ヒッチハイカーを拾った冬の道で
ほんと、助かりました、ありがとうございまさのすあの。
大きなよく通る声で、青年はスライドドアに体当たりするように車に乗り込んできた。よほど慌てていたのだろう、言葉じりがもつれている、もつれた言葉じりすらよく通る深い声だった。乗り込んだ時に冷たい風とともにどこか饐えた汗の匂いが飛びこんできて、こんな寒い日でも人間の体臭はにじみ出るものなのか、と明子はわずかに息を浅くしてふり向きざまに彼を横目で見た。黒目がちの思いもかけず無邪気な視線がまっすぐこちらに向いて、明子は軽く頭を下げるふりをしながらすぐに目を伏せた。
夫の和彦は、いやいやいや、と後は口の中で何かぶつぶつ言いながらバックミラーに集中するように路肩から再発進しようとしていた。
片道三車線の国道一号線沿い、浜名湖をようやく越えて東へ向うその道すがら、彼は歩いていたのだった。
がっしりした上背のある身体を、疲れを滲ませたふうに上下に揺らしながら、ただ大股に歩を進めている。グレイの大きなリュック、腰に巻いた赤と黒のチェックのシャツ、くしゃくしゃに乱れた短髪はどこにでもいる大学生といった風情だ。脇に抱えた白いボード、内側に大きくくっきりとした文字で『静岡』と書かれているのが辛うじて見えた。
最初に口に出したのは明子だった。ねえ、あの人ヒッチハイクじゃない? 静岡、って書いてあった、板に。
それを和彦がああ、と応じ、そのまま行き過ぎてしまうかと思ったのもつかの間、少し先に行った、たいして広くもない路肩に車を停めた。
交通量はかなり多く、止めている間も明子はハラハラし通しだった。停めている和彦もしきりにミラーを気にしている。
永遠の時を経て、他の車に拾われたかもしれないとふと感じ、ならば停めなければよかったのに、そう口にしそうになったせつな、背後の歩道に、肩を落として歩み寄る姿がさいしょは黒く、やがて色彩を載せて現れた。
「静岡に行くの?」
窓を開けた明子が窓から顔を少しだけ出し、そう叫ぶと青年はあわてて駆け寄ってきた。
「バイパス経由で、静岡と言っても駅の近くまでだけど」
あまり期待させても悪いかと、あわててそう言い足すと「助かります、どこでもいいです、すみません」相手も早口でそう答えて最後の数歩を跳ぶようにして車の脇についた。
そしてことばをもつれさせながら、乗り込んできたのだ。
野生の匂いをかすかに乗せた冷たい風とともに。
青年に問いを投げかけるのはもっぱら明子の役割となった。和彦は運転に集中している。少なくとも、集中しているふりは上手かった。
車を停めたのはアンタでしょう? 明子は質問の合間に隣の男をそうなじりたい衝動に囚われている。
「静岡に何か用事が?」ああ、本当は東京まで行きたいんですが目的地を細かくした方が拾われやすいって聞いて。
「静岡まで行ったらどうするの?」東名の入口で今度は『東京』って書いて立ってみるか……一泊するか、ですね。
「泊るあてはあるの」
そこで和彦がわずかに顔を向けた。その質問はまずいぞ、言わなかったフリをしろよ。
そんな声が聴こえた気がして、明子は咳払いでごまかす。しかし
「それがないんです……まあ、」後ろの男が急に、軽い言い方になった。
「駅に野宿するとか、安いホテル探すしかないでしょうね」
「静岡でもこの時季はかなり冷えるからね」
和彦が同じような軽い口調で急に割って入る。
「ホテルに入るのが確実だろうね、安いところもあるしね、それなりに」
いくらくらいだろう、たぶん二千円くらいからあるらしいよ。
和彦は金の話になると、妙に饒舌になる、そして、細かい数字にまでこだわる悪い癖があった。明子は聴こえないようにため息を吐く。
どうせならうちに泊れば? そう言いたい衝動を明子は必死にこらえる。
このまま、連れて行ってはいけない、そう思えば思うほど、身体の芯に熱いうずきを感じ、うなじに感じる視線に身を固くした。そこに
うちに泊れば?
