20 彼女は、不幸でなければならなかった
吐き出した煙を視界に捉えながら、憧理越しに窓を見つめる。
そこ一面に広がる暑苦しい程の青空に、私は黒沼優美との出会いの記憶を映し出した。
今思うと、何と感慨深いことだろうね。
忘れよう筈もない。昨日の事のように覚えているよ。
あの、不幸と悲哀に満ちた、楽しき日々の数々――……。
「――私が黒沼優美という少女に出会ったのは、……そうだな。今から……えーっと、……何年前だったろう?」
「知りませんよ」
弟子からの素早いツッコミが入る。
ふふ。相変わらず可愛い奴だ。
「あぁ、そうそう。お前を捕獲するより4ヵ月程早かったから、えーっと……」
「捕獲って表現やめてください。……まぁ、遠からずっていうか、正にズバリな表現ではありますけど、何か嫌です」
「そうか。じゃあ言い直そう。お前を拉致監禁して、私のものになると頷いた日よりも4ヵ月程早かったから、えーっと……」
「もうヤメて。思い出させないでぇ……!」
羞恥で染まる顔を、乙女のように両手で覆う憧理。
中々に面白い反応だ。60点。
「……ふむ。ということは当時、あの子は小学校にさえ上がっていなかったか。……ああ、うん。そうだそうだ。段々思い出してきたぞ?お前と出会ったのが、5月26日午後5時34分。拉致監禁を決行したのが、6月12日午後1時18分。よって、黒沼優美と出会ったのは、2月のどこかだな」
「ひぃっ!?何でその辺の日時だけは正確に覚えてんの!?恐いわっ!!この犯罪者がっ!!」
「ふふ。私とお前の記念すべき日じゃないか。覚えていて当然だろう?」
憧理は、「ひぃぃっ!!」と、嬉しさ故か黄色い声を上げる。
そんなに喜ぶなよ。照れるじゃないか。
因みに、憧理が私の話に納得して解放されたのは、同日の午後7時48分だ。ぴったり6時間半の監禁だな。
ふむ。あれは中々に楽しかった。98点。
「――まぁ、冗談は兎も角」
「冗談になっていませんけどね。事実なんで」
「ふふ、そうだな。すまない。お前と私の関係は、冗談で終われるような軽いものでは無かったな」
「すいません。余計なツッコミをしました。冗談でいいです」
「そうか」
タバコの灰を落として、両腕を摩る弟子を見遣る。
そろそろ勘弁してやろう。
「それで、黒沼優美なんだがな。……まぁ、色々と哀れな子だったんだ。……草とか、食べていたしな」
「草!?」
「食事を満足に与えられなかったのだろう。痩せてはいたが、それでも最低限の体重を維持していられたのは、あの子の賢さ故といえる。……虫とか、食べていたしな」
「虫!?え、……虫!?」
「幼いのに、逞しい子だったな」
最初見た時は、思わず驚きで固まってしまったが……。
――『君。……その手の、それ、……どうする気だ?』
――『……ごはん』
あの時の回答には、目を瞠ったものだ。
至極当然というかの如く、端的に答えてくれた。
いやはや。好き嫌いなく何でも食べるというのは、素晴らしい心構えだと私は思う。
現代人が忘れかけていた何かを、思い出させてくれるような……。
……おっと、いかんな。
当時の事を想うと、図らずもしんみりしてしまう。
「誤って、毒のあるものを食べてしまったら大変だと思ってな。その後直ぐに本屋へ行って、昆虫図鑑と野草図鑑を買ってやったっけ。無表情ながらも本を受け取って、顔を俯かせる様は中々に可愛らしかったぞ。あれは照れていたんだろうな」
「いや、困惑だと思います、師匠。知らない人から唐突に図鑑二冊って、困惑しかないです」
「ふふ、そうか」
まぁ、何でもいいのだけれどね。
あの時は、あれが必要だったから買い与えたまでの事。
私は適当な相槌と共に煙を吐き出しながら、不満気な表情を浮かべる憧理を流し見た。
「……ふむ。お前の言いたい事も分かるのだけどね。食べ物だとか、その場凌ぎでの支援を行うよりも、生き残るための知識を与えてやった方が余程いいとは思わないか?」
「……それは、まぁ、……そうかもしれませんが。……児相に通報とかはしなかったんですか?」
「しなかったな」
「……どうして」
タバコの灰を落としながら平然と答える私に、憧理は憤りの孕んだ言葉を向けてくる。
施設育ちで、それなりに被虐待児を見てきたからこそ、色々と思う処があるのだろう。
感情に素直であれるというのは、何とも美しき哉。
お前にはこの先も、ずっとこのままでいて欲しいものだ。……いや、事実、このままなのだろうけれどね、お前という存在は。
そして、世界もまた――……。
「――師匠?」
ふと我に返ると、怪訝そうな表情を浮かべる憧理がいた。
眉を顰めながらも、されどその瞳には憂いが籠っている。
いつの間にか、長くなっていたタバコの灰。私はそれを、のんびりとした動作で灰皿へと落とした。
