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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

イグニス・サーガ

残影のケストレル

作者: Studio Flint
掲載日:2026/03/23

「鉄殻のケストレル」の世界を舞台にした短編です。本編の約13年前の灰域を描いています。

砂塵が視界を削っていた。

 灰色の空の下、崩れた高速道路の残骸が大地を横切っている。鉄筋がむき出しになったコンクリートの柱が、死んだ巨人の骨のように等間隔で並ぶ。その合間を、3機の残殻(ざんかく)が縦列で進んでいた。

 先頭はボルト・レイダーの機体だ。

 右膝の関節が軋むたびに、操縦桿に振動が伝わる。回収した部品を組み合わせて作った残殻(ざんかく)は、まともに走るだけで全身が悲鳴を上げた。エンジンの回転が不安定に揺れ、計器の半分は死んでいる。26歳。ボルト・レイダーは灰域(アッシュランド)残殻(ざんかく)に乗り始めてから11年、傭兵として金を稼ぎ始めて8年の若造だった。

 背後に続く2機も似たようなものだ。リドの機体は左腕が動かず、シーマの機体は装甲の3分の1が欠けている。灰域(アッシュランド)の傭兵が乗る残殻(ざんかく)に完品はない。動くだけでましだ。

「ボルト、前方に何もないぞ。退屈で死にそうだ」

 通信機越しにリドが欠伸混じりに言った。

「退屈なのはいいことだ。退屈じゃなくなった時が問題だ」

「お前、26のくせにじじ臭いこと言うな」

「うるせえ。前を見ろ」

 ボルトは通信を切り、計器盤の上に広げた紙の地図に目を落とした。灰域(アッシュランド)南部、ケイルン集落からドライガルチ集落への補給路。距離にして約80キロ。残殻(ざんかく)の巡航速度で6時間の道のりだ。

 護衛対象は、補給車列3台。幌をかけた旧式のトラックに食料と医薬品を満載している。灰域(アッシュランド)の集落間を繋ぐ細い血管のような物流だ。この車列が途切れれば、末端の集落は干上がる。

 報酬は燃料4缶と弾薬200発。相場としては安い。だがドライガルチの集落長が「子供に飲ませる薬がない」と言った時、ボルトは値切りを打ち切った。理由は自分でもよく分からない。ただ、子供が死ぬのは嫌だった。

 空を見上げた。灰色の天蓋が低い。灰域(アッシュランド)の空はいつもこうだ。大崩落(ダウンフォール)が巻き上げた粉塵が、30年近く経った今も大気に漂っている。青空を見たことがあるような気もするが、9歳以前の記憶は曖昧だ。

「ボルト、3時方向。丘の稜線に影」

 シーマの声が通信機に割り込んだ。女にしては低い声が、僅かに硬い。

 ボルトは操縦桿を握り直した。右手のスロットルに触れ、出力を上げる。残殻(ざんかく)のエンジンが唸り、排気管から黒煙が吐き出された。

 丘の稜線。砂埃の向こうに、確かに影が見えた。1つではない。

「何機だ」

「分からない。砂塵で」

 ボルトは歯を噛んだ。退屈じゃなくなった。



 * * *



 影は5機だった。

 丘の向こうから一斉に姿を現した残殻(ざんかく)の群れが、こちらに向かって斜面を駆け下りてくる。隊列も糞もない。バラバラの速度で、しかし明確な殺意を持って。

「傭兵崩れだ。旗がない」

 リドの声から欠伸が消えていた。旗のない傭兵は、どこの集落とも契約していない略奪者を意味する。交渉の余地はない。

「車列を守れ。リドは右翼、シーマは左翼。俺が正面を受ける」

 言いながら、ボルトは残殻(ざんかく)を前に出した。右手でライフルを構え、左手で操縦桿を押し込む。足元のフットペダルを踏み込むと、残殻(ざんかく)が大地を蹴って加速した。関節が悲鳴を上げる。構わない。

