ぽちゃん
夜中の二時。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、部屋の壁をぼんやりと照らしていた。
冷蔵庫の低いうなりと、時計の秒針の音。それ以外は何も聞こえない。
静かな夜の真っ只中、俺はベッドの上で、眠れずにいた。
――ぽちゃん。
来た。
また……“あの音”だ。
時計を見ると、時刻はやはり午前二時ちょうどを指していた。
俺は、ベッドに寝転んだまま天井を見つめる。
最初にこの音に気づいたのは、今から三週間ほど前。仕事の都合でこのアパートに越してきた、その日の夜中だった。
最初は、気のせいだと思った。
風呂場やシンクの蛇口に残った水滴が落ちた音だと思って、大して気にもしていなかった。
けれど――
――ぽちゃん。
それは、深夜の決まった時間に鳴り始める。
音源は、分からない。一度確認してみたこともあるが、シンクや風呂場。トイレも乾いたまま。雨でもない。
ただ、どこか……近くで鳴っているように聞こえて、どうにも落ち着かなかった。
「気味悪いな……」
そう思うが、しばらくすると、音は止む。
まるで何事もなかったかのように。不規則に鳴り続けた水音はいつの間にか消え去り、部屋に静寂が戻ってくる。
それを確認してから、ようやく眠りにつくのが、最近の日常になっていた。
***
数日後の夜。
眠れないまま、天井を見つめていると、またあの時間が来た。
午前二時。時計の針が小さくカチッと鳴る。
――ぽちゃん。
まただ……また、あの音。
でも、今夜は、少し違う。
――ぽちゃん。ぽちゃん。
短い。
まるで色んな所から滴り落ちているかのように、間隔を短くして、何度も水音が響いた。
「な、なんだよこれ……」
いつもと違う状況に、俺は、思わず体を起こした。
ベッドを降り、音を頼りに部屋の中を見回る。静まり返ったワンルームの中、異様なまでに音が鮮明に響いている。
「違う……ここも」
キッチンじゃない。風呂場も静かだ。トイレも確認した。蛇口は乾いている。
――ぽちゃん。
そうこうしている内に、俺は気付いた。
「こっち……?」
音は……壁の向こう――クローゼットの方から聞こえた。
「まさか……」
そんな筈はないと思いながら、自然と足が向かう。
クローゼットの前で立ち止まり、耳を澄ました。
――ぽちゃん。
やはり間違いない。ここだ。
俺は、息を飲み、ゆっくりと取っ手に手をかけた。
金属のひんやりとした感触がやけに鋭く感じて、背筋がぞわりとする。
ギィ……と、クローゼットの扉を開ける。
中を覗くと、
「……ッ……!?」
なにもない。
そこにはただ、漆黒の闇だけが広がっていた。
「やっぱり、気のせいか……?」
そうかもしれない。
仕事や色んなことでストレスが溜まってるんだろう。そうに違いない。
だから、きっと。
部屋の空気が“湿っている”ような感じがするのも、気のせいなんだ。
そう、思うことにした。
***
翌日、夕方。
仕事から帰って来た俺は、ふと隣の部屋のドア前で立ち止まった。
ドアポストから、おびただしい数の新聞やチラシ、宅配の不在票が飛び出している。
――おかしいな。
その部屋に住んでいたのは、確か……“四十代くらいの男性”。
昨日までは、確かに物音がしていた。夜にテレビの音が漏れたり、たまにくしゃみや咳払いが聞こえたり。生活の気配は、間違いなくあった。
「……留守、なのか?」
俺はそう呟きながら、ちらりと足元に目を落とす。
ドアの下の隙間から――水が、滲んでいた。
「……ッ……!?」
ほんの僅かだが、乾いた床の上に、這うような水の筋。
雨の日でもないのに……まるで誰かが、中で水をこぼし続けているみたいだ。
なんだか、嫌な予感がした。
俺は咄嗟にポケットからスマホを取り出すと、マンションの管理会社の番号を検索した。
なにかあってからでは遅い。念の為、通報しておこう。
衝動に駆られて画面の番号を押していく。
しかし――
「……出ない」
事務所は既に営業時間外らしく、留守番電話が繰り返されるだけだった。
「はははっ……」
なにをしてるんだ俺は。
いくらなんでも考え過ぎだ。おおかた旅行にでも行ってるんだろう。
そう自分に言い聞かせるように笑ってはみたものの、胸の奥に渦巻く不安は、まるで澱のように消えずに残っていた。
その夜、俺は耳栓をして眠った。
けれど――午前二時。
――ぽちゃん。
音は、聞こえた。
まるで、耳の内側に直接水滴が落ちているかのように。耳栓の意味なんて、まったくなかった。
――ぽちゃん。ぽちゃん。
思わずベッドから起き上がり、床に足をついた。
「……ッ!?」
瞬間、水を踏んだ音がした。
俺は反射的にスマホを構え、ライトを点ける。
「……ッ……!」
――水溜まりだ。
「……なんで……?」
部屋中に、点々と水溜まりがある。
――ぽちゃん。ぽちゃん。
「……ッ、ふざけんなよ……!」
訳が分からない。不安が怒りに変わる。
――逃げなきゃ!
