大人モドキな21歳
温かい目で見守って下さると幸いです。
私が年を重ねたくないと思ったのは20歳11か月の時だった。
つまり、あと約1か月で21歳になるという微妙な時で、バイト帰りの列車の中でフッと暗い窓に化粧が崩れた自分の顔が映った時に、そういえば1か月後は誕生日であると思い出したのだ。そして、その時に感じたのは何か楽しいお祭りがあるかのような期待感ではなく、紛れもない嫌悪感だった。
物心がついてから今に至るまで、誕生日というのは私が生まれてきたことを祝う楽しいお祭りだった。子どもの頃は両親や姉からプレゼントをもらったり、大好物の唐揚げなどが食卓に並び、オレンジ色の火を灯したロウソク付きのケーキの火を吹き消して食べた。年齢が重ねるにつれ、家族から大々的に祝われることは無くなったけれど、その代わり友達からの誕生日プレゼントが増えていった。
それに18歳と20歳の誕生日は特別な感じがして嬉しかった。18歳の誕生日は完全なる成人ではなかったけれど法的には自動車免許が取れるし、それにいわゆる18禁と呼ばれる成人向けの漫画や動画が解禁になる年だ。高校生で、しかもうら若き女子としても本当はどうかと思うけれど、年齢だけ見ればオッケーになるから、私も友達もふざけてそのことで騒いだ。20歳の誕生日は本当に嬉しかった。これは言わなくても分かると思うが合法的に成人になる年だ。酒もタバコも解禁になり堂々と買いに行けるし、子供ではなくなるのだというのが嬉しかった。
だが、21歳になる直前になって気づいた。
私は、子供でも大人でもないのだということに。
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現在、私は大学生だ。正しく言えば大学に通わせてもらっている。しかも、私立大学だから学費も高い。たとえ単位を落とさず留年をしなかったとしても四年間で莫大なお金がかかる。もちろん私は学生の身ということで、まだ就職もしてないから経済的自立もしていない。
大学へ行けば、同じように経済的自立をしていない友人や同級生、先輩だっているけど、一人暮らしの子たちもいる。
『自分で料理しなくても、テーブルにあったかい料理が出てくるとね、実家に帰ってきたんだなぁって実感するんだ』
『ごめーん、ゼミ飲みパスするね~今月マジで金ヤバいからさ~』
『一人暮らしをして、初めて親のありがたみが分かった』
彼らは身の回りのことや家事などは全部自分で行っている。実家暮らしで洗濯や料理などは全て親頼りの私よりは、彼らの方がずっと立派だ。そして、何よりそんなことを実感することができる彼らの方が、確実に大人であると私は感じる。
同じ大学生の中でもこんなに差を感じるのに社会に目を向ければより大きな差が露わになる。
私は1月の同窓会を思い出した。
―その日は成人式だった。
今年で新成人になる私は、去年の春頃に呉服屋で試着の末にやっと選んだ古典柄の赤い振袖と肌触りのいい真っ白なショールを身に纏い成人式に臨んだ。ちなみに美容師さんによって髪をアップにし、そこに振袖と同じ色合いの赤いつまみ細工のかんざしを挿してもらい、和装に合うメイクまで施してもらって機嫌も良く心が弾んでいた。
それに中学卒業と同時に疎遠になったり、他県の大学へ進学のために地元を離れた友人や顔なじみに会えることが嬉しかった。成人式の会場で色とりどりの振袖を着る友人たちや統一的な黒のスーツを着た顔なじみの男子と再会した時はおしゃべりしたり、写真を撮ったりとはしゃいだ。しかも夜は同窓会があり、友人たちとパーティーに参加できること、お世話になった先生たちにも会えることが楽しみでしょうがなかった。この時の私の心は10代の学生時代に戻ったようで、まさにお祭り気分だったのだ。
『俺、夜中に建物の電気の点検作業してたりとかしてて、月20万以上は稼いでるー』
『一応、准看の試験さえ受かれば、今年から病院勤めなんだよね…』
『そういえば、あの子結婚してこの前子ども生まれたらしいよ』
次々と飛び出す親しい友人からそうではない同級生までの現在の生活や、成人式に来ていなかった同級生の現在。同窓会の半分以上を占めた会話がそのような現在のことであった。
その時、私は昼間とは違い紺色の落ち着いたワンピースを来ていて気分が上がっていたし、お酒も入ってヘラヘラと上機嫌だった。だから皆が別々の道を歩んでいるんだなぁとくらいにしか思わなかった。
しかし、今になると別々の道を歩んでいるというよりも、大人と大人モドキの二つに別れたとしか感じない。
そして私は子供でも大人でもない、大人モドキなのだ。
