2 古屋家の日常
それから結構な時間が経過し、太陽はもうすっかり高く昇りきった。
温まり切った蒸し暑い部屋の中、俺はゆっくりと目を開ける。
窓越しから鳴り響くセミの声と、じっとりとした汗が、実に不快である。
「冷房、切らなきゃ良かったな」と小さく舌打ちし、額の汗を手の甲で拭った。
そして、暫くボーっと天井を見つめていると、枕元から午後1時半を知らせる携帯のアラーム音が鳴り響く。
……鳴る前に起きちまったよ、ったく。
暑さと眠さで不快感を募らせながら、アラームを切り、冷房を入れる。
大きなあくびと共に上半身を起こし、目の前の壁を意味もなく見つめた。
頭が全く働かない。つか、何も考えたくない。働きたくない。眠っていたい。永遠に。
しばらくして、冷房で涼しくなってきた心地よさと共に、再び襲ってくる睡魔。
俺はそれに抗うつもりもなく、再びうとうとと目を閉じてしまった。
ふわふわとした気持ち良さに浸りながら、夢半ばに差し掛かった頃。
遠い意識の向こうで、階段を駆け上がる慌ただしい足音が、ぼんやりと聞こえてくる。
そして少しの間もなく、部屋の引き戸が大きな音を立てて開かれた。
更に更に、部屋中に響き渡るうんざりするほど元気の良い声。
「たっだいまー!!憧ちゃん!」
「……っ!?」
声の主は、パッチリとした大きな瞳と、薄紅色の小さな唇を嬉しそうに歪めた愛樹であった。
真っ赤に染まった頬と、額から流れる汗とが、外の気温の高さを物語る。
柔らかそうな天パで綺麗な黒髪を後ろで一つに束ねているが、寝癖と雑な括り方とで、コレジャナイ感が半端ない。
まぁ、この大雑把な性格を踏まえても、“元気いっぱいな可愛い女の子”という印象が勝るために、他校の男子からは結構モテるそうで。
でも自分の学校の男子からは、……まぁ、うん。
入学当初は可愛いって事で注目されてたらしいけど、……深く知ると夢から覚めるんだろうね。
許容範囲を超えた雑な性格に、男勝りな、っていうか、どこぞの戦闘民族ですかっていうぐらい好戦的でかなり強い。
背中に背負った日本刀と、男でも躊躇する程の大量の荷物を、両手で軽々持つ様子からも察しがつくだろう。
本人は知らないだろうが、学校の男子の間でついた仇名はアマゾネス。
そんなパワフルなアマゾネスさんに急に起こされ、俺の繊細な心臓は、可哀想なことにガクブル状態である。
頭は状況の把握に時間がかかり、体を動かすことにまで判断が追いつかない。
にもかかわらず、愛樹は更なる追い打ちをかける様に、再び叫びながら近づいてきた。
「おっきろーー!!」
そして、しょぼつく目を薄っすら開ける俺の顔面に、シューズ袋が落下。
痛いし臭い。何てことしやがる。
「……あー、もう、うるっせーな。愛樹テメー、この馬鹿が」
ベッドから起き上がり、目頭を押さえながら、寝起きドッキリへのイライラを愛樹にぶつける。
「おう!起こしに来てやったぞ!褒めろ!」
……うぜー。
ごめん、愛樹ちゃん。うぜぇ。
「……うん、アリガトウゴザイマシタ。では、準備しますので、愛樹ちゃんは部屋から出てって下さいましー」
イライラより面倒臭さが勝った俺は、愛樹をしっしと手で追い払う素振りをした。
愛樹は無下な態度を取られ、表情を曇らせる。
「何か、雑くない?」
「え?ああ、確かに雑だな。大雑把。だから、もうちょい落ち着きを……、」
「バーカ!!」
愛樹は一言罵倒を吐き捨てると、荷物をガサガサと揺らしながら踵を返す。
そして、制服のスカートが乱れるのを気にも留めず、ドアを足で乱暴に閉めた。
「……っ!こら愛樹!ドアは静かに、手で閉めなさい!……ったく、口が悪い。誰に似たんだか……」
静かになった部屋で小さく舌打ちし、俺はゆっくりと立ち上がる。
本当に、よく分からん。俺が怒りたい側だと思うんだが。
溜息を吐きつつ、のそのそと着替え、ベッド横の鏡の前で服装を整える。
ついでに鏡に映った時計をチラ見すると、まだ20分程余裕があった。
さて、行きますか――。
冷房を切る甲高い音を辺りに響かせながら、部屋を後にした。
階段に向かう途中。
憧理は愛樹の部屋の前で、先程の物であろう大量の荷物と遭遇した。
→避ける
……避けられない!
→避け……られない!!!
「愛樹ちゃーん!?」
堪らず叫ぶ俺。
その時、ちょうど自室から出てきた、半袖のシャツに短パン姿の愛樹と、数分ぶりに再会する。
やや不機嫌な顔の愛樹に、俺は和やかに話しかけた。
「おはよう、愛樹ちゃん。起こしてくれてありがとね。」
愛樹から向けられる冷たい視線。
めげるな、俺!
