雪香 ☆ 最後の背中
千葉の乗馬クラブでお世話になって1か月、すっかり生活リズムに慣れ、馬に乗る感覚も取り戻せている。
ここは乗馬の他に、カフェや馬と触れ合える観光施設にもなっている。さらに、それらを囲むようにして1100Ⅿの周回コースまであり、上級者は引退して日の浅い競争馬に乗ることもできる。
そんな馬たちの乗馬馬としての訓練と調教が私の仕事になっている。
今日も数頭の馬を馬なりで周回コースを周す訓練を行っていた。
そして、この子は昨日までは角馬場での乗馬訓練だったが、今日は初めてコースに入る。
先週ここに来たばかりで、それまでは地方競馬で12歳まで走っていた馬で、地方を転々と移籍して100戦以上していた馬だ。
園田にも短い期間だったが在籍したことがあったらしいが、記憶にはない。それも当然のことで、戦績を調べれば、7年前の話で、まだ騎手のなる前の話だった。
「先輩。今日はよろしくね」
少し促し、キャンターへと移っていく。そして、ゆっくりとスピードを乗せていく。
とその時、ガツンっという手ごたえが手綱から。
久々の周回するコースに競馬のスイッチが入ってしまったのか、ハミをかんでしまった。
手綱が持っていかれる。
前へと持っていかれ、焦りでバランスが崩れる。落馬のあの恐怖が……。
でも、自然と体が反応してくれていた。
手綱を持つ手を緩めるようにし、体勢を戻し、そして手綱を持つ手をしめていく。さらに、手首を起こすようにして、スピードを制御していく。
これで落ち着いてくれたようだ。
思わず、ふぅー、と大きく息を吐きだす自分がいる。
さすがは最近まで現役馬。今まではオーナーの石先さんが訓練してくれた馬たちでのコース訓練だったが、この子は初めてだけあって、油断すれば一気に持っていかれしまう。
気づけば、手綱を持つ手には、暑さのためとは違う汗をかいている。
知らず知らずのうちに緊張していたようだ。でも、この感覚。いとおしくて心地いい。
周回して戻っていくと、にこやかな笑顔で石先さんが迎えてくれた。そして、引綱を通しながら、
「どうだい生ものは?」
ここでは、初めて周回訓練する馬はそう呼ばれている。まだまだ新鮮で活きがいいということだろう。
「やっぱり、ワクワクします」
「さすがは現役ジョッキー。園田に戻ってもがんばれよ」
私は、ありがとうございます、と頭を下げた。
ここでお世話になるのも今日が最後。明日には園田に戻る。そして、復帰に向けて、まずは厩舎作業をしながら、調教に乗せてもらうことになる。
だけど、ここでもうひとつ、どうしてもやりたいことがある。
ここは、小野山厩舎の第2の厩舎といった感じになっている。
私がここに来てすぐのころは、ヒメちゃんがいて、久々の再会に思わず抱き着いてしまったけど、ヒメちゃんは、誰? といった感じで無反応。
当然のことだけど、ちょっと寂しかった。
それから毎日の朝夕の海岸でのクールダウンは私が担当させてもらっていたが、相変わらずのクールビューティー。それがヒメちゃん。そっけないけど大好きだよ。
そんなヒメちゃんが小林に戻ると、入れ替わるようにここへとやって来たのが――こっちへと向かってくる姿が。
今日も海水浴をしてきたユッカだ。
ここは松林を抜ければ、すぐに九十九里の砂浜が広がっている。
そこでヒメちゃんは波打ち際からひざ下くらいのところを歩いたり走っったりしていたのだが、ユッカは、『暑い! 暑い!』と言って、首近くまで入っていき、まさに海水浴という感じだった。
私は星天ファームには4日ほどいてすぐにこちらに来たのだが、ユッカは残っておじいちゃんたちと過ごし、1週間前にここへとやってきた。
さすがに北海道から来て、7月の千葉の暑さは応えるようで、『海行こっ』と言って朝昼夕と海水浴しているありさまだ。
そんなユッカの夏休みも今日までで、信ちゃんが馬運車とともに小林から迎えにきている。
そして、最後にもう一回ということで、信ちゃんとともに海岸へ行っていた。
「おっ。海女さんがお帰りだな」
そう言って、石先さんは信ちゃんへと「お疲れ!」と声を飛ばし、引綱を引いて、馬とともに洗い場のほうへと向かって行く。
私も近づいてきた信ちゃんとユッカへ、「お疲れさん」
『ああ、めちゃくちゃ気持ちよかったよ』
「ねえ、見てよ。こいつ、わざと俺を乗せて、海に入って振り落としやがったんだぜ」
言われてみれば、確かに信ちゃんの服も髪も濡れている。
睨みつける信ちゃんに対し、ユッカは、えへへ、といたずらっ子のような笑みで歯をむき出している。
「なんだか楽しそう」
『雪香ちゃんも一緒に来ればよかったのに』
私は、そうだね、と言葉を返した。一緒に――そう。ユッカと一緒にたりたことがある。
『信一。体べとべとだから、早くシャワーぶっかてよ』
そんなユッカに対し、信ちゃんは舌打ちをして、「あいかわらず、小生意気だな」と言いつつ、顔はにこやかだ。
そんな信ちゃんへ、
「お願いあるんだけど」
私は園田に戻り、ユッカは小林へと向かう。これからは別々の道を進んで行くことになる。
だから、最後に
「ユッカとここで走らせてほしいの」
そう言った私の言葉に、驚いたような顔を見せた信ちゃん。視線は、ユッカへと向かい、じっと見つめている。
とその時、ユッカから声が、『アタシも走りたい。雪香ちゃんと一緒に』
信ちゃんはにこりと微笑むと、「ちょっと待ってろ」と走り出した。そして、鞍を抱えて戻って来てくれた。
ユッカとともにコースへ。
ゆっくり走り出した瞬間、体に電気が走った。今まで跨ったことのない背中の感覚。
柔らかで滑らかにスピードが乗っていく。
そんな心地よさに浸っていると、すでに半周ほど走っていた。
心が踊り弾んでいる。
ユッカからも弾んだ声が、『ちょっと、スピード上げていい?』
「大丈夫よ。好きなように走って」
手綱を緩め、足に力をこめ、膝をしっかり締める。
ユッカの脚が伸び、跳びが大きくなる。さらにスピードに乗っていく。地を蹴るたびに瞬間移動するように前へ前へ。
これがユッカ。私でもビーちゃんでもない真のユッカ。
さざ波が体を走り、心が震えている。
もしかしたら、ユッカの真の力は――私の想像をはるかに超えるものかもしれない。
胸の高まりが止まらない。
だけど、これが最後。私がユッカに乗ることは、もう……ない。
この幸せな瞬間を心に焼き付けるように目を閉じた瞬間、風に乗って流れ去っていくものがあった。




