序章
よく晴れた、暑い夏の昼下がりだった。
仕事の調査依頼で、とある山村までやって来ていた俺は、汗だくになって慣れない山道を登っていた。
そして、その日。
それから間もなくのことである。
俺の友人が死んだのは。
「暑い。……あーもう、太陽てめー、ざけんなよ」
舌打ちと共に、一人悪態を吐きながら、額から流れる汗をシャツで拭う。
ひたすら坂道を登り、疲れ、下ばかり見て歩く。
服で乱暴に汗を拭いながら、深呼吸を兼ねて溜め息を吐く。
その繰り返しだ。
景色の良い岬がある、との村人からの情報。
ならば、ぜひともその写真を添付しようと、一時間程前の俺は意気込んでいた。
そして、今になって後悔。
当時、探偵事務所を立ち上げたばかりだった俺は、張り切り過ぎていた。
体力も無いくせに。
……いや、でも、客から信用を得る為にはこれぐらい。
でもだからって、ここまでしなくても。
いやいや、ただでさえ若すぎると舐められているのだから、誠意をだな……。
そんな葛藤を繰り広げていると、潮の香りと共に、波の音が小さく聞こえてきたのに気付く。
ああ、もうすぐか。
ふと顔を上げた時、少し遠くの方で、男性らしき人影を見た。
その男が着る、カラフルな水玉模様が全面にプリントされた白シャツは、遠目からでもよく目立つ。
俺以外にも登山者がいたのかと、呼吸を落ち着かせながら、ペットボトルの水を口に含む。
その間、何となくその人影を見ていて、派手な服着てんなぁ、とか、
そういえばあいつも、あんな系統の服好きだったよなぁ、とか、
後ろ姿もちょっとあいつに似てるなぁ、とか思ったりしていた。
そして、あれ、あいつじゃね?と思考が過ぎった時には、俺は口の中の水を豪快に吹き出し、激しくむせていた。
まだ確信は無かったので、叫んで呼び止めることは出来ない。
とりあえず追い付いて確認しようと走り出した。
だって、まさか地元の友人が偶然、同じ時に、こんな場所にいるとか、普通思わないでしょ。
そして、少しずつ距離が縮まっていき、それはやがて確信へと変わっていった。
一瞬見せた横顔が、確かにあいつそっくりだったのだ。
というか、あいつだ。灰斗だ。
ここまで来たら、見間違うはずがない。
一応親友と呼べる仲なのだから。
「おーい!カイ!」
カイはゆっくりと振り返り、声の主を確認する。
そして目を見開き、驚いた表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間、走り出してしまった。
「あ、おい、待てって!俺だってば!憧理だっつの!」
カイの行動に疑問を覚えながらも、急いで後を追いかける。
そして、それから少しした後、視界が開け、俺は岬へと辿り着いていた。
周囲を見渡すが、誰もいない。
一本道だったのだ。遭遇しないわけがない。
しばらく周囲を窺い、息も整ってきた頃、近くの茂みが揺れ、カイが現れた。
「ハメられたよ、全く」
カイは苦笑いを浮かべながら、意味の分からないことを呟く。
「何が?」
「いや、別にー?」
軽く笑って、はぐらかされた。
「……ま、いいけどさ。でも逃げる事なくね?絶対気付いてただろ!?こんな山道を走らせやがって!しかも隠れてるとか!」
「だって会いたくなかったしー。てか、察しろよ。追いかけてくるとか、どんだけ空気読めないんだよ、テメーは。」
「ああん?それが久しぶりに会った親友に言う事デスカ?いるよねー。明らか目と目あったのに、気付かないフリするタイプ―。んで声かけられて、今初めて気付きました感出す胡散臭い奴ー。」
「は?俺は声かけられても聞こえなかったことにするけど。気付いてないフリを最後まで突き通すけど」
……ドヤ顔だった。清々しい程の。
「いや、お前、だから友達いないんだよ……。しっかりしろよ社会人」
呆れる俺を余所に、カイは笑い声を上げながら、服に着いた葉を払っていた。
額には汗一つ掻いていない。
「カイって、昔っから暑さに強いよな。汗掻いてんの?むしろ病気じゃね?」
「バーカ。超健康だっつの。てか、お前、何でこんな所にいんの?」
「仕事でちょっとな。近々この辺に引っ越しを考えてる人がいて、色々この地域の事について知りたいんだとよ。」
「へぇ、探偵ってそんなこともするんだな。依頼人ってさ、若い女?」
一瞬ドキリとする。
確かに依頼人は若い女性だったからだ。
当てられたからと言って、性別ぐらい大したものでもないのだが、つい目を逸らしてしまった。
「いや、個人情報までは教えねーけど。……何で?」
「……別に?美人な若い女の依頼人だったらいいなぁ、というか、羨ましいなぁって思っただけだ。いいよなぁ、個室で美女と1対1。それから、何だ、その、関係深まっちゃったりとかするのか。」
顔は笑っていたけれど、……目がマジだ。
「お前……、驚くほど下心満載だな。聞いた俺が馬鹿だったわ」
やれやれと溜息を吐きながら、俺は肩に掛けていた鞄からカメラを取り出す。
仕事に戻ろう。うん。
岬から見える美しくも壮大な海の景色に照準を合わせ、シャッターを切った。
