そして成立へ
この物語はフィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関係がありません。
主婦ブロガー、廣田萌絵(ハンドルネーム『もえ☆るん』)のキッチンは、醤油とみりんと砂糖が入り混じった幸せな香りで充満していた。
「おー、結構うまくできたんじゃねえの?」
落し蓋を上げると、黄金色に輝くカワハギの姿煮から食欲をそそる匂いが立ち上ってくる。
萌絵は早速カワハギを皿にきれいに盛り付け、照明機材の準備をする。
テーブル上のすべての準備が整い、萌絵はスマホを手に取った。
「これは、結構イケるんじゃね……って、ん?」
スマホを開くと、ちょうどツイッターのホーム画面になっていた。
萌絵は今日の会議で精神的に疲弊したので、帰宅してから一言呟いただけでスマホを放置していたのである。
「あー、そういや通知まだ見てなかったっけ。『いいね』何件ついてるかな……ふんふふん♪ ……ん? んん?」
見間違いだろうか。萌絵は目を皿のようにして凝視する。
萌絵の2時間前のつぶやき
【今日、有識者会議で『結婚後は女の姓に揃えたらいいんじゃね?』って言っやった。爪痕残してきたぞ、いえい!!】
に対し、今まで見たことのない回数のリツイートがなされていて、経験したことのない数の『いいね』がついている。
「ぎょえーーー‼ に、二十万リツイート!? ご、五十万いいね!? なにこれ、壊れてる?」
しかも、その数はリアルタイムで増え続けており、下二桁は読み取れない速度でカウンターが回り続けている。
「ど、どうしよどうしよ、大変だ! 大変だ!」
混乱した萌絵がやかんとまくらを持ってダイニングキッチンを走り回っていると、夫の薫が帰ってきた。
「どうしたの、もえ☆るん? やかんとまくらを持って走り回って」
「こまった、こまった」
「うーん、どう考えても分からない。なにを困っているの?」
「いいねとリツイートがすごい数で、しかも増え続けてるの」
「それ、全然いいことじゃない?」
「……そうね。よく考えなくてもそうだわ」
萌絵はやかんとまくらを放り出し、夫の薫に抱きついた
「かお☆るんはやっぱり頭いいね」
「もえ☆るんも、いつもかわいいよ」
「私が困ったら、いつでも助けてくれる?」
「もちろんだとも、たとえ地球上の皆がもえるんの敵になっても、僕は絶対君を守るよ」
「嬉しい、じゃあ……」
萌絵は薫の目をじっと見つめた
「かお☆るんは、もし法律が変わったら、一緒に苗字変えてくれる?」
「何を言ってるかよく分からないよ、もえ☆るん」
「だから、結婚してても私の旧姓・堀之内に戻せるようになったら、かお☆るんも一緒に堀之内薫になってくれる?」
「……できるの?」
「だから、例えばの話。嫌?」
「えっと……」
「嫌?」
「その……ちょっと嫌かも」
「……はぁ? マジざけんなよ、てめぇ!」
その後、二人はカワハギと炊き込みご飯を食べて仲直りしたそうな。
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有識者会議における萌絵の発言は大きな反響を呼んだ。
まず動いたのは選択的夫婦別姓賛成派の側であった。
旗振り役は有識者会議に出席していた宝田と水村の2人。
萌絵の発言についてマスメディアで積極的に流布するよう努め、講演会等では女性側の不利益が極めて少ないこと、保守派の主張をかわせること等のメリットを発信し、勉強会でシンパの拡充を図り、巷間に「女性姓統一制度」誕生の機運が生じるよう仕掛けていった。
堂々巡りの議論に倦厭ムードが充満していたリベラル派の人々にとって、法案提出もままならない夫婦別姓制度に変わる第三の提案が出てきたことがとても新鮮に思われた。
本気でこの法案が現実化すると考えた人はおそらくほとんどいなかったであろう。
しかし、膠着状態を打破すべく、この男女平等理念にすさまじく逆行する法案に一縷の望みを託し、一蓮托生とばかりリベラル派は次々と転向を始めたのである。
法案実現化に向けて、女性性統一派はSNSや街頭で署名を集め始めた。
最初は単なる一主婦の戯言だ、非現実的だと静観を決めていた保守派だったが、署名数が10万を超え、50万を超え、ついには500万を超えるに至ってこのままでは大変なことになると重い腰を上げた。
世間の動向を見るに同じ戦術を取ると後塵を拝すると考えた保守派は、反撃ののろしを上げるべく、女性姓統一派の旗手の二人に対し、公開討論にてお互いの主張を詳らかにしようではないかとの挑戦状をたたきつけた。
