほどの大きさで一枚の写真が載せられていたのである。

何処かで見た事のある人であった。

「山根さんや」


沢村は思わずその言葉が頭の中で走った。

大阪母子絞殺事件重要参考人と書かれてあった。

「まさか?山根さんが・・・?」

【岩下庄一・・・重要参考人、今なお消息知れず全国に指名手配】

 沢村は新聞を持つ手が震え始めた事に気が付いた

そっくりである。ただ僅か三センチの写真である為自信など無いが、それでも山根弘道と全く同じである。外を見れば正面に誰でも読む事が出来る熊野警察暑の大きな文字

沢村は固まってしまった。


山根は沢村に一期一会であると言った、しかしそれは気が会わなくてその様な判断に至ったとは思いたくなかった。

 言うに言えない理由があり、断腸の思いでその様な決断をしたものであると思いたかった。

 その山根をこれから目の前にある国家権力の中枢に乗り込んで何もかもを話すのか・・・自分が当たり前の様にしようとしている事が、恐く成って来て震える様な心で自問自答していた。

 

心の中で色々な思いが混在しているからである。

乾いた洗濯物を畳みながら思いは更に混沌として身動き出来ない位に成ってきた。

「はぁーさてどうすれば・・・」

その様に重く感じた。

沢村の頭の中で駆け巡る思いの中に、

山根がこの二日間で発した言葉を思い出さずにいられなかった。

「もし人生が終りで最期にしたい事が一つだけあるとするなら・・・」その様な意味の言葉を彼の口から発せられた事を思うと、山根弘道が手配中の岩下庄一と同じ人物なら、大台ケ原がケジメをつける場所と成るかも知れないと思えた事であった。

 だから安易に彼が大阪に帰ったと思った事はありえない話と成り、白川玉枝と大台ケ原の思い出の地で自ら命を絶つ事が十分考えられるのである。

母子殺害事件に絡めて、

 沢村はその様に考えた時、居ても発っても居られなく成って来て、向かいに聳える熊野警察暑に向かっていた。


「すみません。私奈良の橿原市から来ました沢村準一と申します。この写真の方の事でお話しが御座います。人違いであって欲しいのですが・・・でもよく似ているので・・・」

「この写真の重要参考人についてどの様に?」

「はい、身柄確保されたのでしょうか?」

「いえまだです。全国に指名手配をしていますが」

「それでですね。実は私奈良県の橿原市を出て、この格好でこちらまで三日を掛けて踏破して来ましたが実はその間にこの方と意気投合して気が合い大台ケ原まで一緒だったと思われます。

 

この写真でははっきり言えませんが、更に大きな写真とか御座いませんでしょうか?先ほどからこの写真を隣のコインランドリーでたまたま見つけて慌てて来させて頂きました。」

「もっとはっきりした写真を見たいのですね」

「はい。実はそっくりに思える気がします。


ただ同行を共にしていたこの方は山根さんと言いまして、山根弘道さんです。だからこの写真の方と名前が違っていますが、何度見ても同じ方と思われ、其れで思い切って来させて貰いました。」

「分かりました。此方に来ている写真はこの写真と変わりませんが、大阪府警に照会してみますから暫くお待ち戴けますか?」

「解かりました。間違いであれば良いのですが・・・」


担当した警察官が席を外した後、女性の事務員らしい職員にこそこそと話して沢村の方へ再び戻って来た。

「今送ってくれる様に言ってあります。それで貴方が言われる事が当たっているなら直ぐに手配しなければ成りませんから、申し送れました私篠田と申します。それとご協力ありがとう御座います。」

「でも間違いであれば良いと実は思っております。こうして来させて貰いましたが、懇意にしていたので結構心の痛む事をしている事も感じています。」

「貴方とその山根さんが途中でお知り合いに成って意気投合してと言う事でしたね?」

「ええ、電車の中で隣同士に成って、それから奈良県の吉野の大和上市駅で電車を降りて、それから一昨日と昨日同行していたのです。

 其れで彼と別れたのは、大台ケ原の頂上でお昼を二人で食べて、その後別れて私だけがこの様に昨日の夕方熊野まで来ました。

ところが大雨に出会い何もかもがずぶ濡れに成ってそれでコインランドリーで乾かして服などを畳んでいる時に、この新聞を見て山根さんらしき人を見つけたのです。

「なるほどね。では正直ここへ来る事には気が滅入って来づらかったのでしょうね。でも良く来て頂きました。お茶でも飲んで下さい。」

「はい。ありがとう御座います。」

「直ぐに大阪府警から返答が来ると思われます。暫くお待ちを」

 

そんな事を話している間に事務員風の女性が一枚のコピーを持ってきて、篠田と名乗った警察官に渡しそれをテーブルの上に置いた。

A4紙ほどの大きさに男の顔が映し出されている。その顔はまさにこの二日間苦楽を共にした山根弘道であると沢村には思えた。

目頭が熱く成って来て涙が滲んでいる事が、その熱を帯びた寝不足の目が物語っていた。


「どうです?間違いないですか。」

「山根さんです。この頬の当たりに少し黒ずんだ所が在るのも同じです。このホクロもありました。山根さんです。」

担当の警察官が目の色を変えた。メモ用紙を自分の机から慌てて持って来て、ペンを持つ手も些か震えている様に沢村には思えた。

直ぐに上司らしき警察官に声を掛け、その人も同席して沢村に声を掛けた。

「山根弘道さんと言いましたね。貴方が同行されていた方は」

「はい。」

「それがこの写真の男と言うわけですね?」

「はい」

「其れでこの写真を見られて間違いなく同じ人物であると?」

「はい」

「この写真は大阪天王寺区で母子を絞殺した重要参考人である事を知っても同じ人物であると思われるのですね。貴方と意気投合して親密にしていた人であっても?」

「ええ、残念ながら」

「分かりました。ご協力ありがとう御座います。大阪府警に早速連絡致します。それで出会った時と別れた時を詳しくお話頂けますか?」

「はい、二日前の朝九時ごろでしたか、私が乗り込んだ電車にこの方が既に乗っていて、隣の席が空いていたので同席しまして、其れで私から話をさせて頂きました。

 この方は大和上市駅で降りられ大台ケ原へ行くようでしたが、既にバスが出た後で、どうもこの方が言うには思いつきで来たとか、昔のバスの時刻表を持って来たからとか言っていました。

 其れでバスが無い事を知り、途方にくれていたようですが、私が大台ケ原の麓まで、つまり伯母峰トンネルを越して行くと言いますと、この方も昔大学時代に山岳部に入っておられ、そんな事で二人して歩く事に成った訳です。

 途中色んな話をさせて貰いなから、更に親しく成って、その日は大台ケ原の入り口と言いますか、伯母峰トンネルは潜らず、上に行き、大台ケ原に登ったのです。

 でも私は何分歳が歳で登り始めた時に足が疼き、その場所の近くでテントを張って二人で寝る事にしました。そして翌日早朝日の出を拝みたくてこの方に起こされ、それから二人で昼まで大台ケ原を散策して、昼に成って一緒に食事をして別れました。 

