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Stand Alone Stories

俺の身体が本当に俺の身体なのかについて脳内彼女と実験してみた

 俺の脳内彼女が唐突に、こう言った。

「きみは、普段の当たり前のいつも通りの何の変哲もない生活の中で、自分自身の身体しんたいについて、考えてみたりした事はあるかな」

 変化のない、退屈な、そういう形容が解りやすい所を、脳内彼女は変哲もないと言いまわした。言葉の選択は重要だ。脳内彼女は俺の事をよく知った上で、あえてそう言う事を言って俺に思索を促す。

「俺も普段気にしていなかったんだが、最近気づいた事があるんだ」俺はそう言いながら左腕の袖をまくり、ある一点を指し示す。脳内彼女はふわりと宙を浮きながら、前かがみでのぞきこむ。俺は彼女の胸の谷間をのぞきこむ。そうすると解っていて彼女はこういう仕草をしているのであって。

「で、ここ、黒子ほくろが三つばかし並んでいるだろう」

「三つと言えば三つだけど見方によっては四つとも二つとも。つか汚いねきみの腕」

「色白で黒子が目立つだけだ、綺麗だよ俺は。傷付く事を言うな」

「うん、その黒子がどうしたの」

「いやなに、この黒子はいつからここにあるんだろうと考えてな」

「ううん、前からあるんじゃないのかな」

「――そうかもしれないし、違うかもしれない。普段意識しないから解らないんだ。毎朝鏡を見て、顔洗ったり髭そったりで、あと、……にきびとか出来たなって思ったりするのとは、少し違う。普段意識してないんだ、自分の腕に黒子が幾つあるかなんて」

「そうだね、意識してないよね。でもそれって今腕を見てるから思ってる事だよね。もっとぶっ飛んでみようよ」そういって俺の腕に抱きつき、脳内彼女の胸の谷間に俺の左腕は挟まれた。肌が触れ合う感触がある。それに体温も。温かい。そしてじわりと、汗ばんでいく。するり、と腕は胸から抜けた。彼女は俺の隣でほほ笑んでいる。どこか含みがありそうだった。

「きみが今、腕に感じていた感覚。それは普段意識している感覚だったかな」

 意識。

 彼女の胸から解放された俺の左腕は、今は中空に投げ出されている状態である。俺が力を抜けば、このまま重力に従い身体に添うように垂れさがる。しかし、袖をまくった俺の左腕には、先ほどまでそこに感じていた彼女の肌のぬくもり、少しだけ滲んだ汗と空気が通り抜けていく冷たさ、そして腕自体の重さ、腕があるという感覚がここにある。

「なるほど」

「お、解ったみたいだね。身体を張った甲斐があったというものだよ」脳内彼女が胸を張って笑う。お前は胸を使っただけじゃないか。そう言ってやりたかったが文句を言うと面倒なので、俺は意識を左腕に戻す。

 こうしてまんじりと見ていると、意識するものがある。

 自分の身体は自分のもの。手を動かそうと思えば手は動く。その当たり前の感覚は、普段意識することなく行っている動作に伴ってかき消されているものである。俺は静かに顔の前にかざした左手を、むすんでひらいてしてみた。意外と覚えているものだな、子供のころに教えられたものは染み付いている。ほとんど洗脳と言えるんじゃないか、忘れようったって忘れられない。かえるのうたとか、いろいろ。

 別に、この世界には、俺しかいない訳じゃない。しかし、恐らく目の前の脳内彼女は、俺の世界にしか存在しないはずだ。ただ俺は彼女を感じる事が出来るし、今のこの身体は自分のものだという感覚も確かに持っている。そして彼女は誰のものでもないし、誰のものにもならない。

「あのね、身体保持感って言うんだって。君の身体が間違いなく君のものだっていう、その感覚」おもむろに口を開いた脳内彼女は、妙な話を始めた。俺の思索の一環なのだろう、これも。

「身体保持感」

「そう。それでね、ラバーハンド・イリュージョンは、このカラダの感覚ってやつを、にょろっと利用した錯覚を起こす実験なのである~」

 いかがわしい。

 実にいかがわしい。唐突過ぎる。脳内彼女は、その実験とやらをこれからやりたいつもりで満々らしいが、俺はそれに参加してやるとは一言も言っていない。俺の考えが常に彼女に読まれていると言う訳ではない。良く知っているというだけである。経験と知識という前提の上に彼女の俺に対する発言は成り立っている。付き合いはそれなりに長い。突然現れては色々思索を広げてどこかへ行ってしまう、神出鬼没な彼女である。だから脳内彼女。安直である。

「あのね、自分の腕をすっぽり隠して、その自分の目の前にはゴムの手、マネキンかなんかを置いてね、それぞれに同時に筆でなでなでしたり、って言うような刺激を与えてあげるんだ」脳内彼女はマイペースに説明を進めながら、テーブルの上に寝かせた俺の左腕をティッシュ箱で囲うと、その上から昨日通販して届いた抱き枕カバーをかけて隠した。俺は何をやっているのだろう。不安しかない。これ、裏の絵柄はほとんど肌色でとても際どいのだが、脳内彼女は空気を読んで表面を上にしてかけてくれた。だからどうという事もないのである。勝手に、実験の準備が為されているのを、俺は為すがまま見つめていた。

