02
六
その後、慎治は児童自立支援施設に入所させられた。「触法少年」として更生を要される慎治は、そこで日常のサイクルをプログラムされて、新たに教育を受けることとなった。逃避行の終わりに至るまで、慎治たちは他人の施しを求めて彷徨い、自己の罪悪感と闘って生活をしていた。施設では中学校と変わらないような授業を受け、夕方には清掃活動などをしていたが、施設の中に組み込まれた日常はあまりにも退屈で、それに、真衣のいない世界は何者も存在していない空箱のように思えて、その虚しき意識は、慎治から反抗の気力を根本から奪ってしまった。その箱の中では自我を表現しないという態度を貫いていたが、それが却って「模範的な少年」という印象を与えることとなり、慎治の「更生」は順調に進められた。ただ一つの理由さえ存在しなければ、慎治は昔からいつだって「模範的な少年」であったのだ。
その翌年の冬、慎治は一時帰宅として、施設の職員に連れられて父のもとへ向かった。立ち退きに際して用意される筈だった住居には結局住むことができなかったらしく、新しい住所は、あの町から数十キロも離れた場所に存在していた。そこにあるのは酷く古びたアパートで、前に住んでいた自宅を何個も繋げて大きくしただけのような、みすぼらしい外装をしていた。錆のついた階段を上り、一番奥の部屋の呼び鈴を鳴らすと、暫くして、無精髭を生やした父がドアからその姿を現した。
「おかえり、慎治」
「ただいま」
部屋の中は弁当やカップ麺、酒瓶などのゴミでやや散らかっていたが、物が少ないせいか、この部屋を汚いとは感じなかった。
「すまないな、マンションには住めなかった」
「ごめん、僕のせいだよね」
「別に慎治のせいじゃない。最初からあのマンションには住めなかったんだ。騙されてたんだ、あの地上げ屋に。でもまさか、あいつらが死ぬとは思ってなかったよ」
「……」
自分のせいではない……そう言われても、慎治は父親に対しての罪悪感を拭うことができなかった。くすんだ夕焼けが窓ガラスの奥に広がっている。この景色と同じものを、前にいた家の中でも見たことがあるような気がした。
「父さんも、お前に散々迷惑をかけたんだ……それに、人を好きになるのは仕方の無いことだろ?」
「えっ?」
思わぬ父の言葉に、慎治は驚きの声を漏らした。
「好きだったんだろ? あの神社の子が」
「……うん」
「じゃあ、仕方無い」
何が仕方無いのか、慎治にはよく理解できなかった。だが父も、父自身の言う「仕方無い」くらい母のことを愛していたのかもしれないと、慎治は思った。
慎治は父に「その神社の子は今どこにいるの」と聞いた。だが父は「それはわからない」と答えた。その質問に続けて「あの後神社はどうなったの」と聞くと、父は頭上の記憶を眺めるような目をして、そのことについて話し始めた。――慎治が神社に火を放ったという事実を、父は翌朝になって知ったという。その後警察にも連れいかれ、そこで色々と大変なことがあったようだが、そのことについて、父は詳しく語らなかった。次の日、息子の行いに対する謝罪のために神社へと向かうと、社殿の大部分は焼け崩れてしまっていたという。社務所の呼び鈴を鳴らしても、中からの返事は無かったらしい。慎治は胸の詰まるような思いがした。それからさらに二日後、突然警察から電話があり、頻繁に押しかけに来ていたあの地上げ屋が事故で死んだということ、更に、その時行方不明になっていた自分の息子と神社の子が地上げ屋の車に乗ってC県の方へ向かったということを知らされ、その時は驚愕で声も出なかったという。そしてそれが大々的に報道されており、二人が警察に「保護」されてからは自宅にも記者たちが押し寄せるようになったので、いよいよ大変なことになったと思い、最低限の荷物だけを持って今の家に引っ越し、あの自宅は、既に取り壊してしまったという。
――一人の少女のために煩悶してきた日々の中で、ここにいる父にも大きな迷惑をかけていたということに、慎治はようやく気づいた。だが、暫く顔を見せなかった数か月の間に、父は少し変わったような気がする。前よりも慎治に対してよく話をするし、雰囲気にも、過去に囚われるような悲痛さは見られなくなった。思い出と共にあの家を捨て去って、前向きな意思を取り戻したのかもしれない。慎治は、同時に自らの過ちを顧みることによって、初めて父を尊敬できるような気がした。
久々に訪れた父と二人だけの時間を終え、職員の待つ車に乗り、再び施設に戻った。その日を境にしてか、同じ施設で暮らす人たちとの親睦も次第に深まり、馬の合わない人もいたが、慎治は少しずつ他人に対して心を開いていくようになっていった。だが、その過程に於いても、真衣のことが頭から離れることは無かった。あの子は今どこにいて、何をしているのか……それについて一切の想像がつかなかったが、あの時「さよなら」さえも言えなかったことを、慎治は強く後悔するようになった。
真衣の存在は、慎治の中にある意識の海の中で、まるで海を構成する物質のように偏在していた。自らの意識の海に自らが溺れてしまう感覚……何度サルベージしても、またそこに還る感覚――それを初めて「好き」という言葉にしたのが、父であった。
慎治は真衣が「好き」で、今も忘れられずにいる。いっそ忘れられたらどんなに救われることか。
慎治が施設を出たのは十六歳の時で、同級生が中学校を卒業する時期とほぼ同じであった。慎治の父は、慎治が施設を出る半年前に自ら命を絶ってこの世を去った。この突拍子の無い知らせを職員から聞いた時、慎治の内からは感情というものが忽然と消失し、施設の中で開かれた心は再び固く閉じられ、ついにそれが開かれることは無くなった。そしてこの孤独と自閉の内で、慎治は父の死を哀しむことができなかった。大きな哀しみの津波を目の前にして、まるで超常現象が津波を海原へと引き返す光景を目撃したような、奇妙で空虚な感覚に支配されていた。
父が自らの命を絶つに際し、息子や親族への遺書さえも書き記して残さなかったのは、父の死が、父自身の衝動によって何の前触れも無く引き起こされたものであったからなのかもしれない。父が死んだ部屋の中は、その瞬間までの父の生活が色濃く残されたままになっており、テーブルには酒瓶が何本も置かれ、その内の一本は倒れて中の酒が床の上に撒き散らされ、乾ききっていたという。そして、酒瓶の横には向精神薬が置いてあり、その作用が父を死に至らしめたのか、それについては部屋を捜査した警察が大体の仮説を揃えていたが、本当のことは誰にもわからない。
それから慎治の後見人は父の弟が引き受けることになったが、頼るべき親族に厄介者として扱われるのを恐れた慎治は、叔父に保証人を頼み、新たにアパートを借りて一人で暮らすことにした。家賃は安いが、父の暮らしていたアパートよりも築年が新しいせいか、いくらか綺麗に見える。そこを生活の拠点とし、朝から配達のバイトをして生活費を稼いで暮らすようになった。この生活が今の慎治にはぴったりと当てはまり、不思議と何の蟠りも無く、今までで最も気楽な日々を送っているような気分になった。だが夜になると、途端に巨大な虚空が瞼の内に広がり、まるで生きている実感を失うような感覚に陥り、日中は寝静まっている思考の洪水に飲みこまれるということが頻繁に起こるようになった。この渦中にいる最中、父と母が「あの世」で再会する光景を夢想したり、自らがその両親に会いに行くことを妄想したりと、取り留めの無い思考をぐるぐると繰り返していたが、哀しみは一向にその姿を現さなかった。自らが哀しみに歩み寄っても、感情が慎治自身の接触を拒むのである。