 其の時彼はバス停で私を見送ってくれました。

それっきりです。


 彼は別れ際に・・実は二人で熊野まで行きましょうと私は言っていて、彼もその気に成ってくれていると思っていましたが、急に行かないと言い出しまして、少しギクシャクしましたが、彼をバス停に残して私一人で下る事にしたのです。 元々その予定でしたから」


「其れで同行されている間や別れ際にこの人に何か変化がありませんでしたか?」

「腑に落ちない点はいくつかありました。

今から思えば一番気に成るのは、お昼に食堂へ二人で入った時、何方か判りませんがラジオを掛けられていて、そこで聞こえて来たのはこの事件の事でした。」

「それをこの方も聞いていましたか?」

「ええ二人は連なって食堂へ入りましたから、間違いなく聞こえていたと思えます。今思うに彼はそのラジオの声で観念したのではないかと・・・それに彼はあの二日間の間に気に成る事も口にしていたかも知れません。

 

❾人生が今日で終りなら、もし一つだけ叶えられる事があれば何をしたいかと言っていました。

 其れで彼が大台ケ原に来た事はまさに其れであったと、昼食を食べて私に熊野まで付いていけなくなったと言う理由にその事を言っていました。

 もっとここで居たいと、それにこれで思い残す事が無い様な言い方をしていたと感じました。」

「大台ケ原へ行った事で?何かあるのでしょうか?」

「ええ、山根さんが、あぁごめんなさい。山根さんと言わせて頂きます。」

「結構ですよ。貴方にとって良きお友達だったのですから」

「それで、山根さんがまだお若い時に、大学生の時に山岳部に所属されていて、後輩の女性に恋をして、初デートが大台ケ原だったようです。

 

でもそんなウキウキしたその前日に彼女が交通事故で即死されたと言っていました。トラックにバイクが巻き込まれ、頭を轢かれ頭蓋骨陥没と言う悲惨な事故だった様です。そんな話もされました。

 だから今私は悩みました。あの山根さんがそんな思いをされた方だと思いながら、この写真と途轍もなく似ている事がとても苦しいです。

お子さんも殺されていますね。実は私の孫も同じ歳で・・・いやぁ本当に辛いです。」

「沢村さん。良く話して戴きました。大阪府警、それに奈良県警に報告致します。それと身柄を確保する事が最優先でしょうね。貴方の話の続きを考えると」

「はい、今と成ってはその様に思います。お願いします。」

「分かりました。岩下は、いや山根さんは貴方と別れられた時バスで下り大阪へ帰る様に言っていたのですね。」

「ええ」

「それなら他の方もバスで帰る方も沢山居られる筈、直ぐに判るでしょう。今でも同じ人物だと確信出来ますか?」

「はい、悔しいですが」

「でも事実なら凶悪な殺人犯ですからね」

「そうですね。」


沢村準一は重くなった気持ちをどうする事も出来なかったが、自分で投げた匙を拾う訳にはいかなかった。

結論から言って山根弘道の命が何より大事であると括って熊野警察を後にした。

大阪府警からも電話が掛かって来たが同じ事を口にした。幾ら心を痛めたとしても、それ以上でも以下でもなくありのままを伝えた。


沢村準一の熊野踏破の旅は思わぬ横槍が入って締めくくる事と成った。実は帰りも歩いて帰る予定であったが、警察から何かを言ってくるかも知れなかった事もあり、一市民として非協力ではいけないと、元公務員がそこで顔を覗かせていて、急遽計画を変更したのであった。

熊野からJRで三重県松阪に、それから近鉄で同じ松阪から近鉄八木駅に向かって自宅を目指した。

夜の十一時前に成ったが、沢村の体は無事自宅のソファーに腰を降ろしていた。


「大変な事があったのですね。辛いですね。でもお父さんその写真の方はお父さんが言っている方と全く同じなのですか?」

「あぁ、警察にも二回か三回聞かれたけど間違いないな。間違いであってほしいけど」

「そりゃぁ寝食を共にした仲なら誰だって思いますわね。まして暖かい布団でとか違うのですものね。お辛いですね。」

「でもあれから警察も何も言って来ないな。彼はバスに乗らなかったのかも知れないなぁ。バスに乗っていたなら誰かが覚えている筈。それさえ未だ判明していないかも知れないな。」

「もし乗っていなかったらその方は?」

「だから警察が一番に身柄確保と言っていたね。」

「それって命を絶つ事がありうるって事ですね。」

「もしだよ、彼が奥さんと子供さんを殺していたとしたら考えられるね。私と居る時も時たま思いつめた様な所があったからね。」

「そうなのでしたか」

「でも私には判らなかったな、そんな人を殺めた人間の感情など知る由もないからね。」

「そりゃぁそうですよ。当然ですよ。」

「もし彼があれから自殺でも決意していたとしたら・・・いやそんな事考えない様にしよう。可哀相だから」

「お父さん。本当にお辛いですね」


沢村は泪を滲ませそうになった。

熊野警察に駆け込んだ訳ではないが、それと変わらない思いで尋ねた事は言うまでも無い。山根の身の上を案じてと心では思って咄嗟にした賢明な判断であったが、今冷静に成って思い直してみて、何処かに出しゃばった事に対する自責の念がある事に気が付いたのである。


 警察が今動く事で彼はその事がきっかけに成って死を選ぶ事も考えられ、まるで運命を左右する様な事が沢村発で起こったと思わされたのであった。

辛かった。だから遂に泪が頬を伝ってぽたぽたと落ちる結果に成った。

「今日はお疲れでしょう。お風呂に入られてゆっくりお休みに成られては、明日又何かが判るかも知れませんから、引き返せないのですから」

「そうだね。」


 

一夜が開け沢村は妻武美の声で起こされた。天井から雨が降ってくる事はない。贅沢に布団を蹴って寝ている。パジャマもボタンを外し淫らな格好で寝込んでいたわけである。それも熟睡していた事は眠っていた長い時間からでも判る。


昨日熊野で一番中ずぶ濡れに成って一睡もする事なく、テントの中の水をタオルに浸み込ませて拭き取り続けていた事が嘘の様である。

 

しかしこの間に一人の男の運命が変わろうとしている。沢村は妻に起こされて我を取り戻して即座にその事が頭を一杯にしていた。慌ててテレビを付けてニュース番組を捜したが何処でもやっていない。

