ちょっと複雑
「雅紀君はマシュマロ多めよ」
母が言う。
「そこの棚の大きなお鉢のようなマグ、そう、スーパーアスカの絵の入ったどんぶりカップ」
アスカ? どこかで聞いた名だ。
母が台所へ来る。棚を開けるとそこにはラーメンなんかも食べられるかもしれない大きなカップがあった。その中央に真っ赤な髪をした女の子が描かれている。ああ、これがスーパーアスカ。
「雅紀君達のデザインしたオリジナルカップなの。まず、ミルクをちょっと入れて、ホットチョコレートの粉をよく混ぜるの。そして熱いお湯を注いでかき混ぜてから、マシュマロをいれる」
「へえ」
「雅紀君ね、結構夜遅くまで起きてるらしいの。夜中に何かゴソゴソしているから、どうしたのかって聞いたら、なにか飲みたいけど、お茶や水ではないものがいいって、それでホットチョコを作ってみたの。そうしたらすごく気に入ってくれた」
「まさか、お母さんにまで電話で注文してるんじゃないでしょうね?」
「あはは。普段は彼が自分で作ってるわよ。今夜は君花に甘えているのね」
君花は自分の分も作る。雅紀のカップの半分ほどの大きさのマグ。
「君花姉ちゃん、すごい。いいな、いいな。お兄ちゃんは僕でさえ、部屋に入れてくれないんだ。ケチだろう」
純がうらやましそうに言った。そうなんだ、と実感する。あの部屋に入れるってこと、そんなに特別なことなんだ。
お盆に二つのカップを乗せて持って行く。すぐと雅紀の部屋のドアが開いた。足音でわかったのだろう。
「よう、サンキュ、入れ」
「うん」
興味深い、雅紀の部屋。
まず、目を見張ったのは、壁一面に机が三つ並び、所狭しと並んでいるコンピューターだ。大きなデスクトップ型が一つ、さらにその横にはノートパソコンが二つ、どれも起動している。その端にベッドとタンスがあった。どこかのオフィスの中の空いたスペースに、寝るという感じに見えた。
雅紀は、君花からホットチョコレートを受け取り、早速、口をつけた。
「うまい、ありがとな。まあ、ここへ座れ。この世界を覗いてみるか?」
よくわからないが、うなづいていた。
雅紀がものすごい指の動きで、キーボードをたたく。その大きな画面には君花らしい顔の女の子がいた。黒い髪と黒い目、ちょっと生意気そうな女の子。
その横には黒髪のちょっと凛々しい男の子、どうやらこれが雅紀らしい。
雅紀から渡されたヘッドフォンとゴーグルをつけた。そこにはもう3Dの世界が広がっていた。どこかで爆撃音がしている。
その世界に舞い降りた雅紀と君花。
「あ、おい。くるぞ」
その言葉とほぼ同時に襲撃戦になったらしい。激しい銃の音。周りの木や建物が銃で撃たれ、その破片が飛び散る。思わず、耳を塞ぎたくなる。悲鳴まであげそうになっていた。本物の激戦の中にいるような錯覚を覚える。
その時、君花は雅紀に抱きすくめられ、ひらりと上へ舞い上がった。雅紀がなにかを落とし、木の陰に隠れていた兵士たちはやられてしまった。
そこで画面が止った。雅紀が一時停止にしたようだ。
「あ、じゃあ、今度はこっち。アスカに紹介するよ」
アスカ? 雅紀の声が蘇る。アスカちゃん、大好きだよと。そのアスカはゲームの中の人物だったとわかった。
場面が変わり、森の中に城があった。その中を雅紀らしい騎士の後をついて行く。そして、突き当りの大きな扉の向こうには、真っ赤な髪をした女性がいた。年齢不詳、整った顔がきつそうに見える。雅紀のどんぶりカップの女性だった。
「Oh, Masaki. What have you been up to? You weren't online yesterday. How come?」
(雅紀、一体どうしていたのだ? 夕べは来なかった。なぜじゃ)
いきなり英語で言ってきたアスカは、騎士の姿の雅紀に抱きついてきた。そして、そのくちびるにキスをする。
「えっ」
それを間近で見て、君花は驚いた。
「I went out last night. But I'm always here.」
(夕べは出かけてた。でも僕はいつもここにいるだろっ)
雅紀もすらすらと英語で返す。それにも驚いた。
小さな声で雅紀が説明してくれる。
「ここはアスカの城なんだ。時々、英会話の練習のために、すべて英語で話してる。楽しいし、勉強もできるって一石二鳥だろっ。今、アスカに日本語に切り替えてもいいか、聞いてみるから、ちょっと待っててくれ」
君花がうなづいた。
ゲームなのに、そんなことまで聞かないと切り替えられないのかと思う。
「What are you guys talking about.」
(二人で、何を話しているのだ。)
かなり凄まれた声でそう言い、いきなりアスカが君花に近寄ってきた。そして腰に下げていた剣を抜いて、君花の鼻先に向けていた。ゲームの中の事だとわかっていても鳥肌がたった。
えっ、えっ、えっ。なにこれ、一体なんで?