太陽がのぼっている間は自らの存在理由を配達に結びつけることができるが、町中が寝静まっている時、慎治は何事にも自らの存在理由を見つけることができず、真っ暗な部屋の中に置かれた一つの物質として、布団の温もりに身を任せていた。真衣ちゃんはどこで何をしているのだろう――あの逃避行が終わって既に三年が経過している。目まぐるしく変動し過ぎ去っていった時間の平行線上を、あの子は一体どのように過ごしたのだろう――その夜、慎治の頭を掻きまわしていたのは、あの時「好き」だった一人の女の子のことであった。
――真衣ちゃんを探そう――
不意にそう思った。そして、その考えに今まで至らなかったことを不思議に思った。もしかしたら、無意識の内にその不可能と虚しさを悟って、その考えを起こさずにいたのかもしれない……だが、その夜は何故か、強い意志を以て真衣のもとへ行くことを思案していた。しかし朝になると感情の空気が抜けたように、何を考え、何を感じることも無く、いつもと同じように配達の仕事に打ち込んだ。寧ろ一心に仕事をしている方が余計な思考に囚われず、救われるような気さえする。
ある晩慎治は布団の中で、自分がいつまでもあの子に対して執着を重ねる理由を心の内に探った。
憧憬――それを抱いたのは、小学五年生の夏の終わりであった。天使の目前で悪魔に魂を浚われるような瞬間が、その時訪れたのである。
真衣と知り合ったばかりの慎治は、何とも言えぬ気恥ずかしさで、一人であの神社に向かうことを躊躇っていた。なので、自分を欺くための口実として貯金箱から賽銭を取り出し、それをポケットに入れて神社へと向かった。家を出ると、隣の家のおばさんが役所の人二人と何やら言い争いをしていて、慎治はその場を急ぎ足で通り過ぎた。いつもは通り過ぎる十字路を、その日は少しだけ立ち止まって、自分の行き先を考えた。そして、神社のある方向に進み始め、ゆっくりと石段を上り、頂上が近づく度に早まる鼓動に怯えながら、やがて鳥居をくぐった。その奥に、木漏れ日のコントラストで彩られた古い社殿と、巫女装束に身を纏った少女の姿があった。
「……やあ」
「……?」
慎治がゆっくりと近づきながら声を掛けると、真衣は僅かに怯えるような素振りを見せて、慎治の方を向いた。
「こんにちは、北出さん。何してるの……?」
「私は何もしてないよ。ところで、君は?」
「僕は、お参りに」
「あっ、そっか。ちょっと待ってて、今アイス持ってくるね」
真衣がそう言って社務所に向かうと、慎治の緊張は少しだけ解けて、無心のままにその場で佇んだ。セミの鳴き声が境内の中で鳴り響き、その騒音が自らのざわつく心を静めているように思えた。
社務所の扉が再び開き、真衣が二色の棒アイスを持って慎治のもとへやって来た。真衣の手にあるアイスはぶどう味とりんご味の二種類で、「どっちが良い?」と聞かれて直感でぶどう味の方を選び、袋を破ってそれを食べ始めた。慎治は今でも、その時のぶどうアイスの味を舌のどこかで記憶している。一方、眼球……シナプス……鼓動が記憶しているのは、世俗と乖離した神秘を宿す、穢れ無き、巫女装束の同級生がりんごのアイスを口に含むその姿であった。
「その服、いつも着てるの?」
「ううん、おじいちゃんが出してくれたの。今は誰も使わないからって。それでさっき着てみたんだ」
「そうなんだ」
真衣の姿を見ながら、慎治は心の中に生じた言葉をそのまま伝えるか、それとも留めておくかに迷い、その優柔さに悶々としていた。真衣も、敢えて自らの服装に感想を求めるようなことはしなかった。
「あっ、でも、クラスのみんなには言わないでね」
慎治が不思議そうに「どうして?」と聞くと、真衣は照れくさそうに「どうしても」と答えた。
風に吹かれた枯葉が一斉に舞い散る光景を見て、それがまるで真衣の存在から引き起こされた現象のように感じるほど、少年はこの少女一人の存在に幻惑させられていた。慎治の内に生まれた魅惑と憧憬は、この神秘的な光景によって刻み込まれた、一つの信仰であったのかもしれない。
「ねえ、また来ても良い?」
「うん、また来て。君が来てくれたら、神様もきっと喜ぶから」
「神様が?」
「ここにはお参りに来るような人もあまりいないから」
「そっか」
真衣の言う「神様」は何者で、自分たちにとってどのような存在であるのかもわからず、慎治は少し畏れを抱かされたような心持ちになった。何はともあれ、真衣に会うための理由を得て、慎治は「また学校でね」と告げて、微熱のようなものを覚えながら石段を下りた。帰り道、何気無くポケットに手を入れると、慎治は賽銭の存在をすっかり忘れていたことにようやく気づいた。
――それから五年が経った今、幾ら追憶に耽っても、自らの感情を論理的に探るなど慎治にできることではなかった。もしもそれができたのなら、あんな過ちは犯さなかっただろうなと思った。
その年のクリスマス、配達の仕事はいつもより繁忙であり、慎治はくたくたになって営業所に戻ると、事務の人に「川木という人から預かった」という手紙を渡された。
手紙によると、川木は地元の高校に進学したらしく、騒動がひと段落ついた頃に一通手紙を送ろうと思っていたが住所がわからなかったので長い間保留にしていたところ、偶然同じ小学校出身の同級生が慎治の働くエリアに住んでおり、慎治がそこで配達員をしているのを見かけたという話を聞いて、慎治のバイト先に手紙を託して直接自宅に送ってもらった――という旨と、それに加えて、事件以後の慎治を案じる内容が綴られていた。
この手紙を読み、慎治はもう何年振りかというくらいに感極まって、その夜自宅に帰ると、すぐさま川木への返信を書き始めた。その一見時代遅れとも思える文通が幾度か続き、慎治と川木は、ついに数年振りとなる再会を約束した。
約束の当日、二人はA県の最も大きい街の駅で待ち合わせ、まずはお互いの近況について報告し合った。そして、慎治のことについて触れられたのは、駅前のファミレスに入って、二人の雰囲気がそれなりに落ち着いてからであった。
「それにしてもお前、大変だったな」
最初に話題に触れたのは川木であった。
「まあね」
「あれから北出とは会ってないのか?」
「うん。でも……」
「え?」
「もう一度会いたいとは思うんだ」
「どこにいるのか知ってるのか?」
「それはわからない」
「じゃあ会うにも会えないだろ。それに、警察だってまだお前から目を離したわけじゃないだろ? 迂闊なことしたらまた捕まるぞ?」
「まあ……」
川木は呆れたような顔を浮かべ、テーブルのコーラを一口飲んだ。
「何の手がかりも無いのか?」
「真衣ちゃんのはね……でも一つだけ、あるにはある」
「何だよ?」
「もしかしたら、高内先生が知ってるかもしれない」
「高内? 体育の? 何であいつが」
川木は慎治の言うことの不可解さに眉をひそめ、またコーラを一口飲んだ。
「川木は小学校の時、真衣ちゃんの宗教とかの噂聞いたこと無い?」
「ああ、あるよ。それで気味悪いなと思って、あまり近づかなくなった」
「その宗教の正体が、高内先生だったんだ」
「はぁ……どういうことだ?」
慎治の言葉は、真衣に対する数年越しの誤解を解くことも目的として含まれていた……しかし、慎治の心情は川木には届かず、川木を困惑させるばかりであった。
「もしかしてお前、まだ北出のことが好きなのか?」
「えっ?」
川木の唐突な問いに不意を突かれ、慎治はメロンソーダを飲むのを中断し、ぎょっとした表情で川木の方を見た。
「お前あんだけのことやったんだから、いい加減目覚ませよ。これじゃあ殆どストーカーだぞ」
川木はそう言ったが、この言葉が自分に対する世間の、傍からの認識であることを受け入れたら、慎治は自らに寄せていた僅かな信頼の一切を失ってしまうような気がした。自らの逸脱には常に無頓着でいた慎治にとって、川木の言葉は刃物のような鋭い客観性を含んでいるばかりでなく、同時に感情の隔たりという大きな重圧によって押しつぶされるような感覚に落とされるのである。
「でも、高内先生の居場所さえわかれば……」
「だから目を覚ませって」