軽くそう投げかけたのは和彦の方だった。しかし、明子を意識しているのは肌にびりびりと感じられる。
「他に家族もいないし、部屋も空いてるし、それに駅から近いんだけっこう」
「ありがたいんですが」ためらいがちな声に、運転席も助手席もわずかに肩から力を抜く。
「あんまり申し訳ないし、遅くても早朝には静岡から出たいので」
そうか……和彦の声に滲むのは安堵だろうか。「ならば仕方ないかな」
明子は知らぬうちにこう口に出していた。「別にいいじゃない、」
ふたりとも、いつの間にか息を詰めている。テニスの試合を視ているように。
ただ、今日の二人は観客ではなく、打ちあっている側だった。
「朝早く起きて、朝食くらいは出せるけど。早いって言っても真冬だし、五時とか六時くらいでしょう?」
ああ、と後ろの男が大きく息を吐いた。伝わるはずのない熱気がふたたび明子のうなじを焼く。
「やっぱり、悪いですよ……」しかしそれは断りではない、明子がそう感じたせつな、
和彦が急に思い出したように「まずい」間抜けな叫びを上げた。
「ばあさんが、帰りに寄ってくれって言ってたんだった、よな?」
眉根を寄せた明子にまっすぐ向いて、和彦が明るくこう言った。ちょうど信号で止まった時、彼の口調はのんびりしているようにも思えた。
「掛川で降りるんだった、ごめん忘れていた」
口調とは裏腹に、目の中に切羽詰まった色を認め、明子は思わず
「ああ、お母さんのところに、うん、そうだった」
若者の反応は特にない。明子は畳みかけるようにことばを継ぐ。
ごめんね、私の母が休んでいて、帰りがけに様子を見るって言ってたの。
「この近くに道の駅があるから、そこで降りてもらってもいいかな」
和彦のことばに、明子は体を固くした。しかし若者は素直にうなずいて
「道の駅なら、次、拾えそうですし」明るく言ってから、初めて声に出して笑った。
「長距離トラックの近くで札上げてみます、あんがい一気に東京に行けたりして」
ほんと、助かりました、ありがとうございました。
降りた時には言葉ももつれず、若者は深々とおじぎをして二人を見送った。
ねえ窓を開けていい? おもむろに運転手にそう問いかけ、明子は返事を聞く間もなく窓のスイッチを押した。
二月の夕暮れの風がするどい舌のように窓の隙間から車内を満たす熱気に差し込まれ、明子の周りをぐるりと巡っていった。
若いヒッチハイカーを置いてきた道の駅が、まるで不夜城のごとく白い光にまばゆく照らされているのが、バックミラー越しに見え、それに併せて和彦がひとつ、切ない悲鳴にも似たくしゃみを洩らした。
「窓、閉めた方がいい?」
「いいよどちらでも」涙まじりの和彦の声に、ようやくはっとして明子は窓を閉めた。
窓を閉めたタイミングで、不夜城の明りが闇に消えた。車内には温かい空気が満ち、ノイズまじりの軽音楽が耳に戻ってくる。
車は再びバイパスに入る。あとはひたすら、東を目指すのみだった。
密閉された空間には、既に何も残されていなかった。旅人が運び込んだ空気も、野生の匂いも、掻きまわされた時間すらも。
車はただ、暗い空の下を走り続ける。
楽しげなBGMすら静けさとしか聴こえない長い沈黙を破ったのは明子だった。
ねえどうしてあの人はヒッチハイクなんてしていたんだろう?
明子は窓の外を流れる黒い山影を眺めながら誰に問うともなくそうつぶやく。
あてもなく誰かの助けを待って道の端に立つ……先に進むためにはただ、ひとりで歩いて行けばいいだけなのにどうして。
金の問題だろ? といつもならば一言で片づけそうな運転席の和彦が前をみたまま言った。
たまにはそんなふうに生きていることがあるよ、俺たちだって。
そうなのかな? なんで?
試すために。
何を試すの?
自分が、人生にまだ見捨てられていないかを試す。ただそれだけ。
いっしゅん、和彦の横顔がヒッチハイカーの横顔とかぶさる。
明子はふと、遊ばせた彼の左手に手を伸ばそうとした、が、筋の浮いたその手はあまりにも
「遠いんだ」
ん? 運転手が助手席をまともに見つめ、束の間視線が絡まる。
「何か言った?」
なんでもない、なんでも。明子はまた窓の外に目をやる。
「下り坂、スピード出過ぎるから気をつけてよね」
「分かってる」
車は牧の原台地の緩やかな下りにさしかかる。目の前に広がるのは大井川を挟んだ市街地の明かりの群れ。
すっかり暮れなずんだ二月の、はるか下界に見える夜景は二人を黙って迎え入れようとしていた。
了