♦ 番外編 女子高生とライスシャワー
「いいか、橋谷。今日のような強風は、小柄なお前には不利なようで、実はチャンスだ。長身の真岡を風よけに使え。影のように徹底マークすれば、大本命のブルボンもマックィーンだって負かせる。すなわち、ライスシャワー大作戦だ」
あたしは、インターハイの女子3000mの県予選、そのスタートラインに立ち、顧問であるリーちゃんの声を思い浮かべていた。
競馬が大好きなのはわかるが、馬に例えられてもピンっとこない。ほんと困ったもんだ。それでも、陸上部の誰もが信頼しているし大好きだ。
だから、普段は牧山先生と呼んでいるが、部活の時は29歳のよきお兄ちゃんということで親しみをこめて、理一という名からリーちゃんと呼んでいる。その呼び名が、先輩から受け継がれてきた伝統でもある。
教室でもつい「リーちゃん」と呼んでしまい、苦い顔をされるが、それはご愛敬。
視線を横に向ければ、何人かの選手の向こうに、頭ひとつ高い真岡みすずの姿が見える。
抜けているのは身長だけでなく、実力は頭ひとつどころじゃない。去年は1年生ながらインターハイチャンピオンになり、この県予選じゃ、当然敵なし。
あたしだって、最近は絶好調でタイムだってつめてきているが、彼女からしたら当然眼中になし。
彼女は真っ直ぐと前を見つめている。その目が向かっているのは全国。
なんで、こんな凄い人と同じ年に生まれちゃったのよ。どう考えたって勝てるわけないじゃん。
それはわかってる。わかってるけど……あぁ、もう!
視線を観客スタンドに向ければ、最前列に陣取った陸上部のみんなが、両手を握り合わせてくれている。
リーちゃんも引き締まった顔で、あたしを真っ直ぐと見つめている。
その顔がにやりと微笑んだ。そして、握った拳で両腕を馬の前脚のようにし、くいっと動かした。
「バカ……」
あたしは小さくつぶやく。
強い風があたしの声を流していく。
声だけじゃない。緊張も不安も流してくれたかのように消えている。
ライスシャワーって言ってたっけ。そのお馬さんになってやろうじゃないか。
そして――パンッ!
スタートの音を耳にし動きだす。
選手たちがごちゃつく中、あたしは前へ前とでていく。彼女の姿を求めながら。
真岡みすずは先頭に立っている。県予選のレベルなら、強風だろうがなんだろうが、そのまま押し切れるということだろう。
あたしは彼女の真後ろにつけた。スタートからの入りはゆったりしているので、周りは選手たちに囲まれている。まるで通学の混み合うあのバスのようで、背がちっちゃいと息苦しい。それを思い出せる。
っていうか、そんなもんじゃない。気を抜いたら、本当におしつぶされそうだ。とにかく、目の前にみえるこの背中を見つめ、追い続けるしかない。
トラックは正面が追い風で、向こう正面が向かい風になっている。相変わらず強い風が吹き続けている。
そんな中、正面に戻ってくるごとに、みんなの「侑花!」という声が聞こえてくる。どこよりも大きな声援が迎えてくれて、送り出してくれる。
だから、あたしは目の前の背中を追い続ける。追い続ける。追い続ける。
いつしか、周りから気配が感じられなくなっている。
彼女が周回遅れになった選手を避けて、外側に移れば、あたしもぴったりとその後を追う。影のように。
正面に戻り、あと2周のプレートが見えたところで、彼女がちらりと振り返った。
一瞬見せた驚いたような表情は、ついてきている人などいないと思っていたからなのか。
それはわからないけど、彼女の闘志に火をつけてしまったことは確かなようだ。
明らかにペースが上がっている。
あたしも足に腕に体に力をこめる。必死にくらいついていく。
息が――苦しい。
正面に戻ってくると、最終周を告げる鐘の音が聞こえてくる。
苦しい。苦しい。苦しい。
「侑花!」「侑花!」「ラスト!」「行け!」「橋谷! 行ったれ!」
鐘の音をも弾き飛ばすように、いくつもの声が聞こえてくる。
その声が胸の中で響き、奥から何かが沸き立ち、体全体に広がっていく。
ふうーっと、なんだか音が消えていく。
無音の中で、視界には背中だけが見えている。
無音の中から聞こえてくる彼女の息遣い。そして、あたしの息遣い。
重なり合い、彼女の息遣いがはやまっていく。
目の前に背中は――ない。
あたしだけの息遣い。
弾けたように音が蘇る。
歓声と拍手。
足を止めて振り返れば、視線の先に見えるみんなが拳を振り上げて、笑顔が弾けている。
りーちゃんが誰よりも大きなガッツポーズで何かを叫んでいる。
その姿が――
霧に飲み込まれるように消えていく。
ゆっくりと目に映ってくる白い天井。
夢……?
