第一章 黒い衛士
これは、どこか遠くで始まる物語。
やがては和平条約の締結によって戦乱を治め、三国統一を果たす女王の物語であり。
その裏で、女王を支えて戦った一人の男――歴史に記されず、ただ栄誉も賞賛も与えられずに戦った、名も無き英雄。
これは、その物語でもある。
* * *
双子の月が浮かぶ夜空だった。瞬く星も一段とはっきり見える、空気の澄んだ夜だ。分厚い革で造られた靴が地肌を駆ける、重く乾いた音が夜の闇を震わせる。何度も人が行き交ってできた道の脇には背の低い草木が茂っていて、まばらに立つ広葉樹がさわさわと風に吹かれて囁いていた。
淡い月光が降り注ぎ、夜にしては明るく静かな時間帯。
宵に紛れ、黒い影となって馳せる男には好都合な行動環境。
荷馬車を牽く馬の嘶きが聞こえる。幌を被せた簡素な作りの荷車、御者は一人だと既に判明している。
駆ける男――黒衣に身を包んだディオン・アウフシュナイターは夜闇に尾を引く赤いバンダナの下、双眸を眇めて距離を詰めていった。
足場は悪く、しきりに荷車の軋む音が聞こえる。本来ならばもう少し速度を落とさねば荷車が不安定に揺れるばかりで、まともに走れた場ではない。
それを見越しての待ち伏せ、奇襲であるなら、これ程効果的なものもなかった。
――昨今、この近隣の街では金品を強奪する事件が多発していた。
国王が病床に伏せった事で国勢が衰え、人心は不安に荒れ、治安は乱れる一方。
そんな中、傭兵ギルドの一端である衛士協会が活躍する場は増すばかりである。
決して楽観視していた訳ではないが、こうした事案が頻発し、衛士協会も人手不足に陥るくらいには国が揺れているのは誰の目にも明らか。
ディオンは駆ける。夜の闇を味方につけながら、腰の後ろに下げる同色の大剣に手をかけた。
歳の頃二〇そこらの青年が持つには、あまりにも不釣り合いな幅広の剣。いや、それは既に盾のようでもあった。
遠くの異国で使われる、メートル法の単位で言うならば全長およそ二メートル五〇余り。剣身の横幅だけで四〇センチ程はあろうか。重量にしておよそ三〇キロを誇る。
言うなれば鋼板か、ただの鉄塊。だがそれは、確かに抜き身としての剣であった。
黒い影はその大質量を腰の後ろから逆手に抜き放ち、持ち直して肩に担ぐ。
深々と降りしきる夜気を焦がすかの勢いで、ディオンは曲り道にさしかかり速度を落とす荷馬車へと肉薄した。
人に向けるには過ぎた無骨、余りにも対人戦闘の領分からかけ離れたその質量を振りかぶって、御者の脳天へと叩き付ける。
暴風のような斬撃は嵐にも似た破壊力で竜巻の如く振る舞う。破格の攻撃力は木造の幌馬車を紙細工さながらに破壊した。
ぶちまけられた脳漿と臓物の生臭さ、返り血の不快感、未だ手と耳に残る、肉と骨を砕く手応えと残響。
それらはどこまでも容赦なく、ディオンに現実の冷たさを思い出させた。
衛士協会第十五位、ディオン・アウフシュナイターの任務はこうして完遂される。
精悍な顔立ちと鍛えられた肉体、だが到底対人の領域にない武器を扱う傭兵が彼だ。
国が定めし登録傭兵として衛士となり、金銭次第でどんな仕事も請け負う――人々の間では薄汚い飼い犬、猟犬と揶揄される事もある仕事を、どうしてこの男は続けているのか。
それは序列十五位に甘んじる理由にも繋がっていて、やむにやまれぬ事情あっての立場。
つまりは人間を襲う害悪――〈魔獣〉と呼ばれる大型の敵性体を倒す事に特化した装備の由縁。
心に灯る冷たい炎は、その名を〈復讐〉といった。