ただの獣
助けてと言う藤川さん。
そして、彼女が俺を見捨てた証拠として今スマホが鳴っている。
微細なスマホのバイブが気持ち悪い。
見ずに逃げ出したい。
でも、どこに逃げるって言うんだ?
俺は妹の待つ部屋とお嬢様の屋敷以外に、居場所なんて作ってこなかったんだから、行き場がない。
これはきっと、お嬢様からの呼び出しに違いない。
見なくても、タイミングが良すぎる。
もはや、俺の心臓の鼓動はポケットのソレよりも早くなっていて、その音がやたらと大きく聞こえてくる。
そして、息苦しい。
全力疾走をした後のような辛さじゃなくて、肺が重い物で押し潰されそうな、酸素を取り込むのを拒んでいるみたいだ。
「ゆうま」
「……ッ!?」
さっきまで普段通りの藤川さんの声だった。
なのに、とても変な声に聞こえる。
怖い、この人が怖い。
「電話だろ、出た方がいい」
「いや……です」
「病室だから気にしてんのか? ここは個室だし気にする必要はねぇよ」
またあの笑顔だ。
大好きだったあの笑顔。
格好よくて、一目惚れしたあの笑顔。
俺が恋愛感情抜きで、姉や母として慕ったあの笑顔。
これまでの彼女と過ごした思い出の笑顔が、今や汚染されてしまった。
「……出たくありません」
無機質な、作られた笑顔。
笑顔でいる事を強制された笑顔。
笑っていない笑顔。
もはや、彼女の笑顔はそれにしか見えていない。
声も笑顔も、ただただ恐怖の対象にしか映らない。
「いいから出ろよ」
藤川さんの手が俺のポケットに入ったスマホを掴もうとして、俺は彼女の手を掴んでそれを防ぐ。
触れた腕には、このまま二度と消える事が無いのではないかと思えるような傷跡があって、それが幸いにもとっかかりのようになって力では勝てないはずの彼女を止める事が出来ている。
「やめて下さい……藤川さん……」
「なぁ、お前が出ないと私が苦しむんだぞ? こんなにもお前を守ってやったのに、代わりに苦しんだってのに、まだアタシに苦しめって言うのか?」
彼女は傷に触れられている事もお構い無しに力任せに腕を動かして、スマホを掴み取った。
光る画面には、"お嬢様"と表示されていて、分かっていたはずなのにそれを見た瞬間心臓が鼓動をやめたような、冷たい何かに襲われた。
このまま電話に出たら、どうなる?
……考えたくない。
「お嬢様はお前と話がしたいんだよ、出てやれ」
「俺は話したくありません!」
「一番大切な人と、家族を守るためなんだよ……なぁ、お前も妹を守るって言ってたよな? アタシの気持ちは分かるだろ?」
「それは……」
「お前がアタシの立場ならどうした? 妹がさらに不幸になるかもしれないって状況を変えようと動かないのか? お前はそんな薄情な男なのか?」
もし、もしもの話だ。
知り合いをハメる事で大切な……妹を救う事が出来るなら。
俺だって、きっと彼女と同じ事をする。
それは頭では分かる、理解したくないけれど、分かってしまう。
「お前は恋人に黙って妹を抱いくって罪を犯した、だけどそれはずっと隠しておける物じゃないだろ? あのお嬢様が様子のおかしいお前をそのままにしておく訳が無いし、妹さんがお嬢様に密告するかもしれねぇ」
「だとしても! 藤川さんが俺を捨てたって事実は変わらないんです!」
認めない。
こんなの、俺は認めない。
例え彼女のした事が、罪を隠し続けようとした罪人への断罪だとしても。
俺という嘘つきを裁く正義だとしても、ソレだけは認めちゃいけない。
「ゆうま、よく聞け」
頬に生暖かい物の感触があり、それに触れると指先が濡れていた。
涙が……漏れ出ている。
藤川さんがスマホの画面の緑色のボタンを押して、そっと俺の耳元にあてた。
そして。
「助けてくれてありがとう」
『話は聞きましたよ、近親相姦のケダモノさん』
左耳には藤川さんの感謝。
右耳にはこれまで聞いた中でもっとも冷たくて、言葉だけで人を殺せそうな声色をしたお嬢様の声が聞こえた。
拘束されている訳じゃないのに、体がその声を聞いて動く事を拒否している。
動いたら……本当に殺されるような気がして言葉も出やしない。
『聞こえていますか?』