「お父さん起きるなり気に成るのですね。昨日の事が」

「そりゃそうだよ。」

「でもあまりのめり込む様にされても疲れますから警察にお任せしましたら」

「でも私が警察に、言わば垂れ込んだのだから気に成ってもしょうがないだろう」

「ええそれは判りますが・・」

「私はね、彼が岩下庄一って男とどれだけ似ていてもあかの他人であって貰いたいから、そう願っているのだから」

「そうですね。全く考えられない事ではないと思いますからね。幾ら似て居ても」

「そう願っていると言う事だから」


 一日が過ぎ、翌日の新聞にも山根弘道の身柄を確保したと言うニュースは流される事が無かった。

当然それが母子絞殺犯岩下庄一であるなど、何一つ判る事はなかった。

それから何日が過ぎても山根明弘の消息は大台ケ原の霧の中にあった。


山根はバスには乗っていなかった。さりとて歩いて山を下った形跡も一人として目撃者が出なかった。

当然バス停で居た姿を見た者や食堂で姿を見た者は、入山許可手続きをしている者が殆どであったから、直ぐに調べる事が出来たが、誰一人としてまともな答えを聞く事が出来なかった。

山根はおそらく誰も居ない所で行動して、誰にも判らないように下山したか、それとも何処かに潜んでいるか、沢村は何はともあれ山根のその安否を気遣っていた。


七月に入り雨が続く毎日に成り、大台ケ原は言うまでもなく日本中で一番雨の多い所であるから、その量は計り知れない位に降ったのである。

梅雨が開け真夏の陽が高地の大台ケ原にも暑く照りつける頃に成って、山根は悲しくも白骨化した死体で発見される事に成った。


大台ケ原の沢を下り東側の通称協会の近くの笹薮の中で、眠る様に亡くなっていたのであった。

ビニール袋の中に遺書の様な手紙が頑丈に包まれ、雨に打たれながらもしっかりとした状態で残されていたのであった。

その上には二つのステンレスのコーヒーカップが並べられていて、意味深な人生であった事を物語っていた。


沢村は花束を提げ、警察に許可を貰い急遽車を走らせて大台ケ原へと向かっていた。

 現場に案内された時涙が出て来て仕方なかったが出来るだけ隠す様に振舞っていた。

吉野警察の刑事が居られ、沢村は協力者で只の人ではない事を知ってくれていて、現場に案内される事となった。


何よりも重要であった犯人との関係であったが、残された遺書のような手紙からその事が判る事と成った。

「この人物は貴方に今見せる事は出来ませんが、手紙に書いてある内様によると岩下庄一さんに間違いありませんね。

 ただ、自分は妻や子供殺しの犯人ではないと書かれています。奥さんや子供さんを殺していないと。これが事実かどうかは判りませんが、その様に書かれている事は間違いありません。貴方のご事情は十分お聞きしておりますから、徹底的に調べさせて頂く事をお約束致します。」

「刑事さんこのカップの意味まで書いて御座いますか?」

「いえ、」

「もし宜しかったら私にその意味を時間が許されるならお聞き下さい。私にはこのカップの意味が解かります。でも今は殺人事件の犯人として検死に来られている訳ですからその事は二の次に致します。」

「そうですか、この手紙に別に犯人が居る様に書かれていて、それが事実なら貴方の話に何か意味があるかも知れませんから、後日お聞きさせて頂く事に成ると思います。」

「ええ、」

「兎に角今はこの人物が母子絞殺犯岩下庄一であるか、DNA鑑定を待つ以外に無い様ですね。」

 沢村は警察の邪魔にならないように後ろへ控え、その現場を、テントで被せられたその山根の姿をじっと見つめていた。

 そしてコーヒーカップを見ながら、僅か二ヶ月足らず前に彼からコーヒーをご馳走に成り、共に朝陽に手を合わせ語り合った事を思い出さずに入られなかった。そのカップが、あのぬくもりが、そして美味しかった事も香りも何もかもが蘇って来て、いつの間にか手を合わせて『山根さん、あんたは絶対犯人と違うな、違ってくれよ!』と強く心で叫んでいた。

「見たくなかったなぁ。骨が飛び出していて、あれが山根さんだなんて今でも信じられないよ」

「でも警察の方は良く部外者に見せてくれましたね。」

「協力者だったからだろう。でも見て下さいって訳で無く鑑識さんがテントを持ち上げてその時に」

「そうでしたか。儚いものですね人の命って」

「あんな風にして又大地に戻るって事だろうね。でも私は何かを山根さんに言われた気がしたよ。霊魂不滅って奴かも知れないね。」

「犯人を見つけて下さいって事でしょうか?」

「かも知れないね。彼が犯人でなく、あの大台ケ原の食堂で聞こえて来たラジオが彼を追い詰めたと成ると・・・」

「可哀相ですね。」

「だったら何故死ななければ成らなかったと成る訳で、枕元に置かれたコーヒーカップに何もかもが詰まっているかも知れないね」

「コーヒーカップ?」


 沢村は妻にも山根が経験した悲話を話してあげる事にした。妻武美は目頭を赤くして沢村の話を聞き入っていた。

翌々日、大台ケ原で白骨化して発見された山根弘道こと岩下庄一は一通の遺書を残して六月初旬に命を絶っていた事が判った。                  

《一昨日大台ケ原へ登山に行かれた方が白骨化した岩下庄一さんを発見され奈良県警吉野警察暑に通報されました。

六月初旬岩下庄一さんは大台ケ原へ行き、そこで消息を絶っていたようです。しかしその頃大阪市天王寺区の自宅で、内縁の妻とその子供が絞殺されていて、岩下さんは大阪府警に重要参考人として指名手配されていました。


そして二ヶ月近くが過ぎ、亡くなっていた訳でありますが、ただ遺書が残っており、その中で

「私は妻子を殺していない」と書かれていた事もあり、まだまだこの母子絞殺事件は真相究明には時間が掛かるようです。》


それから数日が過ぎた時沢村準一宅に、捜査本部の置かれた大阪天王寺警察暑から電話が掛かった。

本来自殺と言う事で処理される筈が、今回の事案に関して殺人事件が絡んでいて複雑であった。当然検死解剖もされたようである。


被疑者に遺書があり、そこに殺人を否定する文字が書かれていて、真犯人が何処かに存在する事を仄めかしていて、盤根錯節な事件の要素を秘めて居るようである。

沢村が呼び出されたのは七月の終りに成っていて、脂照りのする様な毎日が続いていた頃であった。  


「遠くまでご足労願いまして申し訳御座いません。何かとご協力戴きまして」

「いえ、私は生前のこの方と共に僅か一夜ですが寝起きしましたから、出来る事なら犯人であって貰いたくないですから協力を惜しまない積りです。」

「ありがとう御座います。其れでお聞き致しますが、真犯人に関して今の所見当が付いていません。何しろ被疑者死亡と言う事で、岩下庄一が出鱈目な事を腹いせに書き残しているかも知れませんから」

「それは無いと思います。私が思うに」

「どうしてですか?」

「僅か二日のお付き合いでしたから断言できませんが、とても優しい方だった事位は判ります。出合った日に二人で山道を三十五キロほど歩きまして、私足を痛めましたが、そんな私にラーメンを作って下さったりコーヒーを入れて下さったり、それに大台ケ原で亡くなっていた時、枕元に置かれていたコーヒーカップありますね。知らないでしょうか?」


