あらたな婚姻のあり方について
社会風刺小説をコメディ要素を少しだけ加えて書いてみました。
ユートピア小説になるのか、それともディストピア小説になるのか、自分ではよく分かりません。
ちなみに、この物語はフィクションであり、実在の人物や団体等とは一切関係がありません。
夜景の美しい、都内有数のスポットとして知られるシティホテルの上層階にあるレストラン。
そこで一組のカップルが食事を楽しんでいた。
「ふう、もう私お腹いっぱい」
「料理もワインもすっごく美味しかったね」
「高かったでしょ? 無理してない?」
「全然大丈夫だよ。君が喜んでくれて僕も嬉しいよ」
「もう料理終わりなのよね……」
「そうだね、デザートも食べちゃったし……」
料理を食べ終えたカップルは、落ち着かないそぶりでなんだかそわそわしている。
周囲の客達もなんとなく空気を察し、会話を控えてなりゆきを見守っている。
意を決したように、男がスーツのポケットから小さな黒い箱を取り出し、テーブルの上に置く。
「あ、あのさ!」
「な、なに?」
「これを君に」
「開けてもいいかしら」
ふたを開けると、そこには彼女の誕生石であるアメジストがはめ込まれたリングが入っていた。
「と、瞳子さん……」
「な、なあに雅弘さん」
「中瀬川瞳子ではなく、僕と同じ苗字の向井瞳子になってくれませんか!」
瞳子は感無量といった面持ちで雅弘を見つめる。
頬は上気し、うるんだ瞳は今にも涙が零れ落ちそうになっている。
「へ……返事は?」
「ありがとう、すっごく嬉しい。でも……ごめんなさい、向井瞳子にはなれないの」
「え……じゃあ、僕と結婚してくれないってこと?」
雅弘は落胆の色が混じった瞳を瞳子に向ける。
瞳子はぶんぶんと手を振って慌てて否定した。
「ううん、そうじゃないわ」
「じゃあ、どういうことなのさ」
瞳子はまっすぐに雅弘を見つめる。
「私が向井瞳子になれないのよ。なることはできないの」
「えっと、それはどういう……」
「バカね、来月1日から例の法律が施行されるでしょ」
「あ、そうか、もうそんな時期だったんだ」
「じゃあ、改めて私から言うわ。雅弘さん、『中瀬川雅弘』になってくれるかしら」
男は、気恥ずかしそうに頭をぼりぼりと書いた後、気恥ずかしそうにこう言った。
「僕は、向井雅弘は、中瀬川雅弘になります。喜んでならせていただきます」
「はい、プロポーズ大成功」
「なんだか立場が逆になっちゃったね、おかしいな」
周囲ではらはらしながら見守っていた客達からぱちぱちと拍手が送られる。
恐縮しているカップルのところに給仕が近づいてきた。
「こちらは当店からのささやかな気持ちです。ご婚約おめでとうございます」
給仕が瞳子に花束を渡す。
押さえられなくなったのか、瞳子は激しく嗚咽している。
雅弘はおろおろしながら、瞳子の肩をさすっている。
そんなカップルの様子を近くで見守っている、品のよさそうな初老の夫婦がいた。
「初々しいわね。私にもあんな頃あったわ、懐かしい」
「そんな時期あったかな」
「まぁ、憎まれ口たたくのね。来年からお小遣い減らすわよ」
「おいおい勘弁してくれ。それより、さっきのはどういうことだ」
「さっきのって?」
「女が男の苗字になるのじゃなくて、男が女の苗字になるってさ」
「あら、なにかおかしいの?」
「一般的には、女が男の苗字になるのが結婚だろ」
「別にどっちにしなきゃいけないってわけじゃないわ。夫婦のどちらかの姓にすればいいのよ」
「じゃあ男が女の姓にしなくてもいいだろ」
「じゃあ女が男の姓にしなくてもいいでしょ、違う」
「そうだけどさ……彼らみたいに、いちいち仕切り直さなくてもいいだろ」
「だからね、来月から法律が変わるのよ」
「そうだったか?」
「あなたテレビも新聞もみないものね……そうよ、来月から世界でも初めての画期的な法律が施行されるのよ」
夫人は要領を得ない夫を納得させるべく、得意そうに話し始めた。
「『夫婦は、婚姻の際に妻の姓を称しなくてはならない』、要するに、男性姓ではなく女性姓に揃えなさいってこと」
「ちょっと待て、男に選択の余地がないって……ちょっと乱暴すぎないか」
「もう法案通ってるんだもの、しょうがないわよ」
「しかし、今まではどっちか選べたんだろう」
「まぁ、”建前的”にはそうね」