二人の間から会話が途絶えて沈黙が生じ、それに割って入るように注文した料理がやって来て、店員によって並べられた。二人は無言のまま、その料理に手をつけ始めた。それから暫くは二人とも口を利かなかったが、川木が噛んでいるものを飲みこんだ後、
「まあ一応、俺は高内が今どこにいるのか知ってるんだけどな」
「えっ?」
まるで最後の憐憫を向けるように言った。
「あいつはB市にできたタワーマンションのどっかに住んでるよ。それと、もう○中の体育教師は辞めてる」
「そっか……」
「それ以外のことは何も知らない」
「いや、それがわかっただけでも、何だか少し希望が持てた」
「希望? 俺はもう北出に関わるのはやめとけって言ってるんだぞ?」
川木がここまで慎治に忠告をする理由……それは、嘗て一度でも同じ少女を好きになった者としての同情と、その経験への拒絶なのかもしれない。だが、慎治はそれを聞き入れるどころか、寧ろ余計に積極性を増していくように見え、川木は躍起になって説得しようとする自分を馬鹿馬鹿しく思いつつも、友人として、慎治にこれ以上の間違いを起こさせないようにと、更に言葉を鋭利にした。
「お前、北出のどこが好きなんだ? 顔は確かに良かったけど、あんな気味の悪い奴、俺はごめんだね……神様がどうとか」
川木は辛辣さを装ってそう言い放ち、また勢いよく料理を口にした。だがその言葉は慎治に憤怒の感情も悲哀の感情も与えず、それに代わり、慎治がここ数日の間抱いていた自己に対する問いを再び呼び起こした。慎治に考え込む隙も与えず、川木は口に含んだものを飲み込んでから、
「もっとまともな奴探せよ、お前を救ってくれるような奴を」
加えてそう言った。
慎治が昏睡の状態であれば、今の川木の言葉は十分な目覚ましの効果を持っていただろう。しかし慎治の意識は常にしっかりと覚醒しているし、一人の少女の存在が意識の奥底まで根を張っていることを、感覚的にもはっきり認識していた。寧ろ慎治にとって、夢と現実はその地位を完全に逆転したものとなっている。川木の言葉も、ニュースや新聞の記事も、意識を巡る根を焼き払って慎治を現実に引き戻すことは最早できなかった。
存在を求めることの途方も無い虚しさ……尊敬や愛着を抱いたものがある日突然消失し、感情が空虚の海に突き落とされる感覚を、慎治は誰よりも理解し、誰よりもその空虚を恐れていたが、やがて消失するもののみが自らを救済するということも知っていた。虚しさから逃れることができない人は、絶えず何かを求めて毒に心を犯されながら明日を繋ぎ、にこやかな笑顔を見せたり、泣き顔を晒したりして、やがて自分自身を影の中に消失させてゆく。
慎治は、自らに宿る「好き」という感情の正体をもう一度問い直した。そして、それがただの言語であることに気づき、その感情に潜むもっと恐ろしい本質を、川木に伝えようとした。
「川木が僕のために言ってくれてるのはわかる……でも、僕はこうしてる間もあの子のことで頭がいっぱいで、不安で、どうしようもないんだ」
川木は持っていたフォークを皿の上に置いて、
「やっぱりお前も、まともな奴じゃないんだな」
諦めたように、そう言った。
こうして二人の久々の再会は終わり、二人は逆方向の電車に乗って、それぞれの暮らす場所に帰っていった。帰りの電車の中で、慎治は、自らを案じてくれていた一人の友人との間に、決して取り壊すことのできない大きな壁を見出してしまったような気がして、それを悔いることに必死になった。
最寄り駅から自宅に帰る途中、慎治は見知らぬ男に突然「ちょっとお話よろしいですか?」と話しかけられが、それを無視し、そのまま無駄な遠回りをして、背後に人がいないことを確かめてから自宅の鍵を開けた。
まるで世界中が敵で満ち溢れているような気がした。
ある眠れない夜、慎治は自らの罪を告白する手紙を、泰子さんと浩平さんに宛てて書くことにした。あの教会風の家を脳裏に描きながら、これまでの罪悪感をひとつ取り除くために、一言一言を選び取るように探りながら、慣れない文章を飾り気の無い便箋に書き連ねていった。
――お久しぶりです。僕のことを憶えていますか? あの時お世話になったにも関わらず、お礼も言わずに立ち去ったことを今でも後悔しています。ごめんなさい。泰子さんと浩平さんは、僕たちが本当は兄妹じゃないことに気づいていたのではないでしょうか。僕たちは兄妹ではなく、同じ学校の同級生でした。このことはニュースや新聞でも報道されているので、もうご存知だと思います。今更ですが、嘘をついたことを後悔しています。謝りたいです。僕はあなたたちに受けた恩を今でも憶えています。このことは感謝してもしきれません。お二人のような優しい方に出会えたことを、あの時夢のように思いました。
僕は今、高校には行かず、配達のアルバイトをして暮らしています。両親は二人とも死んでしまいました。あの時一緒にいた女の子ともずっと会えていません。これは、神様が僕に与えた罰なのだと思います。ですが、僕はこの罪を償いたいと思っています。だから、こうして手紙を書かせていただきました。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。あの時僕たちは、お二人のような優しい方に嘘をつく必要なんて無かったのではないかと話し合いました。ですが、あの後別の方に助けていただいて、僕たちは嘘をつかずに自分たちのことをその人に話したのですが、その方は僕たちを警察に送りました。お二人は、僕たちが本当のことを話していたら、やはり同じように警察に送っていたのでしょうか?
僕は、あの女の子ことが――
ここまで書いて慎治はこの先の内容に悩み、この夜は一度続きを書くことを断念した。
続き
――僕は、あの女の子のことが好きでした。そして、今も好きです。こんなことを書くのは照れくさいのですが、このことは罪を償うためにも、書かなければならないことだと思います。あの女の子は、親の愛情を十分に受けず、人を信用できず、不登校でした。僕はそんな彼女を救いたいと思いました。しかし、本心では彼女を独占したかったのです。そのことを考えると、人を好きになるということがわからなくなります。人なんて好きにならない方が、人間は綺麗に生きていけるようにも思えます。でも僕は今、あの子と会えないことがとてもつらいです。そしてまた、新たな罪を犯してしまいそうな気さえするのです。
こんな手紙を送ってごめんなさい。僕が一番書きたかったことは、お二人にちゃんとお礼を言えなかったことへの後悔です。なので、ここで一言お礼を言わせて下さい。お世話になりました。もし再び出会うことがあったら、今度は嘘をつかずに、あの時の感謝を伝えます。――
この手紙が慎治の罪悪感を和らげるものとはならなかったが、心の蟠りは幾らか晴れたような気がした。慎治は便箋を封筒に入れ、翌朝、自らの思いを綴ったその手紙をポストに投函した。
七
相対的な正常と絶対的な異常。人を狂わせる魔物の存在……それが「神様」の正体であることを慎治はフラストレーションとメランコリーの布団の中で暴きだし、人間の不完全な心の隙間に生まれた魔物と依存を信仰し、世界の物事一つひとつが自らの精神を浄化してしまわぬよう、孤独を保つことに神経を注いで生活をしていた。あの日川木と語り、それを顧みてひどく後悔もしたが、そのお陰で、慎治はついに自らの欲求に対する忠誠を誓うことができるような気がした。
慎治は再び「あの町」にやって来た。そこは慎治が暮らしていた時の工事現場で埋め尽くされた殺風景な町ではなく、新たに建てられたタワーマンションと、それを引き立てる整然とした町並みが用意され、嘗ての面影はどこを見ても残されていなかった。通学路だった直線の道は綺麗に整えられた並木道となり、両脇にはマンションが立ち並んでいる。だがその内の一棟――地上げ屋が事故で死亡した――は買い手がつかず、他の棟よりも割安で売られている。慎治は嘗ての通学路を歩きながら、確かな「人々の生活」を感じていた。しかし、この町はこれだけ完全に生活の色を描き出しているのに、何故か全て偽物で、作り物の生活であるように感じた。そこに一切の郷愁は無かった。