 先頭の敵機が射撃を開始した。40mmの機関砲弾が砂地を抉り、金属片が弾ける。ボルトは操縦桿を右に切り、瓦礫の陰に滑り込んだ。コンクリートの破片が肩部装甲に当たって弾けた。

 3対5。数の不利は明白だった。しかも相手の残殻(ざんかく)の方が状態がいい。先頭の機体は両腕が機能しており、肩に増加装甲まで積んでいる。略奪で潤っている証拠だ。

「リド、左に回り込め。シーマは車列から離れるな」

「了解」

「了解よ」

 ボルトは瓦礫の陰からライフルを突き出し、先頭機に向けて3発撃った。1発が左肩に命中し、火花が散る。だが装甲を抜けない。口径が足りない。

 敵は怯まなかった。5機が扇状に展開し、車列を包囲しようとしている。2機がリドに向かい、2機がシーマに向かい、1機がボルトに正面から突っ込んできた。

 ボルトは操縦桿を引いて後退しながら射撃を続けた。敵機の装甲に弾痕が刻まれるが、致命傷には至らない。距離が詰まる。30メートル。20メートル。敵機が右腕の斧を振り上げた。

 ボルトはフットペダルを蹴り、残殻(ざんかく)を横に跳ばした。斧が空を切り、砂地に叩きつけられる。着地の反動でボルトの残殻(ざんかく)が膝をついた。右膝の関節がまた軋む。立ち上がるのに一瞬かかる。その一瞬で敵が二撃目を振る。

 装甲を擦るように斧の刃が胴体を掠めた。金属が削れる音が操縦席に響く。ボルトは体ごと操縦桿を押し込み、残殻(ざんかく)の肩で敵機を突き飛ばした。距離を取る。ライフルの弾が残り少ない。

「ボルト、リドがやられた!」

 シーマの声が叫んだ。

「やられた?」

「右腕と右脚をやられて動けない。コックピットは無事だけど戦闘継続不能」

 ボルトは唇を噛んだ。2対5。いや、実質1対5だ。シーマは車列を守る位置から動けない。

「シーマ、車列を連れて後退しろ。北に逃げろ」

「あんたはどうするの」

「時間を稼ぐ。さっさと行け」

 通信の向こうでシーマが何か言いかけた。だがボルトはスイッチを切った。聞いている暇はない。

 敵の5機が集まりつつあった。リドの機体を蹴り倒した2機と、シーマを追っていた2機が方向を変えてこちらに向かってくる。正面の1機と合わせて5機。

 ボルトは笑った。嘲りではなく、純粋な衝動だった。恐怖と怒りと、何かもう一つ。名前のつけられない熱。鉄殻(てっかく)の中で、自分はまだ生きている。それだけが確かだった。

「来いよ」

 操縦桿を握り直す。ライフルの残弾は7発。足りない。何もかもが足りない。灰域(アッシュランド)ではいつもそうだ。



 * * *



 3分もたなかった。

 ライフルを撃ち尽くした後、ボルトは残殻(ざんかく)の拳で殴りかかった。1機の膝関節を潰すことには成功したが、代わりに4機から集中砲火を浴びた。左腕が肘から千切れ、脚部のアクチュエータが焼損し、残殻(ざんかく)は大地に膝をついた。

 エンジンが痙攣するように掺れている。計器盤の赤い警告灯が点滅を繰り返すが、半分は断線して光らない。操縦席の中に焦げた配線の匂いが充満していた。

 敵の先頭機が、ボルトの残殻(ざんかく)の前に立った。右手の斧を肩に担ぎ、見下ろしている。

「おい、小僧」

 外部スピーカーから、野太い声が響いた。

「車列はもう追えないが、お前の残殻(ざんかく)の部品はもらう。降りろ。殺さないでおいてやる」

 ボルトは操縦桿を握ったまま、動かなかった。降りたら殺される保証はない。だが降りなければ確実に潰される。どちらにしても詰んでいた。

 26歳。ここまでか。

 父と母を殺された9歳の夜から、ずっと走り続けてきた。鉄殻(てっかく)に乗れば誰にも殺されないと信じて、泥の中を這い、鉄屑を拾い、独学で残殻(ざんかく)を動かした。17年間、生き延びてきた。

