15、兄と妹
エリーゼが自分にあてがわれた客間を出ると、目がちらつくほど絢爛な廊下に出た。主要な機能が集まる中央から離れた別館には人通りはなかった。
隣の部屋をノックするが、返事はない。エリーゼは構わず扉を開いた。
兄のエルドレッドは窓際の安楽椅子にだらしなく横たわっていた。
「兄さん、なんてかっこうしてるの」
エリーゼは呆れた声を出した。「ここは敵地なのよ、わかってる?」
そう言いながらも、エリーゼは部屋に散らばる衣類や机上に散乱する茶菓子を片付けていった。
「そのままにしとけよ」
エルドレッドはエリーゼを見ることもなく言った。「片づけるのはどうせ〈ギルド〉の連中なんだ」
「わたしが気になるのよ」
そのときふと、エリーゼは気づいた。
「兄さん、いらいらしてる?」
「・・・してねえよ」
強いて平坦な口調は、感情が高ぶっていることの裏返しだった。
エリーゼは黙ってエルドレッドの前に腰かけた。
「あいつはどうした」
エルドレッドが片方の目でエリーゼを見やった。
「イアン様は〈ギルド〉から仕事を頼まれたそうよ」
「なんだと?」
エルドレッドの目が光った。
「勘違いしないで」とエリーゼ。「死体処理、だそうよ」
ここに来る途中、エリーゼは地下に向かうイアンとレイノーラに出会ったのだった。
「・・・あいつはどこに行ってもやることが変わらねえな」
エルドレッドは笑った。
エリーゼはそれを見て確信した。
「兄さん、何があったの?」
一瞬、間があった。
「なんにもねえよ」
エルドレッドは答えた。
「なにもない人はそっぽを向いて黄昏てたりしないのよ」
エリーゼは玄関口で〈ギルド〉職員のリアナに引き合わされた後、彼女に案内されて客間に通された。
それ以降、エリーゼはイアンとレイノーラを除く誰とも顔を合わせていない。
エルドレッドも同じだと推測すると、
「あの男に何か言われたの?」
リットマンだったかしら、とエリーゼ。
リアナもそうだったが、リットマンも慇懃な所作と陰鬱な表情が特徴の、気疲れするような男だった。兄と気が合うはずもなく、ひと悶着あってもおかしくはない。
だが。
それにしては落ち着いている気がする。
「ねえ、何か言われたんでしょ」
「うるせえな」
エルドレッドは安楽椅子の上で身体ごと窓に向けた。
あからさまな対話拒否。頑固な兄のことだ。こうなってしまっては仕方ない。自分の人形の腕にものを言わせるのも、場所がそれを許さない。
エリーゼはため息をついて、備え付けのポットで茶を淹れると一口すすった。片腕でこなすのも慣れたものだ。
毒物を気にしなくていいのは便利な身体だな、とエリーゼは思った。
〈ギルド〉に到着したのは昼すぎだったが、窓の外はすでに夜闇が迫ってきている。
イアン様は今頃、地下で死体とたわむれているのかしら。
エリーゼはつらつらとこれまでのことを思い返した。
生まれてからのこと、兄と過ごした冒険者としての日々、死ぬ間際の走馬灯、〈屍者〉としてよみがえってからのこと。
こうして意識があるのに肉体に血が通っていないということは、いまだにエリーゼにとっては現実味がなかった。
しかし、人形のかわいらしい右腕が何よりの証左だった。
「なあ、エリーゼ」
ふと兄の声がした。
エリーゼが顔を上げると、エルドレッドが顔だけこちらに向けていた。
「おまえ、〈屍者〉になったことを後悔してるか」
「・・・それは」
それは〈ギルド〉職員リットマンに言われたことに関係しているの。
そう問いかけようとして、エリーゼはすんでのところでとどまった。
かわりにこう答えた。
「いいえ、後悔していないわ」
「・・・もうこっちの世界には戻れないとしても、か?」
いらいらして口を閉ざしたかと思えば・・・
いったい何の話、と茶化そうとして、エリーゼはエルドレッドの真剣なまなざしに気付いた。思いがけない表情にややたじろぎつつ、エリーゼはたずねる。
「こっちの世界って?」
「こういう世界だよ」
エルドレッドは起き上がって手を広げてみせた。
きらびやかな照明。凝った意匠の家具。高価な茶器と過剰なまでに薫りたかい紅茶。
エルドレッドの言わんとするところを察したエリーゼは言った。
「こういう世界はもう沢山だって二人で話したでしょう」
「だが、あんな薄暗いじめじめした国よりはマシかもしれねえ」
「何度も言わせないで。わたしは〈屍者〉になったことを後悔していない」エリーゼはきっぱりと言った。「ねえ兄さん。一体どうしたの?さっきから様子がおかしいわ」
「・・・別に」
エルドレッドはまた安楽椅子に沈んだ。
「どうせ兄さんのことだから、わたしを心配してるんでしょうけど・・・わたし、兄さんを見捨てて一人で幸せになるつもりなんてないから」
「・・・」
「兄さんの罪はわたしの罪。背負うなら一緒。これも前に話したでしょう。この身体が便利だとは言わないけど、でも」
エリーゼは言った。
「わたしたちの贖罪の一部だと思えば、そう悪くないわ」
「・・・そうか」
エルドレッドは小さくつぶやいた。
その目に小さな炎が宿っているのを、エリーゼは見逃さなかった。
レイノーラはイアンを地下安置室に送り届けた後、自室に向かって廊下を歩いた。
何人か〈ギルド〉の職員とすれ違うなか、いつの間にかレイノーラの後方について歩いている男がいた。
しばらくそのまま歩く。
「リットマン、報告を」
廊下に人気がなくなったころ、レイノーラは前を向いたまま言った。
「接触は良好でありました」
リットマンが慇懃な調子で答えた。「本人に未練はないようですが、妹を引き合いに出すとどうも・・・」
「ふむ。〈ギルド〉の記録を漁った甲斐がありましたね」
「この後は如何ように」
「引き続き揺さぶりをかけてください」
「御意」
「ただし、暴力は厳禁です。あれはまともにやりあって勝てる相手ではありませんから」
「・・・数の暴力を覆せるほどの猛者とは見受けられませんが」
「なりません」
「・・・承知いたしました」
レイノーラは自室に到着した。振り返ると、いつの間にかリットマンの姿は消えていた。
自室に入って扉を閉めると、レイノーラは一息ついた。
いくつもの糸を操って絡まり合わせるのは骨が折れる作業だったが、今のところ細工は流々。あとは・・・
「うまく着火させてくださいよ、リットマン」
レイノーラは窓の外を見やった。向かいには教育理事の執務室があるはずだったが、カーテンは閉まっていた。