1:東暦1939年9月1日午前4時32分
空を飛ぶ事。
それは重力という鎖で結ばれた大地から解き放たれ、自由を得るという事だ。
人類は長い歴史の中で、空を駆ける事への渇望や夢を持ち続けてきた。
鳥への憧れ、雲への興味、そして太古に神々の領域とも言われた空への執念。
あらゆる構想から実験まで、羽ばたき機やグライダーなど、ひたむきな努力が実を結び、やがて気球や飛行機へとその夢は実現していった。
そんな空を飛ぶという事。
これが大きな夢、希望である事は間違いない。
しかしそれは時に、誰かに恐怖をもたらす事もある。
中世のおとぎ話や神話に登場するドラゴンを例に挙げたい。
多くの場合地に足をつけた人々は、自由に空を飛ぶ事への憧憬をおとぎ話の中のドラゴンという、普通の人間では到底張り合えないような生物に、無意識のうちに預けている。
悪者としてドラゴンを描くのではなく、ドラゴンに乗って空を旅する物語もあるように。
しかし同時に、大地を這う事しか出来ない人々は、空からの理不尽なる攻撃を行うドラゴンに対して、多大なる恐怖をも覚えるのだ。
そしてその恐怖はドラゴン退治を求める元になり、その想いは英雄や勇者へと託されていく。
ただドラゴンが強いだけではない。
空を飛ぶという事そのものが、恐怖とされているのだ。
ドラゴンが自由に駆ける空。
それはいつしか神々と悪魔の領域とされていった。
飛行機が生まれ、人が空を支配するようになった今でも、空への希望と恐怖は絶えないままだ。
そんな空に魅せられた者たちは憧憬と恐怖といった、背反する想いを抱き抱かれ、青空の中を舞う。
たとえ大空に呑まれ、神への生贄として散ろうとも。
* * *
私は飛んでいる。
まだ朝陽も昇っていない肌寒くなってきた九月の空で、十数の空飛ぶ狩人たちと共に、何回も、何回も、愛すべき大地の上を折り返して飛行している。
「殆ど地面が見えないな……」
夜の闇に紛れてかすかに見える我らが王国の村々は、未だ明かりが付いていない。
だがそんな日常の景色は、これから戦いの地へと向かう私たちにかすかな勇気を与えてくれている。
「しかし、何処か落ち着く……」
この風景を見ていると、これから待ち構える出来事に対して荒んでいた心が、だんだんと清らかになるような気がするのだ。
私が今乗っているのは、昨年より配備が進められている新型戦闘機だ。
これは同盟国にあるフォンスター社から購入した戦闘機で、上昇力や操縦性、視界に優れている。
全体的な性能自体は平凡だが、扱いやすさもあり、今までのパラソル型からすればかなり優秀な機体だ。
流石に列強の主力戦闘機と真っ向からやり合えば分が悪いが、工夫次第では一泡拭かせることも、この機体ならきっと難しくはない。
さて、現在はキャノピーを開けっぱなしにしている為、ユーロリアの風は冷たく私の顔に吹きつけており、首に巻いた『ナーシャ』手作りのマフラーも何処か誇らしげにたなびいている。
これが私の一番の御守りだ。
「よし、4時丁度だな」
私は通信確認の時間である事を左手に付けた懐中時計で確認する。
そして強い風に晒されながらも悴んだ両手でキャノピーをゆっくりと閉じ、ロックを掛け、飛行帽をしっかりと左手で抑え、右手で無線チャンネルを中央管制へと繋ぐ。
「パンジー1からモドリワコントロール。無線の通信状況を確認したい、聞こえるか、送れ」
『モドリワコントロールからパンジー1へ。感度良好、明瞭に聞き取れる、送れ』
モドリワコントロールの若い女性の声が鮮明に聞こえてくる。
この数年で無線通信も随分と成長したものだし、女子の社会進出も著しい物だと深く感じる。
「パンジー1からモドリワコントロール。ありがとう、ジマール軍機の侵入を確認次第報告願う。以上、オーバー」
さて、私が中央管制への通信確認を終えるや否や、いつの間にかに私の列機たちが次々と周りに集まっていた。
いつの間にか、他中隊の編隊も戻ってきている。
これからの戦いを考え、先程まである程度好き勝手に飛ばせていた彼ら。
