01
一
ショルダーベルトの金具からギシギシという音がして、それが銅板だらけの道に響く。銅板の奥からは鉄やコンクリートを削る音がやかましく聞こえてきて、それが途絶えると、また金具の軋む音が聞こえてくる。嘗て直線だったこの道は、今では弧を描くように大きく捻じ曲げられ、その周りは立てかけられた銅板によって囲まれている。この道の横には小さな駄菓子屋があった。だがそれも随分前に取り壊され、毎日眠そうに店番をしていたお婆さんの代わりに、今では鉄骨の先端が銅板の奥から道路を覗いている。
慎治はこの年の春、中学一年生になった。慎治が通っているのは自宅から歩いて十五分程度の市立中学校だが、同じ小学校だった同級生のほとんどが別の中学校へ行ってしまったので、慎治は自分が通っている学校の環境にあまり馴染めずにいた。その中学校には、別の小学校の内で既に作り終えられていた人間関係が存在し、決して社交的とは言えない性格の慎治がその輪へ入るのは、容易なことではなかった。
かつて同じ町に住んでいた慎治の同級生たちはすでにこの場所を立ち退き、移り住んだ町の学校に入学した。今ではこの地区のほとんどの人が立ち退きを終えて別の町に移り住んでおり、新たに完成したタワーマンションに移り住んで、以前よりも良い生活を送る人もいれば、今までと変わらないような家に移り住んで、今までと変わらない暮らしを送る人もいるという。人がいなくなれば、そこは取り壊されて工事現場へと姿を変える。この町はすでにどこを見ても工事現場だらけで、時折『強制的な再開発に住民は断固反対!』といった看板を塀に掲げた家が、立ち退きをせずにその場所に留まっていたりする。しかしその看板を掲げていた家の人も数日前にこの町を去ったようで、家の塀に掲げられていた看板は工事計画を知らせるものに変わっていた。また、その家から数メートル離れた所にあった空き家の壁には行政に対する恨みがスプレーで大きく殴り書きされていたが、その家も先日ついに取り壊され、更地の一部となった。
そんな流れのなか、慎治の自宅は依然としてこの町に残っている。
九月の初め、暑さはまだ和らがない。重機の音が町中に響き、蝉の声も聞こえてこない。白くぼやけた空の下、二人の男が陽炎に揺られながら姿を現した。慎治はこの二人の顔をもう何度も見ている。一人は、癖のついた白髪に丸い眼鏡をかけており、口元にシワのある中年の男。もう一人は、体が大きくて威圧的な雰囲気が漂う、スキンヘッドの男。この二人は、頑なに立ち退きを受け入れない住民を立ち退かせるために雇われた、地上げ屋の人間である。二人がこの道を来るということは、今日も自分の家に行って、家にいる父親に立ち退きの話をつけようとした帰りなのだろうと、慎治は思った。
白髪の方の男が慎治の姿を見つけると、口元にシワを寄せてニヤニヤと笑った。この男は人と会話をする時、いつもこの顔を見せる。慎治との距離を声の届く程に縮めると、二人はその場に立ち止まった。
「君のお父さんは相変わらず強情だな」
白髪の男、榊原が言った。慎治はいつも通り、素っ気ない態度で二人を見ていた。
「君のお父さんは実に不甲斐ない男だ。あんな場所にいつまでも籠って町の発展の邪魔になっているし、何より、息子である君を不幸にしているというのにな」
「僕、別に不幸だなんて思ってません」
「君の親孝行はわかるが、君のお父さんがあそこから立ち退かないせいで、君自身も邪魔者扱いされるんだぞ?」
それに続けて榊原は、まるで天空の柱のようにそびえ立つタワーマンションを指さしながら「今立ち退けば、君だってあんな所に住めるんだぞ?」と、甘い言葉で誘惑するように言った。慎治は俯いたまま、二人に対して無言を貫くことしかできなかった。
榊原は舌打ちをして煙草を咥え、それに火をつけた。「お父さんによろしくな」榊原はそう言って、もう一人の男と共に、煙のにおいを残して慎治の横を通り過ぎた。
道端に続く銅板の隙間に見えるのは散乱した瓦礫ばかりで、やがてその上に新たな景色と生活が築かれてゆく。慎治自身も、その運命の中にあって、やがてこの町の存在を忘れてゆくことを理解していた。ただ、それを受け入れられない理由がこの町にはまだ存在している。
慎治は再び歩き始めた。十字路に辿り着くと、慎治は自宅と反対の方向へ曲がった。道の突き当りには深緑の木々に覆われた石段があり、慎治はその石段を一段一段上って行く。鞄の重さが体を後ろに引き、暑さが汗をにじませた。
険しい石段を上り終えた先にあるのは、古ぼけた小さな神社だった。木々の下に陰る薄暗い社殿がひっそりと佇み、それに続く石畳の参道は雑草に埋まっている。 周りは林に囲まれていて、風に揺らぐ木の葉の騒めきが真治の汗を引いていった。参拝者なんているはずもなく、この場所で何かを奉っているとは到底思うことができなかった。
そんな場所に一つ、藁の箒で参道を履く少女の後ろ姿があった。その少女は、忽然と現れた慎治の姿に気づくと、箒を手にしたまま慎治のいる方を向いた。風が吹いて、サイドをピンで留めたショートヘアが揺れる。風は暫く止まなかった。
「最近よく来るね。どうしたの?」
木の葉の騒めきが静まると、その少女が聞いた。
「もうここにしか来る場所が無いんだ」
そんな風に慎治が答えると、少女は「アイス食べる?」と聞いて、箒を置いて社務所の中へ入っていった。慎治は拝殿に向かい、前の石段に腰を下ろした。
少女の名前は真衣といい、神職である祖父と二人でこの神社に暮らしている。五年生の時に慎治のいる小学校に転校して来た。そしてただ一人、慎治と同じ中学校に入学した同級生であった。しかし、不登校な真衣はほとんど学校に姿を出さないので、慎治が真衣に会うのは、学校でよりも寧ろこの神社での方が多い。真衣が学校に来ない理由を慎治は昔から知らないが、真衣が学校に来ることを慎治は毎日のように望んでいる。
中学生になって初めての夏、日常の孤独を埋めるように、慎治は今日も一人この神社に足を運んでいた。この町で唯一形を変えずに残り続けているもの、そしてそこにある真衣という存在が、慎治をこの何も無い町に留めておく理由だった。
真衣がオレンジの棒アイスを二本持って慎治の前にやって来た。慎治は「ありがとう」と言って、受け取ったアイスを袋から取り出す。賽銭箱の前にある石段に座ると、町に広がる廃墟や瓦礫と、その奥に生えるタワーマンションを、鳥居の枠内から一度に見渡すことができた。
二人は賽銭箱の前に並んで座った。
「真衣ちゃんはもう学校には来ないの?」
「うーん、行こうと思ったら行くかな」
「どうして学校に来ないの?」
「学校は私の居場所じゃないからさ。でもここには慎治君が毎日来てくれるから楽しいよ」
そう言って真衣は笑った。その笑顔を見て、慎治の心臓の鼓動が速くなった。しかしそれと同時に寂しくもなった。 居場所……この二人にとって、それはどこにあるのだろう。この神社も再開発地区に含まれており、真衣の祖父も再三立ち退きの勧告を受けていた。真衣の祖父がそれを受け入れれば、この神社は山諸共取り崩されることになる。しかし、未だこの神社が手つかずのまま残されているのは、真衣の祖父が立ち退きを断固として拒否しているからである。真衣も自分も、この町にとっては同じ邪魔者なのだと、慎治は思った。
「アイスありがとう。そろそろ帰るね」
そう言って慎治が立ち上がると、真衣は慎治に「うん、またね」と言った。慎治はもう一度真衣の方を見て
「明日は学校来てね」と言い残し、そのまま石段を下りて自宅に向かった。
さっき通った十字路を今度は曲がらずに直進し、暫くすると、慎治の住む家が見えてくる。こじんまりとした平屋で、外壁の塗装は剥げており、家を囲むコンクリートの塀は所々崩れ落ちている。周りの空き家は全て取り壊されており、ただ一つ、慎治の家にある生活感だけが、その場所に取り残されていた。
プロパンガスの横にある扉の鍵を開け、慎治は家の中に入った。玄関のすぐ横には台所があり、洗っていない皿が積み上げられている。その奥には居間があり、そこには小さなちゃぶ台が置いてある。その前にじっと座り、窓から注がれる夕方の光の逆光で黒く塗り潰されている人影は、慎治の父親であった。部屋干しされた洗濯物に囲まれて部屋は薄暗い。慎治は電気をつけて、父に「ただいま」と声を掛けた。
「おかえり。学校はどうだった?」
「いつもと変わらないよ」
「そうか」
そう言い終わると、慎治の父は再び俯いて、無言でちゃぶ台の酒瓶を握ったまま、じっとしていた。その姿を見ていると、慎治はどうしようも無い悲愴を感じて思わず目を逸らしてしまいたくなる。
奥のガラス戸の外には小さな庭がある。そこに放置してあるいくつかの植木鉢は、生前の母が、自分たちの食事の足しにしていたオクラやトマトなどを栽培するために使っていた物である。今では土が詰められているのみで、植木鉢の中にはひとつの植物の姿も無い。庭の角には小さなブランコが置かれている。これは慎治がまだ幼い頃に遊んでいたもので、今に至るまでずっと外で野晒しにされている。このブランコを見る時、慎治の心は何故か痛みを覚えるのだった。
白くぼやけていた空は、やがて青く、そして黒くなっていった。
――夜も更け、工事の音も消えて町中がすっかり静まりかえった頃、一本の電灯のみに照らされた神社の中には地上げ屋二人の姿があった。二人は真衣の住む社務所のドアを強く叩いて、真衣の祖父を呼び出した。暫くすると「何度来ても無駄だ! 帰れ!」と、怒鳴りつけるような声がドアの奥から聞こえてきた。
「おじいちゃん、それじゃあ困るんですよ」
「この神社を渡す気は毛頭無い! わかったら帰れ! この罰当たりども!」
白髪の男、榊原は、煩わしそうな顔をしたまま煙草に火を付けて、ドアの方を睨んだ。
「聞き分けの無いこと言わないで下さいよ、おじいちゃん。こんな参拝客もいない神社を残してどうするんですか。それに、あなたのお孫さんにとってどの選択が正しいのか、考えてみてもくださいよ。お孫さんをいつまでもこのままにしておいて良いと思ってるんですか?」
その言葉を聞いた祖父は、扉の前で肩を震わせながら「お前らにこの子の痛みがわかるものか……」と、怒りを抑えるような口調で呟いた。
「誰も来ない神社に価値なんてありませんよ。いもしない神様とかにすがってないで、この町のこれからの発展に貢献した方が、罰当たりどころかよっぽど善良だと思うんですけどね」
榊原は煙草を足元に投げ、それを靴でグシグシと踏んだ。祖父は暫く沈黙し、やがて「この子には絶対に手を出すなよ」と、再び語気を強めて言った。それを聞いた榊原は「さあ?」とだけ言い、二人は神社を後にした。
暗い廊下の陰でこの話を聞いていた真衣は、目に涙を浮かべながら、その場で俯いていた。その姿を見つけた祖父は、廊下の電気をつけて真衣の肩に手を置き、「すまなかったね、真衣。でも真衣は何も心配しなくて良いんだよ。神様は真衣をいつも見守っているからな」と優しく言い聞かせた。祖父の言葉を聞いて、真衣は静かに頷いた。
真衣と祖父は、そのまま夕飯の準備を始めた。その日は鶏肉の炊き込みご飯と天ぷらだった。祖父の作った料理を食べながら、真衣は祖父の優しさをとても感じていた。祖父は誰よりも真衣を心配し、誰よりも真衣に優しくする。それは真衣の実の母から受けたものよりも大きいかもしれない。しかし、祖父に優しくされる度に、真衣の心には拭いきれない蟠りが生じるのであった。
「ごめんね、おじいちゃん」
「真衣は謝らなくていいんだよ。悪いのは神の畏れを知らない奴らだ。この町の全てが更地になっても、この場所だけは守らないとな」
祖父は強い意志を持ってそう言ったので、真衣は少し笑って「うん」と言った。しかしそう言われる度に、真衣はもっと強い罪悪感を覚えるのであった。夕食を終えた後、真衣はさっさと皿を片づけて、既に沸かしてあった風呂に入った。
祖父がいつも口にする「神様」は、一体どこに存在しているのだろうか。空の上とか、目に見えない周りの空気の中とか、もしかしたらこのお湯の中とか……或いは、自分に対する祖父の優しさの中に、言葉として存在しているだけなのかもしれない……そんなことを考えながら、真衣は湯船の中に浸されていた。窓の隙間から入りこむ涼しげな空気と、湯船から放たれる温かい湯気が混ざり合って、どうしようもなく哀しい気分が風呂場の中に満たされていた。
風呂から上がり、髪を乾かした後、真衣は上着を羽織り再び自宅である社務所を出ようとした。その時祖父に「あまり外に出ない方が良い」と言われたが、「すぐ戻るよ」と言って、真衣は社殿へと向かった。永遠に癒えることのない自らの傷を癒すように、真衣はこの神社に寄り添っていた。真衣にとって、この神社は母親のような存在だった。この神社の前では、自分はその子供になりきっていた。そしてそこから離れられず、甘えてばかりいる自分がどうしようもなく嫌になる。そして、いつかこの場所を失い、その後この場所がまるで違う姿に変わってしまうことを考えると、真衣は震えそうなほどの恐怖に囚われる。しかし、そんな時に浮かび上がるのは、あの地上げ屋の言葉であった。もしかしたら、この恐怖から逃れるための「何か」を、心のどこかでは求めているのかもしれない。しかしそれを認めるのは、優しさに対する不実であるような気がした。
涼しい風が吹き、真暗な闇の中に木の揺れる音が聞こえる。祖父に「冷えるから中に入りな」と言われて、真衣は社務所の中へと戻っていった。
――その次の日、慎治は教室に入ると、みんなの声でざわついているクラスの中を見渡した。しかしどこを見ても真衣の姿は見当たらない。いつものことではあるが、その日は特に、慎治の胸により一層の空虚な寂しさを覚えさせた。賑やかなクラスの輪から一人離れ、ただぼんやりと、窓から見える工事現場を眺めていた。新たに建設中のタワーマンションは、まるで天空の壁のように一日一日と空に向かって伸びてゆく。
(真衣ちゃんは今何をしてるんだろう)
慎治はそんなことを思いながら、一日中ずっと、窓の外の景色を眺めていた。
学校が終わると、慎治は今日も真衣のいる神社へと向かった。いつものように急な石段を上り、乱れた呼吸を正して前を見ると、いつもはいるはずなのに、今日はそこに真衣の姿が無かった。
慎治は真衣を探すために本殿の裏へと回った。また、その奥に続く林にも足を踏み入れて真衣の姿を探した。しかし真衣の姿はどこにも無かったので、諦め気分で仕方なく石段を下りて家に帰ろうとした。するとそこに、石段を上ってくる真衣の姿があった。
「あっ、真衣ちゃん」
「あれ、慎治君、来てたんだ。ガリガリ君買って来たんだけど、食べる?」
そう言って真衣は手に掲げたビニール袋からガリガリ君を取り出して、それを慎治に渡した。ビニール袋にはドライアイスが入っていたが、この暑さのせいか、棒に刺さるガリガリ君は少し溶けていた。何でもないような会話をしながら、二人はいつものように賽銭箱の前の石段に座り、アイスを食べていた。
「あのさ、慎治君。変な質問していい?」
「何?」
「神様って信じる?」
真衣の質問に対し、慎治は少しも悩まずに「僕は信じないよ」と答えた。それを聞いた真衣が表情を変えることも無かった。
「それに僕は神様じゃなくて、真衣ちゃんに会うためにここに来てるんだ」
「そういえば、慎治君はお参りとしてここに来たこと無いよね」
「あ、うん……そういえば」
「いやいや、それでも嬉しいんだけどね」
真衣は笑ってそう言った。
「うーん……じゃあ、アイスのお礼として」
慎治はそう言いながらポケットから百円玉を三枚取り出し、それを賽銭箱に投げ入れた。
「そんなの良いのに。ごめんね、ありがとう」
「僕こそ、いつもアイス貰ってるからね」
慎治はぼんやりと思い出していた。それは生前の母が言った言葉。神様について。慎治の母は、慎治が泣いて家に帰ってきた日に、慎治に向かって「神様」の話をした。つらい時、苦しい時、いつも慎治を見守ってくれる神様がいるらしい……しかし慎治にとって、その神様は何年も前に結核で死んでしまっている。
「僕にも神様はついていたのかもしれない……でも多分、今は見放されちゃってるかな」
慎治がそう言うと、今まで笑顔だった真衣は、その表情に少し憂いを加えた。
「おじいちゃんがいつもね、私には神様がついてるって言うの」
「それで、真衣ちゃんはいると思う?」
「わかんない。こんな所に住んでてそれを言うかって感じだけど」
何故真衣がこんな話をしたのか、慎治には全く理解できなかったが、真衣の様子がいつもと違うということだけはわかった。慎治は賽銭箱の前から立ち上がり、真衣の方を向いて「明日こそ学校来てね」と言った。それを聞いた真衣は、まるで慎治の言葉を誤魔化すようにして笑った。それ以上念を押すようなことはせず、慎治は鳥居をくぐり、石段を下りて自宅へと向かった。
帰宅の途中、慎治は幼い頃のことを思い出していた。まだ青い葉の茂る草木や、人々の暮らす家々がこの町に存在していた頃の話である。
――気弱だった慎治は、隣のクラスの川木という男子に公園で散々な意地悪をされて、涙で顔を歪めながら、橙色に滲む空の下を歩いていた。やがて家に着くと、慎治の母は夕飯の支度をしながら「どうしたの?」と、泣き顔の息子に驚くような様子も見せず、優しい口調で尋ねた。慎治が公園での出来事をありのままに語ると、母は味噌汁を煮ていた鍋にお玉を置いて、慎治の頭を撫でた。それだけで慎治の心は穏やかになった。
「川木君に意地悪されても、もう簡単に泣いちゃだめよ。強く構えてなさい。慎治には神様がついてるんだからね」
母はそう言った後、慎治を撫でていた手を離し、再び夕飯の準備を始めた。
そしてその翌年、慎治の母は結核でこの世を去った。慎治が小学三年生の時だった。