 それが、ここで終わる。

 ボルトが操縦席のハッチに手をかけた時だった。


 音が変わった。


 風の音でも、エンジンの音でもない。大気そのものが震えるような、低く鋭い唸り。ボルトは反射的にハッチから手を離し、前方を見た。敵の先頭機も気づいたらしく、斧を構えたまま背後を振り返っている。

 砂塵の向こうから、何かが来る。

 速い。残殻(ざんかく)の速度ではない。ボルトが知っている鉄殻(てっかく)の動きではない。砂塵を切り裂くように、一つの影が躍り出た。

 鉄紺色だった。

 深い藍に鉄の暗さを混ぜた色。関節と装甲の縁に、鈍い銀の差し色が入っている。細身で、肩幅が広く、腰が絞られた逆三角形のシルエット。背部のスラスターが翼のように展開し、逆関節の脚部が大地を蹴る。3本爪の鳥足が砂を巻き上げた。

 残殻(ざんかく)ではない。

 汎殻(はんかく)でもない。

 ボルトは、銘殻(めいかく)を見たことがなかった。だが一目で分かった。あれは、別の次元の機体だ。

 鉄紺色の銘殻(めいかく)は、減速しなかった。敵の5機の只中に突っ込み、右腰から引き抜いた刀を振った。翼を模した片刃の刀身が、砂塵の中で鈍く光った。

 先頭機の右腕が、根元から落ちた。

 斧を握ったまま、腕が砂地に転がる。先頭機の操手(そうしゅ)が悲鳴を上げる間もなく、鉄紺色の機体は既に2機目に向かっていた。背部のスラスターが火を噴き、逆関節の脚が跳躍する。空中で半回転し、刀を横薙ぎに振り抜く。2機目の膝関節が砕けた。10メートルの鉄の塊が、脚を失ってうつ伏せに倒れる。

 残りの3機が射撃を開始した。機関砲弾が雨のように降り注ぐ。だが鉄紺色の銘殻(めいかく)は当たらない。弾幕の隙間を、見えているかのように縫う。最小限の動きで、最大限の回避。操縦技術の次元が違った。

 3機目。接近しながら左前腕の機関砲で牽制し、距離を詰めた瞬間に刀を突き出す。刀身が胸部装甲を貫通し、反対側に突き抜けた。引き抜く動作と同時に体を回転させ、4機目の射線から外れる。

 4機目が後退を始めた。逃げようとしている。だが遅い。鉄紺色の銘殻(めいかく)は地面を蹴り、一息で距離を詰めた。刀の一閃が4機目の頭部を斜めに断ち割り、センサーとカメラを破壊した。盲目になった残殻(ざんかく)が、両腕を振り回しながらよろめく。銘殻(めいかく)はそれを無視し、最後の1機に向き直った。

 5機目は既に背を向けていた。全速力で逃走しようとしている。鉄紺色の銘殻(めいかく)は追わなかった。右腰のライフルを抜き、片手で構えた。1発。逃走する残殻(ざんかく)の右脚のアクチュエータに命中し、機体が転倒した。砂煙が上がる。

