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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

SF現代文:翔べ! メロス

作者: 白井戸湯呑
掲載日:2026/02/18

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の連邦議長を除かねばなるまいと決意した。メロスには政治はわからぬ。メロスは、田舎である十三番コロニーの住民である。サックスを趣味で吹き、電気羊を愛玩して暮らしてきた。けれども、邪悪に対しては人一倍敏感であった。

 今日未明メロスは十三番コロニーを出発し、所有する人型駆動車両にてデブリ帯を抜け廃棄された開発小惑星の内部を通り抜けて進み、数百キロ以上離れたこの十番コロニーにやって来た。メロスには父親も母親もいない。結婚もしていない。十六歳の、内気な妹と二人暮らしをしている。この妹は、一番コロニーのある勤勉な男性と近々結婚して我が家を去ることとなっていた。結婚式も間近に控えている。メロスはそれ故、花嫁の衣装や酒宴のご馳走やらを買い出しに遥々十番コロニーにやって来たのだ。十三番コロニーに結婚式場など無い。

 まずはその品々を買い集め、それから大通りをぶらぶらと歩いた。メロスには竹馬の友がいた。セリヌンティウスである。今はこの十番コロニーで、メカニックをしている。その友をこれから訪ねてみるつもりなのだ。しばらく逢っていないから、訪ねてみるのが楽しみである。

 歩いているうちにメロスは、街の様子を怪しく思った。ひっそりとしている。もうコロニーの光源も落とされて、街が暗いのは当たり前だけれど、けれども、何だか夜のせいばかりでは無く、コロニー全体がやけに寂しい。呑気なメロスも、次第次第に不安になって来た。

 道で出逢った若者をつかまえて、何があったのか、二年前にこのコロニーを訪れた時は夜でも店の明かりが瞬いて、街は賑やかであったはずだと質問した。若者は、首を振って答えなかった。

 しばらく歩いて老人と逢い、今度はもっと語勢を強めて質問した。老人は答えなかった。メロスは両肩を掴み揺さぶって質問を重ねた。老人は、周りをはばかる小さな声で、わずかに答えた。

「議長は人を殺す」

「なぜ殺すんだ」

「悪心を抱いている、などと言っているが、誰もそんな悪心を持ってなどいないのさ」

「どれだけの人を殺したんだ」

「まずは議長の妹婿を、それから自身の息子を。それから妹を。それから孫を。それから嫁さんを。それから、秘書のアレキスさんを」

「驚いた。議長は乱心してるのか」

「いや、乱心ではない。人間不信ってやつだ。この頃は部下の心すらも疑っていて、少しでも不審な動きをしている者には、監視の目を雇っている。監視に気付いてそれを拒めば適当な罪をでっち上げられて殺される。今日は、六人殺された」

 聞いて、メロスは激怒した。

「呆れた王だ、生かしておくべきか」

 メロスは、心底単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ議長官邸に入って行った。まあ、無論のこと、たちまち彼は巡邏の警備員に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは拳銃が出て来たので、騒ぎは大きなものとなった。メロスは捕縛され、牢の向こうに議長がホログラム体で現れる。

「この拳銃で何をするつもりであったか、話してもらおうか」今や暴君となったディオニスは静かに、しかして威厳を持って問い詰める。議長の顔色はまさしく病人と蒼白であり、眉間には疑りの分だけの皺が刻まれていた。

「市を暴君の手から救うためだ」と、メロスは悪びれる様子もなく答える。

「君が、か?」議長は憫笑する。「憐れなものだな。人の心、その孤独を知らぬ者は」

「何を!」とメロスは、いきり立って反駁した。「猜疑心に踊らされ、自ら孤独の道を行きながらも。貴様は、託された思いすらも疑って」

「猜疑こそ、正眼だ。それを教えたのは、紛れもなくお前達だろうに。人心は揺蕩い彷徨う、水面に浮いた青葉を何者が信用するか。人間とは、元来にして私欲の塊。私とて変わらんよ」暴君は落ち着いて語り、ほっとため息を吐く。「私とて、平和であれたしと望む」

「誰が為の平和か。玉座の為か」今度はメロスが嘲笑する。「罪の無い者を殺して、何が平和か」

「知らぬ者よ」議長は、ゆらりと顔を挙げて報いた。「口に出した音は、事の大小に関わらず嘘が混ざる。心の内、その全てを言葉になど出来ないのだから当たり前だが。私には、人が腹綿の奥底が見え透いてならない。君とて、今に、執する際になって、泣いて詫びたとて聞かんよ」

「ああ、貴方は利口だ。自惚れていればいい。無謀の試みに身を賭した以上、命を惜しむものかよ。であるに命乞いなどと。ただ——」と言いかけて、メロスは足元に視線を落として刹那の躊躇いを持って、「ただ、私に情や情け、人の心があると言うのならば、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。ただ一人の妹に、夫を持たせてやりたいのです。三日の内に、結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」