「いえ知っています。奈良県警から写真を送って貰っていますから」

「そうですか。そのコーヒーカップにコーヒーを入れて頂いて私頂きました。

気の付く方で、僅かの間でありましたが親切にして頂いた事は忘れません。二人もの人を殺めた人が見ず知らずの私などにあんな風な事などしないでしょう。もっと冷ややかなものとか殺伐とした何かを感じると思います。」

「それで岩下は何かを話しませんでしたか?」

「色々話しましたが、付き合っていた彼女が交通事故で亡くなってしまった事が強烈で、他の事は大して覚えて無いです。

 彼女が出来て始めてデートをする前の日に、彼女がトラックで轢かれて即死された話です。それがそのデートで行く先が大台ケ原だったって事を聞かされ、叶える事が出来なかったから、それであの様に亡くなっていた枕元でステンレスのカップが添えられていて、おそらく彼は夢を見るようにして亡くなったのではないかと思います。

 穢れの無い心で、だから私はそんな風に思う彼が、殺人を犯して逃避し、自殺をしたなどと思いたくないのです。」

「では貴方に岩下が何かを、つまり現実に奥さんと子供さんが殺されていたのですから、岩下が生前何かを話していませんか?奥さんが憎いとか恨んでいるとか」

「いえ言っていません。もし言っているとしたのなら、彼は子供さんが懐いてくれないと言っていました。

だから結構悩みの種だったのかも知れません。」

「それは何故?」

「おそらく実の父親が近くに居て今でも出入りしているのかも知れません。受け付けてくれないと言う様な感じでした。認めて貰えないと言うか」

「実の父親が邪魔をしていたのでしょうか?」

「そりゃ子供さんの心など我々では解かり兼ねますが、彼は情けなさそうにその様に言っていました。其れでその話はしたくないようでした。

 其の時余計な事を言ってしまったのか、私には判りませんでしたが、少し険悪なムードに成った事を覚えています。何せ私は彼より一回りも歳を食っていますから、余計なおせっかいをしてしまい、だからそれからはご法度と思い子供さんの事には触れる事は在りませんでした。」

「では一度実の父親にも合ってみる必要がありそうですな。当然何度か取調べをしていますが・・・

其れで他にどの様な話を?」

「たわいも無い事で、兎に角あの人は昔の彼女の事で心の中が一杯に成っていた様ですよ。だから私妙に苛立ったのは『今貴方は新しい奥さんを貰って子供さんも居り幸せなのでしょう?でも昔の事を思い、心ここに在らずなんて、今の奥さんに失礼ではありませんか?子供さんにも』と心に中でその様に思っていました。遠い昔の話をされ涙ぐんでおられたから」

「そのカップの彼女の事ですね?」

「ええ、でも可笑しいでしょうそんな三十年も前の事を、そりゃ酷い目にあった事は解かりますが・・・」

「でもそもそも何故大阪で妻子が殺された日に前後して、岩下は大台ケ原へ行ったのでしょうね。殺されていたか殺したか、それとも知らずに偶然であったか、でも貴方に名前を偽って二日に渡り共に山に登っていたわけでしょう?」

「私には解かりませんが、でも彼は奥さんが死んでいる事を知っていた事は間違いないですから、それは強烈で二度目で昔の彼女と同じであったから」

「昔と同じ?」

「そうです。彼は言っていました。昔、霊安室に安置されている彼女の顔を見た途端に笑っている様に見えたとか、彼自身が笑ってしまいたく成ったとか、何せ彼女がトラックに轢かれて顔形が無い様な感じであった様な言い方でしたよ。陥没して壊れた人形の様であったと」

「惨かったのですね」

「そうみたいですよ。そして三十年近くが経ち、彼が今亡くなった奥さんと知り合いに成って、心が通じたのは最近の様で、彼女が会社にパートに来ていて知り合いに成ったらしく、それで其の時の事を言っていたのは、白川玉枝さん、つまり若い時に知り合い、あっと言う間に亡くなったその彼女の自縛から逃れるのに二十年の歳月が流れたと言っていました。


そして自縛から逃れられて、これから幸せに成らなければと思っていた矢先に、みんな殺されていた。

 それで自暴自棄に成って又自縛に引き戻され、ふらふらと思いつくままに大台ケ原へやって来た。

何故ならずっと思い続けていた心に、素直にその様にしたかったから、何もかも失った今・・・」


「沢村さんはどんな事があっても岩下庄一を犯人にしたくない気持ちは解かりますが、貴方が言われた事は遺書はともかく、岩下が殺していても同じ事が言えますね。つまり殺してしまって錯乱状態とか自暴自棄になる事もありうる話ですね。」

「そうですね。それに実は山根道弘で無かった訳ですね。岩下庄一だった訳ですね。」

「そう、だから彼が態々書き残した遺書は、鵜呑みには出来ない訳です。大阪で何かがあったから岩下は奈良へ行く決心をした筈。そして結果的に命を絶った筈、そうでしょう?」

「まさに、刑事さん。岩下さんの住居に、つまり殺人が行われた現場に何か残っていないのでしょうか?殺人に繋がる何かが?」

「それは捜査致しましたがこれといって」

「でも現場を想像しますと見ず知らずの者ではないでしょうね。子供と言っても既に十一歳だから抵抗するだろうし」

「だから深夜に殺されています。おそらく」

「死亡推定時刻が深夜なのですか?」

「ええ、そうなるでしょう。幅はありますが」

「では誰でもそんな事出来ないですね」

「ええ、旦那とか余程親しい顔見知りとかに成りますね。」

「睡眠薬を飲まされていたって事在りませんか?」

「いやそれは解かりません。出ていなかったと思います。」

「それは可笑しいですね。検死されれば直ぐに判る事でしょう。」

「そうですね。ここに書かれていないと言う事は出なかったのでしょう。」

「では尚更近親者の犯行と成りますね。」


「沢村さん、先ず貴方と出合った岩下庄一は、貴方に山根弘道と名乗った。それは何故であるかと考えた時、本名が判れば困るからです。全く知らない貴方とでも。それは何故かとなると、大阪で妻と子供の死を見ていたからです。

 見ていたと言っても殺した事も含めて、兎に角知っていたから、それが世間に広がり、その夫が犯人であると成った時本名では逃げられないから、大台ケ原と言うとんでもない場所へ逃亡した訳です。

しかし思わぬ時にラジオから自分が係わった殺人事件のニュースが聞こえて来て、逃げ隠れ出来ないと悟った訳です。

 其れで貴方と熊野まで行く筈であったが急遽取り止め、単独行動に切り替えたのです。だからバスの乗客も食堂の店員も、貴方と二人で居た岩下を目撃していますが、それ以後の岩下を誰一人として見ていません。