「神様はお母さんを見放したんだ」
慎治の父はそう言った。しかし慎治にとっては、母が神様そのものであったような気がした。その神様が死んでしまったのだから、もう誰も慰めてくれない。もう誰も見守ってくれない。だから慎治はその時、自分自身で何事にも動じないほどに強くなることを決意したのである。
――寧ろ、慎治の母の死は、慎治の父から多くのものを奪ってしまったようである。やがてこの町に再開発の波が押し寄せても、父が頑なにこの家を立ち退かないのは、亡き母の面影をこの家に求め続けているからなのかもしれない。
「ただいま」
「おかえり。学校はどうだった?」
「いつもと変わらないよ」
「そうか」
慎治と父のやり取りは今日も変わらない。いつも、ただそれだけを交わして、二人は薄暗いこの家で暮らしていた。棚の上には、まだ母が生きている頃に三人で撮った家族写真が飾られている。柱には、慎治の小学三年生の時までの身長が刻まれている。今日に至るまでの間に、この家にあった物の多くは売りに出してしまっていた。母の服、食器、化粧台なども、生活費の足しにするためにすべて金に換えている……なのに、この家をまだ手放せないというのはおかしな話であるような気がした。母が存在していた空間、それは父にとって、何よりも捨て難いものなのだろう……慎治はそう思った。この狭い家に記された昔の思い出も、父と二人の生活が続く内に、殆どが失われてしまったように感じていた。そして、二人の生活が続いても慎治は父の気持ちをずっと理解できずにいる。ただ、理由は違っていても、まだこの町を去るつもりは無いと考えている点では親子共に同じであった……少なくとも慎治はそうであった。だから父親と息子は、今日もいつもと同じ場所で、川の流れに逆らって泳ぐような変わらない生活を繰り返している。
その日曜日、父の様子は特にひどかった。朝、慎治は父のうめき声と共に目を覚ました。布団を出て居間の方へ向かうと、ちゃぶ台に突っ伏したままうめき声をあげる父の姿があった。ちゃぶ台の上には酒瓶が転がっており、その中身は殆どこぼれ出ている。
またか、と思いながら、慎治は寝癖を直し、歯を磨き、服を着替えて、そのまま玄関を出た。やかましい工事の音がいつものように町中で鳴り響いている。十字路に辿り着くと、慎治はまるで癖のように神社の方へと向かおうとしたが、咄嗟に思い直して別の方向へと進んだ。ユスリカが飛び交う道を進み続け、やがてこの町の出入り口とも言える大きな交差点に辿り着くと、国道沿いを行き交う人の姿が見えた。まるで文明の発展が異なった社会の交わりの境界を見ているような、そんな気がした。
道路に沿って立ち並ぶ看板を眺めながら暫く歩き、横に分かれる狭い道路に入りこんだ先には、家と家に囲まれてひっそりとたたずむ狭い墓地があった。錆ついた鉄柵を押し明けて墓地の中に入り、水をじょうろに汲んで、一番奥にある小さな墓石の前に立った。そこにあるのは母の名前である。にわかに暑い空気の中に冷たい風が吹きつける。慎治はじょうろの中の水を母の墓石の上にゆっくりと浴びせた。
「お母さん、どうして死んだの」
慎治はまるでそこに母がいるかのように呟いた。当然、慎治の声に答える者はいない。しかし、慎治はそこに母がいないことを知りながらも、その存在を求めるように、この場所で母の墓石に声をかけた。
「お父さん、今日も苦しそうだった」
そう言って、墓石に彫られた母の名前の窪みを見つめた。鉄柵の奥に子供たちのはしゃぐ姿が見えて、それは今の慎治の心情とは正反対な情景として映っていた。母の墓石に背を向け、慎治はじょうろを戻して墓地を後にした。子供たちの声は、再び国道に出るまで聞こえ続けていた。
町の上に生えるクレーンを眺めながら、慎治は工事現場だらけの町に帰った。道路を駆ける車の音よりも工事の音を聞いている方が、寧ろ今では郷愁の安らぎを得るような気がした。この音は自分が生まれ育った町の音……どんなに忌々しいと感じても、それもやはり、慎治自身の郷愁の音には違いないのである。
再び十字路にやって来ると、石段へと続く道の方へ曲がった。風に吹かれた木々がざわざわと音をたてている。石段を上り終えると、もうすぐ秋が訪れることを知らせるように、紅くなった葉っぱが石畳の参道に散り始めていた。そして、それを掃く真衣の姿がそこにあった。
「おはよう慎治君。今日は随分早いね」
「さっきお母さんのお墓参りしてきたんだ」
「そうなんだ」
慎治は参道を進み、賽銭箱に小銭を投げ入れて手を叩いた。
「ありがとう、ごめんね」
「ううん、なんか、急にバチが当たりそうな気がしたんだ。この前、神様なんて信じないって言ったから」
「慎治君にバチは当たらないと思うよ。いつもこの場所に来てくれてるんだから」
「本当は神様に会いに来てるわけじゃないんだけどね」
その後、慎治は学校での出来事などを話した。友だちがいるわけではないのでたいして面白い話もできないのだが、真衣が少しでも学校に行く気になってくれたらいいなと思い、慎治は自分の話を聞かせることに努めていた。真衣はそれを楽しそうに……楽しそうに見えるような表情で聞いていた。きっと、自分がこんなことを喋っていても、この子の気持ちが変わることはないだろう。なぜなら、この子が本当は何を思って、何を感じているのかなんて、全くわかっていないのだから……そう思っていても、やがて離れ離れになるその時までに、どうしても真衣をこの場所から連れ出して、真衣の過去、心の中、全てを知り尽くしたいという、そんなエゴイズムの芽が、まるで血管に絡みつくように根を張って、体の血を吸って大きくなり始めているのを感じた。
そうして、ここへ来て一時間もしないうちに慎治は神社を後にした。石段を下る慎治の姿を、真衣は石段の上から見送っていた。その様子は、何かを思い詰めているようにも見えた。帰宅の最中、慎治は真衣がどうすれば学校に来てくれるのかを考えた。しかし良い方法は何も思いつかない。慎治は真衣のことを何も知らない……初めて知り合った日から、真衣とは長い時間をあの神社で一緒に過ごしていたような気がしていたが、心の距離は一切の変化も無く遠いままであることを改めて実感し、慎治は虚しく溜息をついた。
今朝ちゃぶ台に突っ伏してうなされていた父の姿は、慎治が家に帰った時には無くなっていた。どうやらどこかに出かけたらしいが、こぼれていた酒や、転がっていた酒瓶は綺麗に片づけられており、慎治は胸に安堵のようなものを浮かべた。ここにいない父の姿を思い浮かべると、思い出という呪縛に憑りつかれた父の様子は、月日の経過と共にやつれてきているように見えた。そしてその様子を見る度に慎治は、この場所に残り続けられる時間が決して長くはないことを悟るのであった。
二
次の日の朝、慎治はいつもと同じ時間に目を覚まし、いつもと同じ時間に家を出て学校へと向かった。十字路に差し掛かると、慎治は奥に見える山を少しだけ望んでから、右に曲がって進んでいった。もっとしっかり、誤魔化されないように「学校に来てほしい」と伝えれば良かったかなと、その時慎治は思った。
その日の体育は持久走だった。体育教師の高内は「新記録を狙え!」「黒人に負けるな!」と、生徒に鞭を打つように叫んでいる。昼時の太陽が体力を奪い、生徒はみんなぜえぜえと言いながら、ぐるぐると校庭を走り続けていた。まるで永遠に続くかと思われた十五分が経過すると、遠くから聞こえる笛の音でみんなは一斉に走るのを止め、息を切らしながら、足を引きずるようにして校庭を歩き始めた。
やがて生徒が校庭の真ん中に集合し、高内が授業を終えようとしたその時だった。
「あれ、あいつが来た」
「え?」
誰かの声につられて、慎治は校庭の奥にあるフェンスに目を向けると、そこには制服を着た真衣の姿があった。みんなは騒めきながら、好奇の眼差しをフェンスの奥の真衣に送っている。それに目もくれず、制服姿の真衣はゆっくりと校舎の方に向かって歩いていた。慎治は見送るようにして、その姿が見えなくなるまで真衣を眺めていた。
「こっちに注目しろ!」
高内が叫ぶと、みんなはまた静かになって、一斉に高内の方を見た。すぐにチャイムが鳴り、授業を終えたみんなはぞろぞろと教室へと戻って行く。「こんな時期に持久走とか頭おかしいだろ」「やっと給食だ」――そんな会話をしながら、みんなはぞろぞろと校庭を後にした。慎治もひとり、その後に続いていた。すると、独り言のように呟かれた誰かの言葉が、慎治の耳に聞こえてきた。
「あんな神社、さっさと取り壊しちまえば良いんだよ」
それは、カラーコーンの片づけをしている高内のものだった。
教室に戻り、慎治は辺りを見渡した。しかしそこに真衣の姿は無く、昼休みになっても、依然として真衣の席は空いたままである。いよいよ訝しくなって、慎治は昼休みの間、いつもはぼんやりと座席に着いて本を読んだりしているところを、その日は校舎中を歩き回って真衣を探した。それはまるで虚像を追い求めているような感覚で、いくら探しても、その姿を目にすることはできなかった。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、廊下の中を吹き抜ける風が、汗ばむ慎治の体に優しく吹きつけていた。
まるで、体育の時間に見た姿は幻であったかのように思えてきて、慎治の気分は塞がったまま、いつもと何ら変わりも無く、その日の学校は終わった。憂鬱な気分のまま、重い足取りで校門を出て学校の角を曲がると、その先には真衣の姿があった。それを見た慎治は思わず目を見開いて、ようやく孤独から解放されるという安堵感を浮かべながら、即座に駆けるようにして真衣のもとへ向かった。
「慎治君、一緒に帰ろう」
「うん」
慎治は救われた気分でもあり、弄ばれた気分でもあり、何ともわからない気持ちで真衣の横に並び歩き始めた。
「真衣ちゃん、さっき学校にいたよね」
「うん、行ったよ。でもずっと保健室にいたんだ」
「そうなんだ」
こうやって並んで歩いているのに、辺りは工事の音で騒然とするばかりであるのを、慎治は惜しく思った。ここが山に囲まれた田んぼの畦道であったり、真横に海が広がる海岸通りであったら、どんなに良かったことか。
「今日、真衣ちゃんが学校に来たのを見て、凄い嬉しくなった」
「どうして?」
「だって、真衣ちゃんがいたら僕は学校でひとりじゃなくなるから」
「他に友だちはいないの?」
「いないよ」
そんな寂しい会話をしながらも、慎治は、自分が学校に真衣の存在を求めていることに気づいてもらいたかった。しかし「私も友だちと言ったら、慎治君しかいないな」と言って、真衣はそれ以上何も言わなくなってしまった。
「今日は神社来ないの?」
「今日は真っ直ぐ帰るよ」
「そっか」
十字路に辿り着いた二人は「またね」と言って、それぞれの家の方へ向かった。なんとなく煮え切らない気分の慎治であったが、久々に真衣と並んで通学路を歩いたので、懐かしさを覚えもした。そして十字路を過ぎてから自宅に着くまでの間、慎治は初めて真衣と出会った時のことを思い出していた。
――それは小学五年生の九月。その日は夏休み明け最初の登校日で、クラス内にはまだ夏休み気分が抜けていないような雰囲気が漂っていた。しかし、担任の先生によってクラスに転校生がやって来ることが伝えられると、クラスの弛緩した空気は一気に変化して、みんなは一斉に新しいクラスメイトに対する期待を寄せ始めた。体育館で始業式を終えて教室に戻り、それから暫くすると、一人の女子生徒が先生に連れられて教室に入ってきて、名前の書かれた黒板の前に立たされた。サイドをピンで留めたショートヘア……大きな瞳……整った顔……白いスカート……初めてその転校生の姿を見た時、心臓が強く鼓動したのを今でも憶えている。
北出真衣――
それが彼女の名前であった。
彼女の周りには早速、男女を問わずに多くの人集りができていた。そして「どこから来たの?」「何が好き?」「私と友だちになろう?」など、たくさんの言葉をそれぞれが彼女に寄せていた。それを受けていた彼女は、何だかぎこちないような笑顔を浮かべていて、慎治はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。
放課後、慎治は一人の友だちと共に帰宅していた。すると、
「慎治、あの転校生のこと、どう思う?」
友だちにそう聞かれて、突然の問いに慎治はどきっとした。
「いや、どうも思わないよ」
「じゃあお前だけに言うわ」
「えっ?」
その友だちはその後一呼吸置いて、慎治の方を見た。
「俺、あの転校生、好きになったかもしれない」
それを聞いた慎治はまたどきっとして、密かな焦りを覚えた。友だちは照れくさそうな顔を浮かべながら、口元を緩めたり、強く閉じたりを繰り返していた。慎治は強がりを見せるようにして「そうなんだ」と、何でもないような風を装って言った。
「絶対誰にも言うなよ!」
「うん、秘密にするよ」
そう言って、二人は別々の道へ向かっていった。その後一人になった慎治は、今日のことをじっくりと振り返ることにした。まず、突然やって来た子のことを自分が好きになるなんて、ある筈無い。だから自分は彼女のことをまだ何とも思っていない。でも、一言くらいは話をしてみたかった……慎治は一人で悶々としながら、自宅の方に向かって歩いていた。明日はあの転校生と話をしてみようと、その時慎治は思った。
次の日、慎治は心の中で会話のシュミレーションをしながら登校していた。しかし、いざ教室に入ると、昨日慎治に胸の内を明かしたあの友だちが、彼女にアタックをかけるように会話をしていた。それを見た慎治は、その日も彼女との会話を躊躇って、結局何も話すことができずに一日を終えてしまった。意気消沈しながら、慎治は自宅へと向かっていた。話をしようと昨日から決めていたのに、それができなかった情けない自分に嫌気がさしてしまった。
しかし、ふと前を見ると、同じ道を歩いている彼女の後ろ姿が見えた。慎治はその後ろにいて、そんな突発的な出来事をささやかな幸運と思いながら、その道を歩いていた。やがて十字路に辿り着いた彼女は、そこを右へ曲がった。それに続いて十字路に辿り着いた慎治は、右の方を向いてみた。そこには、神社の境内へと続く石段を上る彼女の姿があった。どこへ行くのだろう、慎治はそう思って、彼女を追うようにして右へ曲がった。道の突き当たりにある急な石段を上り、額からは汗が垂れてくる。彼女に続いて、慎治も石段を上り終えた。すると、前にいた彼女が突然慎治の方を振り返り、不思議そうな顔をして慎治を見ていた。慎治はぎくりとして、思わず「こんにちは……」と挨拶をした。しかし、慎治の顔を見たまま、彼女は何も言わない。
「北出さんが前を歩いていたから、どこに行くんだろうと思ったんだけど」
「私、ここに住んでるの」
「えっ?この神社に住んでるの?」
その言葉に慎治は驚きを隠せなかった。昔から知っている筈のこの神社に、こんな子が住んでいたなんて、慎治は全く知らなかったからである。
「おじいちゃんがここでお仕事してて、私もここで暮らすことになったの」
「そうなんだ」
「中にアイスあるよ。食べる?」
「うん」
そして二人は賽銭箱の前に座ってアイスを食べた。思いがけない出来事だったが、慎治はこの瞬間を、まるで神様に恵まれた幸福のように感じた。揺れる木々の音、吹き抜ける風、アイスの冷たさが、残暑で汗ばんだ体に心地良かった。
その日から二人は、学校やこの神社で、色々な話をするようになった。しかし、ひと月くらいが経過すると、次第に彼女は学校に姿を現さなくなるようになった。慎治は彼女に会うために、この神社に通うようになっていた。
――そしてそれは、中学生になった今でも変わっていない。だが、それまでの間に当初から計画されていた再開発は大きく進行し、町中のあらゆるものは姿を消してしまっている。それは慎治たちのいた小学校や、あの時のクラスメイト、友だちに至るまで……。
ある日のこと……この日も慎治は真衣に会うために、真衣のいる神社へと向かった。賽銭箱の前で語る何でもない会話が、慎治にとって何よりも楽しいものであった。自分の言葉に真衣が笑ったり、時にからかわれたりするのを幸せであると感じ、それは小学生の時から変わっていない……だが、最近、慎治は自分がただ純粋な思いのみでこの場所に通っているのではないということに気づき始めていた。
「最近、毎日ここに来てるね」
「僕、ここ好きなんだ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。私もここが好きだから」
「でも、ここも再開発の計画に入ってるんだよね?」
「まあそうなんだけど、おじいちゃんが絶対にここをどこうとしないんだ」
「じゃあ、真衣ちゃんはずっとここにいるの?」
「どうだろ」
慎治は心の内に、いつかはこの場所を去らなければならない時が真衣にも訪れるということを感じていた。そして、その時が真衣との別れの時だと思うと、慎治は自分自身の心を慰める方法もわからなくなるのである。だから、その瞬間が訪れる前に、もっとこの子のことを知りたい――それは表面的なことだけでなく、心の中にある本当のもの、そして、その心の交わりが生み出す、少年にとっての神聖で、夕暮れ色をした後ろめたさ……その全てに至るもの――そんな思いが慎治を支配していた。
「ねえ、ちょっと散歩しない?」
「散歩? 良いよ」