かくして、保守派とリベラル派の討論会が地上波ネット同時中継で行われる運びと相成ったのである。
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「あなた方が提案している法案は著しく均衡を欠いており、差別的で、男性性を蔑ろにするものである。世界の潮流に逆行すること甚だしい」
「婚姻時の姓選択の自由が失われている。男女同権の考えに著しくそぐわない欠陥法案である」
宝田蓮子は、どこかで聞いたような意見だなと思いながらも、彼らの発言に対しひとつひとつ反論を加えていく。
「現行民法が果たして男女平等の適用に資するとお考えですか? 婚姻とは家と家との結びつきであるとの古い因習に縛られて、男子が家系を相続し姓を引き継ぐとの戦前の家父長制の考えがいまだに亡霊のように存在しています。そのため婚姻時に女性姓はほぼ選択されず、核家族における世帯主は9割以上が男性となっています」
「男女同権とおっしゃられるが、一見平等に見えてもその人口比から間接的に差別が行われている事象が世間には溢れています。婚姻後の姓の問題はその中でもっとも顕著なものです」
「今まで蔑ろにされてきた女性性を復権するものであり、現存する間接差別を矯正するものでもあり、欠陥法案でも時代に逆行するものでもなく、世界にも類を見ない、画期的かつ斬新な法案であるものと我々は自負しております」
「しかしだね」
世界情勢にも詳しい、有名私大教授で保守派の社会学者・古添壽一が異論をはさんでくる。
「現在の日本は少子高齢化が著しく、その上で婚姻を敢えてしない事実婚や、もしくは晩婚によって子供自体を設けない夫婦のスタイルが増加している。社会保障財政の健全化は喫緊の課題だというのに、女性姓しか選べないとなると、今まで婚姻を控えていた層に加えて、新たに結婚自体を躊躇するカップルが増加するかもしれず少子高齢化に拍車をかけることになりかねない。そうなると、日本の社会保障制度が崩壊してしまうが、そこのところはどう考えますか?」
「その点に関しましては、弁護士である水村さんの方からご説明します」
司会者の後ろにある大型モニター、及び各パネリストの手元のモニターにとあるグラフが映し出された。
「ご紹介にあずかりました水村です。皆様、お手元のモニターをご覧ください。こちらは番組スタッフの方にお願いして集計いただいたアンケートの結果です。今後10年以内に結婚を希望している女性、もしくは現在事実婚状態にある女性に対し、現行制がいいか、女性姓統一がいいか調査していただきました。事実婚状態にある女性の中には、選択的夫婦別姓の適用があるまで籍を入れないと考えていた方も含まれています」
「この結果は本当なのですか?」
モニターを凝視していた社会学者の古添が思わず水村を問い質す。
「なんの操作もしておりません」
「あなたのHPの写真は結構いじってますよね」
「お黙りなさい! こほん、話が逸れました……『賛成』と『どちらかというと賛成』の肯定的意見が実に9割を占めています。女性側だけで単独過半数に迫る勢いですね」
「しかし、男性側はどう考えているのだ。女性姓になるって要するに婿入りだろ。男としてプライドが許さんのではないのか?」
「そうだ。男は一家の大黒柱として妻と子供を支えなくてはならん。苗字を変えたりしたら世間から軽く見られたりしないか」
「それに男は普段強がっているが案外弱いんだ。自身のアイデンティティが保てなくなって、仕事にも支障が出たりせんか?」
再びこほんと咳払いをして、水村がざわついたスタジオの空気を引き締める。
「男性側の意見ですが……先に結果を申し上げますと『賛成』『どちらかというと賛成』合わせて2割強となっています」
「ほらみろ」
「男の方が物事を理性的に捉えてる能力が優れているからな。女はどうしても感情だけで動くからこんな偏った結果になるんだ」
「ですが……」
手元のモニターが切り替わり、グラフが映し出される。
「賛意がおおむね2割強と申し上げましたが、『反対』『どちらかというと反対』の否定的意見も2割程度。残りの6割弱は『どっちでもいい』となっています。結論から申し上げますと、男性側の大多数は婚姻後の姓選択に対して、あまり拘りがないように見受けられます」
「……んな!?」
「男女のアンケートを総計すると、否定的意見はわずか2割弱で過半数を超える層が女性姓統一に賛成となっています。当該制度が施行されればむしろ婚姻促進効果の方が高いのではないかと思料されます」