「言うな」と暴君は、嗄れた声で低く口角を上げる。「よくもぬけぬけと戯言を言う。逃した小鳥が手元に戻るとでも」

「言いましょう」メロスは、必死で言い張った。「約束は守ります。私に、三日の猶予を。妹が、私の帰りを待っているのです。それ程に私が信用ならないならば、よろしい、このコロニーにセリヌンティウスというメカニックがいます。私の無二の友人だ。彼を、人質として捕らえればいい。私が逃げ出して、三日後のこの時までに、ここに帰って来なければ、彼の友人を刑に処して下さい。頼みます、そうして下さい」

 それを聞いて議長は、残虐な気持ちで、ほくそ笑んだ。理路整然としない言葉をつらつらと。帰って来ないに決まっている。この詐欺師に騙された振りをして、放してやるのもまた一興。そうして身代わりの男を、三日後に殺せば群衆とて察する筈だ。人は、これだから信用ならないのだと、またぞろ悲しみに暮れ、その身代わりの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にこれ程までかと見せつけてやりたいものだ。

「願いを、聞いた。その身代わりを招集する。三日目には連邦時間で十七時までに帰って来い。遅れれば、その身代わり、きっと殺す。少しばかり遅れてくればいい。君の罪は、未来永劫に渡り無罪放免となる」

「何を、言うか」

「ふふ。いのちが大事ならば、遅れて来い。お前の心は、わかっている」

 メロスは口惜しく、暴れ回りたい衝動に包まれる。ものも言いたくなくなった。

 幼馴染、セリヌンティウスは、深夜、官邸に召された。暴君ディオニスの面前で、佳よき友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯し、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、メロスと入れ替わりに牢に入れられた。メロスは、一般港に走り、すぐさまパイロットスーツを着込むや否や出発した。初夏、地球は青である。

 メロスはその夜、一睡もせずに数百キロの路を急ぎに急いで、十三番コロニーへ到着したのは、翌る日の午前、コロニーの人工光源は点灯して、住民達は各々の仕事をはじめている。メロスの十六の妹も、今日は兄に代わりペットロボットの修理をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて驚いて。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「十番コロニーに用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。明日、お前の結婚式を挙げる。早いほうがいいだろう」

 妹は頬をあからめる。

「すまないが、曲げられない。ほら、綺麗な衣裳も買って来た。これから行って、出席者に知らせて来い。結婚式は、明日だと」

 メロスは、また、よろよろと歩き出し、式場に無理を言い、祝宴の席を調え、家に帰り間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿は驚き、それはいけない、こちらには未だ何も仕度も出来ていない、仕事が落ち着く来月まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論を続けて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり人工雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた友人知人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌を歌い、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、今は、自分の身体で、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。明日の日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、

「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっと御免被って眠りたい。目が覚めたら、すぐに十番コロニーに出掛ける。大切な用事があるのだ。私がいなくとも、もうお前には優しい旦那があるのだから、決して寂しい事はない。お前の兄の、一番嫌いなものは、人を疑う事と、それから、嘘を吐く事だ。お前も、それは、知っているね。彼との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。お前に言いたいのは、それだけだ。お前の兄は、たぶん偉い男なのだから、お前もその誇りを持っていろ」

 花嫁は、夢見心地で頷いた。メロスは、それから花婿の肩を叩いて、

「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と電気羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」

 花婿は揉もみ手して、てれていた。メロスは笑って皆にも会釈して、宴席から立ち去り、起きてすぐ出られるようコクピットにもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日は是非とも、あの議長に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。ラジオが、デブリ注意報を流している。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、アクセルを踏み、矢の如く走り出した。

 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、故郷。若いメロスは、辛かった。幾度か、ブレーキを踏みそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながらアクセルを踏んだ。十三番コロニーを出て、野を横切り、森をくぐり抜け、十二番コロニーに着いた頃には、太陽は地球の影を出て、そろそろ暑くなって来た。メロスは額ひたいの汗を拳で払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、今、何の気掛かりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり走ろう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら安全運転で十キロ行き二十キロ行き、そろそろ道の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、メロスの足はブレーキ、はたと、踏んだ。見よ、前方のデブリを。行きのラジオで語った通りにデブリ群が飛び交い、濁流滔々とこの宙域に集まり、猛勢一挙に路を閉ざし、しんしんと無音のデブリが、寡黙隆盛に誘導宙域を封鎖していた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、オープン回線を開いて呼び掛けてみたが、返事は無い。デブリはしずしず、ただ浮かび、崖のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら形骸化した神に手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬ内に、官邸に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです」

 岩壁は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますますひしめき躍り狂う。岩は岩を隠し、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。突撃するより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 岩壁にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、今こそ発揮して見せる。メロスは、ぎっとぞアクセルを踏み込み、百匹の大鼠のようにのた打ち荒れ狂う岩を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せる岩々をすんでに避けて、なんのこれしきと掻かき分け掻き分け、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。幾度か機体を擦りながらも、見事、デブリ帯を抜けて、肩の力を抜く事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、無駄には出来ない。時計は既に十四時を回りかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら入り組んだ小惑星の内部トンネルを走り、走り切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の機体が躍り出た。

