信一 ♠ 光差す直線の輝き
ヤマさんは今日もパドックのあとは、すぐにその場を後にし、馬主さんたちがいるスタンドに向かっていた。
引き綱を抜くと、ユッカは気持ちよさそうに馬場の外めを、向こう正面のほうへとゆっくり走っていく。
本馬場へと送り出した俺にできることは、無事に戻って来てくれることを祈って待つしかない。
引き綱を手に俺たち厩務員は、検量場横でモニター画面を見つめている。
そのモニター画面には待機場で輪乗りする馬たち。
ユッカはゆっくりと待機場に向かっているのか、そこに姿は見当たらない。
とその時、聞こえてきた場内放送に、誰とはいわず言葉にならない声が漏れ、異様な空気が広がっていった。
ルシュアジェシーノの競争除外
スタンドからもどよめき、ざわめきがひしひしと伝わってくる。
俺は、ただただ呆然と立ち尽くしていた。思いもよらぬことに頭がまわらない。
画面に映る騎手たちにも場内放送は聞こえているはずで、動揺が広がっているように見える。
ユッカは? まなっちゃんは?
次々映し出される馬を目で追うが、やはりまなっちゃんとユッカが映ってこない。
しっかり芝の感触とコースを確認しながら、待機場に向かうと言っていたが、それにしても遅すぎる。
そこで再び場内放送が耳へと届いてくる。聞こえてきた言葉が、ドクンッと激しく胸を打つ。繰り返された言葉に、胸がドクドクと苦しいほど波打っている。
ユッカが馬体検査……。
俺は思わず馬場のほうに走り寄っていた。放馬という言葉に、その姿をさがし求めたが、走る姿は見当たらない。
ユッカにもルシュアジェシーノが競争除外になったという放送が聞こえたとすると……。
踵を返してモニターに駆け寄ると、係員の腕を借りて、担がれるようにユッカへと跨るまなっちゃんの姿が映っている。
そして、まなっちゃんを背にしたユッカは、引き綱を持つ係員に引かれながら円を描くように歩いている。近くには審判員の姿もある。
何がどうなったのかわからない。ただ、検査されていることは間違いない。
こんなところにいる自分がもどかしい。すぐにでもその場に行ってこの目で確かめたい。
「ユッカ……」
どうやらユッカの引き綱をはずしたようだ。まなっちゃんを背にゆっくりと歩をすすめる姿が映っている。
鞍がはずされていないということは大丈夫ということか。
すぐに場内放送が聞こえ、『人馬ともに異常はなく、このまま出走いたします』というが、嫌な胸騒ぎがとまらない。
何があってどうなったというのだ。何もわからない。だから、不安で不安でたまらない。
それでも二人が戦いに挑むというなら、俺にはできるのは応援することしかない――がんばってくれ!
【スタートのその時】
画面に目を向け、6枠9番だけをじっと見つめる。
ゲートが開き、緑の帽子は出遅れなくスタートをきっている。まなっちゃんは仕掛けることなく、ユッカの行く気にまかせて流している感じだ。
マークするはずだったルシュアジェシーノがいないことで、どういう競馬にするのか。強敵になるのは――赤い帽子は中段からの競馬か。モンマリニーナも仕掛けることなく、馬の行く気にまかせている。
スローになりそうな雰囲気の中、すんなりハナにたっていく馬が。
やはり早いのはゴリンダリンダか。
馬なりのままでも、後続との差が離れていく。
他の馬は固まった馬群のまま、長い向こう正面を流れていくのだろうか。
画面がゴリンダリンダから後方の馬たちへと映し出していく。
ユッカは――外へとだしたモンマリニーナを見る形の後方外側。
ルシェではないが、モンマリをマークする形は悪くない。上手くついていければ、末脚の切れ味なら負けていない。叩き合いでの勝負根性も望むところだ。
【3、4コーナー】
1頭だけが抜け出したまま、3コーナーに入っても差はつまらない。
気付けば、不安がじわじわと広がっている自分がいる。
確かにゴリンダリンダはオークスでも逃げて直線はバタバタになっている。それ以来のレースでもあるので、騎手たちにはゴリンダリンダに対して警戒する意識はあまりないのないかもしれない。
彼らの意識の中にあるのはモンマリニーナ。モンマリはどっしり構えて動かない。
画面に表示された1000Ⅿの通過タイム――59.2
早くはない。それでも後続には6、7馬身の差
まなっちゃん! ヤバいぞ!
