4 来客②
「――それでですね?その時歩道に車が突っ込んできまして、私を庇って主人が足を怪我したんですよ。足がポッキリ折れてしまっていて……。しばらく仕事は行けないですし、身の回りのお世話も必要になりますしね。でも子供がまだいなかったのが救いですかね。子供の世話まであったら大変ですよね。……ふふ、でも変な話ですが、慰謝料やらでお金が結構貰えて、生活の方は何とかなっていたんですけどね」
「……ははは、それは大変でしたね。あ、書き方で分からない箇所があれば、言って下さいね」
――長いっ!
どんだけ話すんだこの女!書け!早く!
俺のイライラは空腹とも重なり、既に限界に達していた。
笑顔がどんどん薄っぺらくなるのを自覚しつつ、書類を進めるようにそれとなく促す。
「あ、はい。……ふふふ、本当にあの時は大変でしたけど、主人とあんなに一緒の時間を過ごせれたのは、ちょっと嬉しくもあったんですよ。本当、何でこうなっちゃったんでしょう……」
広瀬は悲しげに溜め息をこぼす。
「…………。(知・る・か!)」
内心で悪態をつきながら、俺は広瀬に合わせ、同情した表情を浮かべた。
「ごめんなさい、しんみりさせちゃいまして……。」
「そんな、とんでもない……。(してないけどな)」
広瀬は一度うつむいた後、笑顔を作りながら話題を変えた。
「で、でも、さっきの弟さんの時はもっと大変だったんでしょうね。後遺症が残るぐらいなんですから」
「んー、そんなに世話とかは必要なかったですよ。というか、何でも自分一人で頑張っちゃうだけなんですけど、あいつ」
「まぁ、偉いですね。怪我の原因は、やっぱり交通事故ですか?」
「いえ、ちょっと……」
流石にこれ以上は、今日初めて会った他人に話せるほど、軽い話題ではない。
寧ろ、広瀬のおしゃべりに釣られて話しすぎた程である。
そう思い言葉を詰まらせていると、俺の様子を察した広瀬が慌てて謝罪した。
「す、すいません、私ったら…。悪気はないんですけど、おしゃべりに夢中になって、よく墓穴掘っちゃうんです。また変な事聞いちゃった時は、教えてくださいね」
「ははは、とんでもないです」
そして一瞬だけ間が空いた後、広瀬は驚愕の言葉を紡ぎ出す。
「――あの、また変な事をお聞きするかもしれないんですけど、……もしかして弟さん、その時に右手も怪我されました?」
「……!」
心臓が大きく跳ね、脳内は警鐘を鳴らした。
――有り得ない。
確かに、右手にも後遺症は残っており、繊細な手の動作と、あまり重たい物を持つ事が出来ない。
だが、そういった動作以外の時は、違和感などほぼ皆無のはずである。
お盆を両手で持ってはいたが、それは誰もがそうするはずだ。
右手に違和感を感じる場面など、なかった。
俺は目を見開き、にこやかだった仮面が一瞬崩れ落ちる。
しかしすぐに表情を戻し、冷静を装った。
「……いやぁ、驚きました。その通りです。脚以上に違和感はないと思うんですけどね。……只者じゃぁないですねぇ、ははは」
瞳を細め、冷たい笑顔で広瀬を見つめる。
こいつの正体を見極めなければと、広瀬の言動全てに神経を集中させた。
しかし、冷静にそう思う反面で、心臓は早鐘を打ち続け、脳内の警鐘もうるさく俺を追い詰める。
いつもの俺らしくないだろと、異常な反応を示す自分の体に奇妙さを覚えながらも、うっすらと湧き始めた広瀬への恐怖が、少しずつ俺を支配していく。
そして、その様子を知ってか知らずか、広瀬は相変わらずおしゃべりを続けていた。
彼女の言葉一つ一つが、疑念に駆られている俺を襲う。
落ち着け。
何故こんなにも俺は焦っている?
何に怯えているのか。
こんな状況慣れているだろう?