もう少し自由にしてもよかったはずなんだが……。
既に皆が集まってしまったらしい。
「お、故郷の実家上空まで行った奴ももう居るじゃないか」
まだ夜なせいでしっかりと判別する事はきっと出来なかっただろうに。
『こちらカフカ1、全機揃ってます』
『シュコルカ1、全員いるぜっ!』
『……シェルプフカ1、行ける……』
今年の初めから装備され始めた新型無線機は相変わらず今日も快調で、耳に飛び込んできた個性的な中隊長らの声をしっかりと聞き取れた。
暗く冷たい夜空は綺麗に澄み切っており、思わず彼女に対して半信半疑になってしまう。
「本当にこんな時間から攻撃があるんだか……いや、ナーシャを信じよう」
だが、私はナーシャを信じると決めたのだ。
まだ時間は彼女に予告された時刻ではない。
少し訓示らしきものをしようかと思い、素早く無線チャンネルを中央管制から全体へと変更した。
「パンジー1から全機へ、聞こえるか?……よし、どうやらしっかり聞こえているようだ。……皆。隣にいるバディーを見ながら楽にして聞いておけ」
僚機がバンクしながら無線が聞こえていることを知らせてきているのを横目に、命を預け合うバディーをお互い見るよう、各機に伝え、私はゆっくりと訓示を始めた。
「今日。我々の愛すべき王国は、今まで経験したことの無い戦禍に飛び込む事になる。何度も言ってるだろうが、相手はあのジマールだ。まさか朝飯にじゃがいもを盗み食いした奴は居ないだろうな?」
すぐ基地周りの畑からかっぱらって軽食にしちまう連中だ。
これくらいは飛ばしておいても構わないだろう。
「……まぁいい。万が一食べた奴がいるならば、キャノピーを開いて敵に胃の中のものを全部ぶちまけるなら許してやろう。……さて、本題に戻そうか。今更だとは思うが、我々は王国一の航空戦闘部隊だ。我々が空を制せねば、150万の我らが王国を護る騎士、そして3500万の王民が奴等に空から蹂躙される事になる」
我々に王国の命運が懸かっている、それは決して過言ではない。
地上部隊を襲うであろう急降下爆撃と都市への戦略爆撃の恐ろしさは、すでにナーシャの演習で知っている。
「我々は少数精鋭だ。鮭の大群だろうと、イノシシの群れだろうと、必ず食い破る。騎士団や王民に届かせやしない。そういう覚悟で臨んでほしい」
敵の数は数倍に上る。
それでもなお立ち向かうのが我々の仕事。
「他の航空隊の連中もいるにはいるが、やはり我々には戦力が及ばない。ジマールと違って、我々に後はない。我々の王国は文字通り消滅するだろう!」
これは決して戯言ではない。
かつて、我が王国が他の列強に一方的に分割されて地図から消え去ったように、防衛が失敗に終わる事はその再来に等しい。
……絶対に耐え抜かなければならない。
『そんなことは断じて許してはならないのだ!何度も国家を、王民を、土地を引き裂かれてきた我々は!もう二度と屈したりはしない!』
各機が小さくバンクし、私の言葉に同意を示しているのだろうか。
そんな無言の一体感は、どこか私の胸をまたポカポカと暖かにしてくれる。
『……とまぁ、私から言えることはだいたいこんなもんだろう。……終わりだ。各自喋っていいz―』
『絶対生き残ってやりますよ!初経験も無しに死ねるかよぉ!』
『あぁ??こっちこそ生き抜いてやるよ!!あんたの墓場の用意は任せなっ!!』
『何をふざけた事をっ!パンジー3!』
『ジャガイモを暫く食べられないのは中々に厳しいですね〜』
『諦め切れないから隊長、家までもう一回飛んできていい?』
『……相変わらず隊長達のとこはうるさいですね。……カフカ隊も負けないように!』
『シュコルカ隊は全員勝ちに行くぜっ!』
『……シェルプフカ隊はみんな精一杯生きて頑張って……』
……本当に面白い奴等だ。
* * *
『あっ、隊長!隊長!一つ聞きたい事あるんすけど、いいっすか?』
『ん?なんだ?言ってみろ』