しばらく歩くと、神社に続く道と自宅に続く道を繋いでいた、あの十字路に辿り着いた。周りは現代風の端正な一軒家に囲まれており、その真中に立った慎治は、嘗てここを曲がる度に心臓が締め付けられるような期待と切なさを感じていたことを思い出した。慎治は山の方に曲がり、懐かしい石段を、様々な思いを駆け巡らせながら急ぎ足で上った。やがて頂上に着くと、そこには神社も社務所も無く、小さな祠と石碑が雑木林の手前に置かれているのみであった。石段の方を望むと、変わり果てた町の姿が一望できて、慎治はそこに嘗て見てきた光景を重ね、小さく溜息をついた。もうここに真衣はいない。
慎治は虚しく石段を下り、再び十字路に辿り着くと、自宅のあった方へ進んだ。自宅のあった場所には二階建ての立派な一軒家が建てられており、車庫に八人乗りの車と子供用の自転車が置かれているのを見て、慎治はここに住む自分とは全く境遇の異なる家族の姿を思い浮かべた。すると、心臓が鼓動のリズムを乱しながら痛み出し、そのまま泣き崩れてしまいそうになった。こんな感覚に襲われたのはいつ以来だろうか……慎治は足元を見つめながら、早歩きでその場を後にした。
これで思い出の清算は終わった。慎治は人気の無い場所を選び、普段のバイトの制服に着替え、いよいよタワーマンションの方へ向かった。配達のバイトをしていることがここで役に立った。ある一棟のマンションのエントランスにやって来て、慎治は住宅地図で調べた部屋番号を迷い無く入力し、部屋にいる人間を呼び出した。すると、「はい」という男の声が聞こえたので、普段の仕事と同じ調子に「○○運輸です」と言って、難なくマンションの中に入った。目的の部屋の前に辿り着くと、慎治は一呼吸置いてから、ゆっくりとインターホンを鳴らした。すると、嘗ての体育教師である高内が、スウェット姿で玄関の扉を開けてその姿を現した。
「先生、お久しぶりです」
「……失礼だが、君は誰だ?」
「いえ、憶えていないのなら良いんです。僕は、先生に聞きたいことがあるだけですから」
「君、荷物を持って来たんじゃないのか?」
高内は怪訝な顔で慎治を見下ろした。
「先生は北出さんのお母さんのことを知ってますよね」
慎治の言葉に、高内は不意を突かれたような顔をした。せっかく埋めたものを今更掘り起こされたような、憎しみや罰の悪さを含んだ表情が慎治に向けられた。そして「知らん」と言って白を切った。
「僕は聞いたんです……あなたが北出さんのお母さんを騙していたという話を」
「騙す? どういうことだ? そんな出鱈目、誰から聞いたんだ? 何でも鵜呑みにするのは良くないぞ」
高内がそう言った直後、慎治はズボンのベルトに挟んだ包丁を掴み、同時に玄関のドアに足と手を掛け、高内に包丁を向けた。
「何の真似だ!? 知らないと言っているだろ! 警察を呼ぶぞ!」
高内は仰天し、廊下の方へ一歩後退りをした。しかし、それをじりじりと追いつめるようにして慎治は玄関の中へと侵入してゆく。
「先生、あなたのしたことを教えて下さい」
「お前、自分のしてることがわかってるのか?」
「教えてください……教えろっ……!」
慎治が突然怒鳴り声をあげると、高内も観念したように「わかった、わかったから包丁を下ろせ」と言って、慎治を宥めようとした。このままでは本当に刺されかねない……慎治の形相は、あの横暴な体育教師を怯ませるほど、恐ろしいものだったようである。勿論、慎治は高内を本気で刺すつもりなど無く、刃物を向けたのはただの脅しに過ぎなかったのだが、ふと冷静になると、まるで頭上にいるもう一人の自分が、薄笑いを浮かべながら自らの愚行を嘲っているような気がした。
「何? どうしたの?」
すると、廊下の奥から一人の女が、玄関での出来事を不審がって覗いてきた。更にその後ろには、まだ三歳くらいの女の子の姿があった。
「どうやら前の学校の教え子らしい。気が狂ってるみたいだけどな」
高内はそう言って、その馬面にぎこちない笑顔を見せた。
「あなたが真衣ちゃんにしたことと、真衣ちゃんのお母さんにしたことを教えて下さい」
「マイ? 私たちがどうかしたって?」
奥にいる女が、慎治に向かってそう言った。
「えっ?」
「うちの娘が何だって? あんた、あんまりよくわかんないこと言ってると本当に警察呼ぶわよ」
女がそう言っている間、子供は、不思議そうな顔をして慎治の方を見ていた。慎治の頭はひどく混乱していた。
高内マイ――それがこの女の子の名前だった。
高内は状況をまるで理解していないこの母娘を背にして、罰の悪そうな顔を慎治に向けながら「とりあえず下に行くぞ」と言って、慎治を玄関から連れ出した。マンションの前の公園までやって来ると、高内は尚更面倒事を忌むような表情を見せ、余計な時間を費やさないように、すぐさま自身のことを語り始めた。
――高内が真衣の母と知り合ったのは六年前で、当時、夫に騙された挙句に逃げられた彼女を、高内は甘い言葉を使って手中に収めたのだという。だが、これは高内自身の生物的な欲望と、真衣の母の人間的な欲求が互いに一致しただけのことであり、自らの甘言が後に宗教だとか、信仰だとか、そんなものに繋がるなどとは考えてもいなかった。高内は彼女に真衣という娘がいることを知っていたが、娘の存在は高内に罪悪感を植えつけるので、高内は真衣と知り合うことを拒んだ。するとやがて、真衣の母も自らの娘を憎み始めるようになった。この時既に、真衣の母は高内に対する信仰を抱いていたのである。しかし、高内はまだそれを何とも感じておらず、その関係を背徳的なものと捉えながら、真衣の母と密会を重ねていた。しかし、彼女の異常性は日に日に目立つ程の肥大化を見せるようになったのである。
その関係が異常な方へ向かうにつれ、真衣の母は娘を一層邪魔者として扱うようになり、それに加え、高内という男をまるで救世主か何かのように、周りの人間に触れ回り始めたのだという。一体何が彼女を狂わせてしまったのか……それは自分自身に他ならないのではないかと、高内は思うようになった。彼女は、ある時は希望を語りながら高内を称え、ある時は絶望に打ちひしがれながら高内に救いを求めた。最早、肉体の快楽から生じる生物的な救いのみで彼女を正常に戻すことはできなかった。
彼女はついに自らの娘を捨て、その精神の全てを高内に注いだ。高内は真衣の母に因って、まるで世間から切り離されてゆくような恐怖を覚えるようになった。そして、このことで教員としての社会的地位を失うことを懸念し、高内はなんとか真衣の母から逃れようと、できる限り彼女に冷たい態度をとり、掌を返したように突き放すようになった。だが、彼女の異常な依存は恐ろしい豹変をもたらした。突き放す度に、真衣の母は心中を仄めかしたり、挙句の果てに自殺未遂に至ることもあったという。最初は自らで彼女を手にしたつもりでいた高内は、次第に彼女の恐怖で支配されるようになっていた。
やがて二人の間に新たな子供が宿り、その流れによって二人は入籍した。彼女の不安定さを目の当たりにし、仕事中以外の高内は完全に自失の状態にあったという。その子供は彼女が高内を繋ぎとめるための「鎖」として宿されたものであり、憐れなことに、その胎児はどちらからの愛情も受けなかった。だが、やがてその子供を出産した彼女は、その子供に「マイ」という、真衣と同じ読みの名前をつけようとしたのである。高内は流石にそのことを受け入れかねたが、彼女は聞かなかった。何故彼女がその名前をつけたがるのか、高内には一切が理解の外にあり、気づけば不眠症になるほど、精神を摩耗していたという。