頭上から自らを支配しようとする欲求に耐えかね、慎治は真衣を連れて神社を離れた。重々しい曇天が広がっていて、町中の工事現場からはドリルの騒音や、作業員同士が指示を出し合う大声が響き渡り、二人が狭く囲まれた道を並んで歩いていると、見たことも無いような大型の輸送車が黄色の回転灯を点灯させながら道路を横切って、工事現場と工事現場の間を移動していた。作業員に足を止められた二人は、その輸送車がゆっくりと動く様子を、ただ唖然として眺めていた。慎治にとっては、その輸送車がこの町を侵略しに来た軍隊の母艦のように見え、ショベルカーなどを始めとする重機は侵略軍の兵器で、作業員たちは兵隊のように思えた。
「もう通って良いよ」
兵隊にそう言われ、二人は再び歩き出した。どこを歩いても、この町はやはり工事現場だらけだった。二人の会話は工事の騒音で度々掻き消され、その度に慎治は歯痒い気分にさせられた。神社のある山の周りを歩いていても、既に山を取り囲むようにして工事現場が敷かれている。まるで最後の砦を攻める官軍のような配置である。二人一緒にこの光景を眺めていると、慎治はどうしてもやりきれない気分になった。
「戻ろうか」
「そうだね」
二人は石段の方へと回りこみ、神社へと帰った。最早、この町で二人を繋ぐものはこの神社以外に存在しないということを、慎治は改めて理解した。だがそれは間接的な繋がりに過ぎず、真衣は神社と繋がっているけれど、慎治と真衣の繋がりは無く、慎治はやむなくこの神社に対して真衣との接続を要求するしかない……そんな有り様であった。しかし、そんな中継役を担うこの神社も、神様も、もうすぐ侵略軍に滅ぼされてしまうだろう。この子の祖父がどんなに強情でも、きっと必ず。あの巨大な輸送車を見てから、慎治は尚更そう思うようになった。依り代を失う前に、この子との直接的な繋がりを得るためにできることは何か――唐突に、慎治は告げた。
「どこか遠い場所で暮らそう。二人だけで」
それを聞いた真衣は、目を大きく開けて慎治の方を見て、暫く無言になった。鳥居を止まり木としていたカラスがバサバサと大空へ羽ばたいてゆく。突拍子の無いこの言葉に真衣が答えるまで、木の葉の揺れる音のみが聞こえていた。慎治は吸い込まれそうな色をした真衣の瞳を覗いて、一度顔を逸らし、そして再び真衣の顔を見た。やがて、
「ごめんね慎治君……それはできないよ」
真衣はそう答えた。
「そうだよね……ごめん」
残念そうな顔を浮かべた慎治は、再び真衣の顔から視線を逸らしてしまった。でも、こう答えられることは自分自身で理解していた筈だ。真衣がこの神社から離れて暮らすことを望む筈がないと。
「あっ、じゃあさ慎治君。青春18きっぷって知ってる? 今度それ使ってどっか遠くに出かけようよ。」
思いついたように真衣は言った。さらに続けて、
「こんな工事現場ばかりの町を出てさ……」
そう言葉を連ねる内に、その声は段々と泣き声のようなものに変わってゆく。やがて、真衣は顔を覆い泣き出してしまった。
「ごめんね慎治君。私、誰かにこんなこと言われるの初めてで」
当然、泣かせるつもりなど無かった慎治は、咄嗟の出来事に対してしどろもどろになりながら、思わず真衣の肩に手を触れて、その身に引き寄せてしまった。そうすることしか、慰めと償いを見せることができなかったのである。すると、慎治の胸の中から慎治の名前を呼ぶ声が一度微かに聞こえ、やがて嗚咽が聞こえてきた。正しいことをしているのか、間違ったことをしているのか、慎治には一切の判別がつかなかった。震える真衣の肩から体温が伝わってくる。その熱は、慎治の中へ溶けこむように記憶され、この先も忘れられない一つの感情の刻印となった。
真衣が涙を抑えて落ち着き始めると、二人は再び賽銭箱の前に腰かけた。そして、慎治は真衣の方を向いて、
「真衣ちゃん……明日は……」
そう言うと、真衣はまた、誤魔化すような笑顔を慎治に見せた。その目は赤く、まだ涙が溜まっている。そして「ごめんね」と言い、下を向いてしまった。
「学校にだって、真衣ちゃんの居場所はあるよ」
「……」
これ以上言うべきではなかったかもしれない。しかし慎治は、真衣の気持ちを知らなければ気が済まなくなって、問いを重ねてしまった。
「どうして学校に行きたくないの?」
「……」
慎治の言葉に真衣は何も答えようとしない。その様子に慎治は悶々としたが、ふと、今日学校で聞いた高内の独り言を思い出して、それ以上学校の話はしなかった。
「真衣ちゃんはこの町を出たくないの?」
「私にはこの神社があるから……慎治君は?」
「僕は真衣ちゃんがこの町にいる限り、ここにいたい」
慎治がそう言うと、真衣は静かに笑った。
「僕、知りたいんだ……真衣ちゃんのこと」
「私はあんまり、知られたくないな……自分のこと」
「そっか」
慎治は真衣の言葉を、拒絶と捉えた。しかしこれが真衣の望みなら、受け入れるしかない……ただそう思うのみであった。知りたいという欲求と、知られたくないという拒絶……そこに生じる心の壁は、ガラス細工のような繊細さを見せている。だからこれ以上、その壁に触れることさえ躊躇してしまう。
「ごめんね、知られたくないことだって、あるのにね」
「ううん、私こそごめんね……私そろそろ家に戻るね」
「うん、じゃあね」
「じゃあね」
こうして煮え切らないまま二人は別れ、慎治は石段を下り、真衣は自宅である社務所の中へと入っていった。遠くに見えるタワーマンションの上にかかる雲は真っ黒で、まるで今にも落ちてきそうなほどであった。そしてあの雲のような、もやもやとした真っ黒なものが、慎治の胸の中にも立ちこめていた。
慎治は自宅の玄関をくぐり、「ただいま」と言って靴を脱いだ。今日は何故か、父は何も言わない。いつも以上に何かを思い詰めているような様子で、慎治はそれに怪訝を浮かべることしかできなかった。慎治が鞄を置いて、制服から部屋着に着替えようとしたその時、父が急に顔を上げて慎治の方を見た。
「なあ、慎治」
「何?」
「父さんな、そろそろここを立ち退こうと思うんだ」
「えっ?」
制服のボタンに手をかけていた慎治は、思わず父の方を向いた。その一瞬は、父の言葉を理解することができなかった。しかし、一呼吸おいてからもう一度その言葉を反芻すると、父がようやくその決断をしたという事実を、慎治は淡々と理解してゆく。
「ここをどければ、もう少しちゃんとした家に住めるようになるらしい」
父はそう言ったが、住む家のことなど慎治にとってどうでも良いことであった。慎治は茫然としながら、何の感慨も無いような様子で父に「そうなんだ」と言った。
「慎治にも長いこと迷惑をかけたな。すまない」
長年父の側にいてその様を見ていた慎治だが、その時だけは、父をつくづく身勝手であると感じた……だが父を責めるような気持ちにはならなかった。慎治にとってはこの場所から離れることの寂寥よりも、あの山の上に残る神社……真衣のことを思い滲み出てくる焦燥感……その方が大きく、それは慎治の胸を強く締めつけた。
「どうして急に」
「……」
父は答えなかった。父は慎治の問いをはぐらかすように、
「そう言えば慎治……前に携帯が欲しいって言ってただろ。新しい場所に引っ越したらそれを買ってやろう」
「いらないよ、そんなの」
慎治がそう言うと、父は沈黙した。慎治はドア枠に腰を掛け、狭い家の庭を眺めた。灰色の空の下を、群れを成したカラスが飛んでいる。庭の中に置かれていたブランコは既にその姿を消していた。ついにこの場所を去る時がやって来たのだ……庭を見て、慎治はそれを実感した。だがその前に、しっかりと終えておかねばならないことがある。真衣に会って別れを告げなくてはならない。そして、自分の中にあるこの気持ちを殺し、真衣のことを綺麗に忘れてからこの町を去らなくてはならない。
その夜、慎治は布団の中で、真衣に伝える別れの言葉を考えた。しかしそれを考えれば考えるほど、真衣との別れがつらく、そして哀しくなり、眠れなくなるのであった。
次の日、慎治は再び真衣のいる神社へと向かった。しかし、毎日のように神社にいて、賽銭箱の前に座っていたり、藁の箒で掃除をしたりしていた真衣の姿を、その日は見ることができなかった。慎治は神社の中をぐるぐると周り、暫く賽銭箱の前に座っていたりしたが、いよいよ日が落ちようしていたので、慎治は落胆して石段を下りた。古びた参道の上には、季節の流れに朽ちた落ち葉が無造作に散らばっていた。
次の日も、その次の日も、慎治は真衣のいる神社へ訪れていた。しかし、真衣が慎治の前に姿を現すことは無かった。社務所の戸を叩いても、中からは何の反応も無い。この町を去る時は日に日に近づいている。慎治はその前に、せめて一度で良いから真衣に会いたいと心の底から強く思った。そして帰り道、こうして今までの時間が忘れられてゆくことにひどく哀しみを覚えた。
更にその次の日も真衣に会えず、慎治は虚しく、夕暮れる道を歩いていた。風が吹くと少し肌寒さを覚える。歩いているうちに、慎治は突如思い立って、ある場所へと向かった。そこまでの道のりは工事が経過する内に変化しており、慎治はあやふやな記憶を辿りながら何度か道に迷ってしまったが、やがてその場所に辿り着くことができた。そこはブランコ、滑り台、ベンチのある小さな公園だった。もともとはこれの倍ほどの広さがあって、公園に隣接したもっと広い広場も存在していた。しかし、その広場も、公園の半分も、資材置き場となってしまった。
慎治はこの場所で、よく川木という男子に意地悪をされていた。水風船を投げつけられたり、砂を被せられたり。でも、今となっては何でもない出来事である。それどころか、少し懐かしささえも感じてしまう。それから数年経って、気づいたら、慎治と川木は同じクラスの友だち同士になっていた。そして、転校してきたばかりの真衣を好きになったと慎治に打ち明けたのも、川木であった。真衣が学校に来なくなって悲しんでいる川木を、慎治が神社へ連れて行ったりもした。自転車に乗って、二人で日が暮れるまでこの町を走りまわったりもした。この公園も、あの神社も、もう取り壊されてしまった小さな駄菓子屋も、この町にいた子供たちにとっては全部思い出の場所である……筈なのに。
ただひとつの明かりが、ぼんやりとこの公園を照らしている。この公園も、既に忘れ去られた場所なのだ。そして慎治自身、自分がこの町に忘れ去られてゆくのを感じていた。
また更に次の日、慎治は再び神社へと向かい、ひとり、日が暮れるまで真衣が現れるのを待った。そしてまた、今日も同じように真衣はこの場所に姿を現さなかった。慎治はついに真衣が自分の前に現れることはもう無いのだと悟り、虚しく神社を眺め、その場を後にしようとした。そして、もうここに来るのはやめようと思った。あの子はきっと自分が嫌いになったんだ。だからいくら待っていても、もう姿を見せてはくれないだろう……慎治はそう思った。
カラスが遠くの空へと飛んで行き、それと同時に、慎治は顔を上げて鳥居の方を向いた。するとそこに、参道の枯れ葉を踏み散らしながらやって来る何者かの気配があった……あの地上げ屋二人であった。地上げ屋の一人、榊原が、いつものにやにやとした表情で慎治の方を見ていた。
「何でここにいるんですか」
「聞かなくてもわかるだろ。ここの神社の奴らにもどいてもらわないと困るんだよ」
慎治は黙って、二人の横を抜けてその場を去ろうとした。すると、
「お前、毎日この家の娘に会いに来てるんだろ」
慎治はハッとした。榊原の口調はいつもと違い、申し訳程度の丁寧口調も、今日は一切見られない。
「じじいが孫を甘やかしてばかりいるからよ、孫は学校にも行かねえし、この神社から離れようともしねえんだよ。一生この場所に籠って、じじいと一緒に邪魔者扱いされながら生きていくつもりなのかね」
「どうして学校に行かないんですか」
「知るかよそんなの。そんなことは自分で聞け」
「聞いても答えてくれないんです」
「それはあの娘にとってはお前よりもこの神社の方が大事だってことだろ?」
「……」
榊原の言葉に、慎治は何も言い返すことができなかった。
「まったく、お前といいあの娘といい、この町に残ってるのは碌でもない奴ばかりだな」
榊原は煙草に火をつけると、持っていたライターを床に落とした。そして、どういうわけかそれを拾おうともせず、二人は鳥居の方へ向かって歩き、去り際に「あーあ、こんな神社、燃やしちまえば仕事もさっさと終わるんだけどな」――そう言い残して、石段を下りていった。慎治は榊原が落としていったライターを拾い、何かを思い詰めるようにそれ見つめた。頭の中に、榊原の言った言葉が焼きついたように残っている。その言葉を反芻しながら、慎治は石段を下りた。夕暮れの空は橙色に染まってゆく。それはまるで、慎治の頭の中に生まれた衝動を、夕空のスクリーンにそのまま映しているようであった。
その日の夜のことである。
神社が真っ赤に燃えていた。賽銭箱も、その上の鈴も、社殿の何もかも全てが炎に包まれ、火花を散らしながら、それは暗い夜空の下を照らす灯りとなっていた。その火はやがて周りの林にも燃え移り、黒煙は木の葉を飲みこむように宙へ昇り、最早手のつけようもないほどに燃え広がった。
燃える神社を前にして、ただ茫然と立ちすくむ少女の姿があった。その潤んだ目は綺麗に炎を映し、その横には涙の筋が垂れ、その絶望と美しさを言葉にするには、慎治は言葉を知らなすぎた。
「真衣ちゃん」
ただただ立ちすくむ真衣の後ろから慎治は言った。
「神様って、いると思う?」
慎治は静かに尋ねた。
「神様なんて信じない……いるわけない」
真衣がそう言うと、慎治は真衣の手を取って、鳥居のある方へ引き連れていった。すると、一人の老人が社務所の方から姿を現した。
「おのれっ、この罰当たりな小僧め!」
社務所の前に跪いたまま、老人は慎治を枯れるばかりの声で罵った。
「お前とあの地上げ屋共には必ず天罰が下る! 覚悟しておけ!」
その言葉を背に受け、二人はゆっくりと石段を下りていった。バキバキという音と共に社殿奥の柱が倒れると、本殿の屋根は音をたてて崩れた。柱は軒並み崩れて、たちまち神社はその形を失った。
石段の下には、地上げ屋の二人が車を停めて、慎治と真衣を待っていた。
「乗れ。礼としてどこへでも連れてってやる」
榊原がそう言うと、二人は何も言わず、車の後部座席に乗り込んだ。慎治がドアを閉めると、スキンヘッドの男、澤口は、その場で車を一気に転回させ、十字路の方に直進した。慎治が後ろの窓を覗くと、まるで巨大な竜のような黒煙が、絶え間無く夜空の奥へ昇ってゆくのが見えた。
「山があって、田んぼがあって、海がある場所に連れて行って下さい」
慎治が澤口にそう言うと、澤口は低い声で「おう」とだけ答えた。真衣はというと、車の窓にぐったりと顔をもたれて、未だ生気を取り戻していない様子であった。
「慎治君のお陰で仕事が終わって助かったぜ」
榊原はそう言ったが、慎治は車窓を眺めたまま、何も言わなかった。やがて町を抜けて、周りにはコンビニやガソリンスタンド、家、色々なものが流れてくる。まるで鳥籠の中から飛び出た鳥のような、そんな気分だった。いつも遠くから眺めていた天空の柱のようなあのタワーマンションが、今は目の前に存在した。あの摩天楼も、こうして見ると、人が暮らすためのただの箱でしかない。
「こんなものを何個も建てるために町一個潰しちまうんだから、ホント馬鹿げてるよなあ」
榊原はそう呟いて、窓を開けて煙草に火をつけた。
「お嬢ちゃん、お前のじいちゃんはな、神様って存在でお前を縛りつけてたんだぜ? いもしない神様に囚われるお嬢ちゃんを真っ当にしてやろうとしてやったことなんだ。だから慎治君を嫌ってやるなよ」
慎治は、真衣を真っ当にしようなんてことは考えていなかった。ただ、自分があの町に残り続けようとした理由……真衣という存在を失いたくない……そう思っただけであった。しかし、そのためにとった手段が、結果的に真衣があの町に残る理由を真衣自身から奪うことになってしまったのである。
車は夜の道を駆けて行く。行先もよくわからず、ただ、この地上げ屋たちの気持ちに任せて。やがて車は高速道路に入り、いつしか車窓は鬱蒼とした夜の山林を映すばかりになっていた。ついにどこか見当もつかぬ場所まで来てしまったようである。慎治は不安になったが、自分のしたことは間違いではないと、自らを励ますように思っていた。たとえ自分の行いにどんな報いが来ても、それを受け入れるための覚悟はできている……慎治はそう思った。
――慎治が神社に火を放つ時まで、真衣は社務所にある自分の部屋の中に籠って生活をしていた。カーテンを閉めたままにして毛布に包まり、日の光さえ浴びることなく何日も過ごしていた。祖父に声をかけられ、夕飯を食べるために部屋を出ても、それを食べ終えるとすぐにまた部屋に戻ってしまう。そんな孫の姿を、祖父は「一体どうしたのだろう」と思いながら心配そうに見ていた。
そんな日々を送る中で、毎日のように神社へとやって来る慎治の姿を真衣はカーテンの隙間から見ていた。しかし自ら慎治に会いに行こうとはしなかった。最後に慎治と会ったあの日以来、真衣は慎治と会うことに対して恐れのようなものを抱いていた。心の中に入りこまれることは何よりも恐ろしく、まるで慎治が、あの地上げ屋と同じであるように思いさえもした。
もし、この神社にも神様がいるのであれば、その神様の意思はどちらなのだろう――慎治や地上げ屋の言う通りちゃんと学校に行って、他人という存在と交わって生きろ――それとも、――祖父の言う通りここにいて、この場所を守り続けろ――そんなことを考えていると心は塞がるばかりか、激しい自己嫌悪が悪夢という形になって現れてくることもあった。祖父の言う通り、たとえ神様が自分を見守っているとしても、こうして部屋に籠り、学校にも行かない自分を神様はいつまでも赦しておいてくれはしないだろう……そう思った。