 静寂が戻った。

 ボルトは操縦席の中で、呼吸することを忘れていた。

 2分。かかっていない。5機の残殻(ざんかく)が、2分もかからずに全て沈黙した。あの鉄紺色の銘殻(めいかく)は、一度も被弾していない。装甲に傷一つない。

 ボルトの残殻(ざんかく)は膝をついたまま動けない。計器盤は死に、エンジンは喘いでいる。その視界の中で、鉄紺色の銘殻(めいかく)が動きを止めた。

 翼のようなスラスターが折り畳まれ、刀が腰の鞘に収まる。猛禽のような頭部が、こちらを向いた。細長いバイザーの奥で、カメラが光を拾っている。

 殺されるかもしれない。

 ボルトの脳裏を、その考えが過った。あれだけの腕を持つ操手(そうしゅ)が、こちらの残殻(ざんかく)を潰すのに3秒もかからない。

 だが銘殻(めいかく)は動かなかった。しばらくこちらを見つめた後、静かに車列の方へ歩いていった。鳥足の脚が、砂地に3本爪の跡を残す。



 * * *



 男は、思ったより細かった。

 鉄紺色の銘殻(めいかく)の胸部ハッチが開き、操手(そうしゅ)が降りてきた時、ボルトが最初に感じたのはそれだった。30代の前半か。痩せた体に着古した作業着を纏い、暗い髪を短く切っている。目が印象的だった。静かで、深い。何かを見つめているようで、何も見ていないようでもある。長く戦場にいた人間の目だ。ボルトも残殻(ざんかく)に乗って11年になるから、その目を知っている。

 男はまっすぐ車列に向かい、幌をめくって荷を確認した。食料の箱を素通りし、奥に積まれた小さな木箱を引き出す。蓋を開け、中身を改めた。薬瓶が並んでいる。男の表情が、ほんの僅かに緩んだ。安堵だった。

 ボルトは残殻(ざんかく)から降り、男に近づいた。右膝が痛む。操縦席で壁に打ちつけたらしい。

「助けてくれたのか」

 男はボルトを見た。静かな目。怒りも、好意もない。

「車列を守っていたのか」

「一応、傭兵だ。護衛の依頼を受けてる」

「そうか」

 男は木箱を抱え直した。

「この薬が必要だった。たまたまだ」

 たまたま。5機の残殻(ざんかく)を2分で壊滅させる腕を持つ男が、たまたま通りかかった。ボルトは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。

「お前の仲間は」

「1人がやられたが生きてる。もう1人は車列と逃げた」

 男は頷いた。ボルトの残殻(ざんかく)を一瞥し、損傷を目で追った。

「左腕は落ちてるが、脚部は応急処置で動く。右膝の軸受けを締め直せ。アクチュエータは焼けてるが、片脚なら引きずって帰れる」

 技匠(ぎしょう)のような診断だった。ボルトは眉を上げた。

「詳しいな」

「少しだけ」

 男は車列の後方に目を向けた。そこに、1台の作業トラックが停まっていた。ボルトの残殻(ざんかく)と車列の間をすり抜けるように、いつの間にか駐車している。旧式の、ボンネットが錆びた小さなトラック。荷台には工具箱と燃料缶が積まれ、幌がかけられていた。

 男は木箱を抱えたまま、トラックに歩いていった。ボルトはその背中を見つめた。



 * * *



 日が暮れた。

 シーマが車列を連れて戻ってきたのは、ボルトがリドの残殻(ざんかく)を応急処置している最中だった。リドは操縦席から引きずり出され、砂地に座り込んで肩の傷を押さえている。

「生きてたの」

 シーマが降りてきて、ボルトの顔を見た。

「死ぬかと思った」

「死ぬわけねえだろ」

 虚勢だった。死ぬところだった。もしあの銘殻(めいかく)が来なければ。

 シーマはボルトの隣にしゃがみ、リドの傷に布を巻いた。それから、砂地に残った痕跡を見回した。倒れた残殻(ざんかく)が4機。散乱した装甲の破片。砂に刻まれた3本爪の足跡。