彼女は再び「マイの母」となり、生まれた子を可愛がった……しかし、ある日彼女は自身の子を抱きながら「この子は偽物の真衣よ」と言って、突如としてその子を憎み始めるになった。さらに、あれほどまで心酔していた高内に対してもまるで人が変わったように余所余所しく接するようになった。そして真っ暗な部屋の中でぼんやりと俯きながら娘の名前を呟いたり、夜中に大声で泣き始めたりと、高内にとっては二人の赤ん坊を一人で面倒を見ているような心地がしていたという。
このままでは彼女がいつ「マイ」を殺してしまうかもわからず、ついに耐えかねて、高内は真衣の住む神社へと向かった。しかし、社務所の扉を叩いて出てきた真衣の祖父によって、真衣には母親のもとへ戻る意思は無いということを、憎悪を込めた口調で伝えられた。それから何度か神社へ足を運んだが、祖父の答え……真衣の答えは同じであった。
そして、慎治が神社を全焼させ、真衣を連れて逃走するという事件が起きた。それを知った真衣の母は、「あの子の居場所を用意してあげなきゃ」と言って二人のもとから忽然と姿を消し、その後、高内と彼女は離婚に至った。高内は悪夢から覚めたような思いで、その後は平和な家庭を求めてさっきの女と再婚し、この場所に移り住むこととなった。
――慎治はこの話を聞いて、まるで自分自身も悪夢を見ていたような心持ちになった。そして、改めて高内に「じゃあ、北出さんと北出さんのお母さんは今どこにいるんですか?」と尋ねた。
「離婚する時に会ったきりだが、今はE市に住んでるらしい」
「E市のどこですか」
「お前、そんなこと聞いてどうする気だ? まさか会いに行くつもりじゃないだろうな?」
「僕は、会いに行きます」
慎治の返事を聞いて、高内はうんざりするような表情を浮かべた。
「やめとけ、関わるな。お前だってあんな事件を起こしてるんだ。もうあの母娘と会うべきじゃない」
「でも今頃、北出さんはお母さんに苦しめられてるかもしれない……」
「何故そんなことがわかるんだ? もしかしたら平和に暮らしてるかもしれないだろ?」
「先生こそ、どうしてそんなことがわかるんですか?」
高内は面倒くさそうな顔を慎治に向けた。そして「そこにいろ」と言い残してその場を去り、自宅から持って来たメモ用紙を慎治に渡した。
「何が起きても自己責任だ。わかるよな?」
「はい」
「まったく……」
そう言って、高内は再び自宅へと戻って行った。
仕事が休みの日、慎治は電車に乗ってE市へと向かった。鞄にはバイトで貯めた五万円と、包丁を、目的もわからず用意していた。これから何が起きても構わないと思いながら、慎治はその鞄を抱えて、向かい側の窓で流れる景色をぼんやりと眺めていた。昼の空は透き通るように青く、人の疎らな車内は気分を落ち着かせるのに丁度良い。あれから自分が過ごしてきた三年間の月日と同時に、真衣もどこかで同じ時間を過ごしていたということを考えると、慎治は時間に対する取り留めのない違和感を覚えた。慎治が絶えず脳裏に浮かべていた真衣という存在は、慎治が見た最後の真衣から更新されておらず、自分が追っていた幻影の正体が記憶の生んだ模造に過ぎないということに気づくと、突然、流動的な時間の頂点にいる真衣との再会に漠然とした不安と緊張を覚え、引き返すという選択肢が一瞬脳裏を掠めた。
これ以上ややこしいことは考えたくなかった。自分の行いが人々の道徳に於いて赦されることであるのか……そんなことさえ、もうどうでも良いと感じた。車内にまで響くフラット音が、まるで頭痛のような思考を幾らか紛れさせ、そのまま電車は目的地へと時間通りに進んでいった。
やがて目的の駅に着くと、慎治は電車を降りてそのまま循環バスに乗った。こじんまりとしたバスの車内は周辺に住む人々で混み合っており、その馴染みの無い空間にただ一人、期待と不安、孤独と安楽を感じながら、バスに揺られていた。十五分くらいが経ち、車窓から団地が見えてくると、目的地はもうすぐそこであった。バス停に近づくごとに心臓は強く鼓動し、この鼓動は期待よりも、不安に因るものであることを理解した。
バスを降り、静かな団地の敷地内を見渡しながら歩いていると、学校帰りの小学生たちが遊んでいる光景が目に入った。こんな光景は仕事中にもよく見かけていたが、この日は、それがただの景色ではなく、慎治の内に生じた出来事のように思えて、心の平静を保つことができなかった。足早に子供たちの横を通り過ぎ、敷地内にある一棟の薄暗い入り口までやって来ると、慎治は横目で郵便受けを眺め、その奥で仕事用の制服を羽織り、そのまま階段を上った。この際たとえ真衣本人と再会することができなくても、確かにこの三年間、真衣はこの場所にいて、夢や記憶ではなく、全ての人に共有される時間の最前線にいたことを確かめることができれば、それで十分であるような気がした。そして、もう二度とこんな真似はやめよう……そう思った。
一番上の階にやって来ると、そこには表札も無く、部屋番号のみが掲げられた一つの扉があった。その横のインターホンを人差し指で恐る恐る押すと、同時に扉の奥からもチャイムの音が聞こえてきた。
「……はい」
女の声であった。
「○○運輸です」
「はい」
その声は恐らく、真衣のものではなかった。慎治は急に焦りを感じだし、これから自分が取るべき対応を必死になって考えた。扉を開けて出てくるのが真衣の母であれば、ついに慎治はその悪夢との対面をすることになる。声が途切れてから扉が開くまでの時間が、恐ろしく長いもののように思えた。その間、慎治の緊張は限界の域に達し、器から水が零れかけるような恐怖に駆られ続けていた。
扉が鈍い音をたてて開かれ、隙間から差し込む淡い日の光に照らされて、中にいる女の人が暗がりからその姿を露わにした。
「あの、北出さん……真衣さんのお母さんですか?」
「はい……そうですが……?」
その顔は、恐らく年齢よりも老けていると思われるくらい皮膚が弛んでいて、虚ろな表情に生気は無く、全身を見渡せば鬱屈した肥満がありありと見られた。それを見た慎治は、この女を醜いと感じた。そして、この女こそが、真衣の母親なのであった。
「あのっ……真衣さんは今家にいますか?」
「どうしてですか? あなた、誰です?」
屍のような目線を向けられたまま、疑わしそうな声で真衣の母にそう問われて、慎治は自分が不用意に焦っていることを認めた。
「あの……僕は真衣さんの同級生の」
「もしかして、慎治さん?」
真衣の母はハッとしたように慎治を見て、その口元に僅かな笑みを見せた。
「はい、そうです……」
「ああ、ああ、あなたが慎治さんなのね。初めまして、アハハ。こんな大人しそうな人だったなんて思ってもいなかったわ」
突然饒舌になった真衣の母を見て、慎治は怯えたように「そうですか」と答えた。さっきまで鬱屈さを表していた肥満が、今度は却って気の良さを表しているように見え、その恐ろしい変わり様によって慎治の額には嫌な汗が張り付いた。
「いやね、何でそんなかっこう格好してるのか知らないけど、真衣に会いに来るような人なんて、思えばあなたくらいしかいないでしょう?」
「あの、今までちゃんと謝りもしてなくて……すみません」
「謝る? どうして?……ああ、ああ、アハハ。気にしないで、あなたは良いことをしたのよ?」
「え?」
「あなたは良いことをしたの。だから寧ろ感謝しているわ、ありがとう……じゃあ帰って頂戴」
不可解なことを聞かされた挙句、慎治に何も言う隙も与えずに別れを切り出され、慎治は思わず「ちょっと待ってください」と言って真衣の母を留めようとした。
「何よ? 言っとくけど、真衣はいないわよ。だから帰って頂戴」
「真衣ちゃんはどこですか?」
「いないって言ってんの。しつこいわよ?」
とてつもなく、嫌な予感がした。
「どこにいるんですか、教えて下さい……!」
「だからしつこいわよ! そんな恰好までしてこんな所に来て……あんた、もう一回警察行った方が良いんじゃないの?」
「お願いです……教えて下さい……」