――真衣はいつものように神社の前に立っていた。するとそこに見知らぬ人間がどこからともなくと現れてくる。真衣は社殿の中に逃げ込もうとしたが、その扉は固く閉ざされ、中に入ることはできない。見知らぬ人たちは真衣を取り囲むように指をさし、笑いながら、聞き取れないような言葉で真衣を罵っていた。真衣は泣くことさえできず、ただ耳を塞いでいた。すると一人の女が目の前に現れ、はっきりとした言葉で「お前は邪魔だ」と吐き捨てた。その女の正体は、何年も前に娘を捨てて失踪した、真衣の母親であった――その日の夜、真衣は気づかぬ内に眠りに落ちて、そんな夢を見た。ふと目が覚めると、不意に異様な悪寒を覚え、体を起こしてカーテンの隙間を覗いた。そこには、真っ赤になって燃える神社の姿が映し出されていた。
真衣は我を忘れて社務所を飛び出し、燃える神社の前で立ち止まった。目の前に広がるのは、この場所にやって来てから毎日のように寄り添っていた神社の変わり果てた姿だった。漆黒の夜空は、盛んに燃える火によって爛々と光っている。もう何をしても手遅れだと悟り、真衣はその場に立ちすくんだまま、なすすべなく焼け焦げてゆく神社の姿を、目に涙を浮かべながら眺めていた。まるで、まだ覚めない夢の中にいるような気分だった。
真衣に遅れてこの惨事に気づいた祖父は、燃える神社を見ると、愕然と足を地面に落としてしまった。そして祈るように腰を曲げて、地面に伏したまま何かを唱え始めた。そんな時、後ろの影から姿を現したのは、慎治であった。慎治が神社に火をつけた……それがわかっても、真衣は慎治に対し怒りも憎しみも覚えず、喪失感にぼんやりと身を任せるのみであった。その時何故か、不思議と救われたような心地さえしていたのである。
三
慎治と真衣を乗せた車は、やがて人の姿も見えない田舎道へとやって来た。右側の車窓を覗くと、そこから真っ黒な海が見える。
「そろそろ降ろして下さい」
慎治がそう言うと、頼りなく光る街灯の前に澤口は車を停車させた。慎治は車のドアを開け、「行こう」と言って真衣の手を引っ張り、車から降りた。外に立った瞬間、生臭い海のにおいを感じた。
「じゃあな、せいぜい仲良くやれよ」
榊原はただ一言そう言い残し、澤口に指示を出して、二人をその場に残して車を発進させた。段々と遠くへ消えて行く車を慎治は暫く眺めつづけた。そして真衣の方を振り返ると、真衣はその場にしゃがみこんで俯いていた。ひどく不憫なことをしてしまったと、慎治はこの時初めて強い罪悪感を覚えた。
「とりあえずお金は持って来たんだ。暫く歩いてみよう」
慎治は励ますようにそう言って真衣の手を取り、薄暗い海岸通りを歩き始めた。慎治が前を歩き、その後ろを、真衣が手を引かれながら歩いた。ここは一体どこなのだろう……一体どれだけ遠くへ来たのかさえ見当もつかなかったが、時計を見ると時刻は深夜の一時を回った頃で、ここがあの町から車で約二時間程の距離にある場所であるということだけはわかった。右手には防波堤が続き、それに沿って歩道が伸び、薄暗い街灯が何本か置かれているのが見える。こうして真衣と共に海岸通りを歩くことは慎治の夢でもあったが、それは思い描いていた情景とかけ離れており、防波堤の奥に広がる真っ黒な海を見た慎治は、まるで虚空の中に二人ぼっちで取り残されたような、どうしようもなく心細い気分になった。
あの出来事は慎治の衝動によって起きた出来事だった。だが慎治は神社に火を放つこと以外、こうして再び真衣と時間を共にするための方法を思いつくことができなかった。この心細さも、この手に繋がる存在と比べれば慎治にとっては何でも無かった。そしてこれから先のことは一切考えず、そのまま運命の中で迷い続けることさえ悪くないと感じていた。ただ、後ろを歩く真衣の姿を振り返ると、自分のしたことに対する償いをしなければならないと感じた。それがたとえ、今この手に繋がっている真衣との、永遠の別れになったとしても。
しかし何よりも今は、どうにかこの一晩を凌ぐ方法を考えなければならない。何の宛ても無く歩き続けていた二人であったが、それはすぐに限界を迎えた。真衣が突然しゃがみこみ、俯いたまま動かなくなってしまった。慎治は「大丈夫?」と聞いた……そう聞くことしかできなかった。とにかく、真衣を安全な場所で休ませてあげたい。慎治はそう考えたが、たったそれだけのことが安易ではなかった。辺りには何も無く、コンビニさえも見当たらない。真衣はこの夜の間に、身も心も憔悴しきってしまっていた。
当然、これは自分のせいだ……慎治はそう思い、必死になって真衣を励まし、休める場所を探した。やがて、真暗な田んぼの畦道を懐中電灯で照らしながら進んだ先に、一軒の空き家があるのを見つけた。慎治はその家の戸を恐る恐る叩き、中からの反応が無いことを確かめてから戸を開けて、懐中電灯で照らしながらゆっくりとその家の中に入っていった。中には家具一つ無く、人の住んでいたような形跡も見られず、電気も使えなかったが、夜を明かすにはここが最良であると感じ、慎治は再び家を出て真衣を引き連れ、この場所に泊まることにした。その気さえあれば、この場所で一生暮らしていけそうな気さえもした。慎治は真衣に上着を被せ、鞄に詰めてきたパンや水を真衣にあげた。しかし、真衣はそれを口にしようとはしなかった。そのうち、真衣は無言のまま寝息をたて、壁に寄り掛かったまま眠ってしまった。一方慎治は、その夜は一切眠りに就くことができなかった。この殺風景な家の景色は慎治に更なる心細さを与え、ひとり朝日が昇るのを待ち続けていた。
どれくらいの時が経っただろうか。家の中にある窓からは、空が段々と白く光り始め、奥に広がる山々がその姿を現してゆくのが見えた。ようやく朝が来たことに慎治は気づき、夜中渦巻いていた不安が少しずつ和らいでいった。眠ったままの真衣の姿を、慎治は触れてみたくなる程美しいと感じた。しかし今は、上着の裾からはみ出たその手を触れることさえ躊躇ってしまった。日の光が、真暗だった部屋の中を明るく照らし始めた。
慎治は一度玄関を出て、その空き家を見渡した。外の壁は随分と古くなっており、周りには家を埋め尽くすように雑草が伸びている。ガスのメーターや給湯器は取り付けられたままになっており、まだ人が住んでいるように見えなくもない。しかし家の中を見る限り、人が住んでいるような様子はどこを見ても見当たらなかった。壊れた門を出た先には畦道が続いており、周辺には、夜中見ることのできなかった山々が並んでいる。遠くの道路を軽トラックが走っているのが見えた。
一通り家の周りを見た後、慎治は真衣の様子を見るために家の中へと戻った。すると、慎治の上着を羽織ったまま壁に寄り掛かり、目を開けて戻って来る慎治を見ている真衣の姿があった。
「おはよう、真衣ちゃん」
「おはよう」
あの神社を、あの町を出てから、真衣はようやく口を開いた。
「ごめんね、真衣ちゃん」
「ううん」
真衣は俯いたまま首を振った。その表情は見えなかった。
「私、昨日は驚いて何も言えなかったけど、今日は大丈夫だよ。不思議なくらい平気なの……あんなに離れたくないと思っていたのに、今は全然、何も感じなくて……寧ろね、ここまで連れてきてくれて良かったとも思ってる」
「……」
この子のことがわからない。目の前にいる筈なのに、そこにいるのはまるで知らない少女のような……そんな感覚が慎治を襲った。それでも、それで自分のしたことが赦されるとは思わなかった。
「真衣ちゃん、海を見に行こうよ」
「海……良いね。行こっか」
二人は空き家を出て、再び海岸通りの方へ向かった。畦道は緑色に彩られ、澄んだ空気に包まれている。やがて道はアスファルトになり、また暫く歩くと、防波堤の奥に広がる青い海が見えた。それは夜中に見た真っ黒な虚空のようなものとは違い、水面が朝日で光り、その光は波に揺れて、空の中をカモメが飛んでいた。
「海だ……」
思わず慎治は呟いた。
「綺麗だね」
真衣はそう言って防波堤に上り、海の方を向いてそこに座った。それに続いて、慎治もその横に並んだ。この時二人は海に見惚れて何もかもを忘れていた。昨晩の出来事も、これからの事も。ただ今は、何の感情にも囚われず、目の前に広がるこの景色と空気を存分に感じておこう……そう思った。
まるで、あの神社に並んで座っている時と同じであった。つかず、離れず……そんな関係を慎治は今まで心地良いと感じていたが、この子はどうだったのであろうか。無限に広がるような海原を眺めながら、慎治は真衣に言われた言葉を思い出していた。
(私はあんまり、知られたくない)
拒絶される恐怖を越えてここまで来た筈であったが、この時慎治は再び不安に陥った。自分したことは、果たして意味のあることだったのか。それを直接真衣に聞くことさえ慎治はできなかった。それが恐ろしかった。
こうして二人の間には会話も無いまま時間ばかりが経過し、やがて太陽は空高くまで昇ってゆき、強い日差しを二人に浴びせた。
「なんか、太陽を見たの久しぶりな気がする」
沈黙を破って、真衣がそう言った。慎治はあの時の真衣が自分を避けて部屋に籠っていたということに気づいていたので、この言葉が胸に刺さるような気がした。
卑怯で臆病者……それが慎治の自分自身へ対する認識であった。しかし今は、この宛ても無き逃避行を止める気は無かった。目の前に広がる海の上を漂うことになっても、慎治はこの少女と共にいることを止められなかった。
「慎治君、何か食べ物持ってる?」
「スティックパンを持ってきたんだけど、食べる? あと水もあるよ。ぬるいけど」
「じゃあそれを頂戴」
「はい」
「ありがとう」
真衣は慎治が鞄から取り出したスティックパンを一本受け取り、それを食べた。その姿を見ていた慎治は、何故か胸の高鳴りを覚え、そしてそんな自分に嫌悪感と罪悪感を覚えた。
こうして何もせずただ座っていると、この逃避行はすぐにでも終わってしまうような気がした。だから慎治は「ちょっと歩いてみよう」と言って真衣を誘い、二人は海岸通りをずっと歩き続けることにした。どれだけ歩いても周りの景色は変化せず、時折車が二人を追い抜いたり、海の上に漁船を見かけたりする以外、この辺りには何も無かった。慎治たちのいた町と決定的に違うのは、周りが海や山といった自然に囲まれていて、その土地がしっかりと息をしているように感じることである。
時がゆっくりと流れる。普段なら今頃、二時間目の授業を受けている頃だろうか。それでも慎治にとっては、随分と長い時間が経ったように感じられた。きっと真衣は、いつもこんな風にゆっくりと流れる時の中で生きていたのだろう。その時間の感覚を共有しようとしても、それは慎治にとって容易なことではなかった。そして、いよいよ真衣も「そろそろ歩き疲れちゃった」と言ったので、慎治のその場に足を止めた。
「あそこにバス停があるから、そこで休憩しようか」
慎治はそう言って、屋根のついたバス停を指さした。バス停の看板には知らない地名、知らない行先が記されており、自分たちのいる場所は依然としてわからないままであったが、最早ここがどこであるかなんて、慎治にとってはどうでも良いことであった。バスは一日に二本しかやって来ないようで、次のバスは四時二十五分出発になっている。だがここでバスに乗るつもりは無かった。
二人は並んでバス停のベンチに座った。この時も、慎治は真衣に何を言うこともできなかった。
暫くして、不意に真衣が屋根を見つめながら「これからどうしようか」と言った。そのことについて、そろそろしっかりと考えなければならない。慎治の鞄にあるものは懐中電灯、水、パン、タオル、そしてライター……せいぜいその程度であった。その他、五千円程の所持金がある。これでは恐らく、数日も持たないだろう……。まず、この辺りにはコンビニもスーパーも、食事をとれそうな場所も無い。ついに訪れた「現実」に、慎治は向き合わなくてはならなかった。しかし自分がいかに無計画であったかに気づくと、これからのことに対する不安や悲観が意図せず顔に滲み出てしまう。
「これから先どうなっても、私は良いよ」
真衣が笑みを含めてそう言うと、その言葉に、慎治は救いを感じてしまった。しかし、どうにかして「生きてゆく」方法を考えなければならない……慎治はそれを自らが果たすべき責任として感じていた。
「私、まだ逃げていたい……神様から」
その声にはどこか罪悪感のようなものが含まれているように聞こえ、最後の「神様」という言葉は、今にも消えそうになっていた。慎治は「え?」と聞き返し、この少女の本心を理解しようと必死になったが、真衣はそれ以上何も言わなかった。
「神様が本当にいるなら、僕はきっと天罰に遭うだろうね」
「神社燃やしちゃったからね」
「でも僕が一番怖かったのは、神様よりも、二度と真衣ちゃんに会えなくなることだったんだ……」
「……」
「僕は真衣ちゃんにひどいことをしたと思ってる。だから……」
「ひどいことなんてしてないよ。私、ずっと苦しかったから」
「苦しい?」
「ずっとあの神社にいたら、いつか神様に見放されそうな気がして……でも、学校に行くのも怖くて……どうして良いかずっとわからなかったから……」
真衣の苦しみや恐怖……慎治はそれを、真衣の言葉だけでは理解することができなかった。
「でも、慎治君がその苦しみから連れ出してくれた……そう思ってるよ」
そんな風に言われるとつい安心してしまう……自分は赦されたのだと錯覚してしまう。そんな愚かな自分に慎治はひどい嫌悪を覚えた。その言葉のせいで、もうこれ以上強い意志を持つこともできず、一切のことができなくなってしまうような気がした。だが真衣の言葉とは裏腹に、虚ろな目でぼんやりと地面を眺める姿を見せたり、慎治の言葉に対して時折何の反応も示さなかったりするところを見ると、やはりあの火で燃えたものは、この子にとって重要なものであったに違いない……慎治は改めてそう思った。
とにかく今日は最低限の食事の他に、真衣を風呂に入れさせてあげたいし、そうでなくても、シャワーくらいは浴びさせてあげたいと思っていた。だからせめてお湯の出る場所を探して、そこを寝床にしようと考えていた。しかしそんな都合の良い場所が見つかるだろうか。
バス停で暫く休んだ後、二人は海岸通りを離れ、ススキに囲まれた砂利道を歩いていた。真衣は相変わらずゆっくりと歩くが、慎治はその速さに合わせた。ススキはようやく穂をつけ始め、風に吹かれてわさわさと揺れている。
「なんか、ウサギとか出てきそうな場所だね」
「そうだね」
「もし食べ物が無かったら、ウサギを獲って食べようか」
「ウサギかぁ、まあそうするしかないか」
「美味しいんだって。昔、川木君が言ってた」
「へえ、美味しいんだ」
二人はこれからのことを忘れて、そんなことを話していた。
やがて、一軒の空き家を見つけた。しかしその外見は著しく古くて、屋根は半分崩れており、窓ガラスも割れている。家の周りは鬱蒼とした木々に囲まれていて、玄関にはマジックで「立ち入り禁止」と書かれた板がそこを封じ込めるように張り付けられていた。到底ここで夜を凌ぐことはできそうになく、まず、夜になったらここがどんな恐ろしい場所となることか、外から一目見るだけでもすぐに想像できた。
真衣が「今朝の家じゃだめなの?」と尋ねた。
「あそこは綺麗だったけど、電気もお湯も使えないんだ」
「私はそれでも構わないよ。屋根があるだけでも幸せだよ」
慎治は「うーん……」と唸り、その場で空き家を眺めていた。水が使えなくてもここよりはマシであると思い、結局、昨晩と同じ空き家で夜を凌ぐことにした。何も無い場所を歩き続けて、気づけば時刻は十五時を過ぎていた。
この逃避行が始まり、その一日目を終えようとする頃、慎治の胸には漠然とした虚しさが立ちこめていた。青空が水平線の奥に吸い込まれて消えてゆく様子を見ていると、慎治はそれが自分の心を映しているように思えた。辺りが完全に暗くなる前に二人は空き家の方へと向かったが、そこに辿り着く前に周囲が闇に包まれてしまったので、慎治は懐中電灯を取り出して、心もとなげに夜道を照らしながら歩いた。
この日は二人で海を見て、山を見て、実に充実した一日であった……そして、そんな日がいつまでも続けば良いなと思った。しかし、それを思う程に不安や負い目は肥大化してゆく。
突然、真衣が慎治の背負う鞄の横を握った。慎治は思わず真衣のいる方を振り向いたが、その姿は闇夜に埋もれて見ることができなかった。ただ、鞄がにわかに引っ張られる感覚だけが、そこに真衣がいるということを示していた。
「怖い?」
慎治が唐突に聞いた。
「怖くないよ」
「本当に?」
「うん」
それ以上二人の間に言葉は無く、畦道を進む足音と、どこかにいるカエルの鳴き声だけが聞こえていた。自分の心臓が何故か強く鼓動していることに慎治は気づいた。
ようやく空き家に辿り着くも、そこには明かりも無く、懐中電灯を消してしまえば身動きは一切とれなくなった。何かを燃やせば明かりになるのではないかと考えたが、罪悪感が慎治にそれをさせなかった。仕方なく、二人は真暗な部屋の中でその夜を明かすことにした。
「あっ、パンがもう一本しか無い」
慎治がそう言うと、真衣は冗談めかして「じゃあ狩りをしに行かないとね」と言った。面白い、けど、本当にそうせざるを得なくなってしまう。今日一日歩き回っても、店舗のようなものは一切見当たらなかった。通り過ぎる車を止めてコンビニの場所くらい尋ねておけば良かったと、慎治はその時思った。そういったことは、結局後回しにしてしまっていた。
「私、シャワー浴びたいな」
「お湯出ないけど、大丈夫?」
「水で我慢するよ」
