アタシ ☆彡 あの場所へ~アイツと戦うために
蝉の声が、やけに大きく響き渡る。あっちからもこっちからも。
蝉だって懸命に生きている。わかるよ。わかってるよ。蝉は悪くないよ。だけど……だけど、今日だけはうっさいなんてことを言いたくなっちゃうわけよ。
柵の向こうでは、でっかい扇風機が休むことなく動きつづけている。
いつもなら暑さでいらついているが、今日はそれにも増していらついている。
そんなアタシとは対照的に、今日も隣の馬房は静かなものだ。同じように目の前にある扇風機はフル回転しているが、ヒメ先輩の姿は見えない。
馬房の奥で瞑想でもしているのか。この暑さでも変わらずクールだ。
その奥の馬房も静かなもの。
まだデビューもしていない2歳馬くんだが、落ち着いたもので、信一がアタシと比べて手間のかからないいい子だとかなんとか、ぶーぶー言いやがるのが、ほんと頭にくる。
きっと、牧場にいた時から、そんなんだったのだろう。だからなのか、馬名が模範生からモハンになったらしい。
あとは、中央から超良血くんが入厩してくるらしいけど、どんなやつか楽しみだ。
まだまだ少ないけど、前に比べれば、ここもにぎわってくる。
アタシはあの1年、ただ遠い暗闇の中で見ていただけだけど、記憶にはちゃんと刻まれている。
違う。見ていただけなんかじゃない。間違いなく一緒に戦っていたんだ。みんなとともに。
「おーい!」、そんな弾んだ声が聞こえ、信一が馬房に姿を現した。駆けこんできたから息も弾んでいる。
アタシは次の言葉を待つ。はやる気持ちを抑えながら。
今日は馬主が先生のところに来ている。アタシの次走を決めるためだ。
その次走だが、アタシはどうしても走りたいレースがある。レースとかじゃなく、戦いたい相手だ。
ルシュアジェシーノ
オークスのレース後、アイツはどこか悲しい目でアタシを見ていた。
あの時は何も感じていなかった。でも、アタシの記憶にはしっかりと刻まれている。
あの目が。
今ではあの目を思い出すたびに声が聞こえてくる――ライバルだと思っていたのに、こんなに弱いのか。
悔しさがこみ上げてくる。アタシは……アタシたちはあんなんじゃない。だからこそ、もう一度。
信一にお願いすると、馬主さんが問題だな、と言っていた。
なんでも反対するから反対君という馬主さんは、勝てる可能性が高いレースを選んでくるということで、現に大井で行われる黒潮盃を希望しているらしい。
アタシが九十九里の乗馬クラブにいる間にそんな話が進み、ヤマさんたちも、その方向で納得しているようで、本決まりになりそうだというのだ。
それを聞いたのが数日前で、慌てて信一にアタシの思いを伝え、馬主さんを呼んでもらっていた。
会議に行前に信一は、難しいかもしれない、と口にしていた。
アタシは、「アイツとのレースじゃなきゃボイコットするから!」と怒鳴りつけるように送り出したけど……アタシの中にも不安な気持ちが広がっている。
あのオークスの惨敗は誰の胸にも深く突き刺さってしまっている。信一でさえ、最初は渋っていたのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
目の前で立ち止まった信一は視線を落とし、大きく肩を揺らしながら息を整えている。
整えている。
整えている。
整えている。
整え続けている。わざとらしいほどに――『おいっ!』
アタシの声で顔を上げた信一は、にやりと笑った。そして、指で作ったのはOKマーク。
ってことは――『よっしゃ!』
どうやら、信一が必死に説得してくれて、なんとかOKをもらえたらしい。いやいや、よくよく聞けば、意外とあっさり承諾してくれたようだ。
社員さんたちが東京競馬場での応援にはまってしまったらしく、今度はいつ走るんだと言われていたというのだ。
信一や先生たちのような馬に携わる人たちは、どうしても惨敗のほうが胸に残ってしまう。増してや、レース後のアタシがあんなふうになっちゃったから。
でも、みんなの胸には辛いものが刻まれているだけじゃない。もっと大きなものがあったんだ。フローラステークスのあの喜びが。
みんなのためにももう一度。
今なら大丈夫。アタシはアタシだから。
戦いの場は東京じゃなく、阪神だけど、そこは信一がひと押ししてくれたようだ。
「社員旅行に関西観光も兼ねて競馬場なんて最高じゃないですか」
そのひと言に、反対君はタブレットに指を走らせ、損益の計算をしだしたらしい。
そこは雪香ちゃんたちみんなが、がんばってきてくれたし、社員旅行のお金だって、ねえー。
となれば、当然こうなるよね。
「ユッカ。行くぞ阪神!」
信一の声にアタシは大きくうなずいた。
目指すは阪神競馬場・ローズステークス。
待ってろ、ルシュアジェシーノ!