「き、今日は部活、昼までだったんだな。この荷物はどうしたんだ?」
「……。学校から持ち帰らされた置き勉用具とか、その他諸々……」
そう言いながら愛樹は、廊下に置かれた荷物を拾い上げ、自室へと放り投げていく。
俺はその様子を、口角をあげたままの表情で、只々見つめていた。
改めて荷物をゆっくりと見渡してみる。
……。
絶望に近い感情が波打つのが分かった。
手提げ袋から見える体操服。
あの膨らみ方からして、恐らく3着分は入っている。
……予備の意味が分かっているのかな、愛樹ちゃん。
じんわりと目頭が熱くなってくきた。
そして、二重にしたスーパーの袋から見えるのは、詰め込むためにバラバラにされた、もはやよく分からないオブジェと、ゴミのように丸められた布。
美術と家庭科作品の何かなのだろうが、扱いがあまりに惨い。
何か動物のようなオブジェの首と目が合い、恐怖と居た堪れなさで、素早く目を逸らした。
……カオスすぎる。
『適当過ぎ、溜め込みすぎ、こうなる前に持ち帰りましょう?』
……これを口にした際の、ただでさえ不機嫌な愛樹の反応が恐ろしい。
そう思い、少しの間、俺は口を開くことが出来なかった。
愛樹は、整理整頓がとにかく出来ない。
計画性がない。
面倒事は溜めに溜め込み、テストは前日になって慌てるタイプだ。
……いや、悪い時は当日か。
――言わなければ。
冷や汗が流れ、俺は生唾を呑み込んだ。
しかしこの年頃の子に、説教混じりに長々と注意したところで、鬱陶しがられてしまうだけだろう。
ここは大人として対応しなければ。
オブラートに包んで、単刀直入に、短めに。
「愛樹ちゃん。……ちょっと、だらしないんじゃないかな?ちょっと荷物溜め込み過ぎだと思うよ。一体これだけの荷物、学校のどこに置いておけたのか、憧ちゃんはちょっと不思議なんだけど。置き勉が悪いって言ってるんじゃないよ?俺もよくやってたし?でも、もう要らない物とかは、最低限、ちょっとでも持って帰るようにしないと。もうちょっと普段から整理整頓とかさ、習慣付けるようにしたほうが――」
殴られた。
鳩尾に見事にクリティカルヒット。
――全く、これだからこの年頃の子は扱いに困る。
しかも女の子だ。
思春期の女の子なんて、どう接すればいいのか……。
葉流の時はまだ扱いやすかったな。
男だし、多少雑な扱いでも大丈夫だったし。
俺は鳩尾部分を擦りながら、力ない足取りで一人階段を下りる。
キッチンから聞こえる、食器を洗う静かな音が、無性に心を和ませてくれた。
リビングの引き戸を振るえる手で開けると、奥のキッチンで洗い物をする葉流と目が合った。
細身で長身、眼鏡を掛けた切れ長の目に、天パで茶髪混じりの色素の薄い髪。
優男オーラ全開の、腹立たしい程のイケメンである。
余談だが、当然モテる。……見た目だけなら、ね。
遠目から眺め、見守る女子は多けれど、付き合おうとする子はいない。
付き合っても最高3カ月ぐらいだったか。
……なぜって?
半端なく気が利き、料理はもちろん、全ての家事を完璧にこなす女子力MAX男。
自信喪失により泣いた女は数知れず。
後は言わずもがな、である。
愛樹の男らしさと、葉流の女子力が交換できたなら、完璧な兄妹だったのだろうが、世の中そう上手くは出来ていないものだと、つくづく思う。
因みに、ついた仇名がお母さん。……と、嫁(一部の男子の間で)。
色々と心配になってくるのは俺だけだろうか。
兎にも角にも、俺は呼吸困難気味の中、お母……じゃなくて、葉流に今朝のおにぎりのお礼を伝えた。
「……はっ、葉流、おにぎり、ありがとな」
「ああ、別に?……んー、やっぱ殴られたみたいだね。上で騒いでたの聞こえてたよ」
「はは……。ま、元気で何よりですよ」
俺は笑顔を引きつらせながら、テーブルに置かれた麦茶をコップに注ぎ、一気に飲み干した。
……って、あれ。
「そういえば葉流、大学は?テスト期間じゃなかったか?今朝も弁当作ってたろ」
「……ああ。つい癖で弁当作っちゃったけど、テストは午前で終わったよ。それより、早く支度しないと、依頼人の人来ちゃうよ?2時からでしょ?」
「あ、やべ。悪いな、葉流。昼飯は後で食べるわ」
「了解。先に事務所で準備しとくし、兄さんは顔洗って、寝癖直してきて」
「あらー、すまんね葉流くん」
俺はおどけた様子で、軽く片手で謝る仕草をした。
そして、洗面所に向かうため踵を返し、引き戸に手を掛けようとした瞬間、勢いよく戸が開かれる。
……愛樹であった。
「わわわ!?……もう、憧ちゃんか。びっくりしたなぁ」
「こっちの台詞だわ!いい加減、心臓に悪いんですけど」
「おかえり、愛樹。お昼はもう食べてきたんだよね?」
「うん。あ、兄ちゃん、ただいま。……じゃなくて。憧ちゃん!まだ怒ってるんだからね!」
「……あー、もう、はいはい。ごめんごめん。後で遊んであげるから、そこ退いてねー」
時間がないのと、空腹と眠気でじゃれ合うのが面倒臭くなった俺は、気怠そうに欠伸をかました。
「……はぁ!?バッカじゃないの!?」
愛樹は顔を赤らめ、険しい表情で道を譲る。
そんな愛樹には目もくれず、頭だけポン、ポン、と撫でながら、俺はリビングを後にした。
後ろから、バーカ、と言う愛樹の罵声が聞こえたが、俺は口元を緩ませながら、素知らぬ顔で歩を進めるのであった。
ブーっという、来客を知らせるインターホンが響き渡るのは、それから間もなくの事である。