餌
悪夢は、自分が引き起こした物だ。
それでもきっと夢か何かだと、目蓋を開いた瞬間からそう信じたかった。
でも、隣で眠る妹の笑顔が悪夢は現実の事で、俺はやってはいけない事をしたのだと俺に刻みこんでくる。
これまで見た中で一番落ち着いていて、綺麗な妹の寝顔は俺が望んでいた安心して暮らせる普通に含まれる物だ。
だが、俺はソレを見ても"君を守れてよかった"とはおもえない。
お互いに服を着ていないこの状況。
思い出される昨夜の事。
もう言い訳なんて出来やしない。
俺はお前を守る為だって建前を使って、お前をこんな風にボロボロにした義父と同じ事を……。
「うグっ……ッ!?」
布団から飛び出して、トイレに全てぶちまけた。
吐くものは無い、だけど気持ち悪さが止まらない。
俺が妹を"メス"として、そうとしか見なかった事実。
腕の中で"ありがとう"と喜ぶお前の笑顔。
そして彼女の体温。
全てが……俺を罪人だと責めている。
ただ助けたかっただけなんだ。
俺はお前に酷いことをするつもりは無かった。
「俺は……俺は……」
結局、妹を守れていない。
彼女の心に付け込み、自分がいい思いをしようと動いていたと言われても、否定なんかできやしない。
罪に、潰されそうだ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「来るな!」
「……お兄ちゃん?」
「今は……来ないでくれ」
背中に暖かい手の感触。
そのまま、嗚咽に苦しむ俺を少しでも助けようとしているのか、ゆっくりと励ますように手を動かしてくれている。
「ごめん……弱くてごめん」
「お兄ちゃんは弱くないよ?」
「お前を救う方法は他にもあった、なのに俺は最後の最後で、一番選んじゃいけない物を選んじまったんだぞ!?」
「何で謝るの……えっと、泣かないで」
言われてから、俺は涙を流していたのだと気づいた。
気持ち悪くて、もう顔は涙と少しの吐瀉物の汚れでぐちゃぐちゃだろう。
「俺はお前を守れなかった……守れなかったんだ!」
「ううん、ちゃんと守ってくれたよ」
「守れてなんかいないんだ!」
「だって、行動で示してくれたもん、昨日の必死なお兄ちゃんは……やっと、お礼が出来たし、愛してもらえたんだって思えて、この人が私を守ってくれるんだって確信出来たの、本当に嬉しかったから……ありがとう、お兄ちゃん!」
口元についた汚い物を、妹はとびっきりの笑顔のままぬぐってくれる。
汚いからやめろって、普通なら言うはずだけど。
俺が弱くて守れなかったと、自己満足の懺悔をしているのに対して、俺は強くて、妹を守ったんだと主張する彼女の言葉があまりにも違いすぎて、それすら言えずに黙ってしまった。
「えへへ、お兄ちゃんまるで赤ちゃんみたいだね」
「…………ああ、無力だな」
「もー! そんな事言ってないで……ほら、朝ごはん食べたいな、今ならお兄ちゃんの手料理がもっと美味しく食べられる気がするの!」
「わかった……作るよ」
「うん!」
俺と妹の日常は、意外にも変わらなかった。
一緒に登校はするものの、学校でベタベタくっついてくる訳でもなく、そもそも家以外では俺に関わろうとしなくて、俺が望んだ普通の生活を過ごしている。
だが、俺はそうじゃなかった。
「……ま……追妹!」
「は、はいっ!?」
「お前聞いてたのか? この問題の答えは?」
「すいません……ぼーっとしてました」
先生に呼ばれる度に、俺は罪を指摘されるんじゃないかと恐怖する。
クラスメイトが俺を見る度に、俺の罪を知っているんじゃないかと恐怖する。
何をしていても、俺は常に視線と言葉に怯えきっていた。
そんな状態が反映してしまったのかは分からない。
しっかりとレシピ通りに作っていたはずなのに、今朝の料理はお嬢様に"マズくて食べられた物じゃない"と、皿をテーブルから落とされてしまった。
「追妹君、最近の貴方は少し変ですわよ?」
「お嬢様……っ!?」
「学校ですから神目さんでいいですけど……本当に何がありましたの?」
「な、何でも無いです! 大丈夫ですから、ほら元気いっぱいですよ、あはは」
大げさにスクワットをして見せると、お嬢様は手で口元を隠しながら"まぁ元気ですこと"と笑っていた。
だけど、ちっとも目が笑ってない。
彼女は疑っている。
何があったのか、真実を知ろうとしているんだ。
あの吸い込まれそうな程綺麗な瞳が、俺を裁こうとしているかもしれない。
「あ、そうそう、今日の放課後はうちではなくてここに向かって下さい」
目を合わせないようにしていると、スマホがバイブした。
通知の主はお嬢様で、内容は……神目病院の住所と、地図アプリでここからどうやって行くのかを示す物だった。
お嬢様の会社の病院に……行けって?