『フランチェリ隊長って落とそうと狙ってた我らが王女様を、飛行機にかまけてるうちにラドヴィフ家のお坊ちゃんに盗られたってホントっすか!?』
『……パンジー2、どうやら君はジマールのポテトと一緒に畑に突き刺さりたいそうだな。戦場では私の機体も見失わないよう、しっかりとオススメしておこう』
『ヒェッッッ!!!しょ、少佐!冗談ですってばっ!!アハハハ!!……パンジー3、はかったなぁぁぁ!』
『うーん?ワタシゃ何も知らないねぇ!』
『二人は静粛にっ!……よし』
『皆に一つ、言い忘れていた。絶対に死に急ぐんじゃない。たとえ機体が燃えたからって安易に敵に体当たりをして、ばらばらになった間抜けな身体を下に居る王民の皆に、家で帰りを待つ家族に見せるのか?違うだろう?………いいか、最後に私から言う事は一つだ。……生き残れ。返事は?』
『『『……プシヨウェム!!!』』』
* * *
『モドリワコントロールからパンジー1へ!国籍不明機十数機がZ20グリッドに侵入!高度は約8200フィート!送れ!』
『こちらパンジー1!報告の編隊を既に目視、ジマールの軽爆撃機だ!敵は我が空域を侵犯している!攻撃許可を求む!』
『モドリワからパンジー1へ!許可する!』
『モドリワコントロールへ!了解!オーバー!……パンジー1から全機へ!敵の狙いはトルフの操車場と、橋を爆破予定の工兵部隊だ!絶対に通すなっ!』
我らが隊長さんの訓示が終わったのと同時に敵さんはやって来た。
ちなみにパンジー隊以外は隊長さんの訓示が終わった後、既に各方面の要所に向かっている。
カフカ隊は小都市シェラルニへ、シュコルカ隊とシェルプフカ隊は首都ワルシャルムへ。
「他の隊にも頑張って欲しいね……おっと、降下ね了解ー!」
隊長さんとバカタレに続き、ワタシも操縦桿を倒して緩やかに降下を開始していく。
クリストルエンジン840馬力が低く唸り、翼は降下の速度上昇から少し軋む。
後方を確認すれば、他の同じ中隊の機体が皆一列に続いている。
そしてさっきから振り返る度に自身の長い髪が邪魔で仕方ない。
「けどまぁ、隊長さんに似合ってるって言われたら髪切れないよね」
狙いは下に夜闇に紛れながら微かに見える、敵の編隊。
そこまで機数は多くないようで、敵戦闘機の護衛もない。
……これは確かに言われていた通りの編成。
王女様の予言は正直そんなにあてにしてなかったけど、ここまで当たると信じなきゃいけないか。
王女様ラブの隊長さんでさえも、分単位の予想はさすがに半信半疑になっていたようだけどね。
『よく引き付けてから撃つんだ、相手はまだ気付いていない』
『奇襲しようとしたら奇襲仕返されるなんて、まさか考えてないだろうな!』
『バカタレパンジー2!耳が壊れる!』
……さーてと、敵機の姿がだんだん近づいてきた。
黒い空に紛れた機体の輪郭が、少しずつはっきりとしてきている。
その輪郭の中にジマールの識別マークがしっかりと見える。
『こちらパンジー7!国籍不明機はジマールの爆撃機に間違いないです〜!』
我々の航空機と比べると随分と角張っているように見える。
今目の前に見えている機体は脚も固定式のようで、パッと見た外見は王国の軽爆撃機と似たり寄ったりだ。
「確かヒュンカー87だったかなぁ」
ブリーフィングで見た模型にそっくりだ。
それにこれまた綺麗な編隊を組んでいて、その練度の高さが伺える。
「……壊し甲斐があるってもんさ」
{Feindliche Flugzeuge vor uns!}
{Warum das Polmarc Flugzeug!}
おっ、撃ってきた撃ってきた。
爆撃機の後ろの後部銃座からかな?
勘のいい奴がいたのか、敵編隊先頭の後ろに乗ってる敵パイロットが必死に機関銃にかじりついてる。
なんか叫んでいるようにも見えるし、弾もヒュンヒュンいいながら飛んで来てる。
「ま、当たらないんだけどね」
『敵の発砲を確認、こっちにはアリバイが出来た!パンジー1からパンジー隊全機へ!前に見える奴全部撃ち落とせ!!』
はいはいー了解っと!