 岩下は覚悟を決めてあの自殺現場に、最後の食事を済ませ貴方と別れてから遠くない時期に行ったと思います。

 私は全てに係わっていませんが、資料は奈良県警から送って頂いております。ここは新犯人を探す事も大事ですが、今の段階では先ず岩下が遣っていない事を証明し、更に遣っている事を証明する、これが捜査だと思っています。今日は遠い所までご苦労様でした。」

沢村には返す言葉が無かった。

「結果は判りませんがお願いしておきます」

祈るようにそう言って別れた。


それから一ヶ月が過ぎたが母子絞殺事件は暗礁に乗り上げて一向に岩村正一が犯人であると言う立証が警察は出来なかった。

この事件はまるで被疑者死亡と言う形で終結してしまう様な感じに沢村には思えた。

その内誰もが口にする事など無い。妻でさえあの痛ましい事件の事など全く興味なく、今はせっせとカラオケに勤しんでいる。

 

これで終わっても大阪と言う大都会で、山根弘道と言う男とその内縁の家族が戸籍から消えただけの小さな出来事に過ぎない。

あの事件から三ヶ月ほどの間に、どれだけ人が殺されているか計り知れない。

中東では自爆テロで未曾有の犠牲者が出ている。

沢村でさえ日ごとに事件の事が薄れて行く様に思えていた。

 

ところがそんなある日

大阪府警天王寺署の刑事権藤繁から沢村に一本の電話が入った。権藤繁とは沢村が以前天王寺署に呼ばれて、岩下庄一に関する色々な事を話し合った時に担当した刑事であった。

「お久し振りです。端的に申し上げます。貴方のあの時の言葉を参考にさせて頂き、殺されていた岩下の内縁の妻が元々結婚していた始めての相手であった、要するに元彼ですね。その男に詳しく聞く事が出来、貴方が言われた様に離婚してからでも再三逢っていたようです。

 その事実を岩下が知っていたかは判らないと言っています。そして子供も貴方が言われた様に、やはり実の父親が見え隠れしていたから岩下には馴染まなかった様です。子供がその様に言って居たと元彼が言っていました。


 元彼の名前は結城信ゆうきのぶと言います。其の時は別の女性と旨くやっているようでした。

ところがその聞き込みをしてからどれくらい経ったか、その結城信が消息不明に成っていて事件性がある様に思われる訳です。

貴方にお電話差し上げても何らお方違いかも知れませんが、何故か以前の事件と関係がありはしないかと思いまして、何処かに突破口が無いかと・・」

「そうですか?呪われた様な一家に成りましたね。其れで消息不明に成られてどれ位絶つのでしょうか?」

「はっきりとしないですが」

「どうして?だって新しい奥さんを貰って一緒に暮らしていたのでしょう?」


「いえそうではなく、それがあやふやで、要するに同じ様な狢の集まりと言う事でしょうな。いい加減な者同士がくっついている訳です。それほど気楽なのでしょう。晩節など在りはしない考え方なのでしょう。だから誰かが晩節を汚しても一向にお構い無しって所だと思いますよ彼らは」

「では岩下庄一さんと暮らしていた内縁の妻も同じ様な人だったのでしょうか?いい加減な?」

「かも知れませんね。何故なら岩下庄一が大台ケ原で自殺をした時手紙を携えていましたね。そこに走り書きで《嫁と子供を殺したのは私ではない》と書かれていて、その後に《何もかも嫌に成った。二十年掛けて開いた扉であったが間違いであった。》。と書かれていたのをご存知でしょうか?」

「いえ今初めてです。」

「それはおそらく」

「ええ、私にはわかります。それは彼が二十年前から実質は三十年ですが、白川玉枝さんの自縛からやっと逃れられたと思った年月だと思いますよ。二十年と書いたのは忘れなければいけないと思う様に成ってからで、それまでの十年間はそんな事さえ思いつかなかった日々だったのでしょう。」

「つまり岩下は二十年掛けて開けた扉であった。それは内縁の妻に心が魅かれて一緒に暮らしだしたからでしょうね。子供がいたが其れでも好きに成ったって事でしょうね。しかし一緒に暮らしだして何かが違った。」

「それは何かというと、つまり内縁の妻もその元彼と同じでいい加減な女であったと言う事でしょう。ね」

「ええ、そう考えるのが妥当かと、元彼の結城信は聞き込みをした時に言っていましたから、それらしい事を」


「どう言う事です?」

「形だけ離婚して手当てを貰い、更に誰かとつるんで又せしめる・・・そんな事当たり前だからと」

「岩下さんはせしめられていたと言う事でしょうか?」

「その様で」

「でも結城にも女が」

「だからその結城でさえ、その女に入れあげていた様ですよ。生臭い世界ですな。彼らは」

「そうですか。だから岩下さんはそんな事が判っていたから疲れていたのかも知れませんね。」

「そうですなぁそれで思い余って殺してしまったのかも」

「でも殺してしまったのならその様な遺書なんか残さないでしょう。第一殺したのは自分では無いとか、疲れたとかそんな事書かないでしょう。」

「ただ、どうして結城信が居なくなったのかと考えたら、沢村さんのご意見も聞かせて貰いたくて念のために」

「私ですか?私には判りませんが、その生臭い話で元彼の結城信が入れあげている女は、相当曲者ではないのですか?その女の身の回りを探られては如何でしょうか?

別件でも何かあるかも知れませんから。だって他に無いでしょう。この事件はみんな死んでしまったから被疑者死亡で消えてしまいそうな事件に成って来ましたが、大きな落とし穴があって、複数の人の命を奪った者が悠々と生きている事も考えられる訳ですね。

 結城信も今頃は既に殺されているかも知れない訳でしょう。当然真犯人かも知れないし、恐く成って来ましたね。」

「そうですね。貴方が言われた様に結城信の女を張ってみます。どうもお手間を取らせまして毎度毎度ありがとう御座います。」


電話を切ったが沢村は長電話を受けながら、刑事が時間潰しをしているように思えて来た。

そしてこの話はあまり係わり合いにならない程良いのかも知れないと思えて来たのであった。

 どうもがいてもあの大和上市駅から共に歩いて大台ケ原まで行った山根弘道は居ないのである。二度と逢えないのである

まさに一期一会だだったのである。

だからこれからも係わる事が果たして必要なのかと思い出していた。誰かが又殺されると言う事など係わる事に抵抗を感じたから、


沢村が三重県の熊野署に差し迫った思いで入って行った時と今では全く思う事が違っていた。

電話を置きながら山根を浮かべて、再び山根から発せられる霊魂不滅と言う言葉を思い出していた。

あの大台ケ原でビニールシートからはみ出し、骨がむき出しに成った山根を浮かべて、武者震いが始まった事を沢村準一は感じていた。


 やがて秋も盛んに成り沢村は奥方を伴って大台ケ原に向かっていた。

後ろの席には大きな花が乗せられていて、山根のあの発見現場に供えるためであった。

思いのほか妻武美からその言葉が出て沢村もその気になったわけである。


「おとうさん、彼岸も過ぎましたが、山根さんて方のお墓に行ってあげるのですか?お墓は判らないのなら、亡くなられていた現場に行ってあげたら如何ですか?私もお付き合い致しますから。」

