信一 ♠ お馬さんをやってます
「行け!」
馬上じゃなくて、四つん這いで歩く俺の背から、かわいい声が聞こえてくる。
「ちかちゃん。そろそろ休憩しようか」
「ああ、ダメだよ。おうまさんがしゃべっちゃ」
いや、しゃべれるお馬さんもいるんだよ。
【レース翌日・竹川先生の家の和室】
先生は、いつものにこやかな顔で俺たちが遊んでいるのを見ている。
「ああ、腰痛てえ。死にそうだ」
ヤマさんは座敷椅子に座り、そんなことを言いながらビールをあおっている。
今日のところは『お疲れの会』の主役だし、まあ、どんどん飲んでください。体重もこれからは気にしなくていいですしね。
昨日のレースを最後に、ヤマさんは正式に引退となった。来週に入院して手術を受けるそうだ。それで普段の生活に支障がなくなるし、激しい運動でなければ問題がないとのことだ。
さすがに騎手復帰というのは無理な話だが、乗馬程度なら問題ないらしく、すでに就職先を決めているという。
「パパ。ちかも、おうまさんに、はやくのりたいな」
ヤマさんは信一馬(俺)が横を通ると、ちかちゃんの頭をなで、
「おう。もう少し大きくなったら、パパが教えてあげるからな。今はこのヘボ馬で我慢してあげてな」
誰がヘボ馬だよ!
ヤマさんはリハビリが終われば、車で30分ほどのところにある観光牧場で働くとのことだ。そこで体験乗馬や乗馬教室で指導員をするらしい。
意外と子供好きだし、いいかもしれない。
「はーい。ケーキ切ってきましたよ」
今日の料理は全てヤマさんの奥さんである奈津さんが作ってくれている。手作りケーキもそうだ。こんな日に俺の下手くそ料理じゃ申し訳ないしね。
この会はヒメの祝勝会でもあるのだ。
ゴールの瞬間、ほんの数センチだけヒメが前にでていた。本当にゴール線の一瞬だけで、その前も後もハナ先がでていたのはロンリージャッカルのほうだった。
ストップモーションで見た映像には、必死に腕を前へと伸ばすヤマさんと、それに応えて首を前と伸ばすヒメの姿が映っていた。
「うわあ、ケーキ!」
ちかちゃんが俺から飛び降りるようにして駆けだしていく。
そりゃ、俺なんかよりケーキですよね。
俺もケーキを美味しくいただきつつも、気分は明日へと飛んでいる。
昨日のレース直後、社長と社員さんたちがにっこり微笑みながら、ヒメのもとへとやってきた。そして、ヤマさんの引退レースということもあって、ヒメを中心にみんなで写真を撮ってもらった。
その後、社長と馬担当の岡谷さんが俺のもとへやってきて、
「大前さん。賭けに勝ちましたね」
社長はいたずらっ子のような楽し気な笑みを浮かべた。
もしも、サトミノヒメが勝ったら馬を購入してくれるというあの話だ。
お礼を言いつつ、社長の横へ視線を向けると苦々しい顔があり、
「言っときますけど購入を決めたわけではありませんからね。購入を検討するという賭けですからね。検討ですよ」
「わかってますよ」
つい、むきになった言い方になってしまう。
「まあまあ。検討するにしても実際に馬を見てみなければね」
そう言った社長はさらに、「大前さん。週末に北海道に行くことはできますか?」
えっ? それって――。
今週末に北海道にある日高昆布の加工工場に行く予定があるらしい。すぐに岡谷さんから、「別に急ぎの件でもないし、電話でもいい案件なんですけどね」と嫌味っぽい声が聞こえてくるが無視して、周りへと視線を走らせた。
ちょうど先生がこちらに歩いてきている。
ここは当然、厩務員の俺なんかじゃなく、調教師である先生が行くべきところだ。
先生が近づいてくると、社長が声をかけ、話を持ちかけてくれた。もちろん、先生にも賭けのことは話してある。
すると先生から、
「そりゃ早いほうがいいですね。こっちは心配しなくていいですから、北海道に行ってきてください」
「えーっと、俺が行っていいんですか」
「もちろん。これは信一君に全て任せていますからね」
「あっ、ありがとございます」
深々と頭を下げていると、どこからともなく声が、
「なんだか喜んでいますが、あくまでも検討ですからね」
「わかってますよ」
こいつの言い方は、ほんと棘がある。
昨日のことを思い出しながら、浮かんでくる顔がある。
ほんと待たせてごめんな。やっと行けるからな。
胸の中でつぶやき、残りのケーキを口にほおばった。