「しかしなぁ、これから結婚するカップルは大変だな」
「あらどうして?」
「男は結婚したら、手続き大変じゃないか」
「なにを言ってるの? 結婚したら手続きが大変なのは当たり前でしょ。そういうものよ」
「しかしなぁ……うーん」
「あなた他人事みたいに言ってるけど、今回の法改正は遡及適用できるのよ」
「どういうことだ?」
「希望者には、施行前に婚姻している夫婦であっても変更の機会を与えるとなっているの」
「とすると、俺、佐川大二郎が……えーと……お前の旧姓なんだっけ?」
「まぁ、信じられないわこの人。私の旧姓は小幡、小幡夢子です」
「じゃあ俺が、小幡大二郎になるってか」
「どう? あなたさえよければ私の方で届け出しとくわよ」
「ちょっと待て、今回の場合は片方だけじゃなく両方姓を変更しなきゃならんだろ」
「息子と娘もね。別に1人の手間も2人も3人も大して変わらないわよ」
「しかしなあ……うーん……」
考え込んだ夫をみて、夫人はくすくすと笑う。
「冗談よ。私もさすがに面倒くさいから」
「そうか、冗談か。驚かすなよ」
「まぁ、姓を変える方法が離婚以外にもできたってこと。ふふふ……」
楽しそうに笑う夫人を見て、今後はもっと奥さんの機嫌をとっておかないと大変なことになりそうだなと、夫は警戒心を強めるのであった。
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『夫婦は、婚姻の際に妻の姓を称しなくてはならない』
この無茶な法案が通ってしまったきっかけは、先般行われた選挙結果にまでさかのぼる。
政権与党である「自助努力党」(略称「自力党」)は国家の緊急事態時に機動的な政策が打てなかったこともあって、衆議院の任期末期には著しく支持率を低下させていた。
選挙目前に総裁選で看板をすげ替え心機一転巻き返しを図ったものの、新総裁の打ち出した政策は旧態依然とのそしりを免れることができず、その結果、単独過半数どころか連立与党で過半数を維持することさえできない大敗となってしまった。
しかし、野党もここで結束することができなかった。
野党連合に消極的だった「国民の財産が第一党」(略称「国産党」)が与党からの裏工作で切り崩され、自力・公正党の与党側になびいてしまったのである。
大方の予想を裏切って、10年ぶりの政権交代が起きるどころか、自力・公正・国産の3党連立政権が成立する事態となってしまった。
野党側は納得がいかず、選挙前から自力党が頑として開示を拒んでいる「行政上の不明瞭な手続き」に関する書類をオープンにしない限り、予算審議に協力しないと強気の対抗策に出た。
そもそも成り立ちからして不安定な3党連立政権としては一定の譲歩をせざるを得ない。
かくして、従来から審議が停滞している「リベラル系の法案」を今国会で真摯に検討すると約束し、政権側はなんとか野党側の態度を軟化させることに成功したのであった。
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都内某所で行われている「選択的夫婦別姓制度の可及的導入に向けての検討会議」の議場では、有識者たちによる白熱した議論が行われていた。
「ですから、今までなんの不便もなかった制度を今更変えようとする意味が分かりません。そもそも夫婦で異なる姓を名乗るなんて考えられない。そんな家族に生まれた子供が幸せになれますか。旧来の日本の伝統である夫婦統一姓を名乗ることでこそ、家族の一体感は保たれるものなんです」
「話にならない。なんの不便もなかったとおっしゃるが、妻が男性姓に変更となることでどれだけの手続きが必要かご存じか。それに、名前というのは苗字も含めて1個のアイデンティティなんです。婚姻することにより、女性だけが一方的に自己喪失感を余儀なくされるなんて理不尽じゃないですか」
「妻が男性姓に変更をすることをまるで強制のようにおっしゃるが、民法上は『夫または妻の氏を称する』と記載があるのみです。女性側が男性姓に変更しているのはあくまで個人の選択に過ぎない。私見ですが、おそらく女性が男性の姓に変更すること自体が女性にとっての幸せなんだと思いますよ。それに、姓変更後の手続きについても旧姓使用の段階的拡大案が検討の俎上に上っています。そちらを具体的に整備することがより現実的な解決案になるんじゃないですかね」
