1 古屋家の事情
“古屋”と彫られた表札。
その下のポストに、新聞がカタンと音を立てて差し込まれる。
——もう朝か。
首を鳴らし、大きく伸びをする。
電気の点いた部屋のカーテンの隙間からは、日の光が差し込み出していた。
時計を確認すると、午前5時26分。
俺は口元を緩め、再び机上の書類に目を向け始めた。
それから約4分後。
遠くの方からアラーム音が鳴り響いたかと思えば、強い打撃音と共に、それは直ぐに止まった。
……また壊してなければいいのだが。
呆れつつも、思わず含み笑いを浮かべてしまう。
その後、部屋の引き戸が静かに開いたかと思うと、眼鏡の男が顔を覗かせる。
「おはよ、兄さん。……大丈夫なの?」
「ああ、葉流。おはよう。何とか間に合いそうだ」
「……仕事の事じゃなくて。最近徹夜ばっかだし、仕事忙しすぎじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。後でちょっと寝るし。」
苦笑いしながら手をひらひらと振って見せる。
その様子に葉流は溜息を吐きながら、ゆっくりと近付いてくる。
「はい、お腹空いてるでしょ。あんま無理しないでよ?俺に出来ることがあれば、また手伝うしさ」
そう言って、葉流が机の上に置いたのは、ラップで包まれた出来立ておにぎりが2個。
俺は目頭を押さえながら、寝不足故か、感動故か分からない涙を、うっすらと滲ませた。
「はぁ……。良い息子を持てて、父ちゃん、嬉しいぞ……」
「その呼び方、止めてくれない?これ以上、可笑しなテンションになる前に、早く寝て」
引きつった顔で口角を上げる葉流。
その時、戸が開いたままとなっていた部屋の入口から、「憧ちゃん」と呼ぶ小さな声が聞こえてきた。
目を向けると、ジャージ姿の女の子が、そっと顔を覗かせていた事に気付く。
「おはよ、愛樹ちゃん。どした?癖毛と寝癖が融合してて、今日もすごいね。」
俺の余計な一言にムスッとしながらも、おずおずとこちらに近付いてくる。
「……おねしょか?」
「セクハラで訴えるから」
あまりに愛樹ちゃんが真顔だったので、ごめんなさい、と深々と頭を下げる俺。
「って、憧ちゃん、そうじゃなくて、えっとね、……これ、なんだけど。……ごめん。」
そう言って愛樹が差し出した物は、壊れた目覚まし時計。
アラームを止めるボタンが完全に潰れてしまっている。
ああ、また壊しちゃったのね、やっぱり。
苦笑いが止まりませんって。
「ああ、うん、了解。次は2カ月、頑張ってみよっか。お金はあるか?どうせ明日がお小遣いの日だし、今日渡しとこうか」
時計といっても、また壊れてもいいような安価な物だし、無条件で買ってあげてもいいのだが、それでは教育上、愛樹の為にもならない。
というか、愛樹を甘やかすと、葉流がうるさい。
「ちょっと、ない……かも」
「因みに、いくら持ってる?」
「……ひゃ、……300円ぐらい、かな」
目を逸らしながら、愛樹は小声で答える。
……3倍。結構な見栄張ったな。
100円ね、はい。
まぁ、月の最終日だし、仕方ないか。
俺は、机上の端へと追いやられた財布に手を伸ばし、そこから五千円を抜き取ると、愛樹に手渡した。
「はいよ。部活でお腹空くだろけど、あんま買い食いとかして、無駄遣いするなよ?」
軽く笑いながら、愛樹のボサボサ頭を雑に撫でる。
しかし愛樹は、自分の髪が更に乱れていくのを気にも留めない様子で、嬉しそうに五千円札を見つめていた。
多分、聞いてないな、これ。
そして、始終無言で状況を見守っていた葉流だったが、ここで漸く口を開く。
「愛樹?」
葉流にその意図はないのだろうが、愛樹は肩を震わせ萎縮する。
「話ちゃんと聞いてる?あと、お小遣い貰ったなら、何か言う事あるだろ?」
愛樹は再び俯き、「ごめん、ありがとう」と呟く。
そして、恐々と葉流を一瞥すると、早歩きでその場を後にしてしまった。
「葉流君って、愛樹ちゃんに対しては不器用だよねぇ。お兄ちゃんとして頑張ってるのは分かるけども」
「……うるさいよ」
葉流は、またやってしまった、というような表情で、深い溜息を吐いた。
「じゃ、俺も下に戻るから。弁当まだ詰め終わってないし」
「ああ。朝食やら弁当やら、いつも早くから大変だな、お前も。愛樹ちゃんに合わせて起きてるんだろう?」
「別に、どうせ俺も大学だし。ついでだよ」
少し肩を落とす葉流の後ろ姿が、戸の向こうへと消えていく。
この兄妹、仲が悪いわけではないのだが、ズレてるんだよなぁ。色々と。
因みに、俺も二人の兄の様な存在ではあるが、この兄妹との血縁関係はない。
俺含め、親は小さい時に死んでおり、同じ施設で育った仲である。
4年程前、とっくに施設を出ていた当時20歳の俺は、とある理由で、この兄妹を引き取ったのだ。
……4年。そう思うと感慨深い。
愛樹ちゃんは小6で、葉流は中3だった。
ランドセルを背負った愛樹ちゃん、可愛かったなぁ。
一階の廊下から聞こえる、ぎこちなさそうな葉流と愛樹の話し声。
微笑ましい限りだなと、俺は笑みを零しながら、おにぎりを頬張った。