慎治は既に泣きそうな声になっていた。もしこんな姿を真衣に見られたら、さぞかし情けないと思われるだろう……そう思ったその時、狭いドアの隙間を抜けてやって来た、聞き覚えのある微かな声があった。
「慎治君……だよね」
「真衣ちゃん……?」
薄暗い廊下の奥には、途切れた記憶の断片同士を結合するようにして、慎治の方を見ながら佇む真衣の姿があった。約三年の月日が過ぎ、ショートヘアだった真衣の髪は肩甲骨の辺りまで伸びていて、その姿に確かな時の経過を感じながら、慎治はそこにいる真衣の存在を、哀しくなるほどに美しいと感じた。
「真衣っ! 出てくるなっ!」
浮遊した慎治の意識を肉体に引き戻すような母親の怒鳴り声が、目の前で空気を引き裂くようにして
空間に轟いた。
「あんたももう良いだろ! これで満足だろ! だからもう帰れっ!」
真衣の母は、頬の皮膚に深い皺を作って慎治を怒鳴りつけた。
「最後に……最後にさよならだけでも言わせて下さい」
「じゃあここで言えば良いでしょ? 早く言って帰りなさいよ!」
尚も、真衣の母は醜い顔をさらに歪ませながら怒鳴り続けた。生きてきた中で積み重ねられた貴い記憶と信仰、存在意義の全てが、この醜悪によって崩壊し終結する……そんな様を、どうして黙然と見ていることができるだろうか。
慎治はゆっくりと鞄の中に入れていた包丁を取り出し、刃先の向きもおぼつかないままにそれを母親へ向けて、大人しそうという印象を覆すような狂気の表情を以て部屋に侵入した。脅迫ではなく、慎治の内で籠を破った確かな殺意がその体から刃物に至るまでに込められており、理性の理解を超えた悪魔の衝動が、慎治の意思や肉体を支配して動かしていた。
「どういうつもり……? ちょっと、真衣、助けて……!」
刃先は静寂を呼び起こし、ずかずかと、悪魔は包丁が母親に届く距離を目指して歩いていた。真衣はぼんやりとした表情で、二人の間に起きている出来事をただ眺めているのみであった。
「真衣っ!」
母親は再び娘の名を呼んだ。しかし、その声が本人に届いているのかさえわからない。飛行機が近くを飛んでいる。母親をリビングの角まで追いつめ、慎治は一度、その肥えた肉体のどこに刃物を突き刺すか思案した。そして、その刃物が導き出す自らの運命を、夢うつつの中で感じていた。
(死)
全ての愛情が、全ての悦び、全ての哀しみを越えて無へと還り、心臓の脂を削ぎ落とすように、次々と思い出を失ってゆく。言葉を超越した感情は覚醒した獣の如く理性を食い千切り、美しいほど残酷な景色が心象の荒野に広がっていた。
(ね)
初めからこうなることを予期していたのかもしれない。汗ばむ掌で包丁の柄を再び強く握りなおし、悪魔は母親の腹部に狙いを定め、ついにその存在を消し去る意思を固めた。だが、その矢先、
「慎治君……!」
真衣が声を放つと、部屋の中は時が静止したように静まりかえり、飛び去ってゆく飛行機の音だけが遠くから聞こえていた。母親は壁に背中を擦り着けながらその場で膝を曲げてしゃがみこみ、慎治は包丁を持った腕を弱々しく垂らして、いつの間にか近くにいた真衣の方を見た。その左頬には殴られたような青痣が印されていて、慎治は身が悶える程、その痛みに魅了された。
「真衣ちゃん、その痣……」
「ここまで来てくれてありがとう……だから、帰って」
「真衣ちゃん……」
「さよなら……」
「……」
あの時から、慎治は常にこの瞬間を望み続けていた。しかし、あまりにも呆気無い別れの訪れ――真衣の拒絶は、慎治に真っ黒な失意をもたらした。そしていつの間にか包丁を握り、無意識の内に望み以上のものを期待してしまっていた自分自身を、慎治は自らの首を掻き切りたくなる程ひどく嫌悪した。だが、顔の痣を見た慎治がこの瞬間打破するべきものは、自分自身に対するその嫌悪であると思った。エゴイズム以上の真心や思い遣り……それらがこの少女を救おうと、心の中で強く主張している。慎治の口はその主張を組み替えて真衣に伝えようとした。
――慎治によって神社を焼かれ、それから慎治と共に、ほんの少しの間だが、知らない土地で宛ても無く一日を生きるということをした。当然、子供が自分たちだけの力で生きていくことなんて困難であるし、慎治は法と道徳に触れて警察に追われていたのだから、真衣はじきに自分たちが連れ戻されることを理解していた。そしてやはり、二人は大人たちによって、それぞれの場所に連れ戻されることになった。
真衣は自らの居場所を失ったまま、頼るべき人もいなかった。神社が焼失し、真衣がその場からいなくなった後、祖父は突如として心身共に衰弱し、病院に入院したという。時間が経ち、少しだけ落ち着きを取り戻したある日、真衣は祖父のいる病院へ面会に向かった。病室の扉をゆっくりと開けると、そこには、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめ、あの威勢や優しさをたった数日の間に消失してしまった祖父の姿があった。そしてその横には母が――娘を捨てて姿を消したあの母がいて、病室にやって来た真衣を、母親の顔を装いながら迎い入れた。
「お母さん……?」
「久し振りね、真衣」
母は笑顔で椅子から立ち上がり、真衣の方に歩み寄った。
「……どうしてここにいるの?」
「決まってるじゃないの。あなたを迎えに来たのよ」
「嫌……お母さんなんかと一緒なんて」
「何を言ってるの? おじいちゃんをこんな風にしたのはあなたよ。あなた、これからどうやって生きていくつもり? 自分一人じゃ生きていけないって、今回のことでわかったでしょ?」
真衣の胸を抉るような言葉を口にしながらも、母は淡い笑顔を浮かべ続けていた。ここにいるのは確かに自分を産んだ母親である。だが、真衣にはこの人が自分の母であることを実感することも、受け入れることもできず、恐怖と罪悪感で、これ以上言葉を続けることができなくなった。
「真衣、これからは一緒に暮らしましょう」
母はそう言って、震える真衣の手を包み込むように握った。真衣はその温もりに宿る僅かな救いの存在を信じて小さく頷き、母と共に病室をあとにした。去り際に真衣は祖父の方を振り返ったが、祖父はただ天井を見つめたまま何も言わなかった。しかし、その目尻に刻まれた深い皺は、祖父自身の悲愴を哀しく訴えているようであった。その後まもなく、祖父は他界したという。
不信感が生んだ信仰――慎治が自分をあの神社から切り離したのは、神様による意思だったのかもしれない……真衣はそう思った。そして誰よりも自分を大切にしてくれた祖父を裏切り、何の感謝も伝えられなかったことへの後悔を、もう一度母を信じることによって償うことができたら良いな……そう思った。しかし母を信じようとすればする程、その様子が以前よりも優しい存在から遠ざかっていることに気づく。母の精神はいつも不安定で、何かが起きなくても突然怒り狂って真衣を殴ったり、その後夜通し泣き喚いたり、翌朝、お前は自分の親に対して何の施しも与えない親不孝者だと言って真衣を罵ったりなど、真衣には到底、そんな母を幼少期の薄らいだ記憶に残る優しい母の姿に結び付けることができなかった。体の痣は日に日に増えていった。だが、時に母は娘に対して行った自らの行為をひどく悔やみながら、痣だらけの真衣の体を強く抱いて、口から臓器を吐き出しそうな程に亡き叫ぶことがあった。そんな時、自分がお母さんを心から信じていないせいでこうなるんだ……そう思って、真衣は自らを責めながら母の行いを優しく赦そうとする。だが、早ければその日の夜にはまたいつもと同じことが繰り返されて、真衣の体には新たな痣や傷や印されるのであった。それでも真衣は母の存在を必要としていたし、体の痣は、母と自分を繋ぐ絆であると認識していた。再びあの時のように見放され、捨てられることのないように。
