信一 ♠ 不穏なパドック
【9月某日 ローズステークス・パドック】
装鞍所ではルシュアジェシーノの姿を目にし、ユッカは睨みつけならが、『アイツ! アタシなんて眼中にないってか』と怒りをあらわにしていた。だが、パドックに入ってからは落ち着いている。
いや、落ち着いてはいないか。キョロキョロと目ではなく、首を動かしている。
考えてみれば、ユッカがユッカとしてパドックを歩くのは初めてのことだ。しかも、溢れんばかりの人がパドックを見つめている。
俺とヤマさんだって3度目の中央なのに、相変わらず緊張している。
だが、こいつはただ者じゃなかった。
あっという間にこの状況にも慣れ、それどころか調子に乗っていやがる。
レッドカーペットを歩く女優のように、前脚が手なら振りながら笑顔で歩いている感じだ。
あんなに敵意をむき出しにしていたルシュアジェシーノも、とりあえず今は目に入っていないという感じだ。
そのルシュアジェシーノに目を向ければ、いつものようにのんびりとした優雅な歩き。
だが、その姿に違和感を覚える自分がいる。
思えば、オークスの時もパッドクでその姿を目にしていたが、その時も優雅に歩いている感じではあった。
だが、今は何かが違う。優雅というより力感がない。
装鞍所の時も、ユッカを無視したというより、何も目に映っていないという感じだった。
ひと夏超えて、精神面が成長して、さらに大人になったといことなのか。
一時は海外挑戦の話があって、この夏はオーナーであるクラブ所有の施設で鍛え上げられていたようだが、今年は国内に専念することになったという。
なんにしても、体はオークスの時と変わらないように見え、仕上がりは問題なさそうだが……。
だが、何かが……なんだろう? 胸にひっかかるこれは……。
得体の知れない何かに、ぶるっと体が震えた。
そんな俺とは対照的にユッカは、ますます脚どりが弾むようになっている。まるで自信に満ちた売れっ子スターのように。
まさに、その根底には自信があるということだろう。
ここまで、本当に順調にこられた。
体だって見違えるように大きくなっている。牧場で甘やかされてフルーツの食べ過ぎだった体は、先生との朝夕の散歩で無駄肉はなくなっているし、まなっちゃんとの乗り込みで筋肉もついている。
坂路での最終追い切りでも、ヒメとの併せ馬で追いかける形から、楽に抜け出していた。
キラット(末脚)のあの切れは健在だ。
それだけハードに鍛えても何の問題もない体にもなっている。
しかも今日の馬体重はプラス28キロ。オークスで10キロ近く減らしていたが、今日は432キロとまさに成長を物語っている。
ユッカの自信に満ちた姿は馬体重以上に体を大きく見せ、俺の心から得体の知れない不安も消していく。
それでも――ふぅーっと息を吐き、気を引き締める。
敵はルシュアジェシーノだけじゃない。オークス3着馬のモンマリニーナも順調に夏を越してきたといった感じで、気持ちよさげに周回している。
強敵はこの2頭で間違いないだろう。この馬たちを避けるように、他の有力馬は先週の紫苑ステークスに出走していた。
とはいっても、夏の上がり馬もいて、他馬も侮れない。
それより何より、あの2頭のどちらかに先着しないかぎり先はない。地方馬のユッカにとったら、2着までにはいって優先出走権をとることが必要最低条件となっている。
厳しいことは確かだ。それでも今のユッカなら、きっと――
係り員の「止まーれ」の掛け声が聞こえ、まなっちゃんの姿が目に映ってくる。緊張感の中にも自信に満ちた顔がここにもある。