そしてそのまま、息を吐きながら、しばらくの間その景色に見入ってしまっていた。
「……すごいな」
そう一人呟く俺の少し後ろで、あいつの穏やかな笑い声が耳に入る。
お前もこの景色に見入ってるんだろうか。
そう思い振り返ったが、カイは俯き、悲しそうな笑みを薄っすらと浮かべていた。
「どうした?」
「いや、別に」
「何だ、ホームシックか?」
「埋めるぞ。……いや、本当に何でもないんだ。用が終わったんなら、さっさと戻るぞ」
「……ああ。お前の用は済んだのか?」
「んー、まぁ、そうだな」
「そっか、なら下りるか」
こいつが何か隠しているだろう事には気付いていた。
話のはぐらかし方がわざとらしいから、直ぐ分かるのだ。
というより、恐らくカイは、隠し事をしている事を隠す気がない。
そのくせ、その内容については、茶化して教えないもんだから、質が悪い。
けれど、今回は妙だ。
いつもと何か、違う気がする。
そう思ってはいたが、こちらから無理に問い詰めても、どうせ教えてはくれないのだろう。
でも、それでも、聞いておくべきだった。
問い詰めるべきだった。
「おい、置いてくぞ?」
立ち止まったままのあいつを追い抜いて、少し歩いていたが、後ろから足跡が全くしない。
後ろを振り向いてカイを見るが、さっきの場所から一歩も動いた様子は見られなかった。
「んー?悪い悪い。せっかくだし、もうちょい近くで景色が見たくてな。お前は岬の端まで行ってたけど、俺まだ見てなかったじゃん?あ、直ぐ行くし、先に歩いてていいぞ?」
「俺が見てた時にさっさと見とけよ!ったく……、ほら、待っててやるから」
「お前、群れるの好きだよなー」
「吊るすぞ。優しさと言え」
へいへい、と笑いながら、あいつは一人、岬の端へと近づいていく。
「なぁ、憧理。俺さ、お前と出会えて、……後悔しかねーよ!今日含めて、お前なんかと関わらなければよかったわ!」
「はぁ?そんなん俺だって同じだ、バーカ」
笑いながら、何を海に向かって叫び出すかと思えば、下らない。
そう思った。
……けど、何かよく分からない違和感を感じて、俺はあいつの近くまで少し近づいた。
「お前、今日どうした?何か変だぞ」
俺の言葉に振り返り、穏やかながらも、どこか悲しそうな表情で笑うあいつに、俺の違和感は更に大きくなった。
「……おい、さっさと行くぞ」
「憧理、」
「もう十分見たよな!?戻るぞ、一緒に!俺は山道で疲れてんだよ!」
まさか、まさか……!
俺は焦りながら、更に近づこうと歩を進めようとした。
が、あいつの言葉がそれを制止する。
「おいおい、まぁ、待てって。落ち着け。何か勘違いしてないか?俺が自殺するとでも?死なねーよ、バーカ。変に勘ぐんな。せっかくこんな所まで来たんだ。あと少しぐらい別にいいだろう?そしたらお前の言う通りにしてやるよ。約束だ」
その有無を言わせないような空気に、俺は頷くしかなかった。
「ん、ありがとな、憧理」
その瞬間、海風が突風のように吹き上げ、俺は思わず目をつむってしまった。
でも目の前には、相変わらず景色を眺めるカイの後ろ姿があって、少し安堵する。
そして、ふと空を見上げた。
雲一つなく、見るからに暑苦しい空。
海鳥が二羽飛んでいた。
時間が止まった様に穏やかで、そのせいで緊張がやや緩み、反動で大きく息を吐いた。
それは恐らく、数秒程のわずかな時間……だったはずだ。
今となっては自信がない。
もしかしたら、かなり時間が経っていたのかもしれない。
時間感覚が、緊張と緩みで麻痺していたのかもしれない。
だって、こんな数秒の間で、あれだけの事が起こり得るはずはないのだから。
——視界を戻した瞬間、カイは俺の目の前にまだいた。
立っていた。
でも、もう、どうしようもなかった。
それは想像を遥かに上回る、異常な光景だった。
岬の端へ更に移動していたあいつは、その場で火達磨になっていたのだ。
閉ざされた瞳からは、涙が一筋流れていた。
静かで、穏やかな表情だったのを、鮮明に覚えている。
俺は驚き、急いで手を伸ばし、駈け出そうとした。
……けれど、息を吐く間もなく、今まさに崖から海へと落ちていくあいつに、どうすることも出来なかった。
カイは、背中から、空を仰ぐようにして落ちて行った。
慌てて駆け寄って崖下を覗き込んでみたが、荒い波しぶきで、姿を確認することは出来なかった。
あいつの立っていた地面は、血に染まっていた。
警察は当然、他殺の方向で調査を進めている。
あの崖の下は岩礁が多く、波も荒い。
潮の流れも複雑で、死体すら浮かんでくることも少ない。
地面に染み込んだ血。
この原因は銃に因るものとされた。
一部の村人が、銃の発砲音を3回聞いており、恐らく間違いはないだろう。
火達磨になっていた理由は解明されていないが、銃弾が何か発火物に当たってしまったのだろうとされている。
しかし、未だに事件の真相も、犯人も、不明のままである。
——その時の犯行現場に、しかも当人の目の前に唯一いたにも関わらず、知らぬ存ぜぬの俺は、もちろん容疑者の一人であることは、言うまでもないだろう。
まぁ、そうは言っても、もう5年も前の事なのだが……。