「医者に見てもらわなくても俺は大丈夫ですよ」
「いえ、貴方ではありませんよ」
「なら……何故病院に行くんですか?」
「貴方があまりにも不味い朝食を作って帰った後で、藤川が階段から落ちたの」
藤川さんが……階段から落ちた!?
まて、あの人は妊婦だぞ。
そんな状態で……嘘じゃ、無いよな?
「藤川さんは無事ですか!?」
「彼女は腕の骨にヒビが入った程度ですが、お腹の子供に影響がないかを調べているところですわ」
藤川さん……クソっ!
頼む、どうか貴女も、子供も無事でいてください。
「妊婦ですから、朝から動き回るのはやめろと言ったのですが……とりあえず、この後病院に行って顔を見せてあげて下さいな」
「分かりました、ありがとうございます!」
最後の授業が終わり、俺は一年生の教室に向かって妹に事情を話した。
彼女は頷いてから、晩御飯は自分が作るから行ってあげてと快く送り出してくれる。
お嬢様は迎えの車がまだ来ていないらしく、俺はできる限りの力を込めて自転車を漕いだ。
肩で息をして、足が少しつりそうになりつつ、俺は病院の指定された病室に飛び込んで。
「藤川さん!」
ほぼ叫び声のような声と同時に、彼女を見た。
「……ああ、お前か」
彼女は少しだけ俺を見てから、何とも殺風景な個室の窓の外を見た。
目は虚ろで、いつもの彼女らしくない。
まさか……。
「子供は……」
「それは大丈夫だ、医者が言うには問題なしだとよ」
「そっか……よかった、よかったです!」
最悪は、回避された。
俺のような罪人が言うのはおかしな話だけど、藤川さんには幸せになって欲しいんだ。
お嬢様同様、彼女から受けた恩は数えきれないし、一瞬だけだが俺が惚れた人だし、最近の彼女は少し大きくなったお腹を母の顔で愛おしそうに撫でていた。
子供が守れたのは不幸中の……。
「よかった? お前、それ本気で言ってんの?」
藤川さんは、何故か怒っていた。
そりゃそうだ。
彼女の左腕は白色の器具で固められていて、骨を損傷しているんだから、よかった、なんて言葉は不適切に決まってる。
「あっ……そ、そうですよね、子供は無事ですけど藤川さんは骨を……」
「お前が……お前がお嬢様を……」
ガラガラという音と同時に、病室の扉が開いた。
振り返ると、そこにはお嬢様がいて、彼女は藤川さんのベッドに少しだけ早足で近づいていく。
さっき藤川さんが何か言いかけていたけれど……何が言いたかったんだ?
「聞きましたよ、子供は無事ですのね」
「……ッ、はい、大丈夫らしいです」
「よかった……心配したんですよ? 一応旦那さんにも連絡を入れておきました、後から来るらしいです」
「……そう、ですか」
「本当に藤川もお腹の子供も無事で良かったですわ……まったく、ゆうま君の代わりに急いで朝食を作りに行くから、こけて階段から落ちたのですよ? もっと自分を大切にして下さいね」
その時、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃に襲われた。
藤川さんがケガをしたのは、俺の不味い料理の代わりを作る為に動いたせいだった。
俺がもっとしっかり、普段通りに作れていれば、こんな恐ろしい状況にはならなかったんだ。
「お嬢様……アンタが……」
「不幸中の幸いですわね、藤川」
「不幸中の幸い、だと?」
「ええ、だって次はきっと、こんな幸運は無いでしょうし」
「……次があっちゃ、ダメなんだ」
「はい、二度と起こらないようにしないといけませんね! あ、これは労災として扱いますので、休んでる間も給料は……」
俺のせいなのに、藤川さんは俺を見ていない。
謝罪しようとしたけれど、二人は一切俺を見ない。
ただ、藤川さんが、お嬢様を一瞬だけ睨んでから、ゆっくりと、そしてはっきりと。
彼女らしくない、暗い笑顔をしていた。




