1、冒険者の最期
ダンジョン第7層5節。
マイ・アオムラは傷だらけの頬を地につけていた。
視線の先には、最後のクランメンバーが撤退する姿があった。彼は一度もマイを振り返らなかった。
身体が動かない。心臓の鼓動が緩慢になっていくのを感じる。
マイは自分の死期を悟った。
「もっとも・・・」
声にならない言葉が漏れ出た。
マイの眼前にはモンスターの異形の姿が迫っていた。彼らの前では、マイのまとっているフルプレートなど木っ端同然だろう。
マイは大規模クラン〈求道者の集い〉の最前衛タンクだった。
女のなかでも大柄とは言えない身の丈でフルプレート装備に鋼鉄の盾を背負っているのは、彼女が望んでのことではなかった。ましてや、ダンジョン下層部で死体すら残らないような最期を迎えるなんて。
マイは異国の出身だった。特徴的な黒髪は目立ち、生きるのにひどく苦労してきた。また、自分の名前が歴史上の聖女と発音が似ていることも、彼女の悪目立ちに一役買っていた。
聖女の名を騙る異国の女。
マイに残された道は、一般人が敬遠するような厭職、ダンジョンに潜入するギルドクランの最前衛職、斥候職もしくはタンク職の二択だった。
華奢な身体つきのマイがタンクに選出されたのは、単にギルドの欠員の問題だった。最前線に立って敵の攻撃を一身に受けるタンク職は、入れ替わりの激しい職だった。
しかし、マイはこの世界で思いがけない才能を発揮した。
人生に絶望したが故の豪胆さ、攻撃を受け流すしなやかさ、タンクとして理想的な能力だった。
マイは人生で初めて人から必要とされる感覚を知った。
それがマイにとって幸か不幸かはわからなかった。
なぜなら、ダンジョン下層部で死亡した冒険者は、多くの場合、死体すら回収されないからである。
タンクとして頭角を現してから、間もなくマイは実力派クランの一角である〈求道者の集い〉に参加した。次々とダンジョンを攻略していった〈求道者の集い〉は、ついに今日、第7層5節に到達した。
ダンジョンは聖書になぞらえて区分されている。第7層は、聖書における第7章〈地獄篇〉の序章にあたる。ギルドではここからダンジョン下層部にあたると認識されており、その初陣として〈求道者の集い〉が選ばれたのは自然な流れだった。
しかし、マイは強烈な違和感を感じていた。
ダンジョン潜入にあたって、ギルドから事前情報が提供される。その情報に誤りが多分に含まれていた。マイたち冒険者の事前準備はほとんど意味をなさなかった。
敗走すべくして敗走したようなものだった。
違和感はそれだけではなかった。ダンジョン情報に誤りがあった時点で、選択すべきは撤退しかなかったはずだった。
しかし〈求道者の集い〉のリーダーは撤退の号令をかけなかった。マイは最前線に立たされ続けた。マイが地に倒れこんだとき、ようやく撤退の指示が出た。
しかし、誰もマイに手を差し伸べなかった。マイをおいて第7層5節から駆け出した。
「聖女を騙る悪女にはお似合いの結末だな」
そうささやいて、誰かがマイの左足を踏みつけていった。悲鳴も出なかった。
回想から我に返ると、手が届きそうなところにモンスターの姿があった。
「あぁ・・・」
怪物の生臭い吐息。こいつの胃袋に収まるのが自分の最期だと思うと、マイの目から涙があふれ出た。
どうして。どうしてこんな目に。
幸福とは縁遠い人生だった。裕福な暮らしなんて求めていなかった。日々の生活なんて、かびたパンと雨風しのげるあばら家で十分だった。そしてそれらは、最前線の過酷なタンク職の報酬で不足はなかった。
マイが心から求めたのは愛情だった。
お金では買えない、無条件の、命さえ投げ出していいと思える不合理なまでの愛情。
たった一つの純情を求めた先の末路が、なぜ。
「なんで・・・」
涙が止まらなかった。モンスターが大きくいびつな口を開ける。花のように赤く開いたさきに、虚空のような黒い喉元がのぞいた。視界がぼやけて見えない。マイは恐怖と悲哀から目を閉じた。
そして、その時は訪れた。
痛みは感じなかった。ただ、四肢の感覚はなく、心臓の鼓動も感じなかった。それで自分が死んだことをマイは悟った。
死の直前と同じく、視界はぼやけていてはっきりしない。自分の体は冷たくなっているはずだが、寒くはなかった。案外、生前よりも心地が良いかもしれない。
しかし、死んだというなら、この意識はいったい
「死を受け入れるかい」
白けた視界のどこかから、少年の声がした。優しく、いたわるような声だった。マイは答えようとしたが、声の出し方が分からない。
「声を出す必要はない。考えるだけでいい」少年は言った。「きみは死が怖いかい」
(・・・いいえ)
マイは心のなかで念じた。(生きていたって、何も良いことなんてなかったもの)
「けっこう」少年はうなずいた、ようだ。「では、次の質問だ。未練はないかい?」
(未練・・・なにに・・・)
「きみの人生に」
少年は言った。
マイははっとした。人生。わたしの人生。自分の心の澱をぴたりと言い当てられたようだった。
おぼろげだった男の姿が、徐々にあらわになっている。自分と同じか少し年下。日焼けとは縁遠い青白い肌、それなのに重い荷物を扱う行商人のような引き締まった体躯。顔つきはとてもやさしげで、慈しみにあふれていた。
(やさしい・・・かお)
「ありがとう」少年は少し驚いたようだった。「ぼくは死を愛しているから。死を受け入れたきみのこともいとおしい」
(愛してくれるの)
「もちろん」
マイの目から涙があふれた。
「もう一度訊こう。きみの人生に未練はあるかい」
(・・・あるわ)
マイは強い意志でうなずいた。(わたしを愛してほしい。虐げられるばかりの人生なんて、納得いかない。わたしは・・・わたしは!何も悪いことはしていないもの!)
「すばらしい」少年は言った。「きみはぼくらの家族になる資格を得た」
(家族・・・?)
「そうだ。きみが望むなら、ぼくらは家族になれる。血のつながりなんて関係ない、純粋な死によって結びついた家族。〈屍者の国〉だ」
(わたしを愛してくれる?)
「家族だからね」
少年は微笑んだ。
マイには、それがとても魅力的に見えた。
彼は手を差し出す。何かで黒ずんだような、けれどとても繊細な指。マイは自分の血まみれの手が恥ずかしかった。だが、愛を求めていたマイはおそるおそるその手を握った。
そして彼女は、〈屍者〉として蘇生する。