眠りから覚めれば、病院のベッドにいるという現実が圧し掛かってくる。
もう、あの頃には戻れない。その思いが広がり、心を支配していく。
もう、思いっきり走るなんてできない。
あたしはこのまま……。
あの後、県の代表として挑んだインターハイは、去年のチャンピオンに勝ってきたということで注目されていたが4位という結果だった。
スタートのごちゃつきの中で転倒してしまったなかで、4位まで追い上げられたのは悔しいが力は出しきれた。
来年、もう一度彼女に勝ってこの場所に。そんな思いが強くなっていた。
だけど、あの時にはすでに、何かがあたしの体の中でうごめきだしていた。
インターハイ後は、思うようにタイムが出せなくなっていた。
燃え尽き症候群などと周りからは冗談交じりで言われ、自分でもそんな感じなのかと軽く思っていた。
気持ちの問題なのだと……。
冬シーズンになると、あたしたち陸上部の中長距離メンバーは駅伝がメインになってくる。
まずは10月の県予選突破を目指し、12月末の都大路(京都)への切符をとりにいく。
県予選が目前になっても調子は上がらなかったが、顧問であるリーちゃんもみんなも、あたしを信じてメンバーに選んでくれた。しかもエース区間である1区に。
目を閉じれば、苦しみとともに、あの時のことが蘇ってくる。
予選会のスタートラインに立つと視線を感じ、目を向ければ、睨むような鋭い眼差しがそこにある。
インターハイ予選の時は、前だけを見ていた真岡みすずが、あたしを見つめている。
あたしは逃げるように視線をそらしていた。
今の自分に自信がない。不安で不安で体が震えだしそうだ。みんなの姿を求めるが、ここからは誰の姿も見えない。声も……。
視線が落ちていく。
とその時、目に止まる黄色い――たすき。
そこには学校名がある。裏には控えの選手たちも含めて、みんなのメッセージがある。
あたしの書いた文字も――みんなで一緒に。
たすきをぐっと握りしめた。
スタートの合図が鳴ると迷うことなく飛び出す。そして、彼女の横に並んだ。
彼女の目がちらりと、あたしに向かってくる。視線が合うと、どこか楽しげな表情を浮かべ、その目は前へと戻っていく。
残り1キロの表示が目に止まる。
体が重い。息が苦しい。
目の前の背中に離されまいと、必死にくらいつくが……。
彼女が、後ろを振り返った。
そこにある目が訴えかてくる――こんなもんなの。こんなもんじゃないでしょ!
悲し気な中に、怒りさえ浮かぶ目があたしを見つめている。
あたしは……あたしはこんなもんじゃない!
腕振り、足を蹴り上げる。
だけど、
だけど、
だけど、体が動いてくれない。
何か言いたげに動いた彼女の口が、強く結ばれ、視線がはなれていく。
背中はみるみる小さくなっていき、やがて、後ろからは足音が聞こえてきた。
ひとり抜かれ、次の足音も聞こえてくる。
止まりかける足。だけど――無意識のうちに手は胸元にある。たすきを握りしめている。
一歩一歩でもいい。とにかく足だけは動かさなきゃ。絶対に。
霞ゆく視界の中に2区を走る菜子ちゃんの姿が見える。だけど、その姿がぼやけていく。
肩からはずしたこのたすきだけは……。だけど、もう真っ白だ。
「侑花! あと少し! がんばれ!」
聞こえてくる声。もがきながらも、その場所へ。
気づかぬうちに涙が目尻から流れていく。
結局、菜子ちゃんに5番手でたすきをつなぐことはでき、みんなが追い上げてくれて3着に入ることができた。
創部以来、初めての表彰台だったのに……ごめんね。ほんとごめんね。あたしが、気を失ってそのまま病院に運ばれちゃったから……。
残っているみんなの写真に笑顔がなく、あたしに付き添ってくれたりーちゃんの姿もそこにはなかった。
あれから一度は退院したけど、あらためて精密検査があり、そのまま入院となっている。
きっと、もうあたしは……。
目を閉じれば、彼女のあの目が浮かんでくる。
もう一度、彼女と走りたい。思いっきり走りたい。
涙が次々とあふれてくる。
「おーい!」、病室の入口のほうから声が聞こえ、「調子はどうだい?」
明るい声で入ってきたりーちゃんは、「テレビって見られるかい? 悪りいけど、もうすぐ有馬記念なんだよ」