口を開いても言葉が出ない。
話そうとしているのに、何を話せばいいのか分からない。
もはや何を言っても幼稚な言い訳にしか聞こえないのは分かってるけれど、謝罪の言葉も出てこない。
『ゆうま……貴方は人間ですか? それとも、欲望のまま動くケダモノですか?』
俺はケダモノなんかじゃない。
妹を抱いたのは、あの時それしか妹を守る方法が無かったからであって、欲望に負けた訳じゃない。
頭で考えて、その中から簡単に妹を引き留める方法を選んでしまった事はバカな事をしたと認めるけれど、俺はそれでも……人間だ。
『以前、貴方は妹さんが義父に性的虐待を受けていてそれから守ると言っていましたね、貴方が妹さんにした事はその男と何が違うのですか?』
何が……違う……。
『どのような流れでそうなったのかは知りませんが、どんな道中であろうとも、貴方がした事は妹さんへの……いえ、弱った家族を狙った性的虐待です』
あれは……妹が……そうしないと家を出ていくって。
さらに自分を傷付けるような、悪魔のような男の所に帰るって言うから……。
『そして、その事実をいやしくも貴方が特別だと思う私には隠そうとしていました、それは何故ですか?』
言える訳が……無い。
恋人に向かって、そんな罪を告白できる訳がない。
ダメだ、立っていられない。
足に力が入らない。
手も……震えてきた。
『貴方がした事は、義父に代わって妹さんを搾取する新しい主人に成り代わった事、それだけですよね? 最初に話していた……妹さんを守るって言葉は嘘だったのですか?』
俺は……妹と普通に暮らしたかった。
普通の家族が過ごす当たり前の時間が失われ、辛くてしんどい現実だけが残っていた現状で、家族の暖かな日常が欲しかったんだ。
その為に、失われたその時間を取り戻す為に妹と暮らす事を夢見てここまで努力したんだ。
「……俺はただ妹と、家族と過ごす普通の日常が欲しかっただけなんです」
ボロボロになった妹を見つけて、酷い虐待を受けている事を理解した。
なぁ、何故俺はあの時すぐに警察に行かなかったんだ?
助けを求められる場所はいくらでもあったんじゃないか?
俺が守るなんてプライドを出さずに、お嬢様の屋敷で住まわせてもらえばよかったんじゃないか?
『ならどうして、こうなってしまったの?』
「それは……」
自分の心の中にいる獣が、妹を妹だと認識していなかった。
このメスなら手に入る、俺が支配出来るってどこかで期待していたんじゃないのか?
自分でも不思議なぐらい、まるでパズルがスルスルと出来上がっていくように思考がまとまっていく。
そして出来上がった絵には、俺がただの獣だと描かれていた。
「俺が……弱かったからです」
『ゆうま……』
認めたくない現実と真実が、自分の中に出来上がってしまった。
もはやこれを壊す事はできず、これこそ俺の心の一部分に違いないのだとこの胸の痛みが教えてくれる。
こんな俺は本当に……人間、なのか?
「お嬢様……ごめんなさい」
俺はただ、謝る事しか出来なかった。
何回も何回も、ひたすらに謝罪する。
人のふりをした獣でごめんなさい。
貴女を騙そうとしてごめんなさい。
藤川さんを巻き込んでごめんなさい。
弱くてごめんなさい。
……義父と同じで、ごめんなさい。
『前にも話しましたが、貴方は私の物になりましたよね?』
「……はい」
恋人……失格でごめんなさい。
『なら、泣くよりも先にまずはやるべき事があります』
スマホの向こう側から、手を叩く音がした。
それと同時に、お嬢様の声色が元に戻っていく。
綺麗で、透き通るような、俺の大好きな声が現れて、俺を優しく包んでくれている。
『最悪な事をした貴方ですが、私は貴方を見捨てません』
「お嬢様……!」
『覚えておきなさい、私は自分のお気に入りの物はとても大切に扱うの』
もはや、お嬢様だけが俺の味方だった。
例え、藤川さんに酷い事をしていたとしても、それを責められる程俺の過去も綺麗なもんじゃない。
だからこそ。
『まずは、最悪の状況かどうかを確かめましょう』
俺はお嬢様に、惹かれているのかもしれない。