「まぁ、そうは言うがね」
保守派の重鎮であり、衆院当選11回を数える前官房長官の徳重茂則が意見を挟んでくる。
「あなたが示したのはテレビ局が聴取した、いちサンプル結果に過ぎない。海の物とも山の物とも分からない法案に対し結論を出そうとするには性急に過ぎるんじゃないかね」
「性急ですって?」
宝田が思わず割って入る。
徳重は宝田にじとっとした視線を向け、言い聞かせるような口調で話を続ける。
「そうだ。画期的な法案かどうか知らんが、あなた方は性急に事を進めすぎている。十七条憲法にも『夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ふべし』とあるじゃないですか。皆で議論すれば、自ずと正しい方向へ導いていける。聖徳太子の古来より、我々はそうやって議論を繰り返すことで難事を解決してきたはずですよ」
のらりくらりとずるずる結論を引き延ばし、なし崩し的に泥沼へと引きずり込むつもりだなと水村は思った。
強固な保守派の支持基盤を持つ徳重にとって、我々の主張を受け入れる余地など微塵もないのであろう。
水村はそう考えながら、宝田の方をじっと見つめる。
「はっ、なにが十七条憲法ですか。実際に存在したかどうかも分からないおっさんが作った人生訓なんかに、私は興味がありません」
衆議院の大先輩の意見を、宝田は鼻で笑って否定する。
「選択夫婦別姓について、我々はもう20年も前から議論を繰り返しています。建設的意見の交換がなされ、法案提出ぎりぎりまでいったことも少なくありません。そのたびに、あなた方のような人達が現れて、日本の伝統的価値観だとか家族の一体感だとか、とうに過ぎた議論に立ち返り、我々をスタート地点まで引きずり下ろすのです」
「家族の一体感はもっとも重要ではないか。兄弟で姓が違うなどして、子供がいじめられたらどうするんだ」
「いじめは犯罪ですね。私に依頼していただければ、刑事と民事できっちりカタにはめてやります」
水村が軽口をたたく。
徳重は水村をひとにらみすると、再び宝田に向き直る。
「どうだろう、選択的夫婦別姓や同性婚など、あなた方とはまだたくさん話し合わなければいけない事柄があると思うんだがね」
「同性婚については今はさておき、選択的夫婦別姓についてあなた方と話し合うことに私たちは疲れました。まるで出口に近づくたびに順路が組み替えられる迷路をさまよっている気分です。よって私たちは迷路の上に高速道路を開通させることにしたのです」
「それが女性姓統一論か」
「そうです。夫が妻の姓を名乗ることにより家族に一体感が生まれ、また夫は愛する女性の姓を名乗ることにより幸福感を感じることができるでしょう。子供たちが夫婦別姓でいじめられることもない。強固な家族関係を築くことができます。固い絆で地域の共同体になじんでいくことも容易でしょう。どうです? 何の問題もないじゃないですか」
「とってつけたようなことばかりぬかしおって。男性側が一方的に不利益を被ることをまるっきり無視してるではないか。それはどうするのだ」
「夫婦同姓に拘泥する限り、それはどちらかが我慢しなければならない問題じゃないんですか? って、また堂々巡りになってますね。せっかく高速道路が着工したというのに」
「そんなものは始まってはおらん!」
かくのごとく議論が延々と展開し、結局ぐだぐだになって最後は物別れに終わってしまった。
だが、この討論会が開催された影響はことのほか大きく、報道系番組としてはここ10年で最高の視聴率を記録し、その後もワイドショーや報道番組で、婚姻後の男女の姓選択問題に対し白熱した議論が展開されることとなった。
そして、女性姓統一の潮流は加速の一途となり、事態の成り行きを見守っていた中立派の与党議員たちも次々に飲み込まれていくこととなったのである。
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討論会から半年後、青年部部長の小岩井詩朗議員を中心とする若手の議員連盟からついに法改正の原案が提出された。
世論は完全に女性姓統一に傾いていることもあり、比較的スムーズに委員会を通過し衆院の本会議へと進んでいった。
一部保守層を支持基盤とする与党議員が結束して、信義妨害すれすれの行為まで行い法案に強硬に反対したが、成立過程からして不安定な連立与党ではポピュリズムの波に抗うことはできず、また公正党・国産党も法案賛成に回ったことも相俟って、実にスムーズに衆参ともに法案は通過したのである。