真衣はそう言って、タオルと懐中電灯を持って風呂場の方へと向かった。暫くして、水が床を打つ音が奥の方から響いてきた。それを聞いた慎治は、自分の心臓がまた強く鼓動しているのを感じた。きっと冷たいだろうな……慎治はそう思ったまま、その場で横になった。夜が冷えるようになってきた。慎治は真衣のために、自分が着ていた上着を用意しておいた。
慎治は真暗な畳部屋の中で、再び二人の行く末を考えた。この時一つの思案が――もうこうするしか無いというような――が、慎治の頭には芽生えていた。
「あー冷たかった」と言いながら真衣が風呂場から戻ってくると、何だか慎治は謝らないといけない気がして、「ごめんね」と言った。
「謝ることないのに」
「でも、ここに連れてきたの、僕だから」
「私楽しいよ。こういうの初めてだから」
真衣はずっとあの神社にいたので、もしかしたら誰かと遊びに行ったり、旅行をしたりした経験は少ないのかもしれない。そんな真衣が楽しいと言うなら、この時ばかりは慎治も悪い気がしなかった。
「真衣ちゃん、話を聞いてほしいんだけど」
「何?」
ここで慎治は、さっきまで考えていたことについて真衣に話をし始めた。
「もう食べ物も無いし、ここでいつまでも暮らすのは、多分もう無理だと思う」
「うん」
「だから、明日バスに乗って町まで行って、そこの誰かの家に泊めてもらおう」
「うん……」
「その時なんだけど、僕たちは親からの虐待から逃げてきた兄妹ということにしようと思う」
「兄妹?」
「その方が、僕たちを怪しまずに手を貸してくれる人は多いと思うから」
「……」
慎治が考えていたというのもせいぜいこの程度で、結局は行き当たりばったりの計画に過ぎないのだが、食べ物も無く所持金も少ない今、それが最善であると、慎治は思っていた。そして、真衣もそれに反対はしなかった。だが、その反応にはどこか不安も含まれているようにも見えた……でも、それも仕方無い。
そして、真暗な部屋の中で二人は眠りに就いた。慎治は寒さであまり寝つけなかったが、昨晩もこうして寝ずにいたのに加え、一日歩き回って蓄積された疲れもあるので、次第に眠りの中に落ちていった。
四
翌朝、眠りから覚めた慎治はシャワーを浴びた。冷たい水が寝起きの体に染みて、震える程であった。タオルで体を拭いて風呂場を後にすると、真衣が眠そうな目で慎治の方を見ていた。
「おはよう真衣ちゃん」
「おはよう慎治君。ごめんね、私ばっかり上着使って」
「ううん、気にしないで良いよ」
二人共空腹だった。二人は袋から最後の一本のスティックパンを取り出し、それを半分に千切って、分け合って食べた。まるで本当の兄妹になったような気持ちになった。それから軽く身支度をし、二人は空き家を出てバス停へと向かった。山の方を向くと白い霞が見え、ひんやりと澄んだ空気が辺りに漂っていた。
海岸通り沿いのバス停に辿り着くと、そこにはバスを待つ人が二人いた。この二人がどこから来たのか、慎治は見当もつかなかった。
「あの、すいません」
その二人のどちらにという訳でもなく、慎治は尋ねた。
「このバスはどこへ行くんですか?」
「ん? あんたら、ここの人じゃないね?」
「はい」
「このバスは○○駅まで行くけど、どうしてこんな所にいるんだい?」
バスを待つ二人の内の一人が、不思議そうに聞いてきた。この人は初老の男性で、白髪混じりの髪の毛を短く切り揃えてある。もう一人の方は同じくらいの年齢の女性で、髪の毛は後ろに束ねていて、少し太っている。夫婦なのだろうか、その女性も口を挟んで「珍しいね、君たちみたいな若いのがいるなんて」と言った。
「色々ありまして……それで、駅前にはスーパーとかコンビニはありますか?」
「いやぁ、スーパーは無いけど、小さいコンビニなら一軒あるよ。なんせ田舎だからね、そんなものしかないよ。ところで、君たちはどこから来たんだい?」
あまり多くは話したくないと慎治は思った。だけど聞かれたのなら答えなければならない……そう思い、「あの町」の名を口にした。
「ああ、聞いたことあるわね。今大規模な再開発とかで話題になってるじゃない。だけどそんな所から一体何をしにこんな所へ来たの?」
女性がそう尋ねた。
「ちょっと、旅です」
慎治は何と言って良いかわからず、その場しのぎでそう言うと、二人は余計に不思議そうな顔をした。
「旅かぁ……でも良いなぁ、そんな可愛いお嬢さんと二人きりなんて」
真衣の方を見て、男性が笑いながらそう言った。何故か慎治の方が照れくさいような気持ちになったが、当の真衣は慎治の後ろにいて、この二人へ笑みを向けるようなこともせず、ただ黙りこくるばかりであった。
暫くするとバスがやって来た。この二人の後に続き、慎治と真衣もバスに乗り込んだ。二組は少し離れた座席に座り、動き出したバスに揺られていた。狭い二人掛けの座席の窓側に座った真衣の体が、揺れの度に僅かに慎治の体と触れて、その度に慎治の胸は静かに昂って、一瞬だけぶつかったその肩や腕の形を想像させた。景色を見る振りをして、同時に真衣の姿を覗き見ると、いつの間にか、真衣はバスの車窓に顔をもたれて眠っていた。慎治は少しだけ真衣の方に身を寄せて、膝に抱えた鞄に顔を向け、ゆっくりと目を閉じた。車窓から注がれる日光とバスの揺れが心地良く、気づかぬ内に慎治も眠りに落ちていた。
あまり寝た心地はせず、しかし時間は体感以上に進んでいた。慎治たちを乗せたバスは、思いのほか広々とした駅前のロータリーへと入ってゆき、車体を左右に揺らしながら、降車場の横に停車した。慎治は二人分の運賃を支払ってバスを降り、駅周辺の景色を見渡す――小さな駅舎、小さなコンビニ……それと、個人経営の喫茶店がある。ロータリーを抜けた先には、シャッターの閉まった店ばかりが立ち並ぶ商店街がある。
まず二人は自分たちの現在地を確認するために、駅舎の中にある路線図を見に行った。その路線図は慎治にとって見覚えのあるものだったので、「あの町」へ帰るためのルートを把握することもできた……しかし、それが却って決心を鈍らせるのではないかと不安になったので、現在地の把握を済ませたら、慎治はさっさとその駅舎を去った。そんな慎治の姿を、真衣は不思議そうに眺めながら、後ろについていった。
その後、二人はコンビニに寄ってその日の昼食を手に入れ、屋根も無いバス停のベンチに座ってそれを食べた。
「これからどうするの? お兄ちゃん」
メロンパンを両手に持ったまま、真衣は慎治にそう言った。
「えっ、お兄ちゃん?」
「だって昨日の夜言ってたじゃん、私たちは兄妹だって」
「ああ、そうだったね。でも真衣ちゃんがお姉ちゃんでも良いんだよ?」
「うーん……それはちょっとなぁ。やっぱり慎治君の方がお兄ちゃんだと思うよ」
「そうかな……まあ、どっちでもきっと大丈夫だけどね」
そうは言っても、やはり責任を持つべきという点では自分が兄になるべきだと慎治は思った。また、たとえ疑似的であったとしても、真衣が自分の妹になったことで事実上の距離が急激に狭まったような気がして、慎治は言い表すこともできない無いような満足感を覚えた。
そして二人は、自分たち兄妹を憐れみ、食べ物や寝床を与えてくれる人の存在を、この田舎町の中で探すことにした。しかし、いざ人を見つけて「あの人は優しそうだな」と感じても、なかなか声を掛けるには至らなかった。それには漠然とした警戒心や、自分たちが嘘をついて他人の善意を利用することへの負い目があるせいでもあり、結局、日が傾きかける頃まで何の行動も無いまま、単に町のあちこちをぶらぶらと歩き回っているばかりであった。
すると、紅葉し始めた木々に囲まれて、十字架を屋根につけた白い家が建っているのが見えた。その家は一見すると教会のようにも見え、この田舎町に於いて異質な雰囲気を醸している。二人は思わずその場で足を止め、その教会風な白い家をまじまじと見つめた。すると、庭にある焼却炉の前にいた一人の女の人が二人に気づき、ゆっくりと近づいてきた。慎治は少し焦りを覚えたが、その優しそうな女の人の顔を見て、その場でこの家の人に声を掛けてみることを決心した。
「どうかしました?」
その女の人は五十代くらいに見えるが、その表情には決して時の経過を感じさせず、上品で清廉そうな様子で二人の少年少女に声をかけた。
「ごめんなさい、一つお願いしたいことがあるのですが……」
「はい?」
女の人は不思議そうに二人を眺めていた。慎治はこの先に言葉を繋げることを一瞬躊躇ったが、ここで決心を曲げてはいけないと思い、女の人の目を見た。
「僕たち、両親のもとから逃げてきたんです。両親の酷い虐待に、もう耐えられなくて……」
慎治は神妙な面持ちで女の人に訴えた。真衣もその横で悲痛そうに俯いていた。そんな二人に対して憐憫の情を覚えたように、女の人は「まあ……」と呟いた。
「お願いです……少しの間、匿ってはもらえないでしょうか?」
慎治は女の人の目を見つめ、そう訴えた。慎治にもともと悲愴を漂わすような顔つきが備わっていたのもあり、その女の人は心を動かされたようで、「それは大変だったわね……うちで良ければ、是非いらして」と二人に言い、ゆっくりと玄関の方へ向かっていった。二人は女の人の目から離れても表情を変えることなく、その後ろについていった。この時二人は、まるで自分たちが本当に両親の虐待から逃れてきた本物の兄妹であるような気がしていた。
こうして二人は、この人の好い女の人に嘘をつき、寝床を獲得することに成功したのであった。
ずっしりとした木製の茶色い玄関が開かれると、その中は淡い色の証明に照らされ、外見同様、西洋風な雰囲気に包まれている。二人はこの景色に息を飲み、微かな緊張を覚えた。「さあ、上がって」と声を掛けられると、二人はなるべく行儀を良くして、靴をしっかりと揃えて家に上がった。壁龕に聖母マリアの置物が置かれているのが見えた。
こんなに上手くいくものだろうか――無事に寝床を得た筈が、慎治は却って不安になった。
二人を匿ったその女の人の名は泰子さんといった。リビングに案内されるとすぐに、泰子さんが「紅茶でも淹れようかしら?」と二人に尋ねたので、慎治は「あっ、はい。ありがとうございます」と焦りながら答えた。お洒落なソファー、テーブル、暖炉、その上の十字架……それらに彩られたこのリビングは、昨晩まで暗闇の中に寝泊まりをしていた二人にとっては、まるで別世界のように見えた。暫くして、泰子さんは紅茶の入ったティーポットと、三人分のティーカップを二人のいるテーブルへと運んできた。紅茶の茶葉が、ティーポットの中で魚のように舞っていた。
「私にも息子と娘がいたんだけど、二人とももう大きくなって、家を出てしまったの」
紅茶を淹れながら、泰子さんは言った。
「泊まるなら息子と娘の部屋を使って頂戴。着替えも用意しておくわ。それと、夕飯は七時頃にでき上がるから、ここへ食べに来て頂戴ね」
「すみません、突然来たのに、こんなに……」
「気にしないで良いのよ。私にできることはこのくらいだから」
泰子さんはそう言って、慎治と真衣に笑顔を見せた。それは二人が今まで見てきたどれよりも優しい笑顔であったに違いない……紅茶の温かさが身に染みて、それがまた、心苦しさを感じさせた。
「もうすぐ主人も帰ってくるから、あなたたちのことは私から言っておくわ」
「ありがとうございます。あの、もし迷惑だったら……言って下さい」
慎治はそう言ったのは、泰子さんに嘘をついたことへの罪悪感を誤魔化すためでもあった。ここへ来る前に抱いていた決心も、優しさを受ける程に弱められていくような気がした。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい――聖書の言葉よ。私はそれに従うだけだわ」
泰子はそう言った。
聖書の言葉がそうであったとしても、これは泰子さん自身の善意……仁愛……それに他ならないだろう……慎治はそう思った。とにかく、今はきっとこれで良い……そう信じて、二人はそれぞれに用意された部屋へと向かった。
その夜は、忘れかけていた温もりに包まれていた。食事を囲みながら、慎治と真衣は自分たちが作り上げた架空の境遇についてはできるだけ触れられないようにしつつ、この逃避行の仔細についてを語った。泰子さんと、その夫の浩平さんは、自分たちの家庭がどのようなものであったかを語った。浩平さんは白髪混じりの短髪で、眼鏡をかけ、温厚で聡明そうな容姿をしていた。その夫婦は、見ず知らずの子供が突然訪れたことを怪訝に思うどころか、「子供たちがまだ家にいた時のことを思い出す」と言って、どこか哀愁的な喜びを表してくれた。そして、この夫婦のもとにいた二人の子供についての話を聞いていると、慎治と真衣は、自分たちが本当にこの家庭の中で暮らしているというような、幸福な錯覚をした。
食事を終えて二人はそれぞれに用意された部屋へと向かった。部屋の中は片づけられて整然としており、この部屋にいた子供の机とベッドも、綺麗に置かれたままになっていた。慎治は部屋のベッドに腰を掛けると、今に至るまでの疲れが一気に出て、そのままベッドの上で眠ってしまった。この疲れは、自分がこの場所へ何の宛ても無く「逃げてきた」という現実を思い起こさせ、飽くまで「運が良かっただけ」で得ることのできた束の間の幸福がいつまでも続くものではないということを、痛い程に言いつけてくるようであった。それでも、今はこの微睡みのような時間を堪能しても良いのではないか、報いはこの後受けるのだから……そう思った。
目が覚めると、部屋は真っ暗になっていた。体には毛布がかけられている。いつの間にか寝てしまっていたことに気づいた慎治は、暗闇の中でゆっくりと意識を取り戻していった。きっとこの毛布は、泰子さんか浩平さんが寝ている自分に気づいてかけてくれたのだろう……そんな優しさに有難みを感じながら、慎治は体を横に向けた。すると、そこに何かがあった。目の前は何も見えないが、寝息のようなもの……他人の温もりのようなものを、確かに感じた。
慎治の横には、真衣が寝ていたのである。真衣はその手で慎治の横腹辺りの服を掴み、静かに眠っていた。その距離は、慎治が心の平静を保てない程に狭い。
そうだ……兄妹なんだから、これだけ近くても何もおかしいことは無い……だが、再び眠りに就くまでの間、随分と長い時間がこの暗闇の中で経過した。毛布に包まれた真衣の体温が、恐ろしいものに思えた。
気がつくと、窓からは太陽の光が差し込んでいて、昨晩の暗闇は一変していた。夢を見ていたのだろうか……慎治はそんな気分になった。夜中、隣にいた筈の真衣は、朝にはもうその姿を消していた。昨晩の出来事が夢であったのか、現実であったのか、そんな曖昧な記憶に恍惚としながら寝癖を直し、用意されていた服――この家にいた息子が嘗て着ていた――に着替え、慎治はリビングへと向かった。
「おはよう、良く寝てたわね」
「おはようございます……すいません、真衣はどこですか?」
真衣は妹ということになっているので、慎治は自らを兄と思い込み、「真衣ちゃん」とは呼ばなかった。
「あの子ならもう朝ご飯を食べて、どこか散歩に出かけたわよ」
「そうですか」
壁際に置かれた古時計を見ると、時刻は十一時を回っていた。流石に寝すぎてしまったことを少し後悔した。
「あと一時間くらいしたら昼食にするけど、食べるかしら?」
「あっ、いただきます。じゃあそれまでの間、真衣を探してきます」
「わかったわ」
慎治は靴を履き、真衣を探しに向かった。秋の涼しげな空気が頬を撫で、道端には桔梗の花が咲いている。家が点々と置かれる田舎道を進んでゆくと、程なく林道の前に辿り着いた。そこを進んだ先に一つの小さな神社があり、そこに真衣の姿があった。真衣は古びた鳥居の前に佇み、何か物思いに耽っているようであった。
「真衣ちゃん」
「あっ、慎治君。起きたんだ」
「ちょっと寝すぎたかな」
「そうだね。私が家を出た時、慎治君まだ起きてこなかったもんね」
二人は意図的に避けるようにして、昨晩のことを話さなかった。
「泰子さんがそろそろお昼作ってくれるって……だから帰ろう」
「うん」
二人は林道を抜け、あの教会のような家へと向かった。太陽に照らされた田舎道を進みながら、二人は柔らかく手を繋いだ。
家に戻ると、テーブルの上にはバスケットに入った数種類のパンが置かれており、二人が席に着くと、泰子さんがベーコンエッグの乗った皿をそれぞれの前に運んでくれた。泰子さんは席に着いた後、顔の前で十字を切って「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン」と祈りの言葉を述べてから食事を始めた。二人はそれをただ見届けた後、「いただきます」と言ってパンに手を伸ばした。
「このジャム、家で作ったのよ。どうかしら?」
泰子さんがそう言うと、真衣は「美味しいです。ジャムって家で作れるんですね」と答えた。すると、泰子さんの表情には微かな同情……憐れみのようなものが浮かんだ。
「そうだ真衣ちゃん、後でマフィンを焼こうと思うんだけど、一緒に手伝ってくれないかしら?」
「はい、是非」
こうして和やかな昼食を終え、暫くしてから、泰子さんは真衣と共にキッチンでマフィン作りを始めた。慎治は一人取り残された気分であったが、真衣がこうして自分以外の誰かと、更に言えば大人の人と打ち解けて何かをしているのを見ると、ちょっとした安心感を覚えるのであった。人との関わりを避けてきた真衣が、今はこうして優しい人とマフィンを作っている。この子の拠り所は神社や神様だけじゃない……そう思いながら、慎治は少し自信を取り戻したような気分で散歩に出かけた。
金木犀の芳香が漂う道を歩きながら、小学生の時のことを思い出した。
――あの時も、自宅の近くにある金木犀の木からは鼻孔を刺激する秋の香りが漂っていた。あの町から既に人や家が失われ始めていた頃のことである。