「何があったの」

銘殻(めいかく)が1機、来た」

銘殻(めいかく)?」

「鉄紺色の。1機で5機全部やった。2分かからなかった」

 シーマが目を見開いた。リドも痛みを忘れた顔で振り向く。

「冗談だろ」

「冗談に聞こえるか」

 ボルトは倒れた残殻(ざんかく)を顎で示した。切断面が滑らかな右腕。膝関節を一撃で砕かれた2機目。胸部を貫通された3機目。頭部を斜めに断ち割られた4機目。どれも一撃で仕留められている。

 リドが口笛を吹いた。

「その操手(そうしゅ)は」

「あそこにいる」

 ボルトが指差した先に、小さな焚き火が燃えていた。車列から少し離れた場所で、あの男がトラックの脇に火を起こしている。

「話を聞いてくる。お前らは車列を見てろ」

 ボルトは立ち上がり、焚き火に向かって歩いた。



 * * *



 男は焚き火の前に座り、鉄の小鍋で湯を沸かしていた。

 ボルトが近づくと、顔を上げた。拒否の色はない。ボルトは火の向かい側に腰を下ろした。砂地が冷たい。灰域(アッシュランド)の夜は、昼の熱を一瞬で奪い去る。

 男は黙って鍋から湯を注ぎ、粗末な茶葉を入れた金属のカップをボルトに差し出した。

「礼を言ってなかった」

「礼はいらない。たまたまだと言った」

「たまたま5機を2分で片づけるやつがいてたまるか」

 男の口元が僅かに動いた。笑ったのかもしれない。

 ボルトは茶を受け取った。鉄の味がする。灰域(アッシュランド)の水はどこでも鉄の味だ。だが熱い液体が喉を通ると、体の強張りがほんの少しだけ解けた。

 男は干し肉の塊を布から出し、ナイフで薄く切って焚き火の横の石に並べた。ボルトの分も。無言だが、拒む空気はない。

「あの銘殻(めいかく)

 ボルトは焚き火の向こうに鎮座する鉄紺色の巨体を見上げた。火の光が装甲に反射し、関節の銀が揺れている。翼のようなスラスターを畳んだ姿は、眠る猛禽のようだった。

「すげえ機体だ。見たことがない。グランヴェルトの銘殻(めいかく)か?」

 男は干し肉を噛みながら、少し間を置いた。

「友人が作ってくれた。俺はただ、動かしているだけだ」

 その言い方が引っかかった。「作ってくれた」。銘殻(めいかく)を個人のために作る人間がいるということは、相当な技匠(ぎしょう)が後ろにいる。

「あんた、名前は」

「テオ」

「テオ?」

「テオ・セヴァル」

 ボルトは記憶を探った。聞いたことがない。灰域(アッシュランド)の傭兵仲間の名前は大体把握しているが、テオ・セヴァルという名前は出てこない。だがあの腕は無名の傭兵のものではない。

「俺はボルト。ボルト・レイダー。見ての通りの傭兵だ。大したことない傭兵だが」

「大したことなくはない」

 テオが言った。ボルトは意外に思って顔を上げた。

「3機の残殻(ざんかく)で車列を守って、5機を相手に1機の膝を潰した。技量がある」

「潰したっつっても、あんたが来なきゃ俺は死んでた」

「死ななかった。それが全てだ」

 テオは茶を啜った。その手が、僅かに震えていた。カップの中の液面が小さく揺れる。戦闘の後の興奮か。いや、違う。テオの表情は完全に平静だった。興奮とは無縁の、静かすぎる顔。

 あの震えは別の何かだ、とボルトは思った。だがそれを問う術はなかった。

「あんたほどの腕があれば、どこの統治機構体(とうちきこうたい)でも引く手あまただろう。グランヴェルトでも、セルヴィスでも。なんで灰域(アッシュランド)にいる」

 テオは焚き火を見つめた。炎が男の静かな目に映っている。答えが来るまで、長い沈黙があった。

 やがてテオは焚き火から顔を上げ、背後のトラックに視線を向けた。

「見てくれ」

 そう言って立ち上がり、トラックの荷台に歩いた。ボルトも後に続く。

 テオが幌をそっとめくった。

 荷台の奥に、毛布にくるまった小さな体があった。

 子供だ。4歳か、もう少し小さいか。闇の中で丸くなって眠っている。柔らかそうな黒髪が額にかかり、小さな手が何かを握りしめていた。ボルトが目を凝らすと、それは使い古したレンチだった。子供の掌に収まるほどの小さなレンチを、眠りながら離さない。