妙な確信を持って、飛ぶように玄関に走った。
ドアノブに手をかける。
「……ッ!?」
手が滑った。
ドアノブが、濡れている。
うまく掴めない。
「な、なんだよ……っ」
空気が、重たい。
まるで水の中にいるみたいだ。
息苦しさを感じるのは、気のせいなのかどうか。
――ぽちゃん。
水音が聞こえた。すぐ後ろから。
「……ッ!」
振り返れない。怖くて、振り返ることができない。
「……開けよ……っ!」
必死に、両手でドアノブを握り締め、渾身の力で捻った。
がちゃり、と乾いた音がして、ドアが僅かに開いた――その瞬間。
――ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃんぽちゃんぽちゃんぽちゃんぽちゃんぽちゃん……。
水音が一気に増えた。壁から、床から、天井から、まるで“逃がさない”とでも言っているかのように、四方八方から音が反響してくる。
「来るな……! 来るな来るな来るなッ!」
俺は半ばパニックになりながら、ようやくドアを開け放ち、外の廊下へと飛び出した。
冷たい夜風が顔を打つ。乾いた空気に触れて、なんとなく、助かったような気がした。
ホッと胸を撫で下ろす。
そこでようやく俺は、後ろを振り返った。
開いたままのドアの隙間。
その闇の中――
「――ッ!?」
“なにか”と目が合った気がして、
『タ……ケテ……』
俺は全速力で階段を駆け下りた。
***
その後、しばらく帰る気にはなれなかった。
そのまま外で夜を過ごした俺は、翌日――明るい内にと、荷物を取りにアパートへ戻った。
すると、
「なんだ……?」
アパートの前がやけに騒がしい。
パトカーと救急車。それと野次馬が数人。
何事かと様子を窺っていると、警察官の慌ただしい話し声が聞こえた。
「救急隊員の方に確認しました。死後、少なくとも三週間は経過しているみたいです」
「そうか……事件性は?」
「さあ、こればっかりは捜査を進めてみないと。ただ……」
「なんだ?」
「大家さんに聞いたのですが……」
そこからは、聞き取ることができなかった。
――三週間? 事件?
抱いた違和感を、ぐっと飲み込む。
ほとぼりが冷めてから、俺は自分の部屋に戻って貴重品を回収し、夜はビジネスホテルで過ごした。
その後、このことはテレビで放送された。
あのアパート、俺の住んでいた部屋の隣から――“若い女性”の溺死体が発見されたという衝撃的なニュース。
事件性は薄いと報道されていたが……。
――違う。
それを見た時、俺は心の底から震え上がった。
それから、俺はすぐにあのアパートを引き払った。
逃げるように手続きを済ませ……今は、別の町で暮らしている。
引っ越してから、あの時みたいなことは起こっていない。
だけど――午前、二時。
――ぽちゃん。
たまに目を覚ましてしまう。
どこかでまた、あの音が、聞こえたような気がして。