8 まもる君
暗い。
それに寒い。
……ここは一体どこだろうか?
そう思って暗闇に目を凝らすと、縦横で交差し合う何本もの木板が見え、それによってできた四角い空間からは更にその奥があることが窺えた。
木の板に触れ、四角い穴から手を伸ばしてみる。
……牢屋、だろうか。
いやはや、なんとも旧式な造りだ。
普通は鉄とかで造られるもんじゃないの?
いや、問題はそこじゃなくて……、ん?何で牢屋?
更に目を凝らし、周囲を窺う。
結構狭い場所のようだった。
木板を伝って移動した壁は、土壁。ただの土。うん。
天井も恐らく土だろう。
んで、ここは地下って事か。
床には畳が敷いてあるが、陽はもちろん当たらず、何とも寒々しい。
明かりすらもない、劣悪な環境。
……え、ホワイ?
ここ何?
どこ俺?
いやいやいや、落ち着け俺。
深呼吸――、深呼吸――。
冷や汗を拭い、俺はその場に座り込む。
ちょっと休憩。
とりあえず落ち着かなければ。
といっても、自分の手さえぼんやりとしか見えないこの暗闇だ。
冷静さが戻ってくると、今度は恐怖心が芽生えてくる。
俺は自身の肩を抱き、自分の存在を確かめた。
聞こえてくるのは、心臓の鼓動と呼吸音。
しばらくじっと蹲り、俺はもう一度深呼吸をした。
――よし、大丈夫。大丈夫だ、俺。
それにしても冷えるな。
俺は冷えた手を擦り、それから足を擦った。
……ん?
そこで漸く気付く足首への違和感。
――縄で繋がれていた。
何、この悪趣味。
引くわー。ないわー。
その足に目を近づけ、よく観察してみる。きつく結ばれた縄の表面には、恐らく血の跡であろう染みが付き、俺の手の爪からも血が滲んでいた。
縄を解こうとしていたのだろうか?記憶ないけど。
縄が当たっている足首の皮膚は青黒く変色し、更には爪の引っ掻き傷がいくつも見られた。
傷跡からは血が滲み、何とも痛々しい。
いや、ほんと、何があったの俺!?
落ち着くどころか、更なる混乱の中で一人唸っていると、俺以外の人の声が遠くから反響して聞こえてきた。
それから直ぐ、ぼんやりとした光が差し込む。電気や太陽なんかの明かりではなく、火の明かり。
蝋燭か松明か、そんな様な物を持った人影が、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
何やらガヤガヤと騒がしい。
……喧嘩か?そんなことよりも、俺をここから出せコノヤロウ!
そう声を出そうとするが、声が出ない。
口の中はパサパサ。
喉はカラカラ。
おいおい、水も与えられなかったのかよ。
喉の渇きを自覚すると、急に息苦しくなった。
喉が渇いた。
水が飲みたい。
水が飲みたい……!!
そう思った矢先、辺りが炎に包まれる。
はい!?え、どゆこと!?
さっきの連中が火をつけたのだろうか、チクショウ!!
熱いっ!!
喉は渇き、周りは灼熱の業火的状況。おいっ!!
熱い熱い熱いっっ!!!
嫌だ、こんなのは嫌だ!
熱い、辛い、苦しい、恐い!!
……ああ、でも、これで死ねるなら、楽になるのだろうか。
辛い。苦しい。悲しい。寂しい……。
誰か、俺を、僕を、助けて。
こんなのは嫌だ。
誰か、僕と、代わって……。
俺は目を見開かせた。
俺は、今、何を言った?
周りを見渡すと、炎は消え、何もない真っ暗闇な空間。
さっきの地下牢よりも更に濃厚で黒く暗い、虚無の空間。
そこに浮かび上がる俺という存在。
ああ、これは夢か。夢なんだ。
だからもう、大丈夫だ……。
そう呟いて、俺は再び、闇の中で一人蹲った。
*******
「うわっ、蒸し暑っ!」
憧兄の私室に足を踏み入れた俺が、まず発した第一声がこれだった。
エアコンを見ると、案の定止まっている。
寝る前にエアコンを切る癖があるのは知ってたけど、昼間はつけた方がいいんじゃないのかな……。
気温何度だと思ってるの?
俺は溜息交じりに、ベッドに蹲って寝息をたてる憧兄を見据えた。
外部の音を遮断するかのように、薄手の掛布団が頭まですっぽりと被せられ、丸くなって眠っている。
下の騒ぎが二階まで響いていたのかもしれない。悪いことをしたな。
でもこの蒸し暑い部屋の中で、その状態で寝るのは如何なものだろうか。
布団の中、確実に蒸し風呂状態だよね?
灼熱の業火的状況だよね?
寝苦しくない、それ?