このような感じであった。だから沢村はその気に成ったのである。

 大台ケ原は多くの登山者で賑やかであった。冬場は閉山するから紅葉盛んな今この時期にとごった返す習慣があり、しんみりと沢村の様な思いで登頂している人は稀である。

 

山根が死んでいた現場に着き花束をそっと供えて手を合わせた。

笹などが大きく育っていて現場は既に消えようとしていて、枯れた花束らしき物だけが頼りであった。

「ここだったと思う」

「こんな所で死ななければ成らなかった事を思うと可哀相ですね。やはり未だに犯人が判らないと言う事は、死人に口が無いと言う事なのでしょうか?」

「今と成っては判らないね。信じてあげたいけど・・・

山根さん・・・貴方は白なのでしょう。絶対殺してなんか居ませんね。山根さん

これ貴方が好きなコーヒー買って来ました。飲んで下さい。あの時はお世話に成りました。

山根さん何が在ったのでしょうか?何を語らなかったのでしょうか?何が嫌に成ってしまったのですか?何故死ななければ成らなかったのですか?折角開いた扉を貴方は自ら閉めてしまったのですね?どうして?どうしてその様に成ったのですか?言って下さい教えてください。」

 

沢村が独り言を並べていると妻武美がそんな沢村の姿が居た堪れなかったのか側によってきて手を握り

「お父さん。」と小さく声を掛けた。

「真相を突き止める事こそ彼に対する礼儀かも知れないな。」

沢村はぽつんとそう言った。


「刑事さん。私奈良の沢村準一と申します。」

「あーぁ沢村さん。権藤ですご無沙汰しております。何か?」

「ええ、先日大台ケ原へ行って来て岩下正一さんの亡くなっていた現場にお花を添えさせて頂きました。殺人犯人かも判りませんが、未だその判明がされていない筈ですから犯人と決まるまでは善良な市民と言うことで」

「そうですね。何も決まっていませんからね。それで良いと思いますよ。それはご苦労さんといいますか」

「ところで消息不明と成って居られたあの結城と言う方はその後見付かったのでしょうか?」

「いえ今の所判っていません。」

「其れで付き合っていた女性は全く関係無いと言う事なのでしょうか?」

「ええ、知らない様で」

「母子殺しも全く関係無いのでしょうか?」

「ええ、その様で」

「つまり捜査は全く進捗していないと言う事ですか?」

「そうですね。被疑者が死んでしまうと、こんな事に成るのですねぇ厄介な事に。

消息不明の結城信も日ごろからきっちりした生き方をしていれば、案外早く発見されるのですが、何しろいい加減な生き方をしているから、何処で殺されていても判らないのです。

 稚拙ちせつな揉め事でも殺しあったり、身勝手な考えでも殺しあったり、いい加減ですよ彼らは」

「其れでその結城信が今付き合っている女性は何処で住んで居て、どんな仕事をされているのでしょうか?」

「ええ、住んでいる所まで言えませんが、彼女は近鉄の阿倍野橋の駅近くのスナックで働いています。エデンと言う名のスナックで理沙と言う源治名で、仲々売れっ子ですよ。インターネットでも綺麗な写真が載っていて、男なら入れあげるのも無理は無いでしょう。」

「権藤さんもお気に入りなのですね?」

「いやぁお気に入りって事は無いですが、嫌いでは無い方で」

「そうですか。その子が元々結城と付き合っていて今は?」

「それは判りません。結城が居なくなった事で捜査致しましたが、何も摑めず今に至っている訳です。例えあの女性が何かをしたとしても、つまり結城信を始末したとしても、絶対自分の手を汚すとは考えられないですからね。男が必ず影で居るって事です。ずっと張り付いていましたが未だに」

「そうですか。結構頑張っておられるのですね。」

「そりゃそうですよ。母子絞殺事件も未解決で岩下庄一の自殺に関しても進展無いのですからね。それにこうして結城が行方知れずで。八方塞がりで天王寺署も暗澹あんたんとして来ましたからね。

まぁこれは冗談ですが・・・何しろ天王寺警察署の管轄ですから」

「結城信其れに付き合っていた女は、何処で住んでいるのでしょう?」

「それは言えません。だから知りたければ阿倍野のスナックへ行けば良いのですが、おそらく判るでしょう。しかし貴方が行っては困りますよ。我々が張っている最中ですから、妙な事に成っても困りますから。民間人は民間人らしく弁えて下さいね。」

〔阿部野橋駅前のスナックエデンの理沙〕

沢村はメモリながら大きな収穫があった事にやる気を滲ませていた。

「沢村さん貴方だから言いましたが捜査機密ですから内密にして下さいね。他言は無用ですよ」


「母さん、今度貴方が好い時に阿倍野へ行こうよ。ハルカスって一度行こうよ。足腰が立たなくなる前に」

「大げさな事言って。どうしたのです?」

「実はね。私犯人探しをしようと思って」

「犯人探し?」

「そう、山根さんの奥さん殺しの新犯人を捜そうと思って」

「そんな事無理ですよ。だって警察の方が毎日躍起に成って捜しておられるのでしょう。素人の貴方が何も出来ないですよ。」

「そりゃ出来る範囲だから、無理なんかしないから」

「其れで何を?」

「だからハルカスへ行って阿倍野界隈を散歩するだけだから」

「何か捜しものをされるのですか?」

「ちょっとな」

「何なのです?」

「ある女性を」

「事件に関係有るのですか?」

「まぁね。だから母さんは買い物をして来れは」

「お金は?」

「出させて貰うから・・高い物は困るけど。」

「五千円?一万円?」

「じゃぁ一万円出すから二時間ほど時間を潰して待っていてくれる。」

「解かりました。二時間ですね?一万円ですね?」

「そうだよ。大サービスするから」

妻武美は快託した。当然である。女性が買い物を嫌う筈が無い。ましてその資金を貰えるのであるから、其れで何時行くのかと催促される始末で、沢村はカラオケの事さえ言わない妻に仰天であった。

そんな事で妻を連れて電車に乗ったのはそれから三日後の平日であった。

武美を阿倍野の近鉄ビルへ残し待ち合わせ場所だけ打ち合わせて、夕方に成ってから外へ出る事にした。

そして阿倍野橋駅界隈と刑事権藤が言って居た通り、インターネットで調べ上げていたので直ぐに判る事が出来た。

 

