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アイドルジョッキー馬になる  作者: ゆらゆらゆらり
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信一 ♠ 不穏なトップ会議

 朝調教を終えたユッカの体を洗い終えると、こいつは狙いすませたように体を振りやがる。

 犬のようにぶるっとやれば、当然のように水しぶきが飛んでくるが、毎日のこととなれば、こっちも慣れたもの。

 10月に入っても朝といってもそれほど寒いわけではないし、お湯にもしているので、はいはい、といった感じで、軽ーくスルー。


『相変わらず、乗りが悪い男だよ』


 そんな声が聞こえるが無視無視。

 ぼやきながらも、どうせまた明日も同じことしてきやがる。

 明日は逆に、「やっ、やめろよ」なんてオーバーに反応してやるのも面白いかもしれない。


 体を拭いてやるのにタオルを手にすると、まなっちゃんの姿が目に止まった。

 調教を終えて戻ってきたようだ。

 今日も、自厩舎のユッカに、ヒメ、モハンの他にも、他厩舎の馬の調教もこなしている。

 来月には元中央の3歳未勝利馬が我が厩舎にやってくることになっている。

 良血馬で期待されていたようだが、なかなかのクセ馬で、気性に問題があるらしく、手がかかりそうなやつらしい。


「お疲れさん」


 そう声をかけると、まなっちゃんは、「お疲れ様です。あとは、わたしがやっておきますから。厩舎のほうに向かってください」


 そう。すぐにでも厩舎に向かわなくてはならない。すでに馬主さんが来ている。


「大丈夫、大丈夫。あとは適当に拭いて、ちゃちゃっとブラッシングするだけだから」


 そう言った瞬間、『おいっ!』と聞こえ、がぶりと肩へ。

 本気の噛みではないが、馬の軽くは、けっこう痛い。


『適当ってどういうことよ!』

「ほんの冗談だって」


 まなっちゃんには、ユッカの声は聞こえていないはずだが、俺たちのそんなやりとりに微笑んでいる。


「わたしが、ちゃんと綺麗にしてあげるからね」


 そう言って手をだしてきたまなっちゃんに、「じゃあ、悪いけど後はよろしくね」とタオルを渡す。

 そして、その場を後にしようと歩きだしかけ、振り返った。


「やっぱり、まなっちゃんも一緒に行かないかい?」


 これまで、何度も同じことを言っている。だけど、今もまなっちゃんは首を小さく横に振った。


 馬主が今日来ているのは、次のレースに向けての騎手に関してだ。反対君が騎手に不満を感じているのを、前走のレース後もそれとなく口にしていた。

 まなっちゃんにも、そのことはなんとなく伝わっている。

 だから、いつもならトップ会議に参加しているのに、不安を押し隠しながらぎこちない笑顔で、「わたしは決まったことに従うだけですから」と言いつづけていた。


 まなっちゃんは、にこりと笑顔を作り、ユッカの体を拭き始めた。

 その固い笑顔に、俺はぐっと拳を握った。


 改めて思う――その笑顔を本物の笑顔にしなくちゃならない。


 ユッカから声が飛んでくる。『信一! 頼んだぞ』


 握った拳に力が入る。

 ぐいっと力を込めてうなずき、向きを変えて大きく足を踏み出した。





【厩舎・和室】


 俺とヤマさんの前には、座卓を挟んで馬主である会社の反対君こと岡谷さんの姿がある。

 先生は窓際で俺たちに背を向けて、ウルルンを抱きながら日向ぼっこといった感じだ。


 反対君は馬のことは全て自分に一任されていると前置きすると、「率直に言います。騎手変更をお願いします」


 わかっていたことだが、はっきり言われると心臓はきゅっと縮まる。


 俺はすぐに反論したが、反対君には届かない。そして、反対君は、

「我々が次に目指すのはG1です。中向騎手では荷が重すぎます。それはオークスではっきりしたことでもあります」


「あれは……」


 言いたいことは山ほどある。だけど、説明のしようがない。どう伝えたらいいのかわからない。

 だけど、ひとつだけはっきりしている。


「あの時は騎手の問題ではなく、馬の状態の問題だったので」


「まあ、確かにそれは聞いています。フローラステークスの後、疲れなのか元気がないとのことでしたよね。それをどうしても出走させてくれと言ったのは私どもですが、それでもあんなに惨敗したのは騎手にも問題があったのではないですか」


「そんなわけがない!」


 思わず言葉に力が入ってしまった。

 ヤマさんにたしなめられ、次の言葉を飲み込んで唇を噛んだ。


「では、それを置いといたとしても前走です。レース前に落馬した上に、レースでも鞭を落とすという致命的なミスを犯しているんです」


 それについてはユッカから聞いている。すべてはルシュアジェシーノの競争除外で精神が不安定になってしまったせいだ。自分でもわからないくらい動揺してしまったと言っていた。