こいつが敵か無害か見極めろ。
冷静になれ。
あいつらが危険に巻き込まれるのだけは、ダメだ――。
冷静な部分の自分が、そう自分に言い聞かせることで、俺は何とか平静を装い、いつもの自分を保っていた。
「ふふ、今日は色々と勘が冴えますね。何となくそう思っただったんですけど、右手にも不便があるだなんて、大変ですね。……っと、私ったら、また墓穴掘ってしまったかしら」
困ったような表情で笑みを向ける広瀬。
ここまで来ると、わざとやっているのではと思えてくる。
それから少しした後、「久しぶりに今日は楽しかったです」と、御機嫌な様子で帰っていった。
――午後5時前。
給水室の引き戸が、静かな音を立てて開かれる。
そして、お盆を脇に挟み、片手にアイスコーヒーを持った葉流が、ひょっこりと現れた。
葉流は接客用ソファーに寝転がり、書類をぼーっと見つめながら茶菓子を摘まんでいる俺の前へとやって来て、視線を落とした。
「遅いと思ったら……。何やってんの、兄さん。お客さん帰ったんなら、お昼食べに来なよ。まぁ、といっても、もうすぐ夜ご飯だけど」
「……あいよ」
俺は顔を書類から上げることなく、気怠そうに生返事をする。
その様子から異様な雰囲気を感じた葉流は、アイスコーヒーを俺の眼前に差し出しつつ、再び声をかけた。
「……ん、お疲れ様。それで?依頼何だったの?事件?」
「おっと、……サンキュ。いや、浮気調査」
俺は手渡されたアイスコーヒーを一気に飲み干すと、グラスをテーブルへと置き直し、引き続き書類へと目を向けた。
「ああ、最近多いよね。でもまぁ、ある意味平和で良かったじゃん?で、ややこしい内容だったの?」
「全然?むしろ情報が揃い過ぎてて、浮気確定。今回は楽な仕事だよ」
「……?なら良いんじゃないの?」
お盆を静かにテーブルの隅に置き、先程まで広瀬が座っていた向かいのソファーに腰掛けながら、葉流は首を傾げた。
相変わらず俺は書類を見つめたままで、しばらく口を閉ざす。
そして、少し躊躇いを見せた後、俺はようやく顔を上げ、葉流を見据えた。
「さっきの依頼人だけど……」
「広瀬さん、だっけ?かなり綺麗な人だったけど、手出してないよね?」
「だから、俺を何だと思ってるのかな、葉流君?……じゃなくて、葉流。お前……、さっきの依頼人の前で、手足が少し不自由だと思わせるような行動、取ったりしたか?特に右手。俺の代わりに一人で対応してくれてた時とか」
俺の問いが余程意外だったのだろう。
目を丸くする葉流だったが、直ぐにその時のことを思い出し直し、真面目に答える。
「んー、特にはなかった、と思う。俺が意識してる範囲でだけど。対応っていっても、事務所の玄関開けて出迎えて、ソファーに座って待ってるように促すだけだし。……あ、でも、お茶とかテーブルに置くとき、足のしゃがみ方に違和感を感じる人はいるかもね」
「やっぱ、それぐらいだよなぁ。足はともかく、俺の見た限りでも、右手の動作に違和感なんてなかったし?」
「……?ごめん、兄さん。話が見えてこないんだけど。」
キョトンとしている葉流に気付き、俺は軽く笑いを零す。
「ああ、悪い悪い。……実はさ、さっきの依頼人の広瀬さん、お前の右脚と右手のこと、気付いたんだよ。あの短時間の間に」
「え……」
葉流は驚き、言葉を詰まらせた。
「へ、へぇ。……すごいな。たったあれだけの動作で分かった人は、流石に初めてだ」
「……何か変じゃないか?脚ならまだ分かる。たまに気付く人はいるし」
「確かにちょっと異常な感じはするけど、気付く人は気付くもんなんじゃない?医療関係の人とか、人間観察が趣味とかいう人もいるだろうし。もしかしたら、俺が無意識に変な行動取っちゃってたかもしんないし」
「うん、俺の考えすぎならいいんだけど、何か引っかかってな。今思えば、あれは寧ろ、気付いたというより知っていた、って感じだった気もするし……。この依頼だって、情報が御丁寧に揃い過ぎてるようにも感じる。内容もべた過ぎ。何か怪しいというか、わざとらしというか……」
「考えすぎ……って言いたいところだけど、兄さんの勘って当たるもんなぁ。兄さんがそう思うなら、そうなのかも」
「いやー、こういう仕事柄、恨みなんかも買ったりするからさ。疑い過ぎもどうかとは思うけど、怪しい奴に警戒するに越したことはないしな」
俺はやっと起き上がり、ソファーに座り直す。
向かいに腰掛ける葉流に、依頼人が書いた個人情報の書類を手渡した。
「毎回悪いけど、念のため広瀬恵のこの個人情報に偽りがないか、調べて欲しい。頼めるか?俺は本件の、浮気調査の方を調べないとだしな。……あ、でも、学業優先な?」
葉流は書類に目を通しながら、軽く鼻で笑った。
「はいはい。了解。今回も簡単な調べ物ですねー。こんなの片手間で出来るって。もっと手伝わせてもいいのに」
「そっか、ありがとさん。でも一応俺の仕事なんでね。……で、葉流君。今日、大学サボったよね?テスト受けないのは流石にヤバいんじゃないかなぁ?」
俺は急に話題を変えると、満面の笑みを浮かべながら葉流を見つめた。
目を逸らし、冷や汗を浮かべる葉流。
どうせ朝の疲弊しきった俺を気遣っての行動なのだろうが、それとこれとは話が別。
葉流がその後、俺からこってり説教を受けたのは言うまでもない。
「……さて、そろそろ戻りますかね。愛樹にも説教せにゃならんし。どうせあいつも午後練サボったんだろ?まぁ、愛樹の場合は、部活サボったところで誰も文句言わないだろうけど。色んな意味で……」
よっこいせ、とソファーから年寄り臭く立ち上がり、俺はテーブル上のコップやらお茶請けやらを適当に寄せ集め、お盆に載せた。
「……」
「いや、怒ってるわけじゃないんだから、そんな落ち込むなって」
肩を落とし、唇を噛みしめる葉流。
あれ?俺、そんなきつい事言ったかな?
