真夏 ♡ 暗雲は突然に
本馬場入場後、ユッカは芝の感触を確かめるように、馬場の外側を流しながら駆けていき、ゆっくりスピードを落としている。
返し馬の感じは軽快で、馬上のわたしにも調子のよさが伝わってくる。
「調子はよさそうだね」
そう声をかけたが、ユッカから声は聞こえてこない。
大前(信一)さんや雪香ちゃんとは話せるのに、やっぱりわたしは……。
なんで、なんで、わたしにはユッカの声が聞こえないの。悲しけど……それが現実。
だけど、わたしの声は、ユッカにちゃんと届いている。雪香ちゃんじゃなく、ユッカはユッカでも、声はちゃんと届いている。
今も、わたしの声にうなずいてくれた。
本当に調子がいいのだろう。リズミカルに歩く姿からは、鼻歌でも聞こえてきそうだ。
これならやれる。ルシュアジェシーノは相手だって、きっと――
他馬が輪乗りしている待機場に向かっていると、待機場にある屋外スピーカーからの声が、『――は馬場入場後、馬体に故障が発生し、この競争から除外いたします』
えっ? 除外?
馬名がよく聞き取れなかったが、ぼんやり聞こえた響きに胸騒ぎがしている。
ユッカにも声が届いていることだろう。何があったと、わたしに尋ねようとでもするように頭を横へとひねっている。
輪乗りに近づいていくと、騎手たちの声が聞こえてきた。戸惑いに満ちたその声が。
その声を耳に、無意識のうちに輪乗りの前でユッカを止め、まさか、の思いとともに視線をめぐらせていた。
姿が――見当たらない。
誰かに確かめたいのが、とその時、目の前を通る騎手と目が合った。唯一、心が許せる中央の騎手かもしれない彼の横に並び、輪乗りに加わる。
内戸さんは元大井の騎手で、小林の厩舎を訪れてくれたこともあって、アドバイスもくれていた。
「すいません、内戸さん。除外になった馬って、もしかして、ルシュアジェシーノですか?」
内戸さんは小さくうなずくと、「どうしたんだろうね。たいしたことなければいいけど」
強敵がいなくなり、あからさまに喜んでいる騎手もいる中で、内戸さんは顔を曇らせている。心から馬を案じていることが、その顔にあらわれている。
ルシュア……どうしちゃったの?
心のつぶやきが震えている。
ルシュアジェシーノともう一度走ることを目標に、厩舎が一丸となって、今日までがんばってきた。
そんな彼女が――いない。
とその時、ぐいっと手綱が動いた。
ユッカが向きを変えて、輪乗りから離れるように歩きだしている。
手綱を引いてもユッカは止まらない。
もしかして……。
ユッカが歩きだした方向は、まさに今走ってきたところ。まさか、戻ろうというの?
ユッカにはわたしたち以上に、ルシュアジェシーノに対する思いがある。
馬房には、大前さんに頼んだというルシュアジェシーノがオークスを勝った瞬間の写真が貼ってある。その横には紙に書かれた墨文字――打倒ルシュアジェシーノ
そんなルシュアジェシーノが――いない。
ユッカの体は小刻みに震えている。まるで、噴火しそうなものを抑え込むように。
「ユッカ。止まって」
声をかけても届かない。脚を止めることなく、怒りをぶつけるように一歩、一歩踏みつけている。
手綱を強く引いても止まらない。
「ユッカ! 止まって」
腰を上げて、鐙に立つような体勢でさらに強く手綱を引いた。
それでも、ユッカは口を割りながらも脚を止めない。
お願い止まって――その思いで、体重を後ろにかけるように、さらに手綱を引く。
ユッカは自分でもどうすることもできない感情に我を忘れている。首をそらせながらも止まらない。さらに首を大きく左右に振った。
バランスが崩れる。足が鐙から外れちゃう。そう思った瞬間、ユッカが首を前へと振り下ろした。手綱もろとも、わたしの体も前へ。
気づけば、芝に叩きつけられていた。
ふと、頬に温かなものが。鼻づらを寄せてくるユッカの顔が目の前にある。正気を取り戻してくれたのか、心配してくれているように見える。
ユッカの鼻づらをなでながら、「きっと、ルシュアジェシーノは大丈夫。秋華賞には戻って来るよ」
声は届いたのか、ユッカはわたしをじっと見つめている。今、何を思っているのか。声が聞けたなら……。
「ねえ、ユッカ。もう一度、ルシュアと闘うためには、今日がんばるしかない。そうでなければ、わたしたちには次がないんだよ」
言葉がちゃんと届いてくれたのかどうか、ユッカは顔を上げ、遠くを見つめている。
視線の先にある観客スタンド。さらにその先の馬房。ユッカの頭にはルシュアジェシーノの姿が浮かんでいるのだろうか。
ふと、視界に駆け寄ってくる姿が。
2人の係員が近づいてくると、ひとりはユッカの手綱をつかみ、もう一人はわたしへ、「大丈夫ですか」
その声に、「大丈夫です」とうなずいて見せ、転がり落ちているスッテキを手にとって立ち上がった。
だが、手にとったはずのスッテキが芝に落ちている。
再び、腰をかがめて右の手に――握った瞬間、痛みが走り、力が入らない。
係員の視線を感じる。そして、もうひとつ。ユッカもわたしを見ている。
奥歯を噛み締め、握り持つ。
じんじんとした痛みが駆け巡る。
きっと、落馬した時に、手をついてしまったのか。
騎手負傷ということになれば、今だとユッカまで競争除外の可能性もでてくる。
だからこそ、痛いなんて顔はできない。
係員の再びの声に、「大丈夫です」と平然そした顔を作ってみせる。
そして、彼の腕をかりて、ユッカの背にまたがった。
もう一人、審判員が加わり、引き綱をとおしたユッカを係員が円を描くように歩かせ、馬体と歩様を確認している。
ユッカはされるがままといった感じで、戻ろうというそぶりは見せない。
走る気になってくれたのか。どういう気持ちなのかはわからない。ただ、少し前までとは明らかに違っている。
体全体から満ち溢れていたものが消えている。
その姿に、わたしの胸には不安が広がっている。
手の痛みが増してきていることが不安をさらに大きく――