慎治、川木の二人は、その金木犀の木の前で待ち合わせをしていた。しかし川木は、時間を過ぎてもなかなかその場所に現れなかった。それでも慎治は「川木はそういう奴だ」という一言を頭に浮かべて、気長に川木がやって来るのを待っていた。
嘗て、慎治が川木に泣かされるのは日常茶飯であったが、いつしか二人は友だち同士となっていた。それは、慎治の母の死が慎治自身を変え、更にそれが慎治と川木との関係性に変化を与えた結果であると言えるかもしれない。それに加え、川木の意地悪が家庭の事情によるものであることを、慎治はいつしか悟っていたのだ。川木の父は、川木が幼い頃に病死したのだという。そのことを知って、慎治は自分と似た境遇にある川木に対し、シンパシーのようなものを感じた。そして、それは川木自身も同じだったのかもしれない。それに、慎治と川木が共通しているのはそれだけではなかった。あの神社に住む、北出真衣という少女に気があるという点でも同じであった。
自転車を立ち漕ぎしながら勢い良く迫る者がいた。川木がようやくやって来たのであった。
「悪い、遅れた」
「遅いよ」
慎治は冗談っぽく不平を言った。それでも川木はあまり悪びれるような様子を見せなかった。
「じゃあ行こうぜ。お前先に行ってくれよ」
「うん」
二人は各々自転車を漕ぎ始めた。スピードを上げると、向かい風がひどく冷たく感じられた。二人は山の上の神社へと伸びる石段の横に自転車を置いて、ゆっくりとその石段を上がっていった。
「あっ、慎治君……と、川木君?」
石段を上った先に、箒で参道を掃く真衣の姿があった。川木にとって、真衣の姿を目にするのは久々のことであり、好きな人を目の当たりにした時に覚える焦燥や虚栄心のようなものも、久々であったに違いない。
「よう、久しぶり」
「久しぶり」
川木と真衣はそんなぎこちない会話を交わした後、三人は賽銭箱の前に座った。そこには奇妙な緊張があり、子供たちの時間は、まるで錆びた歯車がゆっくりと回っているようである。お互い、気まずさがあったのだろう。この時、真衣は既に不登校になっていた。だから、そのことを嘆いていた川木を喜ばせたいという気持ちで、慎治は川木をこの場所へ連れてきたのである。まだ小学生の子供である慎治にとって、同じ子に気を寄せる友人を出し抜いてその子を独占するなどということは、ひどく忍び難いことのように思えた。しかし、ここへ来て慎治は段々と後悔の念を抱き始めた。時間がぎこちなく経過するにつれて、川木と真衣が少しずつ打ち解けてゆくように見えたのである。川木が昨晩のドラマの話を持ち出すと、真衣がその話に反応して、会話が賑わい始めた。そのドラマを観ていなかった慎治は、二人が盛り上がっているのを面白くないと感じた。
「利己的」な気持ちというものが初めて芽生えたのは、この時かもしれない……後になって、慎治はそう考えた。
それから慎治は、川木に神社のことを教えた自分自身を恨めしく思った。そして、賽銭箱の前で楽しそうにドラマの話をしていた二人の姿を思い浮かべて、胸から鋭い棘が生えてくるような気分になった。これが慎治にとって、初めて嫉妬というものを知った瞬間だった。
しかし、あの日以降川木が神社に行くことは無かった。そのことが、慎治は今でも不思議でならなかった。やがて学校の中から真衣という存在の影が段々と消えてゆき、それと同時に、川木も真衣の話をしなくなり、忘れていくようであった。その様子を見ていた慎治は安心感のようなものを覚えたが、やはり、寂しかった。その影を求めて、慎治は普段よりも神社へ通う頻度が高くなった。そして、それを止める者もいなかった……当時、慎治はクラスの中で変な噂が流れているのを知った。それは、「真衣ちゃんが変な宗教」……「お母さん」……「遊んじゃだめ」……そんな言葉の断片が記憶に残っているのみだが、慎治はそれを気に留めるようなことはせず、真衣に会うために神社へと通った。
ついに卒業式の日さえ、真衣は学校へ来なかった。先生もあの神社に通って、真衣や真衣の祖父に「学校へ来ること」を強く説得しようとしたらしいが、それでも真衣は学校を拒んだのである。一体どうしてこんなに学校を嫌がるのか、慎治にはわからなかった。
――だが今は、その影も、その理由も求める必要は無い。真衣はすぐそばにいる。誰よりも近く……。
散歩を終え家に戻ると、キッチンではマフィンをオーブンで焼いている最中であった。懐かしくなるような、卵と砂糖の焼ける甘いにおいが漂っていた。これが幸せの匂いなのか……そんなことを思っていると、真衣が「お兄ちゃん、私、上にある本を借りてくるね」と告げて、慎治の横を抜けて廊下の方へと向かった。
あの空き家……この家の夫婦と出会えたこと……そして、真衣と二人だけの時間……これはもしかしたら神の天恵なのではないか……そんな気さえ起こり、段々と、自分がしたことに対する罪の意識も薄らいで、次第にその過ちを忘却していった。この恵みは真衣が信じるのを止めた「神様」によるものなのか、この家の夫婦が信仰している「神様」によるものなのか……しかし、どちらであったとしても、どちらでもなかったとしても、慎治は自身の幸運を祝福せずにはいられなかった。それは過ちを犯したからこそ手に入れることのできた幸福感なのかもしれない。
夕飯を終え、温かい風呂に入り、二人はそれぞれの寝室に入った。まるで旅の最中であるような気分で浮かれていた慎治だが、いつまでもこの家に寄生し続ける訳にはいかないな……次第にそう考え始めた。泰子さんも浩平さんも「自分たちは何も聞かないから、好きなだけこの家にいて良いよ」と言ってくれたが、そんな慈悲深い夫婦を騙しているということ考えると、やはり、いつまでもこの家には残っていられないという思いになった。慎治はまたしても不安に陥った。頭上にいるもう一人の自分の目線に気づいた時、その不安は例外無く訪れるのである。でも、自分の隣には確かに真衣がいるという事実を、既にはっきりと認識できるようになっていた。
ふと時計を見ると、まだ十時を回ったばかりである。慎治は、真衣がまだ起きているのかどうかが気になり、それに付随して真衣に会いたいという思いを募らせ、真衣のいる部屋に行こうとした。だが、思いとどまって、女の子が私的空間としている部屋の中に自分が入っても良いものなのか、そんなことを悩み始めた。しかし、自分の知らぬ間に真衣が部屋に来て隣で寝ていたことを思いだし、慎治はその出来事を以て自らを許すように廊下へ出て、真衣の部屋の扉をノックし、中からの反応を待った。すると扉がゆっくりと開いて、慎重に外を窺うようにしながら真衣が部屋からその姿を現した。
「どうしたの?」
「入っても良いかな」
「ん、良いよ」
慎治は真衣のいる部屋の中に入った。ベッドの上に、栞を挟んだ読みかけの本が置かれているのを見つけた。この部屋で暮らしていた娘が、この家を出て行く際に残していったものらしい。
「ごめんね、本読んでた?」
「ううん、別に大丈夫だよ」
たった二日間で形成された、真衣という存在の空気を閉じこめたこの空間……それを侵す後ろめたい快楽を、慎治は悪であるように感じた。この清廉な空間が却って自分を穢してゆくようで、慎治は部屋の真ん中に立って、怖気ついたように「やっぱり戻るよ」と言って、再び扉の方を向いた。
「どうしたの?」
真衣にそう尋ねられても、慎治は何も答えることができず、ドアノブに手を掛けた。今夜は寝て、明日にはこの家を出よう……そしてまた誰かの家に……いや、もうこんなことは止めよう……そんなことを考えながら部屋を出ると、突然、暗い廊下の中で袖を掴まれて、歩みを阻まれた。振り返るとそこには、開いた部屋の扉から漏れている光に照らされた、涙目で慎治の顔を見る真衣の姿があった。
「何で戻るの……」
「……」
「どうして……」
この涙が自分に何を訴えているのか、慎治はわからなかった。だが、繰り返しそう聞く真衣を見て、慎治は、この子がついてきてくれる限りどこまでも行ってみようと思った。どうせ、二人の居場所はどこにも無いのだから。
慎治と真衣は、同じベッドの上に並んで座り、ゆっくりと互いの手に触れた。真衣の手の甲は冷たく、それを温めるように、慎治は自分の手を強く握りなおした。真衣の体温が、掌を伝って体の中へ溶けこんでゆく感覚がした。二人の間には体温の共有以外、何も存在しない。体温だけが二人の孤独と寂しさを慰め、この幸福な時間を祝福してくれる。
「真衣ちゃん」
「何?」
「僕、怖いんだ」
「何が?」
「今、幸せだから」
慎治の言葉を、真衣は要領を得ないような顔で聞いていた。それでも優しく笑って、
「大丈夫だよ。だって私たちには、神様がついてるから」
励ますようにそう言った。
「僕は真衣ちゃんから大切なものを奪った。だからどんな罰も受けなきゃいけない。それはわかってるんだ。だけど、怖い。神様の罰を受けるのも、真衣ちゃんに嫌われるのも」
「嫌われる?」
「うん。でも、それも仕方無いよね」
「私、慎治君の言ってることがよくわからない。どうして私が慎治君を嫌いになるの? 慎治君が神社を燃やしたから?」
「……うん」
「慎治君は自分勝手だよ。勝手に私を連れ出して、勝手に私に嫌われても仕方無いとか言って……」
「……」
慎治の掌の下にあった真衣の手が逆さになり、互いの掌同士が強く握られた。
「私だって怖いよ……でも慎治君はきっと、私を拒絶したりしないでしょ?」
「僕はしないよ。そんなこと、絶対に……」
「私、嬉しいよ。神様なんていなくても」
同じ毛布の中で同じ温もりを感じ、優しい微睡みが二人を包む。騒めいていた罪の意識は、静かな夜の中に薄れてゆく。少年は目を擦りながら、隣で眠そうにしている少女の顔を見て「教えてほしいことがあるんだ」と言った。少女は虚ろな目を少年に向けて「なに?」と、もうすぐ眠ってしまいそうな声で聞いた。
――夢に出てきた母の姿……自分を突き放し、どこかへ消えてしまった母の姿……真衣はそれを忘れたことが無い。
祖父がいる町の隣町で、真衣は父と母の三人で暮らしていた。しかし、三人で暮らしていた時の記憶は殆ど残っていない。けれど、父が母と娘のもとを去った後に母の様子が少しずつおかしくなっていったことは、幼い頃の記憶の中に色濃く残っている。
父が姿を消す直前まで、三人の生活は慎ましやかな幸せに包まれていた。しかし、その幸せは父の秘密が発覚するのと同時に霧散した。父には真衣や母の他にも、別の場所に別の子供……別の家族があったのである。一体どちらが本当の家族で、どちらが本当の父の子供なのか、真衣は今になっても知らぬままでいるが、そんなことは別に気になりもしなかった。ただ、ずっと父を信じ続けていた母が不憫でならず、毎日泣いて暮らす母の姿に寄り添いながら、真衣も共に泣いていた。父が消えてから母は日に日に口数を減らし、やつれていくようであった。それでも毎日どこかへ出かけては、いつも同じ顔をして家に帰ってきた。家に一人でいる間、真衣はずっと本を読んでいた。それ以外にすることは何も無かった。たまに祖父が神主を務めている神社に連れていかれ、そこで祖父に神様の話を聞かされたりもしたが、祖父もきっと、自分のこんな孫と娘を、憐れに思っていたことだろう。
人間は嘘をつくのが上手だ。だからみんな騙されたり、騙したりを繰り返す。母には何も言わなかったが、真衣はその時、母がまた誰かに騙されていることに気づいていた。時折、母はとても饒舌になって「私たちには救いがある」とか「人生は悪いことばかりじゃない」とか、そんなことを笑顔で話しだすようになった。段々と、真衣は母に対して不気味な気持ちを抱き始めた……けれど、そんな母であっても、真衣にとってはかけがえのないたった一人の「母」に他ならない。だから、真衣は母の言葉を、心の痛みを抑えるようにしながら真剣に聞いてあげていた。次第に、何も気づいていないような素振りを見せている自分も母を騙しているのと同じであるような気がしてきて、すると、心の痛みは更に鋭くなった。日を追うごとに、母はある人……高内という男の人について熱心に語るようになってゆく。母が一人で出かける時は、大抵高内に会いに行くようである。高内が何者なのか……そんなことを考えるよりも、家に一人取り残されて、玄関の扉を開けて逆光となり消えてゆく母の姿を見ているのが、たまらなく哀しくて、真衣は一人で泣いていた。
「神様」が本当に存在するのなら、どうかお母さんを救ってください……変わってゆく母の様子を間近で見つめながら、真衣はそんな祈りを捧げたくなった。ある日、拙い文章ながらも便箋に自らの祈りを綴って、その祈りが神に届くことを願いながら眠りに就いたことがある。しかしその夜、母は眠っている娘を大声で怒鳴りつけて叩き起こし、目の前でその便箋をビリビリに破り捨てた。突然の出来事であったが、それはつまり、自分の願いは神様に届かなかったということ……そうじゃない、神様なんていないんだ……真衣はそのことに気づいて、泣き声を毛布の中に籠らせて夜を明かした。その翌朝も、母は高内のもとへ出かけた。それに続いて、真衣も学校へ向かうために家を出た。
どうやら、母のことが真衣のクラスメイトの親たちにも知れ渡ってしまったらしい。ある日、一番仲の良かった「さーちゃん」という子に、「ママに真衣ちゃんと遊んじゃダメって言われたの」と告げられた。その時のさーちゃんは(友だちに酷いことを言ってるのはわかってるけど、ママがそう言うのだから、仕方ない)……そんな表情を浮かべていて、真衣との別れを一言告げた後、踵を返してその場を去っていった。クラスメイトの親たちは母の様子を見て、自分の子供が不気味な思想を植えつけられるのではないかと、その母娘に対して一様に恐れを抱いたようである。この出来事は幼い少女の心を深く傷をつけたが、それだけではなく、自分の母が、自分の知らない場所で正体不明の男に嵌り、その男の前には既に自分の知らない母が存在しているということを知って、その哀しみは、少女自身の言葉には表現できない程のものであった。そしてその母の呪縛に、これから先も囚われてゆくのである。
次の日、真衣は学校をズル休みして、誰もいない家の中で本を読んでいた。しかし、哀しみが文章を頭に入れることを拒むようで、読んでも読んでも、いくら読んでも、頁が先に進まない。ついに本を置いて、その場に寝転び、また涙を流した。そしていつの間にか、柔らかい午前の日差しに照らされながら眠りに落ちていた。すると、廊下の方からガチャガチャと鍵を開ける音がして、真衣がその音に反応して目を覚ますと、玄関の方から楽しげな会話をする二人の男女の声が聞こえてきた。真衣の母が、高内を家に連れてきたのである。学校に行った筈の娘が家にいることに気づいた母は驚きのあまり悲鳴をあげ、やがて冷静さを取り戻すと娘に掴みかかる勢いで迫り、大声で怒鳴りつけた。どうすることもできず、真衣は母を振り切って廊下を走り抜け、玄関の外に飛び出た……あんな光景を見てしまっては、こうするしかなかった。
高内……馬面で、その体格はがっちりとしている。一目見て、恐ろしいと感じた。そんな男が母の心の傷口に入りこんで、母の心を浸食して、ついに掌握してしまった……その男に対する憎しみよりも、母を情けないと思う気持ちの方が大きかった。
思わず家を飛び出した真衣の行く宛てと言えば、隣町にいる祖父の家であった。その日から、真衣は祖父のいる神社を頻繁に訪れるようになっていった。家にも学校にも居場所のない真衣にとって、そこは最後の居場所であった。神社は真衣に優しい温もりを与える。そして、祖父も真衣にご飯を作ったり、神社の話をしたりしてくれる。真衣は前よりも祖父の話を真剣に、興味を持って聞くようになり、そこにいるという神様のことも次第に信じるようになっていった。この神社を唯一の居場所と信じ、いつまでもこの場所にいたいと思った……しかし、やっぱり母のことが忘れられず、変わってしまった母に怯えながらも、真衣は母のいる家へと帰ることにしていた。そして、自分を見守ってくれているという神様に、自分たちがまた普通の母娘に戻れることを心の中で祈るのであった。
だが、益々母は娘に対して冷たく当たるようになり、ついに夕飯さえも碌に用意せず、高内のもとへ出かけてしまう。でも時折、人が変わったように優しくなり、そんな時は決まって「高内さんは救世主なのよ」などと言い出すので、真衣はそんな母に対して、愛情や思慕を超えて恐怖ばかりを抱くようになってしまった。そして母がそう娘に言い聞かせるのと比例するように、学校ではクラスメイトから邪険にされ、いじめられるようになる。その「題材」はいつも「母」であった。
涙が幸せを呼ぶとも思っていなかったし、何かを変えることができるとも思っていなかった。ただ流れのままに、時は過ぎてゆくばかりである。母は高内の「信者」となっていたが、どうやら、それだけでは無かったらしい。二人は二人の生活を――それがどんなものかは知りたくもないが――そこに築いているみたいだし、真衣は自分が邪魔者であることを知っていたから、その生活の厄介になるのを拒み、ただ毛布の優しさに包まれながら毎晩泣いているのみであった。それさえ許されるのなら、あとは何もいらない……そう考えていた。母と高内は泣いている真衣に一瞥もくれず、絶えずそこで不気味な関係を見せつけていた。
ある日、家に祖父がやって来て、何やら母と口論をしているようであった。母は祖父の言葉に一切聞き耳を持たないようであったし、祖父も最初は必死に母を諭していたようだけど、ついに諦めたように神社へと帰っていった。その時の母の顔は、恐ろしい程の笑顔だった。真衣にとっては何もかもが理解の外にあって、まるで長い長い悪夢を見ているような……そんな気分であった。