ちょっとしたパニックに陥る。ゲームの世界のことでも、3Dはかなりリアル感があった。それに剣を向けられたままだ。アスカは怖い顔をして睨んでいた。
「Asuka, Could we switch to Japanese? so we can all understand.」
(アスカ、日本語に切り替えてもいいかな。そうすれば皆がよくわかるから)
君花にはよく理解できなかったが、雅紀が君花のために日本語に切り替えてもいいかと聞いているのがわかった。
アスカが意味ありげな笑いを浮かべる。バカにされた感が強い。
「Oh, she can't understand English?」
(ああ、この娘は英語がわからないのか)
「Well, sort of. She prefers in Japanese.」
(うん、まあね。彼女は日本語の方がいい)
アスカはぷいと顔をそむける。それを受け入れるのは少々不本意だと言いたげだった。
「Whatever, I don`t care.」
(勝手にしろっ、どっちでもいい)
「Thank you. I appreciated.」
(ありがと、感謝する)
雅紀がそう言って、日本語に切り替えてくれた。突然、日本語が耳に入ってきた。
「雅紀よ、そのチンシャクはなんじゃ。そなたの下女か。それにしても趣味の悪いことよのう。もう少しまともな下女はおらぬのか」
えっ、チンシャクってなに? 下女って、誰がよ。
君花は、思わずものすごい上から目線の高飛車なアスカを睨んでいた。英語でも、こんな調子の会話だったのかと思う。
その君花の表情が気に入らないらしく、再びアスカが剣をかざす。
「なんじゃ、その目は。私に不満でもあるようだ。なにやらおもしろくない。無礼者はどうなるか。そこになおれ、手打ちに致す」
「えっ、なに? 冗談じゃないわよ。ゲームなのに、なんで一方的にこんな事、言われなきゃいけないのよ」
「あ、君花。まずい」
アスカがものすごい目で凄んでいる。剣を振りかざした。そこで画面が暗くなった。
雅紀が強制的に終了させたらしい。
「ひゃあ、危機一髪。君花が殺されるところだった」
雅紀がゴーグルを取った。君花もこのわずかな時間なのに、手に汗を握っている。それだけリアル感のある世界だったのだ。
「ねえ、なによ。あのアスカって人。なんで?」
「アスカは、あの世界に生きているんだ。オレがログインするたびに少しづつ年も取るし、その経験、会話から感情も生まれている。今、PCゲーム部の連中も入り込んでいるけど、あの世界は孤独なんだ」
「アスカは、雅紀君のことが好きなのね。それで、一緒にいた私に嫉妬したってこと?」
「ん、まあ早くいえばそうなる。まさか、殺そうとするとは思わなかったけど」
「あの人、性格悪いわよ。もっといい人にできないの?」
「えっ、あのくらい気が強くないとこの世界には住めないんだ。それにああいう女性って魅力的だと思うし」
君花は黙ってしまった。あんなに高飛車な人が好みだなんて。
「雅紀君って、変わってる」
「まあ、ほんのゲームセンターレベルのCGゲームだ」
「ここで、全部ゲーム作ってるの?」
三台あるコンピューター、全部違うゲームなのか。
「遊ぶゲーム用とプログラミング用、シミュレーション用にわけてある。本当はもう一台並べたいとこだけど、狭いし、無理だ」
雅紀は中央のPCの前に座り直した。君花も椅子をひいていく。