私と同じ年あるいはもっと若い子が職を得て社会で働いている。そして、賃金を得て、そのお金で生活し、経済的自立を果たしている。彼らは、きちんと自分の足で立って、その足で歩いているのだ。しかも、中にはもうすでに結婚し家庭を持ち、子供を育てている人達もいる。今までは正直言って未成年やあまりにも若い年齢で結婚と出産をしている人達を、『避妊を怠った』、『計画性がない』などと口にはしないものの、心の中ではそういうふうに非難していた。だけど、彼らは私と変わらない年で自立しながら、パートナーと生活を築き、その上自分よりも小さな命を守っている。彼氏がいないうえに、いまだに親の脛を齧って生活をしている私なんかよりもずっと大人ではないか。
そして、そんな大人が友人や同級生にいるのだ。
かつては遠くから見て馬鹿だなと思うことをしていたり、時には一緒に馬鹿なことをした子供だった彼らは大人になってしまった。
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私は大人でもないけれど子供でもない。
もう子供のままではいれないし、大人にならなければいけない。
大人モドキなのだ。
幼い頃、20歳は大人に見えた。けれど、自分がいざ20歳になってみると全くそんなことはなかった。全然自立もできていないし、感情を完全に制御もできるというわけではなく、もちろん我慢するけれど、かなりどうでもいいことで無性に腹が立ったり、大声をあげて泣きたくなる。それに、将来だってかなり不安だ。
幼い頃から就職難という言葉を聞いてきた私の必死に学ぶ目的はただ就職することだった。そして、今大学で学んでいる分野は福祉だ。福祉を選んだ理由は、様々なボランティアをしてやりがいを感じたということもあるけれど、一番はどこも人手を欲しがるという理由からだった。そして、より確実に資格取得をするためにも福祉を学べる大学へ進んだのだ。
だが、現実を知っていくなかで本当にこの道を選んで良かったのか疑問に思う。
福祉は現状が改善されつつあると言われているとはいえ福祉の給料は労働量に比べて低いし、待遇も悪い場合がある。ちなみに国家資格を持っていてもだ。将来的に福祉の職に就いて生活していけるか不安になる。就職のことのみ考えて大学を選んだ私は、本当の意味で将来を真剣に考えていなかったのではないかと痛感する。
髪を明るく染めてメイクもバッチリの一見派手そうな女の子が授業中に必死にノートをとるなか、黒の地毛でメイクも控えめ、もしくはスッピンの一見真面目そうな女の子が教授に見つからないようにスマホをいじる。そんな様子を視界に入れながら、たまに別のことを考えていたり、夢の世界にトリップしていたようなこれまでの自分。そんな自分が将来のために勉強して、真剣に悩んでたなどと言えるはずがない。真剣に悩んでいるフリをしていただけなのだと今ならよく分かる。
それに、友人たちの前で面白可笑しく30歳の時点で子どもは2人欲しいとか、老後は孫が欲しいとか言っているが、彼氏などおらずモテない私が本当に結婚できるか、このまま寂しくアラサー、アラフォー、アラフィフとかになって一生独身のままなのではないかと思ってしまう。しかも、寂しい独身の姿は生々しく想像できるのに、結婚して幸せな家庭を築く妄想はかなり難しく、しても一昔前のホームドラマを見ているかのようにフィクション感が満載なのだ。
子供の頃はただ突き進んでいくだけで、18歳、20歳と節目の年は良い意味で特別な感じがした。だけれど、20歳を過ぎれば年を重ねても良い意味で特別な節目の年などない。世間から見れば、めでたい節目の年はいくつかあるのかもしれないけれど私はそう感じない。今の私はまだ若い。まだ若いからこそ未熟で大人になりきれていない部分もなんだかんだ言って見逃してもらえる。確かに人生経験を積めばそういう部分だって成長するだろう。だけど、20歳を過ぎてどんどん年を重ねれば見逃してはもらえないし、ちゃんと体の年齢に合致するまで成長できるか不安だ。
遅いピーターパンシンドロームなのかは分からない。けれど、このままの状態で年を重ねることに嫌悪感が沸いてしょうがない。
『お誕生日おめでとう』
子供の頃は嬉しくてしょうがなかったこの言葉。
けれど、今では言われたら嬉しいのに心の底から喜べない微妙な言葉。
後日、大学の友人に相談してみると、
『21歳でそれはまだ早い、あんた枯れてるよ』
と笑いながら言われ、しばらく枯れてる系女子のネタとしていじられた。
大人モドキの私は本気で悩んでいるのだが……。
お読み頂きありがとうございました。