かくして、世界でも類も見ない女性性優遇法が東洋の島国において成立してしまったのであった。
アメリカやヨーロッパ各国でも、日本の女性姓統一ルール成立については大々的に報じられた。
ただ報道の方向性としては、好意的に報じるというよりむしろ、また日本が変なこと始めやがったなという好奇の目で見るものが大半であった。
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法の施行から半年ほどが経過し、施行前と比較して驚異的なペースで入籍件数が増加しているとの報道がなされたその夜。
都内某所の料亭では与党の支持母体である保守派団体の重鎮・権田原重吉と、前官房長官の徳重ら保守派議員との会合が行われていた。
「まったく嘆かわしい。日本男児たるものが自身の氏を捨てて婿入りが強制される世の中になるは……」
「は、まことにおっしゃる通りで」
「なにがおっしゃる通りだ。あんたら与党が不甲斐ないから、世の女どもが際限なくつけあがるんじゃないか」
「しかし、今回の法改正はあくまで時限的な措置となるかと思われます。法施行後5年ごとに社会情勢や国民意識の変化を踏まえ、必要に応じて見直す旨の附則が織り込まれていますので……」
「じゃあ5年後には元に戻るというのか! それは確実なのか! そもそも5年後にあんたらが政権与党にいる保証がどこにある?」
「全力をつくして悪法の駆逐に向けて邁進する所存です」
「は、心にもないことばかりぬかしおって。一代で築き上げた帝国が後々まで栄えていくことがワシの生き甲斐なのじゃ。帝国に後から入ってきた余所者の姓でワシの家系図が汚されていく未来など、考えただけでもぞっとするわ」
会合が始まってから延々とくだをまく老人に対し、徳重はほとほと辟易しきっていた。
(けっ、戦後のどさくさで成り上がった成金が調子に乗りやがって。大票田さえ押さえてなけりゃ、誰がこんな独善的で下品なジジイの繰り言になど付き合うものか)
徳重は内心毒づきながらも、表情には毛ほども出さず権田原の杯に日本酒を注いでいく。
「なんとか従前の形に戻すことは出来んのか? ワシの帝国だけではなく、日本を支えてきた名門家系の系譜がこのままでは滅びかねんぞ」
「従前の『夫婦どちらかの姓を称す』に戻すのは正直難しいでしょう。別姓もしくは結合性が世界の潮流です。ただでさえ日本は男女平等が周回遅れであると国連から叩かれています。今回の法案により、極端な形ではありますが日本は部分的には世界の先駆者になりました。ここで法を戻すとなると、ジェンダーギャップに対する印象が最悪になります」
「じゃあ、貴様らは何もせんというのか?」
「落としどころといたしましては……」
そう言って徳重は、グラスに手酌でワインを注ぐと、ビールをあおるように一気に飲み干す。
バカバカしい、飲まないとやってられない。
徳重は、アルコールの勢いもあって、滑らかになった舌で遠慮なくまくしたてる。
「『選択的夫婦別姓』ならば、世間の理解も得られやすいでしょう。改正は可能と考えます」
「バカか貴様は! なぜ今更、亡国派の連中がさんざ主張してきた夫婦別姓などという伝統的家族観を破壊する思想を我々が支持せねばならんのだ」
「しかし権田原先生、このままでは先生の高貴なる『権田原家』の氏が消滅してしまうかもしれないのですよ」
「それは困る」
「でしょ。今は一時の名誉よりも実を取るべきです。まずは我々が主流派に返り咲くことを第一目標とし、権力の中枢を奪取してから本来の形に立ち返ればいいのです」
「しかしなぁ……そうなるとこれは『転向』となるのではないか」
「なにをおっしゃります。これは『転向』なのではなく、言うなれば『戦略的転進』なのです。小事を捨てて大事を取るのも立派な戦術ですよ」
「そういうものなのか……」
「では我々が理想とする美しい国を目指して」
「おお、そうだな」
徳重と権田原、利害関係でつながり合ったふたりのグラスがチンと音とたててぶつかる。
高級グラスが奏でる音は美しかった。グラスに罪はないのである。
(もっとも、理想が成就する頃まであんたが生きてるとは限らんがな。まぁ、俺もそろそろ潮時かな。いい時代に議員をやれたことは幸せだったかもな)
権田原がリベラル派(主に女性)の悪口を際限なく垂れ流し続けるのを右から左へ聞き流しながら、徳重は引退後にしたいリストを心の中で編纂しつつひとりにやにやするのであった。
ー了ー
やっぱり、ディストピア小説のような気がします。