クリックすると大きな画面いっぱいに、リアルな尾崎の顔が映った。
「きゃっ」
今、絶対に見たくない、おぞましい顔なのに。
「あ、わりイ、これを作ったばかりだから。じゃあ、こうしようか」
雅紀はものすごい指さばきで、キーボードをたたく。すると、リアルな尾崎の写真のような画像が、たちまちアニメチックな男の子に変わった。特徴をよくとらえていて、かわいらしいが、その中にも陰険さが表れている。
こんなこと、瞬時にできるなんて、本当に雅紀はオタクだと思う。
「今、大場と松本が尾崎のことを調査してくれてるんだ。それが五分置きくらいにどんどんここへ送られている。それで尾崎の思考癖と行動パターンを読み取って、これからどうするか、どうすればいいのかというシミュレーションを作っていく」
「そんなこと・・・・。警察に通報した方がいいんじゃないの?」
雅紀はどんぶりカップを両手で抱え込み、ゴクリと飲む。
「うまいな。今度からいつも君花に作ってもらうよ」
そう言って雅紀は笑った。
いつまでもここに泊まるわけじゃないのにと思う。でもうれしい。
「警察が、二十四時間体制で見張っててくれるか? これから先、尾崎の気がすむまで、ずっと監視していてくれるって言うのか? そんなこと、不可能だ。警察ってとこは、なにかが起こらないと動けないんだ。今の状況じゃ、精々、夜一度くらいパトロールでこの周辺を見回ってくれる程度だと思う。現にストーカー事件はそういう監視下の網をくぐり抜けて起こってる」
「事件?」
それは恐ろし気な響き。
「うん、ストーカーされて、逃げるように身元を隠して別の所へ引っ越しても調べられ、ついにはまた目の前に現れる。ストーカーで、そこまで執拗に追ってくる奴は、もう愛情というより執念だ。憎しみをぶつけているだけ。そういうふうに、警察に訴えたり、抵抗しようとするとますますその憎しみが倍増するんだ」
怯えがひろがった。
「じゃあ、どうすればいいの」
そんなとんでもないこと、淡々と言わないでよ、と思う。
「うん、だから尾崎をよく研究して、作戦を練る。安心しろ。ここにいる限りは君花のこと、オレが守る」
雅紀がうれしいことを言ってくれていた。
「ありがとう。雅紀君がお兄さんでよかった」
そう言って、照れ隠しにホットチョコレートを飲む君花。
そのまま二人はもう少しだけゲームを楽しんだ。
「もう遅いから寝るね」
明日も学校だ。
「そうか。おやすみ」
君花が空になった雅紀のどんぶりカップと自分のマグカップを持って部屋を出ようとした。
「あ、君花、お兄様からちょっと一言。絶対に怒るなよ。次はさ、もう少し露出度の低いパジャマを着ろよな。それか、上から何か着ろ」
「え?」
何を言われているのかわからなかった。雅紀が胸元に手をやる。それでやっとわかった。パジャマの胸元が結構開いていた。母のを借りていたから。
「ぺちゃだから、いいけどな」
また、いつもの雅紀に戻っていた。
まったく、もう。せっかくいい雰囲気で戻ろうとしたのに。
君花はぷりぷり怒ってドアを閉めた。
しかし、こんな何気ないことでもやはり、異性同士なのだ。君花が今まで大したことに思わないことでも、向こうが気にするんだと思う。
こっちももう少し気を使わなければいけないんだと実感した。
それから三日がたった。君花はずっと雅紀の家に泊まっていた。アパートへ帰る必要はあったが、着替えは母の物を借りているから、別段不自由していることはない。尾崎が君花をつけているのかはわからなかった。少なくともその三日間はあいつの姿を見てはいなかった。