「私見ではなく、私は現在置かれている女性の状況の話をしている。婚姻後に姓を変える女性の割合がどれぐらいか知っていますか? 96%の女性が姓変更を余儀なくされているんです。個人の選択とおっしゃられるが、実態としては選択権などないに等しいんです。あなた方のような戦前の家父長的価値観から一歩も抜け出せない封建的思想の持ち主がおられるから、日本社会の労働生産性が全く上がらないんですよ、まったく」
「なんだあんた、ここは建設的な議論をする場だぞ。感情論で個人攻撃をするとはどういうことだ!」
「感情論というなら、あんたらが言ってる日本の伝統的価値観だとか全部が感情論だろうが。いい加減世界の情勢を見て妄言ばかり吐くのはやめろ!」
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そんな侃々諤々の議論を聞くともなしに聞き流していた廣田萌絵は退屈しきっていた。
主婦インスタグラマー『もえ☆るん』として多くのフォロワーを持つ萌絵は、この有識者会議に一般市民代表として招聘されていた。
(いっつもいっつもこうなるんだよなぁ……)
そもそも、この会議は選択的夫婦別姓の導入を前提に、どのような制度設計をしていくかを検討する場であった筈である。
最初の数回は、その目的に沿って建設的と言っていい形で議論が進んでいった。
しかし、何度か会議を繰り返すたびに、そもそも論として夫婦で異なる姓を称すること自体がどうなのかというスタート地点になぜか戻ってしまうのである。
まるで、そこら中に「ふりだしに戻る」のマスがある双六をやっている気分である。いっかな前に進まない。
(早く終わんないかなぁ……ミスドでポンデリング食べて帰りたい……)
そんな萌絵の思いとは裏腹に、議論もとい中傷合戦は白熱の一途をたどっていく。
「この男尊女卑の男根主義者!」
「なんだと、似非フェミニスト! お前が家で一切家事を手伝わないとお前の嫁がブログで嘆いていたぞ」
「な、なんでそんなの読んでるんだ……というか、俺の嫁ってブログなんかやってるのか?」
「面白いことがいっぱい書いてあるぞ、お前が入った後の風呂は抜け毛の掃除が大変だそうだぞ、このハゲ」
「ハ、ハゲだけは言ってはならんだろうが!」
(ハゲかぁ……今日の晩御飯はカワハギの煮つけにしよっかな。めっちゃインスタ映えしそう)
くふふと、萌絵がひとりほくそ笑んでいると、萌絵の対面に座っていた女性の権利擁護を得意分野とする弁護士の水村真美がすっくと立ちあがった。
「山村さん、春日さん、もうそのぐらいでいいんじゃないですか」
「しかし、こいつがハゲっていうから……」
「私はすこしぐらいハゲてる男性の方が魅力的だと思いますよ」
「そ、そうなのか?」
「ええ、だって渋くてかっこいいんですもの」
ほうほう、とまんざらでもない感じで春日は自分の頭をぺたぺたと撫でる。
「ところで萌絵さんでしたっけ? あなたは先ほどの議論を聞いてなにか意見がありますか?」
野次馬的気分でいた萌絵は、いきなり話を振られて面食らった。
「へ? あたし?」
「インフルエンサーの萌絵さんですよね。なにか意見がありそうだったのでお聞きしたいのですが」
「えっと、萌絵じゃなくて『もえ☆るん』って呼んでもらっていいですか」
「……もえるんさん」
「ありがとうございます」
少し時間は稼げたが、果て困った。何をしゃべったらいいものか。
選択的夫婦別姓が導入されれば単純に選択肢が増えるし、別姓が嫌な人は同じ姓を名乗ればいいし、悪いことはないように思える。
だが、伝統的家族観を重視する人たちは、家庭内で異なる姓が存在することで家族の一体性が損なわれることを忌避している。
しかし、現状では夫婦同姓を強制することで女性の権利が著しく損なわれているそうである。
その両者を納得させられるような意見など、あるわけがないではないか。
「……えっと、今の制度だと女の人ばかりが苦労させられて、不公平なんだよね」
「現実的にはそうですね」
「じゃあ、そこを公平にするために、今度は男の人に苦労してもらったらいいんじゃないかな」
「具体的には?」
「えーと、えーっと」
萌絵は深い学識があるわけではなく、論理的な弁舌が得意なわけでもなかった。