綺麗なビルの三階にそのエデンと言う店があり、理沙と言う子が出入りしている姿も確認出来る事となった。

確かに刑事権藤が言う様に、パソコンに映っているより更に綺麗な感じで、沢村のような硬い生き方をして来た男でも気に入る女性であった。

 それは刑事権藤が言って居た事と何ら狂いの無い、大人の男がひかれる妖艶な女であった。

 只その女が清楚なのか阿婆擦れなのか、それともいい加減なのか、はたまた男を手玉に取る狡猾な女なのかまるで判らなかった。

当然である。

沢村は今まで一度も妻武美以外の女性に興味を持った事などない。若い時はともかく、結婚してからの人生は言わば真っ白である。

寸分の穢れも無い。      

だから山根と言う男も同じような男であると読んだから、純朴な男と思うから潔白を証明してあげたいのである。彼が母子殺害犯人の儘で葬られたとして風化すれば、幾歳月が流れても殺人犯の儘で霊に成らなければ成らない訳で、それを塗り替えるのは今からでも決して遅くはないのであると沢村は思っている。

 沢村が出合った人に殺人犯が居ると思う事だけでも辛い訳で、硬く生きて来た人生で唯一の汚点と思うのであった。

 無念を晴らしてあげたいと思う気持ちは、あの時大台ケ原で入れてくれた暖かいコーヒーやラーメンのお返しであると思えていた。

 

勤め先を確認して沢村は近くを散策した。深夜喫茶やレストランなど深夜まで遣っている店をピックアップしてノートにメモを取った。

店へ入ろうとは思わない。万が一刑事が入り込んで居て、あの権藤と言う刑事に見付かれば言い訳が出来ない。 其れで妻の待つ近鉄ビルへ戻る事とした

まだ待ち合わせ時間には可成ある。


ロビーからスナックエデンが見える所で睨む様に見つめていると、多くの客が再三出入りを繰り返している。裏社会の様な風情の男もたまに姿を現す。

勿論誰もが理沙が勤めるエデンに行くとは限らないが、沢村にはここにあの母子絞殺事件のからくりと言うか、ヒントが隠されていないかと思えていた。

そして山根さんの自殺や結城信の失踪も、

沢村は妻武美をこの様にして連れ歩く事は、危険を伴うのではないかとその時ヒシヒシと思えて来た。

 そのうち妻武美は半分以上お金を残して嬉しそうに戻って来た。

「綺麗だったわ。大阪の街」

「登って来たの?」

「ええ。とても綺麗でしたわ」

「良かったね。階段で登れないのかな?」

「そんな事判らないけど誰もしないでしょう。」

「でも体には良いと思うよ」

「そりゃそうでしょうが、其れで目的の人は見付かりましたか?」

「あぁ見つけた。綺麗な若い子だった。」

「その人は貴方がお知り合いに成れた方と何かがあるのですね」

「私はそうだと思っている。山根さんが自殺されたのも、奥さんや子供さんが殺されたのも、それにその奥さんが以前結婚して居た相手結城信って男、その男が今消息不明である事もみんな関係していると思う。

 刑事さんも今必死で探している筈だから、この儘では事件が解明されないと思うよ。何しろ被疑者の山根さんが死んでしまったから真実が判らないからね。」

「でも山根さんは自分は殺していないって言っているのでしょう。遺書に書き残していましたね。」

「そう、だから私が思うにどこかで真犯人が居て、悠々と生きていると考えているのだけど」

「可哀相に山根さんって方」

「そうだろう。だから私が・・・」

「でもこんな都会、気をつけて下さいね。警察に任せて」

「ああ」

 妻武美は買物の事を何も言えず自宅まで帰って来た。お金も半分残しているから沢村にすれば出来過ぎの女房であると感心させられていた。

妻武美は決してでしゃばる女でも亭主の影を踏む女でも無く、常に晩節を守り穢れの無い生き方を選ぶ女であった。

 だから寧ろ羽目を時々外したかったのは沢村の方で、心の中に両極端な思いが在ったのである。

硬く節度を守り生きている妻に、沢村は随分助けられている事は確かで、今日心身共に健全で有るのも彼女のお陰だと思っている。

 

二日後沢村は理沙が深夜二時まで働いている事を調べ深夜喫茶に身を置き待つ事にした。年齢を考えると決して普通ではない事を思いながらも、若者の様に自然と振舞いながら理沙が出て来るのを待ち続けた。

 

理沙は仕事がはけて一人で出て来てタクシーを止める格好をして佇んでいた。沢村も慌てて道へ出て少し離れた所から見つめながらタクシー乗り場へ駆け足で行き、いつでも乗れる体制を整え様子を見続けた。

 それから一、二分が過ぎタクシーが停まり、理沙はそれに乗り込んで上本町方面に進路を変え走り出した。

沢村もそのタクシーの真後ろに付く事が出来簡単に尾行する事が出来てほっとしていた。

それから二十分ほど走ってタクシーは理沙を降ろした。

上本町六丁目を過ぎて僅かであったから上本町五丁目くらいの所であった。上町筋から本の少し入った所の真新しい四階建てのマンションに理沙は入って行った。

 沢村はタクシーの運転手にチップをあげる事を約束して、理沙が入って行く部屋を見届け電気が点くのを待った。


理沙の部屋は三階の隅で電気が点いて直ぐに判る事となった。

暫くタクシーで見続けていたが然程今からは変化など無いと読んでタクシーで上本町の近鉄まで戻りそこでタクシーを降りたが、始発まで可成時間はありまたしてもオールナイトのレストランへ行きお腹に熱い物を詰め込んだ。


深夜三時を回り六十二歳の探偵ごっこが始まった事に、沢村自身熊野で大雨の中でテントで眠ることさえ出来ず一夜を過ごした事をいつの間にか思い出していた。

『これしきでへこたれて居ては何も出来ない』と気合を入れる様にしながら始発電車が来るのを待ち続けた。

 

今頃あの女理沙は眠っただろうか?それともまだ何かをしているのだろうか?不夜城で働く彼女たちは、年齢に関係なくお酒で男を狂わせ、お酒に溺れお酒で泣き、お酒で自らも狂うそんな人生。

しかし理沙と言う女は決してそうではなく、強かで結城信と言う男でさえ多分妖艶な美貌で飲み込んでいるように一目見たときから思えていた。

 

天王寺警察の権藤刑事の話では、結城が理沙に言わば入れあげ言いなりに成っていたようである。

其れで今消息が判らないと言う事は、間違いなく理沙は結城信の事を知っている筈。

 だけど警察も何も摑めないばかりか、手も足も出ないかも知れない。いやそんな事は無い、何時の日か理沙は打ちのめされずたずたにされる日が来るだろう。所詮子憎い二十三歳の小娘だから。

 

沢村は上本町の近鉄駅近くのレストランで、つい先ほどまで行っていた理沙のマンションを思い出していた。軽く弾いても権利金更に家賃の事を考えれば、決して安くは無い事は一目瞭然である。