「待て」

「何をする。私はもう二時間もせずに官邸に行かねばならぬ。退け」

「どっこい退かぬ。持ち物全て、置いて行ってもらおう」

「私には命の他には何も無い。その、たった一つの命も、これから議長にくれてやるのだ」

「その、命が欲しいのだ」

「よもや、議長め、ここまでやるか」

 海賊たちは、物言わず反転するや一斉にビームライフルを構えた。メロスはひょいと、ハンドルを傾け、飛鳥の如く身近の一機に襲い掛かり、そのライフルを奪い取って、

「邪魔をするならば!」と猛勢一撃、たちまち、三機を撃ち抜き、最初の一機を盾に、残る者がひるむ隙に、さっさと加速して宙域を抜けた。一気に宙域を駆け抜けたが、流石に機体も疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、機体に幾度となく不調を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三キロ進んで、ついに、しんとエンジンの動きを止めた。再点火する事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、デブリ帯を走り切り、海賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。その愛機、ゴヴァン・テックディレクターよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情け無い。愛する友は、お前を信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。お前は、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。コクピットの背もたれにどっぷりと身を任せる。精神疲労すれば、身体も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐された根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一杯に努めて来たのだ。エンジンが動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。今だって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。デブリを突破した。海賊の囲みからも、するりと抜けて一気に駆け抜けて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。議長は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。遅れたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は議長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は議長の言うままになっている。私は、遅れて行くだろう。議長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬより辛い。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるに違い無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。コロニーには私の家が在る。電気羊も居る。妹夫婦は、まさか私をコロニーから追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、潺々、エンジンの鳴く音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、サブエンジンが生きているらしい。よろよろ外に出て、ボンネットを開くと、機械の密から滾々と、何か小さく囁きながら熱が湧き出ているのである。その熱に吸い込まれるようにメロスは覗き込んだ。機械を探って、サブシステムに手を伸ばす。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。走れる。行こう。エンジンの問題解決と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。我が身を殺して、名誉を守る希望である。フレアは赤い光を、星々の輪郭に投じ、宇宙もこの身も燃えるばかりに輝いている。約束の時刻までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。翔べ! メロス。

 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、。ずんずん沈む。待ってくれ、神とやらよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

 路行く他機を押しのけ、跳はねとばし、メロスは黒い風のように走った。隊列を組む暴走族の、その隊列のまっただ中を駈け抜け、族の人たちを仰天させ、作業用無人機を蹴けとばし、廃棄コロニーを飛び越え、少しずつ星の影に身を隠してゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、オープン回線にて不吉な会話を小耳に拾った。「今頃は、あの男も、磔にかかっているよ」ああ、その男、その男のために私は、今こんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスの駆る機体は、今は、ほとんどフレーム部分のみであった。エンジンも死に体、二度、三度、バックファイヤーが噴き出た。見える。遥か向うに小さく、十番コロニーの宇宙港が見える。宇宙港は、レーザー誘導を灯してきらきら光っている。

「ああ、メロスさん」うめくような声が、回線を通して聞えた。

「誰だ」メロスは走りながら尋ねた。

「フィロストラトスです。貴方のお友達セリヌンティウスさんの弟子の」その若い石メカニックも、メロスの後に追随しながら叫んだ。「もう、駄目です。無駄です。走るのは、やめて下さい。もう、あの人を助けられません」

「いや、まだ陽は沈まぬ」

「ちょうど今、あの人が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。恨みますよ。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだだ。まだ陽は沈まぬよ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きいコロニー照明ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。今は自分の命が大事です。あの人は、あなたを信じて居ました。刑場に引き出されても、平気でいました。議長が、さんざんあの人をからかっても、メロスは来ます、とだけ答えて、強い信念を持ち続けている様子でした」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」

「ああ、もう! あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走ればいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいいさ!」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、空っぽだ。何一つ考えていない。ただ、訳のわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆらコロニーの端に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。

「待て。その人を殺してはならない。メロスが帰って来た。約束の通り、今、帰って来た」と最早機械とも見えぬ愛機を降りながらも大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、喉が潰れてしわがれた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。既に磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、デブリ帯を潜り抜けたように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一杯に叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。力一杯に頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴ってくれ」

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一杯に鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。

「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を綻ばせ、こう言った。

「お前らの望みは叶かなったぞ。お前らは、私の心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。さて、では私も私の役割を果たそう。今、ここにいる市民に、私のリコールに関する決算を行う」

 どっと群衆の間に、動揺が起った。

「私にリコールを申し入れる者は、挙手を」

 誰も手を挙げなかった。そんな中、ひとりの少女が、その手を天に捧げた。市民たちは、同調した。手は、次第に数を増やした。

「過半数からのリコール申し立てを受け、私は、今、この時を以て議長の座を降りよう」

 皆、議長の潔さに敬意を表した。

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