ただ、普段から生配信を行っていることでアドリブ力だけは鍛えられていた。
「もえるんは……結婚したら、男の人が女の人の苗字に変えるようにしたらいいと思う。そしたら女の人は苦労しないし、家族で苗字も一緒だから問題ないでしょ」
萌絵の発言後、会議場内は水を打ったような静寂に包まれた。
そして、数瞬後に割れんばかりの大爆笑が巻き起こった。
「な、なにをばかなことを」
「まぁかわいいお嬢さんの考えることだ。夢があっていいじゃないか」
「異世界転生とか流行ってるけど、萌絵さんもそんな異世界に転生できるといいね」
有識者たちにとっては場を和ませる冗談に聞こえたのかもしれない。
しかし、議場が爆笑に包まれる中、ただ2人だけが縮こまる萌絵を真剣な眼差しで見つめていた。
「皆さん、そんなに笑うなんて失礼ですよ」
出席者の一人、野党第一党の労組連合党(通称「連合党」)幹事長代行・宝田蓮子が出席者たちをたしなめる。
「しかし宝田さん、冗談を言ったのなら笑うのはむしろ礼儀でしょう」
「冗談ですか……確かに面白いと私も思いました」
「でしょう」
「そうではありません。私が言いたいのは、実におもしろい提案だという意味です」
「蓮子さん、あんた今の話マジメに聞いてたのかい?」
「真面目に聞いてはいけないんですか? この会議に出席しているのは政府が招聘した有識者ばかり。その方々の発言には真摯に耳を傾けなければいけません」
「まぁ、それはそうだがね」
「宝田さん!」
水村真美がテーブルから身を乗り出さんばかりにして挙手している。
「私も、私もとても面白いと思いました!」
「でしょう」
議場内は雑然とした空気が未だ収まっていない。
時間も押しているということで、議長の宣言で会議はほどなく閉幕となった。
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「宝田さん、待ってください」
議場から立ち去ろうとしていた宝田を水村が呼び止めた。
「先ほど、面白いとおっしゃっていた件についての見解を伺いたいと思いまして」
「そう……おそらくだけど、すり合わせをする必要はそんなにないと思いますよ」
「これからの予定は」
「少し時間がありますので、ハイヤーの中でお話ししましょう」
ハイヤーに乗り込み、水村は宝田とお互いの認識を確認し合う。
連立政権から譲歩を引き出すことで開催にこぎつけた今回の選択的夫婦別姓検討の有識者会議については、すべて議事録として残すこと、それと同時に開始から終了まで会議のすべてをネット中継で公開すること。
これらが付帯条件として付けられていた。
オープンな議論が見られると国民は皆色めき立って、最初の内はネット中継をライブで張り付いて観ていた。
だが、迂遠な議論が延々と繰り返されるのを何度も見せつけられ、今ではこの中継は史上最低のリアリティショーと酷評されるまでになっている。
結論が出ない二択を延々と論じている中で、今日新たに保守リベラル両方の要望に応えた(?)第三の選択肢が提示されたのである。
中継を観ていた人達の琴線に響いたことだけは間違いない。
問題は、その提案が極端すぎることと、世界でどの国も採用しているところがないという点だ。
日本人は、他者と異なる新しいことを始めるのを極端に厭う傾向にある。
「あとは……男女平等じゃないですね。間違いなく」
「ははは、まったく平等じゃないですね。でも、男女間で偏った割合を補正するための、労働法におけるポジティブアクション的なものだと考えれば、特に問題ないかと」
「時限立法的な感じで考えると? なし崩しに恒久法にしてしまってもいいような気もするけど」
「幹事長代行、もしこれを通すとすれば、今までの議論をすべてちゃぶ台返しすることになりますが」
「いいんじゃない? 汚いおっさんの醜い争いを延々と見せられるよりは建設的でしょ」
「あとは世論がどう動くか」
「私の勘だけど、話題になることだけは間違いないわ。女の勘はよく当たるのよ」
「男女平等ですよ、幹事長代行」
「知らないわよ。プライベートまでそんな眠たいこと言ってられるかっての」
(公務中なんだけどなぁ……)
そう思ったハイヤーの運転手だったが、口には出さなかった。
[ 後編に続く ]
後半は保守リベラルの討論バトル(意外ににあっさり風味)です。