「じゃあ、これで準備完了だね」そう言って、俺の目の前にはデッサン用の手のモデルが置かれた。勝手に持ってきやがって。

「これで何か起こるのか」

「それは、はじまってからのお楽しみだよ」

「ならさっさと始めてくれ」

「りょうかーい。じゃあ、始めるね」わざとらしくウインクして見せる。星が飛んで見えた気がする。そうして、同じく俺の部屋から勝手に持って来たらしい筆を両手に持ち、俺の手とモデルの手を、同じタイミングで撫で始めた。ううむ、こそばゆい。これで何が起こるって言うのだろうか。

 自分の手は、何やらで隠されているので見えないのだが、刺激を与えられている感覚は間違いなくそこにある。俺はこそばゆいと確かに感じているからだ。つまり、これは自分の手に起こっている。俺の手が感覚しているのだ。

 目に映る情報が多すぎる。おっぱいとか、抱き枕カバーとか。これではスムーズにはいかないだろう、少し目を閉じて考えてみる。自分の手には今、筆で撫でられているというイメージが、刺激により浮かんでくる。

 思考を整理して目を開けると、自分の手は見えないが、モデルの手が同様に筆によって撫でられている。そうなのだ、自分の手もこのようにして筆で撫でられているはずである、と言う感覚が、段々と、焦点がズレていく。

 ずれ、て。……うむ。

 こうして目の前で刺激を与えられているモデルの手は、恐らく、自分の手と同じ刺激を感じているはずである。

 なるほど、しかし、モデルの手には感覚なんぞは無い、そう頭では分かっているが、しかし、そうなのだろうか。今、触れられている手は、自分の目の前にあると言う気がしてくる。目の前で触られている感覚は間違いなく自分の手の感覚で、こうして見ているこの手が、つまり自分の手なんだと言う気になっている。良く解らないがつまりだ。

 ――確かに自分が今、触られていると言う感覚を、俺は目の前のモデルの手の上に感じているのである。

 ああ、これは自分の手なんだ。

 だって触れられているし、その感覚だってあるのだから。こうして見えているものは、正しいはずである。錯覚していくのである。なるほど、なんだか不思議な感覚である。

「なんだか気持よくなってきちゃったかな」

「んなわけがあるか」

「でも結構、気持ちいいでしょ、この刺激のタイミングがズレていると、その錯覚は無くなっちゃうよ」そう言いながらも、依然刺激は目の前の光景通りに俺に感覚を与えている。目の前にあるのは自分の手ではないのだが。

「これはね、モデルの手に与えられている刺激、視覚と、自分の手に与えられている刺激、触角が全く同じタイミングで起こっている事によるものなんじゃないかなって言われているよ」

「理論でどうにかなるものなのか。催眠術のようなものじゃないか、これは」

「実験だよ、あくまで。そしてそれは錯覚、君自身に、特に害はないでしょ」

「俺は某ドラマで、似たようなものを見た覚えがあるぞ。『暗示で人が殺せるのか』って話だった。それでも同様に、些細な切っ掛けから好奇心で始めた実験だったって話だ。恐ろしい実験だったぜ」

「そんなお話もあったかもね」

「それは確かな、目隠しされた状態で、ちょっと傷つけて、どれくらい血が抜けたら死ぬか教えてから、ただの水音を聞かせながら、君の血が無くなってくよって言ってたら本当に死んじゃったんだって話だったよ」

「すごい実験だね」

「先人は偉大って話だ。今の俺の状況は、そして自分の手は隠されていて見えないと言う条件だな」

「さっき言った身体保持感が、物体である目の前のモデルの手に感じられるようになるというものであ~る」脳内彼女は、すっと目の前のモデルを撫でるのをやめ、しかし俺の左手は撫で続けた。

「ああ、錯覚が解けた」不意に現実に戻ってきたような、よくわからんが不快ではないと言えるか、――普段の感覚に戻ったと言うべきか。

「これと逆の状況を簡単に作りだす方法があるんだけど」

「逆ってのは」

「まず視覚的にズレを生むなら、自分の手を携帯電話のカメラで写しながら、手を動かしてみれば良いんだよ、シャッターは押さずに」

 俺はポケットから電話を取り出し、カメラを起動させて画面越しに自分の手を見た。そして画面の中の自分の手を見ながら、自分の手を動かすのである。

「そこに映っている手は、必ずしも自分の意のままに動いているようには見えないでしょう」

「……ああ、なんだか気持悪い」そこに映っている手は、自分のものであると思えるだろうか。段々と気持ちが悪くなってこないだろうか。

 このズレが、身体保持感の揺らぐ瞬間と言える。とてつもない違和感がそこに生じてくる。おそらくこの違和感は、自分の手が思うように動いていないと言う、カメラに映った自分の手を見ているから起こっているものであろう。

 ――なるほど、逆の状況か。

「ラバーハンドイリュージョンの実験で起こっている錯覚は、目の前のモデルの手があたかも自分の手のように錯覚してしまうというものだったよね」

「解るよ、それは」

「つまり、この手が自分のものとは思えない、という違和感がそこには無い。だからこその錯覚なんだよ」

「それは良く解らねえ。で、結論は何だよ」

「自分の身体が自分の身体であるという境界は、思っている以上に曖昧なものである」なんだかそこらで拾って来たみたいな結論を持ちだして、脳内彼女はえへんと再び胸を張った。

 そうかよ。じゃあ、また遊ぼうぜ。

 彼女は、優しく微笑んだ。


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