神様の存在――つらい時や悲しい時、祖父はいつも神様の話をしてくれた。だが、祖父が信じていた神様は祖父自身を救ってくれなかった。今、真衣の神様は自らの痣と傷口に宿っている。母につけられたもの、自分でつけたもの、そこに滲む血の色が真衣の唯一の救いであった。背中や腕などには既に自分一人では数えきれないほどの痣や傷があり、普段は服の下に隠されているが、痛みに耐えながら入る風呂の中では間近にその存在を認識できる。真衣は風呂場の鏡に映る自分の姿を見て身体の痣をなぞる。そして、その鏡が次に映したものは、自らの左頬を倒れる程強く殴る真衣自身の姿であった。その痛みが自分の存在意義そのものなんだなと、再び湯船に浸かりながら真衣は思った。
それでも痛みは苦痛であり、優しさを求めて母の死を夢想することもあったが、真衣はどうしても母を恨むことができず、殴られても、罵られても、その存在から遠ざかることができなかった。暴力的な母も、刹那の優しい母も、共に真衣という娘の存在を恐ろしい程要求していることが窺えた。真衣は、自らが負い目を感じること無く授かれる愛情は暴力と依存のみであると思っていたし、だから自分も、もう一度傷がつく程に母を愛せるようになることを望んでいた。
だが、慎治が再び真衣のもとへやって来たこの日、母に包丁を向ける慎治の姿を見て、ここで母も自分も、慎治に因って殺されても良いような気がした。母が死んでも、きっと神社が燃えたあの日のように一晩経てば忘れてしまうのだろう……そう思った。
「もう一度、僕と一緒に来て欲しい」
「慎治君……何言ってるの?」
「真衣ちゃんが来てくれないなら、僕は君のお母さんをここで殺す」
「……」
慎治の言葉を、真衣はまるで無感情そうな様子で聞いていた。その足元で、母親は座り込んだまま、震える手で何かを探しているようであった。
「慎治君」
「……何?」
「私……大人になったよ」
「え?」
真衣はそう言った後、恍惚とした表情で左頬の痣に手を当てた。
「私、愛されるってどういうことか、わかったから」
「違う……それは愛情じゃない」
その言葉を虚しくも訂正しようとした直後、慎治の右脚に激痛が走った。脳がその唐突な出来事を認識して処理し終えるのを待たず、その信じ難い激痛に因って慎治の視界は一瞬ホワイトアウトしたようになり、右脚を抱えたままその場に倒れ込んだ。
「真衣は私の娘よ……」
激痛のする方を見ると、ふくらはぎの部分に信じられないほど深く千枚通しが突き刺さっていた。
「真衣は私の娘よっ! わかったかっ!」
母親はまるで幽霊のようにゆらゆらと立ち上がり、目を見開きながら慎治を怒鳴りつけた。
初めて詰めの甘さというものを憂いた。握っていた包丁はいつの間にか手元を離れていて、慎治は完全に形勢を逆転された状態となっていた。こんな時の思考は何故か冷静なもので、バイトを暫く休まなければならないということなどを考えていたが、それはある種の精神的な回避行動なのかもしれない。慎治は床に横たわったまま、向かいに並び立つ母娘と天井の方を見た。
「私は真衣の神様よ……そうでしょ? 真衣」
母親は尋ねた。真衣は左頬に手を当てたまま、哀しそうに笑って「うん」と答えた。
初めての出会いからこの瞬間に至るまで、真衣のことは何も知ることができず、真衣にとっての何者にもなり得なかった。憎悪も愛情も、神様も人間も、他人も自分も、憂鬱も愉悦も、狂気も正常も、哀しみも空虚も……慎治には何もわからなかった。生と死は、その全てを知って忘れてゆく作業なのかもしれない。感情は限りなく虚しい。神様は嘘である。夢を見ているのかもしれない。思い上がり……思い込み……。
慎治は落ちている包丁を拾い、千枚通しが刺さったままの右脚を引きずりながら玄関の方へ向かい、そのまま振り向かずに家を出た。扉はバタンという無情な音を立てて閉まり、その音を背にした後、慎治は団地の階段を手すり伝いにゆっくりと降りて行った。この時ばかりは川木や高内の言うことを聞いておくべきだったと思った。そのまま敷地内の公園までやって来ると、慎治は自らの右脚に刺さった千枚通しをゆっくりと抜き始めた。肉が抉れる感覚と共に激痛が走るので、この作業にはとても苦労した。やっとの思いで引っこ抜いた千枚通しには真っ赤な血液や粒状の肉が付着しており、慎治はそれを雑草の上に置き、仕事用の制服を脱いでふくらはぎに巻いて止血をして、ついでに千枚通しに着いた血や肉も制服の袖で拭き取った。
(帰ろう)
慎治は団地の敷地内にいた子供に声を掛け、携帯を借りてタクシーを呼んだ。携帯を貸してくれた男の子は慎治の脚を見て、眉をひそめながら「お兄さん、大丈夫?」と聞いたが、慎治が「ありがとう」とだけ答えてまたぐったりとその場にしゃがみ込むと、男の子はおどおどとした様子でその場をあとにした。タクシーに乗って自宅まで帰るにはかなりの運賃が掛かったが、そんなのは最早どうでも良いことである。慎治は家に着くと這うようにして部屋に入り、脚に巻いていた血塗れの制服を丸めて玄関付近に放置し、薄汚れたタオルをその脚に巻きなおしてそのまま布団の上で眠りに就いた。
気だるい微睡みの中で夢を見た――慎治は少女と二人で静かな海を眺めており、不思議な幸福感に満たされながら笑っていた。だが、その少女が何者であるのか判別するための顔は照りつける太陽の光に因って隠されており、横を見ても口元の笑顔だけが見えるのみで、その幸福感も、小波の音と共に虚しく波に引かれていった。幸福感が虚無感に変わった後、既に少女の姿は消えていて、視界に広がる海だけが美しかった――
目が覚めると、時計はまだ七時を迎えたばかりである。食欲も無く、怪我の手当てをする気力も無く、意識は覚醒していても、体はいまだに眠っているままのようだった。血塗れの制服は真黒になっている。慎治は今さっき見た夢のことを思い出し、もう一度瞼の裏に真衣の存在を求めて、白い明かりの灯る部屋の下で再び眠りに就くことにした。痛みと共に。
八
それから幾日――右脚に負った傷が塞がるほど――も過ぎ去って、慎治は再び配達の仕事をするようになった。毎日の忙しさが心の苦悶や痛みを忘れさせてくれるので都合が良かった。自分はあの子をしっかりと忘れようとしている……その意識が、慎治の日々を少しだけ前向きにさせていた。
忘却が人を記憶の苦痛から解き放つということを、慎治はようやく理解できたような気がした。両親の死を経て失っていた感情も少しずつ器に戻されてゆき、人の輪に広がる陽的な作用によって、精神的にも健康的になったように感じていた。だが、時折駆け抜ける迅雷のような右脚の痛みに因って、埋葬したい思い出が再び呼び起こされることがあった。しかしそれは仕事に依って最小限に抑えることができるし、誰の前でも健康を装っていれば、その機会を圧倒的に減らすことができた。
その日も慎治は仕事をしていた。大きめの段ボールを抱えてアパートの階段を上り、手前から二番目の部屋の呼び鈴を鳴らした。
「はい」
「こんにちは、○○運輸です」
いつもの如く業務的な親しみを込めてそう言うと、中から判子を持った受取人が現れた。その受取人は判子を片手に穏やかな表情を浮かべながら配達の到着を受け入れた。その受取人が判子を押して荷物を受け取るまでの間、慎治は家の奥から聞こえてくる昼のニュースを何気無く耳にしていた。
『――次のニュースです。A県E市の市営住宅で、十六歳の娘に暴行を加え、殺害したとして、母親の……』
その時、家の奥から聞こえてきたアナウンサーの言葉によって、慎治は瞬時に色を失った。だが間もなく受取人が「ご苦労様です」と言って荷物を受け取ると、慎治は全ての思考を抑えて「ありがとうございました」と告げ、家の前から離れた。更に『警察は北出容疑者を……』とまで聞こえた後、その扉は情報を遮断するように閉じられて、白昼の空の下で何一つ聞こえなくなった。