思わずで胸の中で、画面に向かって叫んでいる。
このままでは逃げ切られる。間違いなくゴリンダリンダも逃げ馬のこわさを秘めている。
画面が再び前から後ろへと映し出していく。
ユッカは?
よしっ!
俺の思いが届いたくれたのか、まなっちゃんの手が動き始めている。
ユッカの仕掛けてとしては明らかに早い。それでも、今のユッカならなんとかなる。
最後方まで映した画面は後ろから前へと向かって行く。
他の騎手たちも、ペースの遅さを感じとったのか、手を動かしている。
だが、ゴリンダリンダとの差がつまらない。騎手の手が激しく動いているのに、それでも差がつまっていかない。
オークスでは後続を待って並ばれると脆かったから、自らも仕掛けて勝負にきたのか。
しかも、あのオークスとは違って今回はスタートから競られることなく楽にハナに立っていた。
それだけに――ヤバい! ヤバすぎる!
画面に映し出された1頭。馬群を抜け出し、置き去りにする馬が。
そのモンマリニーナの後を追いかけてくれば、いけるはず。
だが、ついてきている馬は――いない。
ユッカ……。ユッカはどこだ。
直線に入るところで引きの画で全体が映し出された。
ユッカは――馬群の大外最後方。鞭も飛んでいるように見えるが、反応していない。
やはり、放馬した時、何かあったのか。状況も何もわからないだけに不安だけが大きく大きく膨らんでいく。
まなっちゃんが右手を振り上げ、鞭を振り下ろす。
その姿に唇を噛み締めた。
残り300Ⅿになろうというところで、鞭を激しく使うということは明らかに異変が起きている。
今までなら肩に合図の鞭を見せるだけで、ユッカは手前をかえて、ギヤを上げられる。それが、今は……。
まなっちゃんはもう一度、腕を大きく振り上げた。その瞬間、何かが。
鞭……?
鞭を落としちまったのか。ユッカが反応してくれなくて、動揺しちまっているのかもしれない。
画面が抜け出している2頭に寄るように迫っていく。
完全な一騎討ち。
それでも手応えの差は明らかだ。激しく鞭が飛ぶゴリンダリンダに、モンマリ二ーナが楽な手応えに並びかけていく。
残り100Ⅿで抜け出したところで大歓声がスタンドから届いてくる。
終わった――2着までに入れなかったことで先はない。それでもいい。とにく無事に戻ってきてほしい。
モンマリ二ーナが1馬身、2馬身と差をつけ余裕の勝利――何故だか、騎手が激しく鞭を入れ始めた?
大歓声。大歓声。大歓声。
何かが起こっている。
画面が慌ててたように引いていく。
映し出された影。
そして、輝く光となったように外ラチ近くを流れていった。
【レース後の検量室前】
「お疲れさん」
ユッカに引き綱を通し、馬上に向けてそう声をかけると、小さな声が、「すいません」
まなっちゃんの声に、視界の片隅に映る電光掲示板の数字が存在感を増していく。
勢いでは完全に勝っていた。それでも頭差だけ足りなかった。あと一完歩あれば……。
ユッカからも声が、
『アタシのせい。アタシがレースに集中できてなかったから。それに振り落としちゃったから……』
その声が萎んでいく。
馬上からおりたまなっちゃんに、ユッカが顔を寄せていく。『ごめん、ごめんね』と涙声で繰り返しながら。
ユッカが見つめる先へと、俺の視線も。
「まなっちゃん。その手」
俺の声に、まなっちゃんは右手を隠すように背中のほうへと回した。一目で腫れているとわかるその手を。
視線が落ちていくまなっちゃん。
何があったか、はっきりわかったわけじゃない。sれでも、なんとなくわかった気がする。
俺は引き綱を自分の肩に担ぐようにかけると、ユッカの横にいき、首を軽く叩きながら、「このバカたれが」
そして、鞍帯をゆるめて鞍を外すと、そっと声をかけた。「お疲れさん」
後ろを振り返れば、顔を上げたまなっちゃんと目が合い、「持てるかい?」
うなずいたまなっちゃんの左腕にかけるように鞍を置く。赤く腫れあがる右手が見え、くっと胸がつまるように痛んだ。
「ほんと、がんばったな」
俺の声に、まなっちゃんは小さく首を横に振り、両腕で鞍を抱えるように持ち、後検量に向かって行く。
俺はその背中を呼び止めた。
「まなっちゃん。君とユッカが頑張ってくれたから」、自然とあふれる思いで言葉に力が入る。「俺たちには次がある」
小さくだが、しっかりとうなずいてくれたまなっちゃんが、建物へと消えていく。