 そのユッカの気持ちを、目の前のこの人に伝えられないのが、もどかしい。


「あれは馬が急に暴れてどうしようもなかったことだし、それで手を怪我をしてしまったから鞭を落としてしまったんです」


「それもこれも騎手の技量の問題じゃないんですか。それに怪我の影響がまだ残っているんじゃないですか」


 思わず、腰が浮いて前のめりに。

 ヤマさんに服の肘辺りを握られ、自分の体も気持ちもぐっと抑える。声もおさえて、噛み締めるように

「怪我は問題ありません。先週からレースにも乗っていますし、勝ち星もあげています」


「だとしても、鞭は怪我どうこうじゃなくて、その前にもレースで落としてましたよね」


 違う、違う! フローラステークスはあれがあったこそユッカは勝つことができたんだ。


 握った拳で自分の腿をなぐりつけた。説明できないことが多すぎて、悔しさとなってこみ上げてくる。


 反対君の視線は俺からはなれ、ヤマさんへと向い、改まった口調で

「小野山先生。あなたや竹川先生が所属騎手を起用しつづけていることは存じています。それでも騎手変更をお願いします」


 口を挟もうとする俺を、ヤマさんのすっと手でおさえた。そして、腕を組むと、うーん、と唸り、

「中向はいい騎手です」


 誰からも声が聞こえず、時が流れていく。


 その沈黙を破ったのは、反対君のため息のように聞こえてくる声だった。


「あんな馬に出会うなんて特別なことだと、モハンをもってみて、つくづく思うんです。競争馬は血統や価格だけじゃないって」


 モハンは期待してデビューを迎えたが惨敗し、巻き返しをはかった先日のレースも着外に終わっていた。


「G1なんて、ほんと奇跡のようなことだって。だからこそ、最善をつくしたと思うんです。後悔しないようにできることは全てしたいんです」


 その言葉に俺は、

「だからこそ、まなっちゃん、中向真夏なんです。ユッカの力を誰よりもだせるのは彼女なんです」


「そうでしょうか。彼女からは気持ちが感じられない。前走にしても、ただただ謝るだけで、自信のなさがそこに表れている。そんな姿に全てを託すなんてできますか」


 違う。まなっちゃんの中にも熱いものは確かにある。

 そう言っても、反対君に届かない。


「要するに確率の問題です。一流騎手に乗ってもらったほうが勝つ確率は高くなる。すなわち、どんな結果であれ、そのほうが納得できるということです」


 そんなんじゃ、そんなんじゃない。


 また、沈黙だけが流れていく。


 その沈黙を破ったのは、ニャー、という鳴き声だった。


 窓際には、気持ちよさげに丸まるウルルンだけ? いつのまにどこに行ったのか、先生の姿が見当たらない。 


 ふと、気付く。

 反対君の視線が俺たちじゃないほうに向いていることに。

 その視線を追うように後ろを振り返れば、開いた引き戸に先生の姿が。

 先生が身を横によけるようにすると、そこにはまなっちゃんの姿がある。先生に背中を軽く押されるようにして、一歩前に出た彼女は視線を下に落としている。


 先生の優しい声が聞こえてくる。

「真夏君。胸の思いは言葉にしないと伝わらいこともある。君がどうしても乗りたいのなら」

 先生はまなっちゃんの背中を押してあげるように軽くポンポンと優しく2度叩いた。


 下を向いたままのまなっちゃんから声が、「わたしは……」

 ゆっくりと顔を上げ、反対君を真っ直ぐ見つめて、「乗りたいです」

 彼女の熱い思いが、瞳からぽろりと落ちる。


 そして、深々と頭を下げながら、力強い言葉が、「お願いします」


 俺は立ち上がると、横に並んで頭下げる。「お願いします」

 ヤマさんも横に並んで頭を下げている。


 気配を感じて、頭を上げると、反対君が目の前に。


「ちょっと、そこを開けてもらえますか。そこを通らないと帰れませんから」


 俺たちは言われるがままに、2つに分かれるようになり、道を作っていた。

 反対君はそこを通り、廊下のほうへ。そして、玄関のほうに向かっている。その背中に声を飛ばす。


「あのう」


 呼び止めに応じるように反対君の足は止まり、振り返ると、「あとは、よろしくお願いします」


 これって……?


 俺たちは思わず顔を見合わせた。

 俺はすぐに反対君へと顔を戻し、「騎手は中向真夏でよいということですか」


 反対君の視線は俺ではなく、まなっちゃんのほうへ向かい、「頼みましたよ」


 まなっちゃんは、「ありがとうございます」と頭を下げ、俺とヤマさんはガッツポーズ。先生もニコニコ顔だ。

 ちょこんと横にきていたウルルンも、ニャーとひと鳴き。


 俺は反対君へと駆け寄って、「さっきは生意気なことばかり言ってすいません」などと調子のいいことを言って、靴ベラなんか渡している。



 これで不安なことなど何もない。あとは秋華賞に向けて全力で挑むだけだ。





 ユッカのところに報告にいくと、大喜びで、「よくやった。信一」

 相変わらずの上から目線が鼻につく。


 さらに、ユッカはぼそりとつぶやいていた。

『今度こそ今度こそ、アイツと一緒に思いっきり走れる』


 ユッカの中で、俺にはわからない何かがあるのかもしれない。


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