 それだけの稼ぎがあるのか、それとも彼女があんな所に住む事が出来る根底には、それなりの頷ける根拠があるのか、

 

沢村はあの女性を深く突き詰めて行けば大きな何かが浮上して来る様に思えていた。

「よし通ってやろう。理沙と言う女はスナックエデンへ行っても夜の顔に成る。しかし根倉なら女の顔に成るだろう。理沙の本名は知らないが、又何処で生まれたとかまるで知らないが、過去の事など今は必要ない。これからの彼女の行動が全てだ。

何かが出て来るまで見張り続けてやろう。その点結城を探すことは警察でも無理なようだから、この際今は理沙に焦点を合わそう」

 

多くの思いが湧き上がって来て、チャーハンとコショウの効いたスープが、夜明け前の初老には身に沁みた。

始発に飛び乗った沢村は大きな何かが始まった様に思えて来て、目を擦りながらその目は輝いていた。

 それから何度大阪へ通ったか、五度目か六度目かマンション近くで女の行動を見張る沢村の前に女が現れその後遂に男の姿を捉えていた。

理沙と共にマンションから出て来たその男は、いかにも裏社会の者であると言う井出達で、恐ささえ感じる緊張感を感じさせる男であった。

 それでも女には弱いのかゴミ袋を提げて出て来た所を見ると、やはりこの男もある意味理沙の美貌の餌食に成っているのかと瞬時にして思う事と成った。

 

二人が出て来たのは昼過ぎで、何処かへ食事にでも行こうと言う井出達であったが、沢村は理沙の非番の日を調べていたので慌てなかった。

理沙の前日は『お休み』と成っていて、水曜日はこのパターンに成る様に思えた。

もし全ての出来事の始まりがここにあるとしたなら、今ゴミ袋を提げて出て来た男が鍵を握っている事が十分考えられ、息を呑むようにして監視している沢村の心が騒ぐのも無理はなかった。

 

二人はそれから呼びつけていたのか遣って来たタクシーで出かけて行った。男の背格好は百七十五センチ位で、遊び人風である。しかしお似合いのカップルに沢村には見え、女の美貌や妖艶さに引けを取らない風体である。


 そこで気に成ったのが失踪していると言われる結城信の風体であったが、気になりながらそれ以上の事など何も判らないので、とりあえず目の前の男をしっかり見続ける事に専念しようと思った。

 理沙は銀行に勤めている訳ではない。胸に谷間を作ってボタンを一個外し笑顔で男を待っているのである。そんな店で働いているのであるから、男は誰もが同じ思いだとすると、理沙は今出て行った男に捕まったのだろう。そして入れあげていた結城信の事が邪魔に成って・・・」

 

沢村は膨らみ続ける雑念に整理が付かなく成っ て来て頭が痛く成っていた。

始発の電車で帰ったが、調度妻武美が朝ご飯を作ってくれていたが、お腹が膨らんでいる事を伝え深く眠りに付いた。

 

理沙の住まいが判り、出入りしている男の事も判り、沢村が警察官なら今頃あの男は何処の誰で、どんな経歴でとか、直ぐに調べる事が出来るのだが何分素人である。だからあくまで無理の無い様にこつこつ追及して行かなければ成らない。

 まるで最近行った熊野行きの様な感じで、更にあの時経験した大雨に匹敵する様なものもあるかも知れない。ズタズタに成りながら命拾いをするかも知れない。

 何が起こるかも知れないが、山根弘道の為に山根弘道が潔白である事を証明するが為に、そして彼が大台ケ原で白川玉枝さんと静かに眠り続けてくれるように、沢村はあの二つのコーヒーカップを目に浮かべて眠りに付いていた。


目が覚めた沢村は未だに経験した事に無いような疲れが全身に感じて、肩も凝っている事に気が付いた。それは妻武美にも判ったらしく

「あまり無理な事をされないようにして下さいね。警察にお任せすればいい事ではないのですか?」

「でも警察は岩下さんを犯人と決め付けて行動するだろうから、滅多に彼が白であると思い込んで掛かるとは考えられないからね。

 

例え白と判る様な事実が分かっても、果してその様に反転するだろうか。真実は一つだけど果たして真実に行き着くか等判らないと思う。

 そこで私が強烈な真実を見つける事が出来たなら、彼ら警察の者を納得させる事に成ると思う。

 そんな事実際出来るかなど分からないが、出来るだけの努力はしてあげようと思っている。

 でも私も流石探偵の様な事をしていると、後ろめたいと言うか妙に緊張が続き、阿倍野橋駅近くのスナックで働く女性にひもが居て、思いの他雰囲気が冷酷な感じで、其れでちょっとめげているのかな。何しろ恐いからね。あんな連中は」

「そんな怖そうな人なのですか?」

「それは実際わからないけど、でも先入観を持って慎重である事が大事だと思うよ。何しろ素人なのだから、それに亡くなった人もいるのだから。」

「お父さんはとんだ事に出来わしたものですね。」

「そうだね。あの電車に乗った事で山根さんは命を絶つ決心をしたのかも知れないと思うと複雑な気になるね」

「そんな事ないでしょう。その方は初めから、つまり自宅を出た時から大台ケ原で死ぬ事を決意していたと思いますよ。気になさらない方が・・・」

「勿論コーヒーカップを二つ持って行ったと言う事は、その通りだと思うのだけど、でも彼が大和上市駅で私に名を名乗って、ご一緒させて下さいとか、お供させて下さいとか言った時に、こんな事が起こるとは決して想像も付かなかったわけで、これから死のうとする人間なんて私の様なあかの他人に近づいて行くだろうか。疑問は幾らでもあるよ。あんなに私に親切にしてくれてその後で死ぬなんて・・・」

「其れでお父さんこれからどうするのです?」

「私は暇だからあの女性を偵察して、其れで何かを見つけてみるよ。勿論無理などしないから、差しさわりのない所から遠巻きに眺めるよ。」

「それなら構わないと思いますが、でもお父さんその人たちは裏社会の人かも知れないのでしょう。お父さんの様な素人がでしゃばる様な場合ではないと思われますから

くれぐれも用心なさって下さいね。子供たちにも言っておかないと」

「それは駄目だよ。余計な心配を掛けるから。健一の耳に入ってはいけないから。」

「それもそうですね。恐いわね。」

 

沢村はそれから時間が許される時は理沙が休みの日に大阪へ出かけていた。

理沙の勤める日は彼女のページで見つける事は容易かったので世話が無かった。

それで休みの日の前の日に必ず行く事にした。

お持ち帰りされる事が考えられ、またそのお持ち帰る対象が、今消息不明の結城信の関係の誰かかも知れないから、見張ると言う事は大いに意味があった。


理沙のマンションに女友達も何人かやって来て、背の高い女性を沢村は高子さんと名づけて、そしてやや太り気味の子はふと子と名づけて区別していた。



          第二部分に続く

第二部分に続きます。

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