 テオの顔が変わった。

 戦場では見せなかった表情だった。目尻が柔らかくなり、口元に穏やかな線が浮かぶ。5機の残殻(ざんかく)を一瞬で沈めた操手(そうしゅ)と同じ人間とは思えなかった。

「息子だ」

 テオは声を落として言った。子供を起こすまいとしている。

「カイ。ドライガルチの医者が処方した薬が切れかけていて、ケイルンまで買いに行った帰りだった」

「この子が病気なのか」

「大したことはない。だが薬がなければ長引く」

 テオは幌を戻し、ボルトと共に焚き火に戻った。

 座り直したテオの手が、まだ僅かに震えている。だが干し肉を切る時の指先は正確で、刃が肉を均等な厚さに分けていく。震えと精密さが同居する手。ボルトには理解できない矛盾だった。

「なんで灰域(アッシュランド)にいるのか、と聞いたな」

 テオが言った。焚き火の薪が爆ぜ、火の粉が夜空に舞い上がる。

「守りたいものがある。それだけだ」

 ボルトは答えなかった。テオの目がトラックの方を向いていた。幌の向こうで眠る小さな命。レンチを握りしめた4歳の手。

 統治機構体(とうちきこうたい)銘殻(めいかく)に乗れるほどの腕を持つ男が、灰域(アッシュランド)の砂と鉄錆の中で、子供のために薬を買いに走っている。その事実が、ボルトの胸の中で静かに重みを増した。

「強いな、あんた」

 ボルトが言った。口をついて出た言葉だった。銘殻(めいかく)の性能でも、5機を倒した技量でもなく、もっと別の何かを指して。

 テオは首を振った。

「強くはない。強ければ、こんな場所にいない」

「こんな場所」

灰域(アッシュランド)は危険だ。あの子には、もっと安全な場所があるべきだった。俺がそれを用意できなかった。だからここにいる」

 テオの声に後悔が滲んでいた。だが自分を哀れむ響きはない。ただ事実を述べている。

 ボルトは茶を飲み干した。鉄の味が舌に残る。

「あんた、これからどうするんだ」

「ドライガルチに戻る。薬を届けて、あの子の咳が治まるまでは動かない」

「その後は」

「分からない。だが、あの子が安全に育つ場所を見つける。それだけだ」

 簡単なことのように言った。だがボルトは知っている。灰域(アッシュランド)に安全な場所など存在しない。今日のような略奪者がどこにでもいる。統治機構体(とうちきこうたい)の目も、いつこちらに向くか分からない。子供を安全に育てることは、この世界で最も難しいことの一つだ。

 それでもテオは、それをやろうとしている。銘殻(めいかく)を駆り、砂塵の中を走り、子供のための薬を買いに行く。一人で。

「もう一杯もらえるか」

 テオは黙って湯を注いだ。二杯目の茶は、少しだけ鉄の味が薄かった。



 * * *



 夜が更けた。

 焚き火が小さくなり、灰域(アッシュランド)の闇が濃くなった。星は見えない。粉塵の空は、夜でも灰色の蓋をしたままだ。

 テオは立ち上がり、焚き火に砂をかけた。

「行く」

「もう行くのか。夜は危ない」

「夜の方が見つかりにくい」

 テオはトラックに向かった。ボルトも立ち上がり、後を追う。

 テオがトラックの運転席に乗り込む前に、荷台の幌をもう一度めくった。子供はまだ眠っている。小さな寝息が聞こえた。レンチを握りしめた手が、毛布の端から覗いている。テオはその手に、そっと指を触れた。