「……おー、隊長さんはいきなり敵の先頭の機体狙ってるねー」
隊長さんの機体両翼から八条の閃光が飛び出し、敵機体に着弾していく。
無数の7.7ミリ弾が次々と敵の翼をズタボロにし、一瞬煙が出たかと思うと、ボワッと一気に真紅の炎が燃え広がった。
『おっ、隊長がやったぞ!!』
『この戦争初めての撃墜じゃないか!?』
{Das Flugzeug des Kapitäns ist abgeschossen worden!}
{Überfall gescheitert! Wiederholen Sie das! Überfall gescheitert!}
隊長さんの狙った敵の隊長らしき機体は、翼両方から出火して、あっという間に炎に機体全体が包まれ、地面に向けて降下を始めた。
ありゃ脱出は無理そうだね。
『くそっ!弾が弾かれたっ!?』
バカタレの方は……チッ、何仕留め損なってんの。
運悪く弾は掠っただけか、それとも射角で弾かれたか。
バカタレも敵も損傷は殆ど無さそう。
「んじゃあそいつはワタシがやりますねー!」
にしても光学照準は相変わらず見やすいねぇ。
撃ってきてる後ろの機関銃手の顔もよくよく見える。
ヨーソローヨーソロー……。
「よし、ここ!!」
{Verdammt noch mal! Antreten! Antreten! Antrexb#*〆}
両翼の機関銃からの弾が吸い込まれていって火花が……敵機がエンジン辺りから白い煙を上げて段々スピード落としてる……あ、機首が下がった。
これは、撃墜確実、かな?
『初撃墜おめでとう。パンジー3。……パンジー2にはすぐ次がある』
『あぁーめちゃ悔しいぃぃぃー!』
『隊長さんありがとね。……パンジー2はドンマイっ!』
初撃墜、取れたのはめちゃくちゃ嬉しい。
奴らを二番目に殺せただけで天にも昇るような気持ちだ。
……だけど、
「……でも、うわぁ……。敵のキャノピー赤く染まるの見ちゃった」
敵のポテト頭が吹き飛ぶ瞬間も見ちゃったし最悪。
「……でも、これが戦争、なんだよね」
もっと心強くならないと。
『全機敵のヘロ弾に当たった奴はいないな?攻撃した後は速やかに降下しろ、今度は下から突き上げだ!……やるぞ!』
「……了解!」
あ、今の時間確認しとかなきゃ。
間違いなくこれがこの戦争最初の戦闘だろうし。
後で記録やらされるのどうせワタシなんだから。
* * *
東暦1939年、9月1日。
この日、のちの世界のパワーバランスを大きく変える事になる大戦争の幕が切って落とされた。
ユーロリアの西部に位置する中小国、ポーマルク王国に対して隣国の大帝国であるジマール第三帝国が侵攻を開始したのだ。
先の大戦争が終わってから20年。
二週間前にジマール第三帝国がポーマルク王国に対して港を含む領土の割譲要求をして以降、ユーロリア諸国はジワジワと緊張と警戒を強めていたが、まさか大戦争に発展するとは考えていなかったであろう。
一中小国に過ぎないポーマルク王国が圧力に負けるはずだ。
ユーロリアの平和を愛するのであれば、ジマール第三帝国の要求を飲む以外考えられない。
そう、誰もが考えていた。
しかしかの王国の摂政、ポーマルクの第一王女は割譲要求に対し沈黙を続けた。
ジマールが何度大使を送って要求しても、ただ文書を受け取り聞き流すだけ。
事実上の宣戦布告を受けても、その姿勢は変わらなかった。
ジマールの時の指導者はポーマルク王国全土への侵攻を遂に軍に命じた。
イングタニカやフラリアが主導した『協調外交』での戦争放棄が、泡と化した瞬間。
ここに第二次ユーロリア大戦は開戦した。
後に長きに渡って続くこの大戦争の引き金を初めに引いた者の名は『フランチェリ=ヴァロンスカ』、ポーマルク空軍少佐。
ポーマルク最大の鉄道拠点であるトルフ操車場の攻撃に向かう、ジマール空軍急降下爆撃隊を狙った彼であったと言われている。
時に午前4時32分。
まだ朝陽に照らされていない闇空を、
真紅の数条の炎が赤く染め上げた。