もう大丈夫かもしれない。あの時の尾崎の言葉は、ただの脅しだったのかもしれなかった。それか、君花が雅紀の家にいるから、おもしろくなくなったのだろうか。それは確信が持てないが、とりあえず一度アパートへ帰ろうと思った。
しかし、そんなことを考えていたある日の朝のこと。
夜中に雪が降ったらしかった。朝起きるとうっすら雪が積もっていた。この白い世界に君花は少し楽しくなった。雪が降っただけなのに。
けれど、純のあどけない言葉にそれが一変することになる。
「あれえ、ねえ、誰だろう。うちの周りだけ、足跡だらけだよ」
「えっ」
その声に、君花も外に出た。うっすらと雪が積もっていた。けれど、この家の周辺だけは、足跡がびっしりとついていた。気味が悪いほどに。
「せっかく僕が一番に足跡をつけようと思っていたのに。ひどいよね。新聞屋さんかな」
それはまだ、やっと外が明るくなった時間だ。確かに新聞屋さんかもしれない。けれど君花になんともいいようのない恐怖が襲っていた。
君花は急いでまだ寝ている雅紀の部屋のドアを叩いた。
「ねえ、雅紀君。ごめんね。でもちょっと外をみてもらいたいの」
中から起きる気配がした。
そしてすぐにドアが開く。少し眠そうな雅紀が現れた。髪の毛が跳び跳ねている。
「純君が、外に足跡を見つけたって」
「足跡?」
雅紀がパジャマの上にジャケットを羽織って外へ出た。君花もその後を続く。
家の周りには驚くほどの足跡が残っていた。何度も何度もこの家の周りを歩いたことがそれでわかる。
雅紀がそれらの足跡を真剣な目で見ていた。
「ねえ、新聞屋さんってこと、ないかな」
君花もそうではないとわかっているが、そうであって欲しいとも思う。
「いや、それはない」
雅紀がきっぱりと否定した。やはり、と思う。
「新聞屋は、この自転車の跡だよ。直接、郵便受けまで乗ってきて、ここに片足をついただけ。そしてそのまま次の家に走っている」
そう言われて見ると、車輪の跡がずっと続いていた。
「この雪っていつから降ったんだろう。夜中は気づかなかった。朝方なのかな」
「ねえ、これってやっぱり・・・・」
「うん。尾崎だよ。わざと尾崎がつけた足跡だ。オレはいるんだってこと、見せるためにね」
君花が体を硬直させる。
「この足跡とこっち、微妙に時間差がある。足跡の上に雪が少し積もっているものと、まったくないものと。それはある程度の時間、この家の周りをうろうろしていたってわかる」
雅紀のそんな専門家のような説明を聞いていた。君花の視界がぼやけてきていた。
「明らかに嫌がらせだ。雪が降ったからもしかすると急いでここへ来たのかもしれない。そしてある程度時間をかけてこれだけの足跡をつけた。これだけでオレ達にはその意味がわかるから。ちょっと安心したところへこれを見せればもっと怖がるって・・・・・・」
雅紀が君花に気づいた。君花はこみ上げてくる涙を止められないでいた。両手で熱い涙を抑えるが、おさまらない。
「どうして? どうしてこんなこと、するの?」
雅紀が君花の肩を抱く。そのまま抱きしめてくれた。君花はその腕の中で泣きじゃくっていた。怖くて、そしてこんなことに巻き込まれてしまった自分の不甲斐なさに、そしてこの家にも迷惑を掛けてしまったことなど、恐怖と共にいろいろなことが頭を駆け巡る。
「ごめん。もう中へ入ろう。寒いし、なっ」