アパートの廊下をふらふらと歩き、そのまま階段を降りようとしたその時、慎治の右脚に突然ひどい激痛が走った。その激痛は右脚から脳天までを一直線に駆け上がり、慎治は階段の真中辺りから転げ落ち、その最中、アルミの足場に頭を二度打ちつけた。慎治は痛みに悶えながらゆっくりと体を起こし、さっき聞こえたニュースの内容を頭の中で反芻した。北出容疑者――真衣の母親が、真衣の命を奪った。その時慎治の頭の中には、真衣と初めて出会った時から最後に別れた時までの記憶が、一描写ずつ絵のように浮かび上がった。そこに付随するのは怒りでも哀しみでもなく、純粋な無感情であった。
その一日は体の痛みに耐えながら仕事をするのに精一杯であったが、偶然にも耳にしてしまったその出来事はまるで呪縛のように、慎治の頭の中をぐるぐると、やがて眩暈が引き起こされるほど回転し続けていた。太陽が怪しく燃えて空を紫に染める頃、慎治はついに気を失って、人気の無い道端に倒れた。
――夢、もしくは幻覚の世界で、慎治は自分が燃やした神社の前に佇んでいた。慎治はすぐにその世界を幻だと理解したが、その懐かしい光景が生むセンチメンタルに浸ったまま、自らの意識を呼び覚ますことができなかった。慎治は一歩、また一歩と社殿に近づき、賽銭箱の前にぼんやりと座り込んでいる桃色の浴衣姿の少女に声を掛けた。
「君は誰?」
少女は笑顔を浮かべたまま何も答えなかった。
「君の夢を見ると、君は何も言わずに、いつもそんな顔をしてる」
慎治はまた一歩少女に社殿に近づいて、少女の膝の目の前までやって来た。すると、少女はその白い顔をゆっくりと慎治の方に向けて、慎治に語り掛けた。
「私は、君がずっと好きだった私」
「どういうこと?」
「君が本当に好きだったのは、君の頭の中にいた私だよ」
「違う、僕は君という存在そのものが好きだった。でも、君はもういなくなってしまった」
「そんなことないよ。私はずっとここにいる」
夢の中で作られた風が少女の髪を靡かせて、その見覚えのある表情を慎治に見せた。
「そんなのおかしいよ……だって、現実の君は……」
「私という存在は、君が感じた通りの形で存在してる。君が私のことを考える時、私は常に君の中に存在してる。今君の目の前にいる私が本当の私だよ。現実の私なんて必要無い」
「でも、僕はもっと、現実の君と色んな思い出を作りたかった。現実の君がいなかったら、僕はどうして君を好きになったの? それに、現実の君には意思があるじゃないか」
「慎治君のお父さんやお母さんも、川木君も、泰子さんたちも、みんな君の中にいる。みんな自分の存在を慎治君にあげてるんだよ。私たちは記憶の世界でずっと繋がっている。現実の私が消えてなくなっても、君と私はいつだって一緒だから」
「そんなのおかしいよ……」
夢が終わろうとしている。少女とその風景を幻想的に照らす眩いばかりの光が黒い影に染められてゆく。疑似的な視覚を失う虚しさが慎治を包み込み、恍惚に満ちた夢の中から慎治を引き戻そうとしている。もうこの幻想を維持できないことを、薄弱とした意識の内に悟っていた。そして少女はいつの間にか神社から姿を消していた。その神社も、まるで潮が引くように頭のどこかへと消えていった。
――瞼の裏に映った一瞬の光と共に目を覚ますと、辺りは暗い夜の闇に包まれ、それをぼんやりとした白い光が照らしていた。鈍い痛みが体を締め付けるようで、手をついてぐったりと体を起こそうとすると、細かい角が掌に食い込んで痛かった。赤い光が、まるで生き物が飛び回るように忙しなく家々の壁を照らしているのが見えた。
「しっかりしろ、君、大丈夫かい?」
「……はい、大丈夫です……」
誰かに声を掛けられたのでそれに答えると、口の中は鉄の味がして、何やら赤黒くてどろどろとした液体が口元から一直線に垂れていた。慎治はそれを拭わず、制服のようなものを見に纏った男の人に補助されながら白い車のごちゃごちゃとした車内に乗せられ、自分がどうなっているのかさえわからぬままにどこかへと運ばれた。その車は高低のある楽し気な音を鳴らしながら、夜の町をノンストップで駆け抜けていった。
車内にある担架に仰向けで寝かされながら、慎治はさっきの夢が自分の脳によって作り出されたただの自問自答だったのか、それとも自分の中に偏在している真衣という存在が語り掛けてくる意識であったのか、わからないままでいた。そして今も現実感を取り戻せず、微睡みの世界に取り残されているような気分に囚われていた。だが、救急隊員が慎治に声を掛けている内に、慎治は自分の認識している世界が夢ではなく、現実であることを思い出してゆく。そしてようやく、自分は眼球を奪われるような眩暈によって、あの場所で気を失ったということを理解した。
真衣は母親の暴行によって死んだ。あの時母親を殺さなかった自分のせいだと思った。
「神様、見てるのか?」
慎治は独り言のように呟いた。その様子を見ていた救急隊員は「え?」と慎治に問いかけたが、返事が無いことから慎治の錯乱状態を悟って、それ以上は何も問い掛けなかった。唇が切りつけられたように痛む。固いコンクリートの上に倒れて、その拍子に前歯で唇を深く噛んでしまったようである。口の中は尚も濃い鉄の味で満たされていた。神様は何も答えなかった。
病院で検査を終えた慎治は、自宅に向かってぶらぶらと歩き始めた。夜の空気はいよいよ底冷えする程になり、吐く息の白さが薄暗い街灯の明かりに照らされてぼんやりと浮かんだ。全てが布団の温もりに帰結する、そんな季節だった。この数日で負った自身の傷を数えると、いよいよ自らの命運も尽きかけているような気がして、慎治は微かな安堵と恐怖を胸に浮かべた。慎治は試みに意識の中に偏在する真衣の存在を呼び起こしてみた……しかし、それはただただ虚しいばかりの作業であった。
自宅の鍵を開け、血のついた布団を適当に丸めてその場所に机を置くと、慎治は便箋に文章を綴り始めた。それは川木に宛てた手紙であった。
――この間はありがとう。元気にやっていますか? 真衣ちゃんが亡くなったということを知って、その突然の出来事を、これを書いている今も信じられずにいます。
あの時川木の忠告を聞かなかったことを後悔してる。川木が正しいことも、僕が間違っていることもわかってた。こんな形で二度と会えなくなるのなら、会いに行くなんてことはしなければ良かったのかもしれない。でも、僕はやっぱりあの子から逃れることができなかったんだ。こうしてあの子がこの世からいなくなっても、今もあの子がどこか近くにいるような気がして、そわそわしてしまう。落ち着かない。何もかも昔から変わってないんだ。そんな自分が情けないと思う。
あの子は神様なんて信用してなかった。でも、やっぱりあの子は苦しんでたんだと思う。僕は何もわかってあげられなかったし、他の人だって、誰もあの子の苦しみを理解することはできなかった。僕はわかろうとさえしてなかったのかもしれない。自分のことしか考えてなかった。川木にもそのことを見抜かれてたんだろうな。
最後に真衣ちゃんと会って、やっと踏ん切りをつけようとしたところだったけど、まだ当分立ち直れそうにない。僕は大事な別れの時にいつも「さよなら」を言いそびれてしまう。でも、二度と会えなくなるとわかってる人に別れの言葉を言うのは、僕には耐えられないだろうな。――
慎治はここまで文章を綴って、その便箋を折り曲げてゴミ箱に捨て、便箋よりも小さな葉書を取り出して再びペンを持った。
――この間はありがとう。もう一度川木に会いたいと思うんだ。もし都合が良い時があったら、また手紙を送って下さい。そろそろ携帯を買うべきかな。――
窓の方を見ると、空が白み始めている。また人々の「今日」が始まろうとしていた。真衣のいなくなった世界が、永い永い世界が、明け方の空と共に視界の中で広がっている。慎治は上着を羽織り、暁の空の下、その手紙をポストへ投函しに出かけた。冷たいポストのパタンという音を聞いて、自宅に帰る途中、ポケットの中にある十円玉の存在に気づいた。どこかの神社でお参りをして帰ろう、そしたらまた、藁の箒を持って参道を掃除するあの子に会えるかもしれない……そう思った。