「……ああ、すまないね。少々、意識が飛んでいた」
「いえ、……その、こちらこそすいません。……責める様な口調になってしまって」
「ふふ、気にするな。お前にされて嫌な事など、私には何一つないのだから」
「……うわーお。見て、この鳥肌」
「おや、冷房が効きすぎたかな?どれ、師匠自ら温めてやろう」
「ひぃっ!?すんまっせん!!冗談です!!来ないで下さい!!」
ガタリと椅子から立ち上がろうとする私に、憧理は自身を抱きしめながら全力で首を振る。
何だ、詰まらん。
椅子に座り直し、タバコを吸って一拍。
「……まぁ、あれだ。私は黒沼優美に関わりながらも、児相へ通報する事もせず、社会的に救うという事はしなかった訳だが」
「はい……。師匠にも、師匠なりの考えがあっての事だとは思うんですが、……どうしてですか?今回の事件だって、もし師匠が彼女を本気で助ける方向に動いていたら、そもそも起こらなかったんじゃ――」
「――いいや、起こるよ」
「っ!?」
私の断言に、憧理は目を見開いて顔を上げる。
「起こるんだよ、アレは。……最早、アレは運命だ。必然だ。私がどう動いたところで、似た様な事は起こっていただろう」
「……それは、推測ですか?」
「……」
答えの代わりに、微笑を浮かべる。
憧理は、それ以上の言及はしてこなかった。
そしてこれは、……思った通りの反応。
全く、お前は優しい子だね。本当に。
だからこそ私は、お前を愛おしいと思う。
全てを話せない私をどうか許して欲しいと思うのは、あまりにも自己中心的だろうか。
「……素直で優しく、可愛らしい子だったよ、彼女は。私の口調を真似し出した時は、愛おしささえ湧いた程だ。……そして、非常に賢い子だった。賢いからこそ感情を殺して、論理的に、効率的に動いていた。故に、虫や草でさえ食べることが出来ていた。……とはいえ、所詮は子供。生命力とて限度がある。だから私は、彼女の支援を行った。……いや、それぐらいしか出来なかった。私に出来た事は、精々彼女を生かす事だけ。運命の日が訪れるその瞬間まで、彼女が途中で死んでしまわない様に。少しでも長く生きられる様に」
どこか遠くを目に映しながら語る私の言葉を、憧理は驚愕に染まった顔で聞いていた。
私は微笑を浮かべながら憧理へと顔を戻し、困った様に小首を傾げる。
「ふふ。……腹立たしい程に自己満足だろう?」
「……い、いつから、……いや、貴方はどこまで視えているんですか」
「さてね。私は唯、彼女の家庭状況・家族の人間性なんかを材料に、この先起こり得る事を予測しただけだ。それを、未来が視えていたかのように表現するのは、些か違和感を感じるね」
「で、でも、必然である出来事を予測していたというのなら、それはもう未来視と同義じゃないですか」
「いいや?未来など、誰にも分かりはしないよ。分からないからこそ、私は彼女を助けられなかった。……いや、助けなかったと言うべきか。私は何一つ、彼女の運命を変える為の足掻きを行わなかったのだから」
まぁ、無駄な事だと分かっていたからこそ、足掻く事をしなかったのだけれど。
もし物語の主人公であったならば、運命を変えるべく何度も立ち向かったのかもしれないが、生憎とここは現実だ。
どうしようもない程の、現実だ。
溜息と共に灰皿にタバコを押し付けて、私は麦茶を飲み干した。
「……すいません、師匠。やはり凡人の俺には、師匠の考えを理解する事が出来ません。ここで俺が更に何かを聞いたところで、このズレは埋まる事がないと思います……」
怒りに、悔しさに、悲しさに、様々な感情は綯い交ぜにして、憧理は心痛に顔を歪ませる。
そして何より、私を理解出来ない事への懺悔の気持ち。
私は気怠そうに頬杖を突きながら頷くと、師匠の務めとして、1つの道を示してやった。
「ああ、それでいい。私の事を理解する必要はないし、そもそも理解など出来ない。だから安心して、お前はそこにいればいい。そして、変わる事のない自分の世界を生きなさい」
憧理はその言葉を静かに聞いて、自身もまた麦茶を一気に飲み干した。
*******
「すまないね、憧理。この先の事については、余りにも非現実的要素が絡まり過ぎて、私の予測は当てにならない」
帰り際、靴を履く俺を見つめながら、師匠が苦笑と共に言葉を吐く。
「いいえ。寧ろ、予測出来ていたら逆に恐いですから。今日聞いた事だけでも、十分過ぎる程の収穫ですよ。ありがとうございました」
「ふふ。お前の役に立てたのなら良かったよ。また困ったことがあったら、いつでも頼って来るといい。微力ながら力になろう」
タバコを吹かしながら、微笑む師匠。
小首を傾げた拍子に、長く美しい黒髪が、首筋へと一束流れる。
……はっ!!