 その指が、まだ震えていた。

 だが子供の手に触れる力加減は、レンチを握る小さな指を起こさないほど柔らかかった。

 テオは幌を戻し、運転席に滑り込んだ。

「ボルト・レイダー」

 窓越しにテオが言った。

「車列は無事に届けろ」

「当たり前だ。報酬もらわなきゃ困る」

 テオの口元が、また僅かに動いた。今度ははっきりと、笑みだった。

灰域(アッシュランド)に、お前みたいな傭兵がいるのは悪くない」

 エンジンが掛かった。旧式のトラックが咳き込むように震え、排気管から白い煙を吐いた。ヘッドライトが砂地を照らす。その光の中に、鉄紺色の銘殻(めいかく)の脚部が浮かび上がった。

 テオのトラックが動き出した。銘殻(めいかく)はそのすぐ後ろを、歩幅を合わせるようにゆっくりと歩いている。自律歩行ではない。トラックの運転席から、何らかの遠隔操作をしているのだろう。鳥足の3本爪が、砂に規則正しい跡を刻んでいく。

 ボルトは、その二つの影が闇に溶けていくのを見つめた。

 小さなトラックと、鉄紺色の銘殻(めいかく)。親子と、鉄の鳥。砂塵の向こうに消えていく残像が、網膜に焼きついて離れない。

 東の空が、僅かに白み始めていた。灰域(アッシュランド)の夜明けは静かだ。劇的な朝焼けはない。灰色の空が、ほんの少しだけ明るくなる。それだけだ。

 だがその薄い光の中に、鉄紺色の影がまだ見えた。遠ざかっていく。小さくなっていく。やがて、砂塵に呑まれた。

「……なんだよ、あの人」

 ボルトは呟いた。手で顔を擦る。頬に砂がこびりついていた。

 あの操縦。あの銘殻(めいかく)。あの静かな目。震える手で子供に触れる、あの指先。灰域(アッシュランド)にあんな人間がいるのか。灰域(アッシュランド)に、あんな強さがあるのか。

 ボルトはこれまで、強さとは殴ることだと思っていた。殴り勝つこと。殴り倒すこと。鉄殻(てっかく)で敵を叩き潰すこと。それが強さだと。

 違った。

 あの男は、殴るために鉄殻(てっかく)に乗っているのではない。あの機体は、拳を振るうためにあるのではない。テオ・セヴァルは、あの鉄紺色の銘殻(めいかく)を、息子のために動かしている。

 ボルトは灰色の空を見上げた。目に砂が入って、少し滲んだ。砂のせいだ。

「リド、シーマ。出るぞ。車列を届ける」

 背後で二人が動く気配がした。ボルトは自分の残殻(ざんかく)に向かって歩いた。片膝を引きずる残殻(ざんかく)。左腕を失った残殻(ざんかく)。それでもまだ動く。動く限り、仕事を終わらせる。

 砂地に残った3本爪の足跡を踏んで、ボルトは歩いた。


 何年も後、ボルトは灰域(アッシュランド)の焚き火を囲むたびに、あの夜を思い出すことになる。鉄紺色の残像。震える手。レンチを握って眠る小さな子供。

 そしてある日、テオ・セヴァルが消えたという噂を聞く。

 あの銘殻(めいかく)灰域(アッシュランド)のどこかに残され、テオの息子が――あのレンチを握って眠っていた子供が――父を探しているという。

 ボルトはその時、茶の入ったカップを握りしめて、灰域(アッシュランド)の空を見上げるだろう。

 鉄の味がする。あの夜と同じだ。

この物語の「あの男」の息子の物語が「鉄殻のケストレル」本編です。世界に見捨てられた荒野で、鉄くずを拾って生きてきた少年が、父の残した銘殻に乗り、灰域の未来を賭けて戦う物語。よろしければぜひご一読ください。

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