小学五年生の春、真衣は祖父のいる神社で暮らすことになった。母が娘を残して失踪したのである。その時はっきりと、自分が母に捨てられたということを、真衣は理解していた。それでも、祖父やこの神社は決して自分を拒絶したりしない……だから哀しくない……そう言い聞かせ、母との思い出を全て感情の底にしまいこんで、真衣は新しい場所で、新しい生活を始めたのであった。
私には、私を見守ってくれる神様がいる。
――朝、目が覚めると、慎治の隣には誰もいなかった。ただその横に、乾きかけたすすり泣きの跡が残っているのみであった。
五
神様の報い……人の言葉では説明できない事象……それは罪悪感が見せるまやかしだとばかり思っていたが、悪事の報いというものは、本当に起きるものらしい。
慎治はまだ温もりの残るベッドを出て、自分の部屋に戻って服を着替え、下に降りた。階段には朝食のベーコンエッグのにおいが漂っていた。二人はいつものように兄妹を装い、泰子さんに朝食を用意してもらった。その日は試みに、「いただきます」の代わりとして「アーメン」と言った。すると泰子さんに「二人はいただきますで良いのよ」と言われたので、もう一度「いただきます」と言って、朝食を食べ始めた。
慎治はこの朝食中に、そろそろこの家を去るという決心を泰子さんに伝えようと思っていたが、この家の温もりと、これから先の不安を考えると、どうしても言い出せなかった。あわよくば「まだ家にいても良いのよ」……なんて言ってもらえることを期待してもいた。結局この時は言い出せず、慎治はせめてもの気持ちとして、朝食の皿洗いをした。
しかし、この家を去るべき瞬間……それは慎治の思いもせぬ形で訪れた。朝食を終えた後、なんとなく緩んだ空気の中で、泰子さんはリビングのソファーに座りながら朝のワイドショーを観ていた。後ろで皿を洗いながら、慎治もそれを覗いていた。
『昨日午後四時頃、A県B市の大規模な再開発地区で、「地上げ屋」の男性二人が落下した鉄骨の下敷きになり、死亡しました。そしてこの事故を皮切りに、死亡した男性二人が強引な手法で住民の土地を売買していたことが発覚し、警察がB市と××建設に調査を行ったところ、B市にある神社が何者かによって放火され全焼する事件が起こったことや、その放火に関連すると思われる中学一年生の少年と少女が行方不明になっているという事実が、次々と明らかになりました。一連の事件の詳細は……』
今、テレビの中で何が起こっているのか、慎治は戸惑いで理解が追いつかなかった。榊原と澤口は、どうやら事故で死んだらしい。そして、自分と真衣は、行方不明者として扱われているらしい。
『少年と少女は、どういう訳か「地上げ屋」の車に乗り、C県D町方面へ向かったことが判明しています。現在警察はD町を中心に少年たちの行方を捜索しており……』
それが自分たちのしたことであると、慎治はようやく理解した。こうなることがわからなかったわけではない。しかし、この逃避行の終わり……真衣との別れ……何となく有耶無耶にしていたそれらが、ついに目前に姿を現したように思えた。そして何より、微動だにせずテレビを観ている泰子さんの後ろ姿に、慎治は言いようの無い恐怖を覚えた。今すぐ真衣とこの家を出て、この町を離れなければ……そう思い、慎治は皿洗いを放棄して、真衣のいる部屋へ向かった。
階段を二段飛ばしで上り、部屋の扉を急いでノックした。
「何?」
いつものように、真衣はゆっくりと扉を開けて部屋から出てきた。
「真衣ちゃん、急いで出発の準備をして」
「えっ?」
「いいから……!」
「……うん」
慎治はつい語気を強めてしまい、真衣はそれに押される形で、部屋の中に戻っていった。慎治も自分の部屋に行き、借りた洋服やタオルなど、必要になりそうなものを全て鞄に詰め込んだ。それから暫く経って、真衣が「もう大丈夫だよ」と言って部屋にやって来たので、二人はゆっくりと階段を下りて、泰子さんに気づかれないようにして家を出た。そして庭を抜けると、駅の方へ向かった。後ろを振り返ると、十字架を屋根につけた教会風の家は二人に惜別の寂寥をもたらして、二人はその家の十字架が見えなくなるまで、何度も後ろを振り返った。
だが、当然この先に行く宛てがあるわけでは無い。とりあえずこの周辺から離れなければならないと思い、二人は電車に乗って、地元から更に遠い場所へ向かうことにした。しかし時刻表を見ると、電車が来るにはまだ三十分近くあった。この三十分という時間は、慎治の決意を揺るがせるものとなった。
もうこれ以上は、どこにも行けないのではないか……改札の前に立ちつくし、路線図の端を眺めながら、慎治は絶望的な気分に陥り、そんな諦めさえ抱いた。せめて何事も無く真衣をあの祖父のもとへ帰して、自分はこのまま一人逃げるか、もう諦めて何もかもを償うか、その何れかに身を任せてしまうのが、自分たちにとっては最も幸せな選択なのではないかと。ずっと遠い存在だったのだ。いくら近くにいても、心は手が届かないくらい遠くにあって……それでも、こうして手の温もりを知ることができたのだから、これ以上何を望むというのだろうか……そう思った。
その時、力無く垂れる慎治の手の人差し指から小指の先に、真衣の掌の感触が伝わった。その温もりが火種となり、慎治の心に再び篝火を灯し、それはあの神社を燃やした時のように、慎治の胸の中に眠りかけていた衝動を再び呼び起こしたのである。
路線図の端にある見知らぬ目的地への切符を買い、改札を抜けて、まだ来ない電車をホームの上で待った。手持ちにあった五千円はもう半分も残っていないが、いざという時はこの先のどこかで雇われて、二人で暮らすために働くことさえ厭わないと思った。
やがてホームの先から踏切の警報音が聞こえ、単線の路線から古めかしい電車が音をたてながらホームにやって来た。慎治は真衣の手を引いて電車に乗り、動き出した電車の中で、僅かではあったがこの町に滞在して目にしてきた景色を眺めながら、二人は車窓から別れを告げた。段々と加速する景色の奥に教会のような建物――あのクリスチャン夫婦が住んでいる――が見え、慎治は今までの恩に対して何一つのお礼も言わず、泰子さんに対して「さよなら」さえ言わずにあの家を飛び出してしまったことを、今になって後悔した。
「私、一応お礼の手紙書いて部屋に置いておいたよ」
「何て書いたの?」
「あまり時間が無かったから長くは書かなかったけど、お世話になりました……って」
真衣の言葉に後悔の念は僅かに和らいだが、あの時テレビを見ていた泰子さんに後ろから声を掛けたら、振り返る泰子さんはどんな目で自分を見たのだろう……その臆病な疑念が、あの場所で与えられた無償の施しさえ恐怖で上塗りしてしまう程に、慎治の中に強く残っていた。でもそんなことをいつまでも気に留めてはいられない。これから先に訪れる、更に不確実な不安に抗わなくてはならないのだから。もし神様が自分の行いに罰を与えるというのならば、慎治はそれに反抗して、寧ろ真衣を連れてどこまでも逃げてやろうと思った。それがこの少年にとって、この世界にただ一つ残された「生きる望み」となっていた。父にも、先生にも、神様にも理解されない、二人だけが共有するもの……それを抱えて。
しかし、まだ中学生の慎治が行ける世界の限界は、慎治が思っている以上に近かったのである。終着駅に着いた電車は回送電車としてそのまま駅を去り、ホームに残された二人は言葉にし難い心細さを抱きながら改札を出ると、その駅前には喫茶店もコンビニも無く、駅舎の横に飲み物の自動販売機があるのみであった。周りを囲む山の上にはどんよりとした黒雲が立ちこめており、冷たい風が吹くと、憂鬱になるような、曇天の独特なにおいがした。
この光景を目にして、不意に泰子さんたちに受けた施しが恋しくなった。
とにかく歩かなくてはならない。そして、自分たちにとって丁度良い場所を探さなくてはならない。いつ警察に声を掛けられるかわからないという不安もあったが、これだけ人の姿の無い場所であれば、少しくらい迂闊に動いても大丈夫であろうと思えた。あとは、泰子さんのような優しい人に再び会えることを願うのみである。
草木に囲まれた頼りない道を進み続けると、やがてその奥に一つの小さな集落を見つけた。山に囲まれたその集落は、雨雲の影が落とされてとても薄暗く、酷く心細いものに見えたが、慎治にはそれがまるで救いの光のようにも見え、そこで逃避行を継続するための新たな見通しも立った。
「あそこにいる誰かに泊めてもらえるか聞いてみよう」
慎治は真衣にそう言った。しかし、真衣の表情は暗かった。どうしたのだろうと思い、慎治が「真衣ちゃん?」と声を掛けると、真衣は突然慎治の袖を掴んで、その場に立ち止まった。
「慎治君……私たちは、また兄妹?」
「えっ?」
その言葉の意味を理解しきれず、慎治は真衣の言葉の続きを待った。
「……私、もう嫌だよ。泰子さんの時みたいに、また人に嘘をつくの」
真衣は俯いているが、その顔は空に浮かぶ雨雲と同じように、今にも泣き出しそうにしていた。
「……でもあの嘘のお陰で、僕たちは泰子さんたちに優しくもらえたんじゃないか」
慎治はそう言ったが、この時、自分の言葉に対して確かな違和感を覚えた……初めから泰子さんが優しい人だとわかっていたのなら、自分たちは泰子さんに対して嘘をつく必要なんて無かったのではないか?……あのワイドショーを観て、たとえ泰子さんが自分たちのことを疑ったとしても、泰子さんはまるで何事も無いかのように振る舞って、そして別れの時まで優しいままでいてくれたのではないか?……そんなことを、慎治は今更になって考えてしまった。それでも、嘘をつかずにいるのは不安なのである。相手がどんなに慈愛に満ちた人であっても、狡賢さを装って打算的でいる方が、寧ろ安心できるのであった。
すると、一滴、また一滴と、空が落涙を始めた。それに対し、真衣はただ俯いたままで、その目に涙は無かった。ともかく真衣を雨で濡らすわけにはいかないので、慎治はどこか天井のある場所を探した。すると、道の先にトンネルが見えたので、慎治は真衣の手を引いて速足でそこへ向かった。雨はトンネルに辿り着く前に本降りとなり、二人の体は結局濡れてしまった。トンネルの入り口付近は薄暗く、奥はまるで虚空へと繋がっているかのように真っ暗だった。ようやくトンネルに辿り着いた二人は、鞄の中から取り出したタオルで頭を拭いた。雨音がトンネルの中に響き渡り、その音が奥の方で混ざりあって、獣のうめき声のように聞こえた。
この時、鞄を漁りながら、中には食べ物が少しも無いことに気づいた。それだけで無く、懐中電灯も電池切れで使えなくなっていて、日が沈んだ後は全く行動できないことがわかった。雨が止んだら、あの集落に行ってみるしかない……最悪、食べ物だけでも恵んでほしいと思った。だが、木々と大地を打ちつける雨を見ていると、一向に止む気配を感じられなかった。それに、雨が降り始めてから気温がみるみる下がっているようで、濡れたせいもあって、着実な寒さを感じ始めていた。それでも慎治は上着を脱いで、それを真衣に着せた。しかし真衣も遠慮をしてしまって、慎治が着せた上着を脱いでそれを返そうとした。お互い、寒いのは変わりなかったが、結局二人はその上着を着ようとしないで、その場に畳んで置いておいた。こんな時、暖まるための火でもあれば……ふと、慎治は鞄のポケットに入っていたライターの存在を思い出した。それは今は亡き榊原がわざとらしく落としていった、そして慎治が神社に火をつけるために使用したライターであった。慎治は戯れにライターを点火した。しかし燃やすものが無ければ、神社をあれだけの勢いで炎上させたその火も、今は全く頼りない一点の灯りに過ぎなかった。
「そのライターって……」
その火を見ながら、真衣が弱々しい声で呟いた。その瞳にゆらゆらと揺れる火が映りこんで、慎治はそれを綺麗だと感じた。
「僕はこれで、真衣ちゃんから何もかもを奪ったんだ」
「……」
真衣は何かを思い詰めているようであった。やはり思い出してしまうのだろう……あの神社が焼ける瞬間を。
昨晩、ベッドの上に二人で並び、真衣の辿ってきた「過去」の話を聞いた時、慎治はその話に救いが見当たらなかったことに強く胸を痛めていた。しかしそれと同時に、この逃避行によって真衣を「苦悩の日々」から連れ出すことに成功したような気がして、少しだけ得意にもなった。しかしそれは勘違いで、衝動だけで一人の少女を不幸の闇から完全に救い出すなど、到底できることではなかったのだ。自分はただこの子から居場所というものを奪っただけで、この子が負った心の傷を癒すなんてできない……慎治はそう思った。真衣とあの神社を概念的に見ると、その繋がりは慎治の立ち入る隙の無いほど強固であるように見えた。それを切り離すには慎治自身のエゴが必要だった。エゴが、あの神社を真っ赤に燃やしたのだ。この逃避行が始まってから、慎治は「真衣を救いたい」という殊勝な思いに駆られることもあったが、それはつまり、自分と真衣が離れ離れになることに耐えられず、真衣と神社の繋がりを焼き切って、自分たちの断面を繋げ変えて慰め合おうとする身勝手な衝動に因るものでしかなかったのだ……そう思うと、慎治は自分自身が酷く姑息で、卑怯で、汚い人間に思えて、まるで絶望的な気分になった。この雨が、まるで自身の心象を嘲笑しているように思えてきた。
「もう帰ろうか」
ライターの火が消えるのと同時に、慎治は静かにそう言った。
「どうして?」
「きっと、僕たちはこれ以上どこへも行けない……だからそろそろ、僕たちは僕たちの帰るべき場所へ帰らなくちゃいけないんだ」
「でも私たち、ここまで来れたじゃない。それはきっと、神様が私たちを見守ってくれたから……」
「ねえ」
「えっ?」
「神様って何?」
思わず、慎治は真衣の言葉を遮って、突き放すような、強い口調で尋ねた。
「神様は……」
「真衣ちゃんはいつも神様って言うけど、違うよ……神様じゃないんだよ。僕たちは僕たちなんだよ」
「私たちは、私たち?」
「そう……」
「私、わかんないよ……私たちって何? じゃあ私たちを救ってくれるのは、一体誰なの?」
「それは……」
真衣は顔を伏せて、その目から透明で哀しげな涙を零した。
ずっと近くにいても心は遠く隔たり、近づいてはまたすれ違う。自分たちは「人間」も「神様」も知らない。でも、自分が全ての存在に対して無力であることは、心に刻みこまれたように理解していた。
(僕が救う)
言葉にしてしまえばそれだけだが、慎治にはその言葉が酷く重量を持ったものに思えて、たったそれだけのことを言うことができなかった。
「私は信じられない、人間も神様も……でも、誰かが私を救ってくれるって信じてた」
真衣自身も、その救いをもたらすのは「神様」なんかではないということを理解していたのだろう。でも「人間」が信頼に値しないから、敢えて「神様」という抽象的な存在に救いを求める素振りを見せなくてはならなかったのかもしれない。慎治はようやくそのことに気づいて、それならば、だからこそ、自分がこの子にもう一度「人間」というものを信頼させてあげなければならない……そう思ったが、最も信頼に値しない存在は自分自身であるような気がして、結局、自分もまた「人間」も「神様」も、それどころか「自分自身」さえ信頼できない、ただの弱い人間でしかないということを理解し、悲哀が胸の中で溢れた。
良いことも悪いことも、決してそれ自体に価値があるわけではないし、その一瞬一瞬の幸福は、人の観念の海に広がる「最後の幸福」を作りあげるための材料でしかなく、人はその「最後の幸福」のために他人との信頼を育んだり、時には拒絶し合ったりして、生きるための骨肉となる幸福を盲目的に探し求める。しかし、人は心に絶望を取りこむ度にその幸福の探求に挫折し、やがてシロップのように甘い存在に依存する。そして、空虚な心を満たし得る目には見えない何か――それがたとえ凄惨な不幸であっても――がもたらす愉悦と安心に浸り、懲りること無く幸福の探求を続け、その繰り返しを経て、憂鬱の蜜の甘さばかりを舌に覚えながらさめざめと涙を流す。
慎治がここまで真衣を連れてきた理由……それはただ、真衣と離れるのが嫌で、その瞬間を恐れていただけで、哀しみから真衣を救い出す「存在」になろうなどとは考えてもいなかった。後天的な奉仕の精神……後付けの思い遣りは、きっとこの子を傷つけるだけである。だからいっそのこと、欲望の赴くまま、全ては穢れた自分自身のために、この少女との最後の瞬間を貪ってやろう……そんな思いが、薄暗がりの中でふつふつと湧き出てきた。しかし、どうしてもそれができなかった。それは慎治にとって、一生の別れよりも恐ろしいものに思えたのである。
「ごめん……真衣ちゃん」
「……」
「救ってあげられなくて」
「……」
「ごめんね」
「……ううん」
雨は弱まることを知らず、依然として強く地面を叩いている。すると、幌のついた一台の軽トラックが、薄暗い道路を照らしながら走ってきた。トラックはトンネルの中でうずくまる二人の少年少女を目撃して、トンネルの入り口付近までやって来て停車した。虚空のように見えたトンネルの奥がトラックのライトに照らされて、その場所が実は大きく湾曲しているということが判明した。
「君たち、そんなところで何やってるんだ?」
トラックの運転手は、怪訝そうな顔で二人を眺めた。またしても、自分たちは「神様の存在」を諦めきれなくなるような幸運を得てしまったのではないか……そう思った。
トラックの運転手は農家のような身なりをした中年の男の人で、一見、真面目で人のよさそうな顔をしていた。
「ひょっとして、雨宿りかい?」
「はい」
「そっかぁ、もし帰れなくて困ってるなら、荷台で良ければ乗せてあげようか?」