危ない危ない。またもやババアの色香に惑わされるところだった……。
「……あ、ありがとうございます。それじゃあ、今日はこれで失礼しますね」
「あ、ちょっと待て、憧理」
玄関のドアノブに手を掛けたところで、呼び止められる。
反射的に振り返ると、そこには師匠の……。
「……あの、……ちょっと。……初命さん?」
頬を両手で包み込まれ、師匠の顔が間近に迫ってきた。
突然の事に、俺の心臓は冷静さを忘れて激しく脈打つ。
緊張で、思わず生唾を呑み込んだ。
師匠の瞳から、唇へと視線が移る。
そして、その艶やかな小さな唇が、ゆっくりと開かれていく様を、俺は思考が停止しているのを言い訳に、身体を硬直させて見守った。
「――……忘れるな、憧理」
「……へ、……あ、はい!?」
師匠の声を聞き、我に返ったと同時に身体の硬直が解けた。
真剣な表情をする師匠の瞳へと視線を戻し、情けなくも裏返った声で返事をする。
「この先、何があろうとも。……私は、お前の味方だ。お前だけの味方だ。それだけはどうか、忘れないでくれ」
「……それは、どういう――」
俺が言葉を言い終える前に、師匠は両手を離して一歩後退る。
「ふふ。引き止めて悪かったね。これもまた、自己満足を満たすがための行動だ」
「……」
「さて、もう行きなさい。気を付けてお帰り」
そう言って、師匠はひらひらと手を振る。
……本当に、勝手な人である。言いたい事だけを言う割に、その全ては話さないのだから。
「……師匠」
「何だ?」
「俺も、師匠の味方ですから。何があっても、師匠の味方ですから」
超人染みた視野を持つ師匠は、きっと、常人とは別の世界で生きている。
……どんな感覚なのだろう。
人とは違った世界だからこそ、誰にも理解されない世界。……きっとそれは、孤独であるに違いない。
ならば俺は、俺だけは、そんな師匠と共に在ろう。
例え師匠の世界には入れなくとも、隣でずっと、寄り添い続けよう。
「……ああ、分かっているよ」
師匠は、数回目を瞬かせて俺を凝視した後、穏やかな笑みを浮かべた。
それから、玄関を潜ろうとする俺の背中に向かって、悪戯にこう言うのだ。
「愛しているよ、憧理」
「……そういうの、本当にやめてもらえます?」
最後に咳払いだけを残して、俺は扉を閉めた。
……だから、その後に師匠がどういった呟きを漏らしていたのかも、どんな表情を浮かべていたのかも、当然知らない。
*******
頬を薄っすらと染めながら、居た堪れないとばかりに玄関を出て行った憧理を見届けた後。
「――彼女は、不幸でなければならなかった。そういう、運命だった。そして私も、……」
終夜初命は、壁に凭れ掛かりながらそんな言葉を一人呟く。
果たして、その言葉の真意とは。その瞳に映された未来とは、何か。
それらを知る者は、彼女以外に誰もいない。
彼女は正しく、孤独であった。