そう思いつつも、ほくそ笑む俺って性格悪いだろうか。ははは。
「――ねぇ、兄さん?ごめん、ちょっと起きて欲しいんだけど」
俺は枕元に置かれたリモコンから冷房をつけると、そのままベッドの横に立ち、憧兄を見下ろした。
……起きない。
いつもなら直ぐに目を覚ますのに、相当疲れてたのかな。全く反応がない。
起きて、と憧兄の身体を静かに揺らしてみる。
……起きない。
どうしようかな。こんなに熟睡しているのは珍しいし、出来ればこのまま寝かせておいてあげたいけど、……そうも言ってはいられない。
仕方ない、叩き起こすか。
そう思った矢先だった。
布団の中から小さく呻き声がするのに気が付く。
「うなされてる、の?……兄さん?大丈夫?」
再び憧兄に手を伸ばし、さっきよりも強く揺する。
その間も、呻き声は止まない。啜り泣く様な声さえも聞こえてくる。
「兄さん?ねぇ、大丈夫!?」
焦燥感のある声で、俺は叫んだ。
しかし、それから直ぐに声は止み、静寂が戻る。
良かった。少し焦ったじゃないか。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、布団がもぞもぞと揺れ出した。
やっと起きたかな。はぁ……。
漸く布団から顔が出て来たかと思うと、ゆっくりと上半身を起こす憧兄。
そしてそのまま、ぼーっとした表情で壁の一点を見つめている。
うん、寝ぼけてるね。
「兄さん、大丈夫だった?随分うなされてたけど、嫌な夢でもみた?」
「……」
「聞いてる?」
「……」
――ん?
返事がない。ただの屍の様だ。…って、冗談はさておき。
「おーい、憧兄?」
「……」
自然と高まる鼓動。
背筋には冷や汗が伝う。
ああ、そっか。……憧兄じゃない。
そう悟った俺は、静かに深呼吸をした後、再び彼を真っすぐに見据えて口を開いた。
「――まもる、君?」
彼の身体が、小さくピクリと反応した。
「やっぱり、まもる君だね。兄さ、……憧理は?」
俺の問い掛けに対し、ゆっくりとこちらに顔を向ける、まもる君。
……相変わらず、虚ろな目だな。
顔は俺に向けてはいるけど、恐らく見てはいないだろう。
特別何かを見ている訳ではなくて、どこともつかぬ空間を、ぼんやりと視界に入れているといった感じ。
そしてその表情は、無。
無表情というよりも、人形のような感情の読めない無の表情。
自我があるのかどうかさえ疑わしい程だ。
ただそこにいる。目の前にいるのにいない様な、ぼんやりと、蜃気楼の様な虚ろな存在。
それが“まもる”という人物であり、人格。
それにしても、その名前、どうにかならなかったのかな。
主人格を守る為に存在するから“まもる”。
初めてその名前を聞いた時は、憧兄が解離性同一性障害だっていう事実とは別の意味で、若干困惑したなぁ。
だって、うん。そのまんまだよね。
別に、人(人格?)の名前を馬鹿にしたい訳じゃないんだけど、その、なんというか……。
いや、何でもない!分かりやすくていいんじゃないかな!?うん!
って、いけないいけない。現実逃避してたわ。
我に返った俺は、自分へと顔を向けるまもる君の目をじっと見つめ返した。
といっても、まもる君の焦点が合ってないので、俺の一方通行ではあるんだけど。
……はぁ、嫌だなぁ。緊張するなぁ。
何考えてるか分かんないんだよなー、まもる君って。
そもそも何か考えてるんだろうか。
そう思い、目を更にじっと見つめてみる。
……うん。わっかんねーです。
あとゴメン。怖いです、まもる君。
無機質な表情に虚ろな目って、軽くホラーだからね?