男の人にそう言われ、慎治は戸惑った。自分たちは一体どこへ送ってもらうべきなのか、見当がつかなかったのである。でもこの時、もしかしたら自分たちはまだ見捨てられていないのかもしれない……そんな考えが頭をよぎり、慎治は意を決して、車の中にいる男の人に向かって「家に泊めてもらえませんか?」と言った。
「泊まる? うちに?」
「はい」
二人が失踪してから四日が経過しており、お金も食料も無いこの状況で、今は「幸運」を削ってその一日を凌いでいる状態だった。慎治の言葉に男の人は怪訝な顔をして小さく唸り、「何か事情がありそうだな」と言った。慎治は不安と緊張で固まり、懇願するような表情で男の人の顔を見ていた。だが、自分たちが作った嘘の境遇は口にせず、男の人の反応をじっと待つのみであった。
「とりあえず、うちで良ければ来ても構わないよ。何もしてあげられないが、食事くらいはとっていくと良い」
「ありがとうございます。助かります。」
二人はトラックの荷台に乗り込み、男の人の住む家へと向かった。荷台の中には二つの段ボールが積載されていた。トンネルを抜けた途端に雨粒が勢いよく幌を打ちつけて、その騒がしい音がエンジン音と共に幌の内側へ聞こえてくる。二人は荷台が揺れる度に互いの腕を支えとして掴み合い、この数十分の行程を無言のまま過ごしていた。
やがてトラックが砂利道を抜けて停止し、ドアの開く音と閉じる音が聞こえてくると、荷台の後ろに男の人がまわってきて「着いたよ」と言って二人に声をかけた。荷台から慎重に飛び降りると、そこには一軒の平屋がひっそりと佇んでいた。その側には大きなトタン屋根の車庫があり、その中には泥で汚れた農作業用のトラクターが置かれていた。男の人は再び運転席に乗り込んで「軒下にいてくれ」と二人に言い、二人は言われた通りに軒下で雨を避け、トラックが車庫入れされる光景を眺めていた。車庫入れを終えた男の人が小走りでやって来て、古めかしいガラス戸が開かれると、中から薄暗くてほこりっぽい玄関が姿を現した。「汚くて悪いが、君たちはそこの左にある部屋に入ってくれ。あっ、その前にタオルを持ってくるから、体を拭いてくれ」と男の人が言い残し、そのまま薄暗い廊下を早歩きで抜けて奥の方へと向かった。長くて心細い廊下は敷居を隔てて各部屋に通じており、その廊下を根幹として、この家の全てが繋がっているようである。泰子さんたちの家とは雰囲気にかなりの差があったが、慎治はこの家の薄暗さに見覚えがあり、その薄暗さはずっと暮らしてきた「あの町」の自宅を思い起こさせ、寧ろ心が落ち着くような気がした。二人が玄関に立ちすくんでいると、タオルを持った男の人がまた早歩きで戻ってきた。タオルには生乾きのにおいが残っているが、そのにおいさえ、慎治にとっては懐かしいものに思えた。
男の人の名は和夫さんといった。和夫さんはこの町の稲作農家で、もうすぐ収穫する予定である稲の様子を見に行った帰り、降り頻る雨の中に二人がいるのを見かけたのだと言う。奥の寝室では和夫さんの母が病床に伏しており、聞き覚えの無い少年少女の声を聞きつけると、細々とした声で「和夫、お客さんかい?」と言いながら頼りない足取りで居間の方へとやって来た。
「あらまあ、二枚目のお兄さんに、美人のお姉さんじゃない。こんな所へどうしたの?」
「いえ、そんな……あの、僕たち、色々あってこの町まで来たんです」
「色々?」
「はい」
慎治は、雨が降る前に言われた真衣の言葉のために、嘘は言わなかった。しかし、本当のことを言うのも憚られた。自分が今追われる身であることを、この時それとなく悟ったのである。
「そう言えばさっき、泊まりたいって言ったね? 生憎家に着替えは無いが、隣の家には子供がいるから、後で頼んで借りてきてあげよう……でもその代わり、条件がある」
和夫さんは言った。
「条件?」
「ちゃんと、君たちのことを話してくれ」
「……」
慎治は躊躇った。自分たちのこと――自分たちは一体、何故こんな所にいるのだろう。自分はどうして真衣ちゃんと離れたくないのだろう。不安、哀しみからの逃避、生活、神様……全ての事柄が、自分たちがここにいる理由になり得るのに、本当のことは何もわからなかった。欲求と恐怖……言葉にできるのはそれだけである。
本当のことを言えば全て終わってしまうかもしれない。誰かの援助で暮らしていくには、嘘と同情が貴重な財産となる。だが、他人を信じるのに嘘も同情も必要ないということを、ここにいる真衣のためにも、今は信じていたいと思った。
「僕たちは――」
慎治は自分の過ちから今に至るまでの出来事を、言葉にできる範囲で詳細に語った。それを聞いた和夫さんとその母は、ただ無言でその話を聞いていた。真衣はその時、どんな表情をしていたのだろう。
「そんなことがあったのか……わかった、約束通り君たちを泊めてあげよう。腹は減ってるかい? 昼飯にうどんでも作ろうか」
そう言って、和夫さんは台所へと向かった。この時慎治は、善意を受けるのに嘘が必要とならなかったこと、そして、少しでも「人間」が信頼に値するということを、真衣に見せつけることができたという自負で、ささやかな安堵と達成感を覚えた。
しかし、慎治は再び、もう一人の自分が頭上から自分を覗いていることに気がついた。ただでさえ限界の間際であるというのに、真衣に気を遣って、自分のしたことを洗いざらい見知らぬ人間に話してしまうようでは、もう救いが無いな……そう言われるような思いで、再び前途への不安に襲われた。だが、和夫さんたちに真実を話した後の安堵を以て、自分にはもう、善意の対価として支払われる「嘘」と、それを作り出すために削り取られる「精神」が僅かしか残されていないということを自覚していた。
「今は何も心配しないで、うちでゆっくりしていきなさい」
和夫さんの母は二人にそう言って、壁に手をつきながら、頼りない足取りで再び寝室へと戻って行った。
和夫さんたちの善意を受け、真衣を苦悩から救い出し、離れ離れにならないためにするべきことは、慎治の中で既に定まっていた。
暫くして、和夫さんは三人分のうどんをテーブルに運んで来た。そしてもう一人分を、奥の寝室へと運んで行った。大きな油揚げの乗った、不思議と懐かしい気分させられる見栄えのうどんである。二人は「いただきます」と言って、うどんを啜った。この日、一歩だけ大人に近づいたのだとすれば、うどんの味を決めるのはつゆであることを知ったということである。この日は雨が降って冷えるので、温かいうどんが尚更身に染みるようであった。
うどんを食べ終え、その余韻も覚めぬ内に、慎治は和夫さんに、
「一つ、お願いしたいことがあります」
と言った。和夫さんは「何だい?」と言って、慎治の方を見た。
「ここで僕を働かせてくれませんか?」
「えっ? 仕事かい?」
思いも寄らぬ……といった具合に、和夫さんは驚きの表情を見せていた。和夫さんにここまで驚かれるとは、慎治にとっても想定外のことであった。しかし、懇願するように、慎治は言葉を重ねた。
「何でもやります……! まだ中学生ですが……お願いします!」
隣にいる真衣も、慎治の言葉を唖然として聞いていた。
「それはつまり、ここで働いて、ここで暮らしたい、ということかい?」
「はい」
「うーん」
和夫さんは唸った。悩んでいるようにも見えたが、何について悩んでいるのかはわからない。慎治はひたすら、お願いをするのみであった。すると、真衣も「私も働きます」と言って、和夫さんの方を見た。二人の懇願に、和夫さんは暫定案を出すという形で「じゃあとりあえず、うちで作ってる野菜の収穫を手伝ってもらおう。今日は雨だから、明日になるけどね」と言って、食べ終えた器の片づけを始めた。そして洗い物をしながら「うちは何かと忙しいよ。それでも構わないのかい?」と尋ねた。二人は「はい」と言って、確かに感じた手応えと、未来への展望が僅かに見えたことに高揚した。ようやく自分の力で生きていける……そんな気がしたのである。
その日、二人は風呂洗いや夕飯作りの手伝いもした。風呂洗いは慎治の担当で、夕飯作りは真衣の担当である。慎治も真衣も、二人自らが置かれていた家庭環境の関係から、子供でありながらも家の中のことはそれなりにこなすことができた。和夫さんもそのことを知って、多少なりとも心強く感じたであろう。だが、和夫さんが二人について感じたのは、それだけではなかったのである。それは煩悶にも似た、頼り甲斐のようなものとは全く別種の心象であった。
夕飯を終えて和夫さんが風呂に入ると、慎治は夕飯の皿を洗い始めた。真衣も慎治と共に皿を洗おうとしたが、それによって慎治は何だか自分が不甲斐無く思えて、「僕がやるからいいよ」と言った。しかし真衣も「それは悪いよ」と言って、慎治が洗った皿を拭く仕事を務めた。
「ごめんね真衣ちゃん、真衣ちゃんにまで仕事をさせるつもりは無かったんだけど」
「ううん、大丈夫だよ。お陰でこうして雨にも濡れず、夜を明かせるんだから」
「そっか」
慎治は再びスポンジを泡立て、黙々と皿を洗った。すると、
「ねえ、変なこと聞いて良い?」
唐突に、真衣が慎治に尋ねた。以前にもこんな風に、神様を信じるかどうかについて尋ねられたことがある。
「慎治君は、大人になりたい? 子供のままでいたい?」
「真衣ちゃんは?」
「私は……早く大人になりたいかな。何にも頼らず、自分の意思で生きていきたい」
「そっか……僕はね、時々、ずっと子供のままでいたいと思うんだ」
「どうして?」
「子供が良いっていうんじゃなくて、ずっと今のままでいたい。大人になったら、大切なものも全部忘れてしまうような気がするから」
「慎治君の大切なものって?」
「色々ある……けど、僕が大切だと思っているものを、僕が本当に大切にできているのか自身が無くて、言葉にするのは怖い」
「おかしいね、自信が無いのに忘れたくないなんて……だけど、自身が無いからこそ、慎治君はそれを手放さずに手にしておきたいんじゃないかな」
「でも、大切にすればする程、もっと傷つけてる気がする……」
「大切っていうのは、言葉が見せる幻想……思い込みなんだと思う。それが他人なら尚更」
「真衣ちゃんは、やっぱり人間は信じられない?」
「私は……何も信じないよ。人間も、神様も……だから早く大人になりたい」
「傷つけあうもんね。僕たちは」
「うん」
慎治はそれを、暗闇を手探りで這い回るような、恐ろしくて哀しい会話であると感じた。考えれば考える程、真実の観念が理屈によって壊されてゆく。しかし、そうなる前に、和夫さんが風呂から上がって居間に戻って来たので、この会話は無事に閉ざされた。
「二人ともありがとう。明日は早いからな。早く風呂に入って寝る準備をしてくれ」
皿洗いを終えた二人は順番に風呂に入り、慎治は和夫さんの寝室で、真衣は和夫さんの母の寝室で眠りに就いた。
翌朝、慎治は和夫さんの枕元でやかましく鳴り響く目覚まし時計の音で目を覚まし、和夫さんが居間の方へ出て行くのを待ってから、ゆっくりと起き上がった。寝室は雨戸に閉ざされて真っ暗であったが、居間には白い朝日が差し込んで、冷えた空気が寧ろ心地良く思えた。
「おはよう。こんな早くに悪いね」
和夫さんは上着を羽織りながら、慎治にそう言った。慎治は「いえ」と言った後、「朝食の用意をさせて下さい」と告げた。しかし和夫さんは、「朝食は僕が作るから、君はあの女の子を起こして来てくれ。母さんは起こさないようにね」と言って、冷蔵庫をがさがさと漁り始めた。
慎治は真衣の眠る寝室に向かい、その扉をゆっくりと開けた。真衣は、和夫さんの母と並んで、まだ眠っていた。せっかくよく眠っているのだから、できれば起こしたくないと思ったが、慎治は恐る恐る真衣の掛布団をめくり、その肩を静かに揺すった。
「んん……」
「起きて」
「うん」
それでも真衣はなかなか起き上がろうとせず、その後も二、三度声を掛けることになり、歯痒い思いをした。だが、寝ている真衣の姿が再び見られたことに、慎治は静かな愉悦を覚えていた。
ようやく真衣が起き上がり、二人は和夫さんの用意した簡単な朝食をとり、収穫に向かう準備を始めた――そのつもりであった。しかし慎治は、和夫さんの様子を見ていて、不思議な違和感を覚えた。和夫さんはこんな時間から誰かに電話を掛けて、相手と何かを示し合わせているような会話をしている。だが、この時二人がするべきことは和夫さんの指示に従うことで、その会話を敢えて聞き流しながら、慎治は外へ出るための準備を続けた。
「二人とももう準備は終わったのかい? 悪いけどもう少し待っててくれ」
和夫さんがそう言うと、奥の部屋から和夫さんの母がやって来て、今年の農作物のことや、この地域のことなどを話して聞かせた。それを聞きながら、慎治は玄関先で頻りに何かを待っている和夫さんの様子を、疑いにも近い心持ちで眺めていた。真衣は和夫さんの母との会話で静かに盛り上がっていたが、この時、真衣も慎治と同じ違和感を抱いていたのかもしれない。
居間の大きなガラス戸から、聳え立つ山々の稜線が朝靄の中にかたどられているのが見える。見知らぬ土地にいて、二人は漠然とした不安に駆られていた。慎治は居間にいる二人のもとから離れ、玄関の方へと向かった。
「まだ出かけないんですか」
和夫さんの背を見ながら、恐る恐る慎治は尋ねた。
「もう少し待っててくれ。もうすぐ行くから」
「何かを待ってるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないさ」
和夫さんはそう言って、尚も玄関先で何かを眺めていた。
暫くすると、砂利道をゆっくりと抜けて庭の中へとやって来る二台のパトカーが見えた。慎治の違和感……疑念は、この光景によって確信へと変わった。玄関前で停止した二台のパトカーそれぞれから一人ずつ警察官が姿を現し、玄関先にいる慎治と和夫さんのもとへやって来た。
「おはようございます。C県警の者なんだけど、君にちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何ですか?」
警察官の一人が慎治に声を掛け、もう一人は和夫さんに向かって軽く頭を下げた。
「A県○○町の神社の放火の事件、知ってるかな?」
「……はい」
「そのことについて聞きたいから、ちょっと署の方まで来て欲しいんだ。それと、君と一緒に北出真衣さんも探してるんだけど、ここにいるよね?」
「……」
「すみません、ちょっとお邪魔してもよろしいですか?」
警察官は和夫さんにそう言うと、二人の横を通って家の中へと入って行った。
「こんなことなら、あの時すぐにでも追い出してくれれば良かったのに……」
慎治は確かな恨みを込めた口調で、隣にいる和夫さんにそう言った。
「そうだね……でも、昨日君たちの話しを聞いた時、僕は君たちのことを哀れだと感じたんだ。だって、何かを犠牲にしなければ、君たちは互いを信用することができなかったんだろう? そう思うと、僕もつらかった。どうにかして君たちの力になってあげたいと思ったよ。でも、僕は君たちの理解者にはなりたくなかった」
神妙な口調で、和夫さんは言った。
「考えてみてくれ。君たちにはまだ未来があるだろ? 君たちはこれから、色んなことに傷つけられ、その度に色んな人に助けられるだろう……一期一会さ。だから、いつまでも逃げていてはだめだ。自分自身と向き合って、それから、他人を愛せるようになってくれ」
「よくわからないです」
「いつかわかるだろう」
和夫さんがどういう気持ちで自分たちを諭し、罪を正そうとするのか、慎治には理解ができなかった。ただ、予期せぬ瞬間に真衣との別れが訪れたこと、そして、それをずっと恐れていたのに、思った以上に冷静な気持ちでそれを受け入れてしまう自分に、慎治は静かな驚愕を抱くのみであった。やがて、警察官たちの後ろに連れられた真衣の姿が慎治の前に現れた。居間の方から、和夫さんの母が不安そうな、哀しそうな表情で慎治たちの方をじっと見ていた。
「和夫さん……最後に聞いても良いですか」
「何だい?」
「人を信じるって、何ですか?」
慎治の質問に対し、和夫さんは「何でそんなことを?」と不思議そうに聞いた。その後「うーん」短く唸ってから、答えた。
「自分自身を信じるってことかな」
和夫さんの言葉は、和夫さん自身も答えを見出せなかったための、少年騙しのような中身の無い代理であるように思われた。こうして二人は二台のパトカーに一人ずつ乗せられて、警察署へと連れていかれた。その様子を、和夫さんはまるで憐れむような目で眺めていた。パトカーは遅くもなく、速くもないといった速度でひたすらなだらかな山道を走り続け、前面に見える市街地の方向を指す案内標識と、真衣が乗せられたパトカーの姿を、慎治は後方のパトカーの中からぼんやりと眺めていた。やがて二人を乗せた二台のパトカーは、市街地の比較的栄えた道路沿いにある警察署に到着した。
警察署内で、慎治は自分が神社を放火したこと、同級生を連れて遠くまで逃げたこと、死んだ地上げ屋たちについて、また家庭の環境に至るまで……取り調べ官に聞かれたことは、言葉にできる限り答え尽くした。だが、その行為に伴う理由について問われると、それを上手く伝えることができなかった。その後児童相談所の判断により、慎治は家庭裁判所で裁判にかけられた。このことはテレビや新聞でも話題となり、しばらく特集されることとなったが、当の慎治はそんなことを知る由も無かったし、知っていても、何を思うことも無かった。これらのことが逃避行の末に約束されていた「罰」であるとしても、慎治にとっては単純な出来事の連続でしかなかった。一人の少女の存在が慎治の世界から欠乏したことが、慎治の感情に作用する楽観や悲観を、平坦で荒涼とした虚無的なものへと変えてしまったのである。