フェンス
もしも僕が気づくことが出来なかったら、それはそれで良かったのかもしれない。
異空間の中に佇む僕。
周りの景色はぼやけ、数分たった今では、青や白、緑などが満員電車のように堅苦しく混ざっているだけだ。周囲にある分にはあまり混乱しないが、足元にまであると、落下してしまうのではないかと気が気ではない。
そのせいで気付かなかったのだろうか。いや、気付きたくなかったのだ。むしろ気付かなかったら幼稚園児にまで馬鹿にされてしまうだろう。
全てが混雑した世界。マーブル模様を思わせる景色。その中に、何にも溶けない、強い物があった。
針金でいくつものひし形を作ってあるそれは、通常緑色や白のはずなのだが、僕が見たそれは黒だった。
だから溶けないのだろうか。何にも染まらずに、毅然と自分を持っていられるのだろうか。
遠近法が用いれない世界に目を凝らし、それが遠くにあると感じた僕は、渦巻く世界を流されぬよう、前に進んだ。
手を伸ばせば触れる所まで近づき、風景を突き抜ける程までに延びているそれを見上げた。
高さはあっけないほどに、普通の高さだった。
野球やゴルフ専用の、首が痛くなるほど高いものではなく、本当に普通の道端にあるような高さだった。
手を伸ばして触れた。そして確信付いた。
やっぱり。これはフェンスだ。
しかし意味が分からない。なぜフェンスがこんな所に? それを言うなら、なぜ僕はこんな世界に? が先だ。
僕はひし形の中から向こうを覗いた。
相変わらずマーブル模様の世界だと、胸のどこかで決めつけていたのだろうか。予想もしなかった驚きに、僕は驚いてしまった。
向こうは大草原だった。まるで向こうの色をフェンスが吸い取り、渦潮を空気中で起こしているかのように、使われている色は全く一緒だった。
しかし僕の目に、貫通するように一番強く届いたもの。それが僕に、何とも言えぬ衝動を起こさせる。
向こうに、大切なモノがあった。
何よりも大切なモノが、向こうにはあった。
それは目では見えないモノだった。耳では聞こえないモノだった。心だけが、見ることも、聞くことも出来る。
しかしそれを阻むように、フェンスがそびえ立っていた。
なぜだ。なぜフェンスがここにあるんだ。なぜ大切なモノが向こうにある?
僕は心で、大切なモノを見つめた。
それが何なのか、ちっとも分からなかった。僕にとってなぜ大切なのかも、不明だった。ただ、大切だった。ただ、大切なモノだった。
僕はフェンスに手をかけた。
越さなくてはいけない。この意志さえも、なぜそう思うのか分からなかった。
分からないことばかりだ。
でもとにかくフェンスを上ってみようと、手に続いて足をかけた。
「……え?」
しかしすぐさま手がフェンスから離れてしまった。
滑ったわけではない。何かに邪魔されたんだ。
自分を肯定しようと考えてみたが、自分のことを客観視すると、吹き出してしまうほどの格好悪さが恥ずかしく思えた。
地に横たわる体を起こし、もう一度挑んだ。
手を出し、足を出し、順調に進んでいく。が、中盤にさしかかった所で、急に足が落下し、それに従うように体も落ちていった。
足から落ちたおかげで今度は寝っころがらずにすんだが、僕に不満が生まれ始めた。
「なぜのぼれない?」
フェンスに手をかけて、歯を食いしばった。
向こうにある、大切なモノ。それは何より大切なモノ。
フェンスは何も言わないでいたが、その代わり、混み合った世界が教えてくれた。
「お前には登れない」
「なんで?」と思わず聞き返した。でも誰が言ったのか確定できる者が無いから、質問は浮遊し、消えてしまう。
なぜ僕には登れないんだ。この声は何なんだ。いや、その前に、大切なものの正体は? なぜフェンスは邪魔をする?
螺旋を描く世界にいることに慣れ始めた自分に鳥肌が立った。
そうだ。一番分からないことは、突き止めなくてはいけないことは、ここはどこかということだ。
でもその手がかりは見つからない。全てがわからないことなのだから、見つかるはずもない。
僕は疑問を吹き飛ばし、フェンスにもう一度登り始めた。慎重に、頂上まで登るはずだった。
「……っ」
いきなり鋭い痛みが僕の手を襲い、僕はフェンスから飛び降りた。あと少しだったのに。
手を見ると、真っ赤な血が甲から溢れていた。
その赤は蒸発するように一本の線になり、螺旋の中へと吸い込まれていく。そのせいだろうか。血はすぐに止まった。
血が無くなり露わになった手を見ると、そこには何かに切られたような長い傷があった。
フェンスの針金が飛び出ていて、引っかかった? いや、例えそうでも、手のひらなら分かるが甲は有り得ない。第一引っかかった覚えもない。
「……んだよ」
歯ぎしりをして、戦いを一時休戦した。
フェンスを睨みつける。
こいつのせいだろうか。いや、何かが邪魔をしているんだ。
でも、僕は怖い。
これ以上の怪我をしてしまわないだろうか。もしかしたら越せないのだろうか。僕は、あの大切なモノを守れないのではないだろうか。
思えば思うほど、怖くて……。僕はフェンスに手をかけたまま、地を睨みつけた。
何も出来ない自分。なぜここにいるのかも分からない自分。ここに来るまで何をしていたのか、どうやってきたのか、覚えていない自分が、あまりにも頼りなくて、怖かった。
「ここにいるんだ」
また声がする。この声は誰? 僕の大切なモノは何?
「ここにいればいい」
もう一度聞いた声。
ここにいてもいいかもしれない。ここにいて、ここで生きて、それでもいいかもしれない。
そう。ここで死んで。
死んで。
死んで……。
死んで……?
僕は立ち上がった。
僕の大切なモノ。向こうにある大切なモノ。
そうか。あれが僕の大切なモノなのか。
やっと見つけた答えに、もう怖さなどどこにもなかった。
見つけた意味。それを頼りにフェンスを登る。
足を踏み外したら手で支え、手が滑ったら、足でこらえる。血が螺旋に吸い込まれても、今の僕には関係ない。
フェンスの頂上に手をかけた。
行ける!
その気持ちが、強さに変わった。
フェンスをまたぎ、定位置にみんな留まっている世界に足を下ろした。
見つけた。大切なモノ。
僕はそれを胸で抱きしめた。
さっきまでの出来事。それはここから見るとあまりにも呆気ないことで、でも辿り着いた意味、そして答えは偉大なモノだった。
意味が分かったからこそ、僕は越せたのかもしれない。
抱きしめた温もりと一緒に、大きく大きく深呼吸する。
空は青く、日差しが照りつけている。雲が流れ、風が吹き、波が歌う。柔らかい草の上に、全身を投げ入れた。達成感と大切なモノと。
そして僕は目覚めた。
完