「え、えーっと……、憧理は?代わってくれるかな?」
「……」
一度だけ、静かに首を振るまもる君。
「どうして?」
「……」
まもる君は静止したまま、ぼんやりと顔を向けるのみ。
あれ、何かちょっと、イライラしてきたぞ。
「答えない、か」
別に期待はしてなかったけどね。
喋ったとこ見た事ないし。というか、喋れるのだろうか。
まもる君が出てきたという事は、憧兄を守らざるを得ない状況であったという事。
そして、まもる君が憧兄と代わる事を拒否したことから、その状況は現在進行形で今も続いている事を示す。
……あー、どうしよっかな。詰んだかも。
愛樹が心配だけど、まもる君が出てきてしまう程に精神が不安定な憧兄を、無理に引っ張り出して連れて行くのは避けたい。
まぁ、それ以前に、まもる君が許さないだろうけど。
でもこのままって訳にもいかないし……。
憧兄と話さないと、何があったのか事情が分からない。
その為にはまず、まもる君を説得して憧兄と代わってもらわないと。
俺はまもる君と同じ目線になる様に膝を着き、彼を真っすぐに見据えた。
「まもる君。憧理と話しがしたいんだ。代わってくれないかな?」
まもる君は静かに首を振る。
「憧理が今、どんな辛い状況にあるのか、俺には分からない。けど、俺だって憧理を守れるよ。愛樹だっている。……だから、まもる君が一人で支える必要なんて、ないんだよ?もう、大丈夫だよ」
我ながら、残酷な事を言っていると思う。
だってこれは、まもる君の存在理由を否定する言葉だ。
今まで憧兄を守ってきたのはまもる君だ。
それを、もう大丈夫だから俺達にバトンタッチしちゃいなさい、はいそうですか、ってな風にはいかない訳で。
もちろん、まもる君の存在を否定するつもりはないから、一緒に支えていこうねっていう言い方で伝えたけれど、それでも逆に言えば、あなたの役目をこちらにも譲りなさいっていう意味も含んでいる。
うーん、難しいところだよね。
主人格を守るために存在するまもる君。でも、その自分が消えて、外部の人間が主人格である憧理を守り支える事こそが望ましいという事実。
その残酷な矛盾を突き付けてしまった訳だけど、まもる君はどう思っているんだろうか。何か感じているんだろうか。
相変わらず空虚な瞳。
何の感情も読み取れない、ぼーっとした無の表情。
自我すらも感じ取れないその様相から、幼子のような印象さえ受ける。
――だめか。
まもる君の無反応さに、やっぱり説得は無理だったかと諦めかけた時、まもるが前屈みにガクリと倒れこんだ。
「まもる君?」
少しの静寂の後、倒れていた上半身が再び起き上がる。
ぼーっとした表情は相変わらずだけど、見知った人物の雰囲気が漂っていた。
しょぼつく目を瞬かせて、壁をぼんやりと見つめる彼。
「兄さん?」
その呼びかけに、彼はビクリと肩を震わせた。
そして、横に立つ俺へと反射的に顔を向ける。
「葉流!?え、何でいんの?てか、いつから!?」
目を見開いて、驚愕する憧兄。
まぁ、何の前触れもなく行き成り隣に人が立ってれば、確かに驚くよね。
……はぁ。とりあえず、良かった。憧兄だ。
まもる君が俺の説得を受け入れて代わってくれたのか、憧兄の精神が安定したから代わったのかは分からないけど、憧兄が表に出て来てくれないと話を聞くことも出来ない。
「って、おいこら。何笑ってんだよ、葉流」
不思議そうに顔を傾げながら、苦笑する憧兄。
いけないいけない。安堵からか顔がにやけていた。
まもる君と対面していた緊張から解放された訳だし、気も緩んでしまうというものだ。
でも今は憧兄の状況把握をしなければ。
気を引き締め直そう。
「コホン。……えっと、さっきからいたよ?それより大丈夫?何かうなされてたけど……」
「え、まじで?……あー、そういえば、何か変な夢を見ていたような?」
うーん、と腕を組み考え込む憧兄。
しかし直ぐに考えるのをやめ、汗だくとなっている自身の状況に気付き、慌て始める。
「うわー、着替えねぇとな。寝る前の癖で、冷房切っちまったんだな」
冷房が少し効いてきたとはいえ、布団に包まっていたのだ。まだ熱は冷めないだろう。
あっつ、と汗で濡れて変色したシャツの首元を持ち、パタパタと扇ぐ憧兄。
そして、ふとその手を止め、思い出したように俺に向き直った。
「……もしかして、まもる、出て来てた?」
コクンと頷く俺。
やっぱ、起きた記憶もないのに起き上がってたり、横に行き成り俺が立ってたりしたら、違和感とか感じるんだろうね。
俺が肯定したのを見るや否や、憧兄は両手で顔を覆い俯くと、溜息を吐きながら項垂れた。
「どうしたの?」
「……」
「何か、悲壮感が漂ってるよ?」
「……」
「――まも、」
「憧理だから!」
あ、やっと返事した。
でも何だろうか。憧兄の顔が赤い。
「まだ暑いの?顔赤いけど」
はっとした表情を浮かべた後、また直ぐに顔を両手で覆い、下を向く憧兄。
本当にどうしたんだろう。
そう思っていると、顔を隠したまま、ブンブンと顔を振り出した。
「大丈夫?本当に何があったの?」
「違う……!」
「だから、何がさ?」
「……」
少しの間が開いた後、意を決した様子で憧兄は叫んだ。
「……っ!恥ずかしいんだよぉぉぉ!!!」
……悲痛に満ちた声だった。
相変わらず顔を覆い隠し、俯いたままで顔を左右にシェイクしている。
そういえば憧兄って、まもる君が表に出るのを嫌がってたっけ。あんまり久し振りだったから忘れていた。
あれは、俺がまだ小学生だった時。
「何で嫌なの?」って聞いたら、戦隊ヒーローのクールキャラのブラックと、熱血キャラのレッドの中身が入れ替わったとして、自分の身体で暑苦しい行動を取るレッドを見て、ブラックは何を思うでしょう?っていう、現国染みた問題を出されたっけ。
まぁ、気持ちは分からなくはないけど、とりあえず一言いいかな。
「乙女かっ!」