ここはフォローを入れておかねば。
「んー、あのさ。俺の為に学校やら部活やらサボられると、俺が気分悪いだろ?お前だって俺の立場だったら嫌じゃないか?」
「……ごめん。せっかく大学にまで通わせて貰ってるのに、余計な事した」
「葉流くーん?そういう事を言ってるんじゃないんだけど?」
「分かってる。余計な心配するなって事でしょ?」
投げ遣りに言葉を返す葉流。
分かってない。全然分かってない。
俺は感情的に出かかった言葉を呑み込み、代わりに溜息を零す。
そして、葉流の座るソファーの隣に立つと、宥める様に頭を撫でた。
「……何?俺もう19歳なんだけど。子供じゃないんだけど」
「はいはい、葉流君はいい子ですねー。いつも俺や愛樹ちゃんを気遣って助けてくれる。でもさ、妹の愛樹ちゃんの為ならともかく、年上の俺の為に、そこまでしてくれなくていいんだぞ?助けが要る時は俺から言うし、お前は自分のやるべき事を優先して欲しい。俺が言いたいのはそれだけだよ。いつもありがとな」
眉をしかめながら俺の手を退かし、「分かったよ」と呟く葉流。
照れてやがるな、と不敵な笑みを浮かべていると、葉流に睨まれた。
まだまだ可愛い奴である。
「じゃ、俺はこれ片しとくし、お前は玄関とこの戸締りよろしくな」
しかめっ面の葉流にそれだけ頼むと、俺は口元を緩めながら、お盆を両手に給水室へと消えて行った。
それから少しした後、片付けと戸締りを終えた俺と葉流は、給水室で合流する。
「じゃ、戻りますか」
俺の言葉に同意する様に、葉流は家へと繋がる戸へと手を掛ける。
が、開けようとしない。
「……?どした?」
「あのさ、俺も愛樹も親いないし、施設に入った時から、それなりに苦労することは覚悟はしてたんだ。でもそれって、兄さんも同じ立場でしょ?なのに、俺と愛樹は兄さんのお蔭で、普通に生活していけてる。高校まではお小遣いもくれるし、俺は大学まで行かせて貰えてる。でも兄さんには、そんな人いなくって、自分の力でここまで頑張った。でもそれって不公平だ。年下だからって、兄さんに甘えて、守られるだけなのは、俺が気分悪くて嫌なんだ。兄さんだって、俺の立場だったら嫌なはずでしょ?兄さんは親代わりではあるけど、俺たちだって兄さんの親代わりになりたいんだよ。まだまだガキで、力不足だけど……、俺たち、家族なんだから。それに―—、」
葉流は俺に背を向けたまま、長々と言いたいことを吐き出していく。
恥ずかしいことを言っているのは葉流の方なのに、こっちが恥ずかしくなってくる。
さっきの仕返しだろうか。
とりあえず頭を撫でておこう。
「うん、分かった分かった。俺も考えが足りなかった。そんなこと思ってくれてたんだな。でも、これでも俺は、かなりお前らを頼りにしてるし、俺一人ではここまで頑張れなかったんだよ。ありがとな、いつも助けてくれて」
俺の言葉を背に受け、葉流は頭に置かれた俺の手を払い除けながら、今度こそ戸を開けた。
そして無言で先へと歩を進める葉流。
かなり早歩きである。
照れてるんだろうなぁ。言いたいこと言ったはいいけど、後になって恥ずかしくもなったんだろうなぁ。
そう思いながら、俺は再び不敵な笑みを浮かべた。
そして、家と事務所とを繋ぐ戸に鍵を掛けながら、ボソリと呟く。
「家族、ね……。」
――その声はあまりに小さく、誰にも届くことなく静かに消えて行った。
憧理は音もなく笑いながら、先行く葉流の後ろ姿を只々見つめる。
その笑いは自嘲染みており、葉流を見つめるその瞳の奥に、どこか悲しげな影が潜んでいたことなど、当然気付く者はいなかった。