あり君とらくだ君
森の蟻塚に住む蟻のあり君が午後の仕事中にガラスのかけらを踏んで足に怪我した。痛くて歩けない程ではないが、傷口は徐々に広がり、痛みも少しずつ増してきている。そのためか、無意識の内に怪我をした足をかばっているらしく、食料を巣に運ぶのに少々手間がかかっている。そんなあり君の様子を仲間の蟻達はすれ違う度に白い目で見て通っている。
実は彼の一族には、怪我をして満足に働けない者は即刻巣を出なくてはいけない決まりがあるのだ。それはあり君の場合も例外ではなく、すぐさま仲間の蟻達に追い立てられ、逃げる様に巣を離れた。仲間の冷たい視線を背中に感じるあり君は足の傷を気遣うゆとりも余裕もなく、ひたすら遠くに行くことばかりを考えて歩きに歩いた。
だがどこにも行く当てがない。気がつけば、傷口は相当に悪化しており、ズキズキと、絶え間なく痛んだ。それでも痛みに耐えながら歩いていたのは巣のある森を離れたかったからだ。
やがて今まで来たことのない広々とした所にやって来た。海だ。まるで心の洗われるような風景にも、絶望感で自殺も考えていたあり君にはなんの感動も湧かなかった。それどころか、いっそうの事、この波間に身を投げて死んでしまおうかと、海に向かって歩き始めた。
その時、岩陰に(海の動物病院)と書かれた看板があるのにあり君は気が付いた。
ここなら怪我をなおしてくれるかもしれない。そう思ったあり君は大急ぎで病院の中に入って行った。
あり君の前に現れた先生はアザラシのあざらし先生だった。かっぷくのいい体に、ピンとはねた立派な髭をたくわえて、ゆっくり歩く姿は先生をとても名医に見せた。
「どれどれ、まーなんと痩せているんだね君は」
とあざらし先生はあり君の足を手に取り言った。それから大きな体を小さく小さく丸めて、天眼鏡を使って小さな小さなあり君の足の裏を治療してくれました。
「これでよし、治療費は後でもいいから」
治療を終えたあざらし先生はそう言って、なにやらカルテに記入している。
感謝の気持で一杯のあり君は大きな先生を見上げてお礼を言った。
するとあざらし先生は手を止めて、メガネをずらし、天眼鏡を使ってあり君をシゲシゲと観察したかとおもうとこう付け加えた。
「それにしても、君、痩せているね。だがその割には手足に比べておなかが異常にふくれている。ついでに検査しておこうか」
恩人のあざらし先生の言うことなので、あり君にはいやだなんて言えなかった。言われる通り素直に、超音波検査やら、血液検査から果ては尿検査まで、次々とにこにこ顔でこなした。
一週間後の検査結果の問い合わせの日、やって来たあり君を前にして、先生はカルテを暫くにらみ、納得のいかない表情であり君とカルテを交互に見比べ、フムーフムーと言って太い首を盛んにひねった。
そんなことをされたら誰だって気になるはず、あり君だってそうだ。
「あざらし先生、どうなんでしょうか」
おそるおそる尋ねた。
「いや、君みたいな患者を見たのは初めてだから何とも言えないが、まあ大丈夫だろう、いや、どうかな」
頼りない診断みたいだが、それも仕方がない。なぜならここは海の動物病院だからだ。あざらし先生の患者はいつも海に住む動物ばかりで、蟻の患者なんて全く初めてなのだから仕方がない。色々と検査はしたものの、あざらし先生にもよく分からなかったのだ。
それでも心の中では、あんなに細い手足なのにあの大きなお腹はあやしいと思っていた。というわけで、絶対に大丈夫なんて言えなくて、曖昧な返事になってしまったのだ。
それだと。どうしてもあり君は、カルテを見たくなったが、反対に、字の汚いあざらし先生はどんなことがあってもカルテは見せられないのだ。
仕方なくあり君は、納得のいかないまま、不安を抱えて病院を後にした。
巣に帰えろうと森に向かって歩き始めたあり君は、砂漠の方からフラフラ歩いて来るラクダを見た。気になって声を掛けると、お腹がペコペコで喉がカラカラでもう死にそうだと言た。なるほど、背中のコブが見事にしぼんでいる。
あり君は海の動物病院を教えてあげた
あんなに優しいあざらし先生の事だから、腹ペコのらくだ君に何か食べさせてくれるだろうと思ったからだ
思った通り、おいしい食べ物や飲み物をいただき、心から先生に感謝して帰ろうとしていたらくだ君に、あざらし先生がジロジロ見ながら言った。
「検査しておこうか」
あざらし先生はらくだ君の背中のペチャンコのコブが気になってしかたがなかったのだ。あざらし先生は海の動物病院の先生なので、ラクダにコブがあるなんて知らなかったのだ。それでコブが悪性しゅようでなければいいのにと思ったのだ。
先生があんまりに心配してくれるので、らくだ君もこんなのがあるのは変なのかなと思い始め治療をお願いした。
そしてついに、らくだ君の背中のコブはあざらし先生によって小さく小さく縫い縮められた。やっぱりあざらし先生は名医だとらくだ君は思った。まったく痛くなかったのだ。
らくだ君は改めて、鏡に写った自分の姿を見て、変だと思っていたコブがなくなると、もっと変だなと思いながらも、あざらし先生のやってくれた事なので、心から感謝した。
海の動物病院を出たらくだ君はお腹もすいていないのに、なんだか少しフラフラしながら家に向かって歩いていると、突然らくだ君の足元から、
「危ないじゃないか、気をつけろよ」
と怒鳴る声がした。よく見てみると、蟻のあり君が下の方から睨んでいた。そして付け加えて言いった。
「君の体何だか変だね、ラクダじゃなくなったのかい」
この言葉はショックだった。内心気にしていたからだ。らくだ君の様子に、あり君がいくら
「その方がカッコイイよ」
と言っても、らくだ君くんはずっとその場を動かない。もう家に帰る気がなくなったようだ。
「親切なあざらし先生がやってくれた事だもの、きっとそれでいいんだよ」
あり君は先生の顔を思い浮かべながら言ったが、自分も先生の言葉が気になっていることに気がついた。
「じゃ、ここで一緒に暮らそうよ。海の病院の近くに住んでいれば、安心だよ」
こうしてあり君とらくだ君は親切なあざらし先生に感謝しながら、海の動物病院のある砂浜で一緒に暮らすことにした。
いつの日か、自分たちもあざらし先生のような名医になる事を夢見て。
なれたその時は、あざらし先生の気になる団扇のような手を手術してあげたいと思っている。